8月15日の兵士葬送曲

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいます。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、少し危険な精神作用です。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響です。

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる人とか、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する人などが主体です。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々です。それは往々にして被害者意識につながります。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張します:

兵士は命令で泣く泣く出征していった。彼らは普通の優しい父や兄だった。ウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落しています。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由です。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が例えば島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」です。

「東京だョおっ母さん」では亡くなった兵士の兄は

♫優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられます。

だが優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だったのです。彼らは戦場で壊れて悪魔になりました。

歌にはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちています。

戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。同時に彼は凶暴な兵士でもあったのです。

自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと誤解されます。

兵士ではない時の、人間としての彼らの多くははもちろんそうでしょう。だが一旦兵士となって戦場を駆けるときは彼らは非情な殺人者になります。

敵の兵士も味方の兵士も、自分の家族の一員である兵士も、自分の友人の兵士も、文字通り兵士全員が殺人者なのです。

兵士は戦争で人を殺すために存在します。彼らが殺すのは、殺さなければ殺されるからです。

だからと言って、人を殺す兵士の悪のレゾンデートルが消えてなくなるわけではありません。

兵士は人殺しである。このことは何をおいても頑々として認識されなければなりません。

そのことが認識されたあとに、「殺戮を生業にする兵士を殺戮に向かわせるのが国家権力」という真実中の真実が立ち現れます。

真の悪は、言うまでもなく戦争を始める国家権力です。

その国家権力の内訳は、先の大戦までは天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関でした。つまり兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構です。

敗戦によってそれらの事実が白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰しました。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れました。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦をとことんまで総括するのを怠ったことです。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生しました。

歴史修正主義者は兵士を礼賛します。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称えます。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいません。

過去の大戦を徹底総括しないことの大きなツケが、その危険極まりない国民意識です。

 

 

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イタリア・シエナの広場を疾駆する美しき裸馬たち 

コロナ禍で中止されていたイタリア・シエナのパリオが復活しました。

シエナはフィレンツェから70キロほど南にある中世の美しい街。パリオは街の中心の広場で開催される伝統競馬です。

街を構成する「コントラーダ」と呼ばれる17の町内会のうち、くじ引きで選ばれた10の町内会の馬が競い合います。

パリオは毎年7月と8月の2回行われます。8月16日が今年2度目のパリオの日でしたが、悪天候のために一日順延されました。

パリオはずっと存続の危機にさらされてきました。動物愛護者や緑の党などの支持者が、競走馬の扱いを動物虐待と見なして祭りの廃止を主張するのです。

そこにコロナパンデミックがやって来て2年間中止されました。多くの人が祭りの行く末を憂慮しましたが、ことし7月に祭りが再開されました。

パリオは街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技です。

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した、都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからです。

カ ンポ広場は、イタリアでも1、2を争う美観を持つとたたえられています。1000年近い歴史を持つその広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の 象徴として、常にもてはやされてきました。シエナが独立国家としての使命を終えて以降は、イタリア共和国を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価 を受けるようになりました。

パ リオで走る10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙しようとでもするかのように狂奔すます。狂奔して広場の急カーブを曲がり 切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりします。負傷したり時には死ぬ馬も出ます。

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、1分10秒からせいぜい1分20秒程度。熾烈で劇的でエキサイティングな勝負が展開されます。しかし、それにも増して激烈なのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーです。それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに没頭します。

シエナで広場を疾駆する現在の形のパリオが始まったのは1644年です。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、13世紀の半ば頃から行なわれていたとされます。もっと古いという説もあります。

パリオでは優勝することだけが名誉です。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられます。従ってパリオに出場する10の町内会「コントラーダ」は、ひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところですが、実は違います。

それぞれの町内会「コントラーダ」にはかならず天敵とも言うべき相手があって、各「コントラーダ」はその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこみます。

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものです。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっています。

パリ オの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまで起こります。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っています。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるからなのでしょう、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街とさえ言われています。

長い歴史を持つパリオは、2011年7月のパリオに出走した馬の1頭が、広場の壁に激突して死んで以来、恒常的に存続の危機にさらされています。動物愛護者や緑の党の支持者などが、馬の虐待だと決めつけて祭りの廃止を叫ぶのです。実 はそのこと自体は目新しいものではなく、パリオを動物虐待だとして糾弾する人々はかなり以前からいました。

2011年の場合は事情が違いました。当時ベルルスコーニ内閣の観光大臣だったミケーラ・ブランビッラ女史が、声を張り上げて反パリオ運動を主導したのです。動物愛護家で菜食主義者の大臣は、かねてからシエナのパリオを敵視してきました。事故を機に彼女はパリオの廃止を強く主張し、その流れは今も続いています。

筆者はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作しました。6~7年にも渡るリサーチ準備期間と、半年近い撮影期間を費やしました。NHKで放送された番組は幸いうまく行って高い評価もいただきました。筆者は今もパリオに関心を持ち続け、番組終了後の通例で、撮影をはじめとする全ての制作期間中に出会ったシエナの人々とも連絡を取り合います。

その経験から言いたいことがあります。

パリオで出走馬が負傷したり、時には死んだりする事故が起こるのは事実です。しかしシエナの人々を動物虐待者と呼ぶのは当たらないのではないかと思います。なぜなら馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのは、まさにシエナの民衆にほかならないからです。街の人々は馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを盛り上げてきました。

彼らは馬を守る努力も絶えず続けています。石畳の広場という危険な馬場に適合した馬だけを選出し、獣医の厳しい監査を導入し、馬場の急カーブにマットレスを敷き詰め、最終的には激しい走りをするサラブレッドをパリオの出走馬から外すなど、など。それでも残念ながら事故は絶えません。

しかし、だからと言って歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎるのではないでしょうか。今日も世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともあります。それも全て動物虐待なのでしょうか?

最後に不思議なことに、ブランビッラ元大臣を含むパリオの動物虐待を指摘する人々は、馬に乗る騎手の命の危険性については一切言及しません。また筆者が知る限り、元大臣を含む多くの反パリオ活動家の皆さんは、パリオ開催中のシエナの街に入ったことがない。つまり彼らは、パリオについては、馬の事故死以外は何も知らないように見えます。

そのことに違和感を覚えるのは筆者だけでしょうか?

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子ヤギ食らいという自罪を見つめて生きる~殺すことしかできない私からの手紙

輿子田さん

ことしの復活祭で子ヤギ肉を食べたあと、先日のギリシャ旅でも子ヤギ&子羊肉(以後子ヤギに統一)を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の亡き骸です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが辛く、怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギを食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。

殺すことしかできない私は、子ヤギ食らいという自罪を畏れつつ、これからもいただく命にひたすら感謝しつつ生きて行きます。

 

 

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エーゲ海の島ヤギ料理~ナクソス・パロス・ミコノス編 

2022年6月のギリシャ旅行でもヤギ・羊肉料理の食べ歩きました。

一週間づつ滞在したパロス島とナクソス島では、いかにもギリシャの島々らしい美味しいヤギ・羊肉料理に出会いました。

また乗り換え地として旅の終わりに短く滞在したミコノス島では、あっと驚く子羊のモツ料理にも遭遇しました。

子羊の内臓を腸に詰め込んで炭火でじっくりと炙り焼いたもので、レシピも味も強烈な印象を筆者に与えました。

ミコノス島で出会った激うまレシピを別にすれば、今回旅ではナクソス島のレストランの子羊の丸焼きがベストの味でした。

そのレストランは滞在した家とビーチの間にありました。歩いて1分もかかりません。なにしろ家からビーチまではほんの50~60メートルしかなかったのです。

地元の食材を使ったバラエティに富む料理を提供する店でした。

キクラデス諸島で最も大きいナクソス島は、食料の自給自足ができるほどに豊穣な島です。畜産も盛んで耕作地も山も多い。

店では毎日島産の子豚の丸焼きを提供し、週末には子羊の丸焼きを目玉にしていました。豚の丸焼きは絶妙の味がし、子羊のそれは食べ歩いた限りの島の全店の味を圧倒していました。

ヤギ・羊肉膳は、焼くよりも煮物の方が味に深みがありバラエティにも富む、というのが筆者の意見です。そして煮物は各店の秘伝のタレやスープで煮込まれるのが普通です。

タレやスープの味の違いの分だけ煮込みの数がある。つまり無限ということです。

一方、肉を焼く場合には味付けは塩と胡椒が基本です。下味を付けたりバターやタレを塗りこむ手法もありますが、そのやり方では素材の純度が殺がれて目覚しい味にはならないようです。

少なくとも筆者が食べた焼きレシピの最上のものは、これまでは全て塩焼きばかりです。胡椒にバラエティがありハーブなども使いますが、基本は飽くまでも塩味です。

頻繁に通ったナクソス島の近場の店は、客からよく見える店内の一角に丸焼き用の釜をおいて、シェフが客の視線を受けながら調理をします。見た目にも食欲をそそる演出で繁盛していました。

パフォーマンスで客を楽しませる店は、見せ物にエネルギーを費やす分調理の力が削がれて味が落ちたりします。

しかしその店には失策がありません。無口で無骨な料理人は、人目などどこ吹く風というふうで肉焼きに集中していました。子豚の丸焼きも子羊肉と同じ手法で調理していてそちらの味も秀逸でした。

ナクソス島では子羊肉の煮物も食べました。ハズレはひとつもないが、家の隣の店の丸焼きにかなう味はありませんでした。同店は独自のソース煮も提供していましたが、それも美味かった。

片やパロス島では、焼きレシピには一度も行き合いませんでした。島内産のヤギ・子羊肉が豊富なナクソス島とは違って、丸焼きにする素材が少ないということもあるのかもしれません。

パロス島で印象深かったレシピは3点。

ひとつは漁港脇の店で食べた子羊肉のレモンソース煮込み。これは3年前にクレタ島で食べた子ヤギの煮込みによく似ていました。

味はきわめて良かったのですが、クレタ島の子ヤギのレモンソース煮込みは、これまでに筆者が食べた中では1、2を争う味の一品です。さすがにそれには及びませんでした。

肉の味もやや劣りましたが、それを乗せているパスタがいけなかった。イタリア以外の国でよく見る茹で過ぎのたるいパスタで、筆者は一口食べて文字通り匙を投げました。

ギリシャはイタリアのいわば隣国でパスタ人気も高いのですが、味は最悪の部類に入ります。もっと不運だったのは、パスタの味が肉と全く調和していなかったことです。

肉とパスタがかみ合っていないのは、料理人が自分で食べてみればすぐに気がつくはずなのになぜ?といぶかるほど杜撰でした。肉の味が悪くなかっただけにますます不思議に感じました。

それに比べてクレタ島のレモンソース煮込みには、白飯が添えられていてヤギ肉との相性が抜群に良かったのです。

2つ目は、うっそうと茂る木々が濃い影を作っている海際の食堂のエピソード。影が一段と濃い大木の下のテーブル席に座りました。するとすぐに年寄りの女性ウエイターが構ってくれました。

メニューに目を通しながら、潮気が皺に染み込んだような味わい深い顔のおばばウエイターとよもやま話をしました。店の雰囲気の良さをほめ名物料理を聞いたりしました。

テーブルから見える厨房で老人が炭火の世話をしていました。おばばウエイターにあの人がシェフかと聞くと、私がシェフで彼は私の夫、調理のアシスタント、と笑いました。つまりおばばはオーナーシェフだったのです。

オーナーシェフと敢えて言えば、瀟洒な店を想像されそうですが、大木も茂る広い庭付きの民家をレストランに改造した、という印象の店で、むしろ素朴でアットホームな雰囲気が強い。

筆者は店と主人への敬意、また親しみを込めて、オーナーシェフをおばばシェフと呼ぶことに決めました。

「厨房に入っていなくてもいいのか」と給仕をするおばばシェフに聞くと、一緒に来なさいと店の中に誘われました。

追いて行くと、厨房の前のガラス棚の中に既に調理された膳部と仕込みの終わった食材が整然と並べられていました。しっかり準備をしておいて、できる限り客との接触も楽しむのだ、とおばばシェフは流暢な英語で話しました。

シェフの得意料理だというムサカと肉団子、天ぷら風の揚げ物の3品に加えて、僕の目指す子羊の煮込みも頼みまし。

壷風の食器で供された子羊の煮込みは上等の味でした。先に頼んだ既述の3品も、おばばシェフ独自の工夫がてんこ盛りになっていて非常に美味でした。

3つ目はおばばの店の翌日。島では最も山深いレストランに向かった。そこでの興味はひたすら子羊料理でした。山深い店には美味いヤギ・羊肉料理がある。これまでの経験がそう教えていました。

山の集落の入り口付近に子羊膳を提供している店がありました。早速頼みました。子羊のトマトソース煮込みに焼きジャガイモが添えられた一品が出てきました。

ここに書くくらいですから味が良かったのは言うまでもありません。だが正直に言えば強烈に印象に残るほどのものではなく、普通以上に美味しい、というふうでした。

こうして見ると、今回旅ではミコノス島で出会った子羊モツの炙り焼きがやはり圧巻でした。その次に印象に残ったのが、ナクソス島の海際の、家から歩いてすぐの店の子羊の丸焼きです。

旅ごとにまとめる、筆者の独断と偏見によるヤギ・羊肉レシピのランク付けの1位と2位が、ソース煮込みではなく、モツ焼きと子羊の丸焼きという「焼きレシピ」に収まったのは珍しい結果でした。

 

 

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斧で指を切断したイタリア人学者の武士道

2020年、イタリアが世界に先駆けてコロナ地獄にさいなまれ医療崩壊に陥った時、医師不足を補うために300人の定年退職医師の現場復帰を求めたところ、たちどころに8000人もの老医師の応募がありました。

彼らベテランの医師たちは、コロナが主に高齢者を攻撃して死に至らしめることを熟知しながら、年金生活者の平穏な暮らしを捨てて危険な医療の現場に敢然と飛び込もうとしたのです。

老医師らの使命感と勇気は目覚ましいものでしたが、当時は実は一般のイタリア国民も、先行きの見えないコロナパンデミックの恐怖の底で、彼らなりの勇気をふるって必死にコロナと向かい合っていました。

普段はひどく軽薄で騒々しい印象がなくもないイタリア国民の、ストイックなまでに静かで勇猛果敢なウイルスとの戦いぶりは、筆者を感動させました。

彼らの芯の強さと、恐れを知らないのではないかとさえ見えた肝のすわった態度はまた、作家のダーチャ・マライーニとその父フォスコのエピソードを筆者に思い起こさせました。

ノーベル文学賞候補にも挙げられる有力作家のダーチャ・マライーニは、アイヌ文化の研究家だった父親に連れられて2歳から9歳までを日本で過ごしました。

第2次大戦末期の1943年、ドイツと反目していたイタリアは連合国と休戦し、日独伊3国同盟の枠組を離れて日本の「友邦」から「敵国」になりました。

ヒトラーはイタリア北部に傀儡政権サロー共和国を樹立。日本にいるイタリア人はそのナチス・ファシズム国家への忠誠を誓うように求められますが、ダーチャの両親はこれを拒否しました。

その結果、一家は名古屋の収容所に入れられます。

家族は敵性国家の国民として収容所で虐待されました。

食事もろくに与えられないような扱いに怒りを募らせたダーチャの父フォスコは、待遇の改善を要求して抗議のために斧で自らの左小指を切断します。

フォスコ・マライーニの勇猛な行動に震え上がった収容所の監視役の特高は、ヤギを調達して父親に与えました。

フオスコ・マライーニはその乳を搾ってダーチャと兄弟に与えて飢えをしのぎました。

父親の豪胆な行動は、日本国家と家族を現場で虐待する看守らへの怒り、と同時に家族を守ろうとするひとりの父親の強い意志から出たものです。

彼はその行為をいわば切腹のような武士の自傷行為に見立てたのです。

指を切る日本の風習は、武家社会で誓文に血判をする時などに見られたものです。

江戸時代には遊女がそれを真似する陋習が生まれ、それをさらにヤクザが真似しやがて曲解して、いわゆる「指詰め」の蛮習へと発展します。

フォスコ・マライーニの記憶の中には、武士の自傷行為は潔癖と勇猛の徴として刻まれていました。彼は武士に倣って激烈な動きで異議申し立てをしたのです。

収容所では侍の精神は日本人ではなく、フオスコ・マライーニの中にこそ潜んでいました。

収容所で一家を監視していたのは特高です。彼らの多くは野卑で小心で品性下劣でした。旧日本軍の中核を成していた百姓兵士と同列の軍国の走狗らです。

今で言えば、正体を隠したままネット上で言葉の暴力を振るうネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者や、彼らに親和的な政治家、似非文化人、芸能人等々のようなものでしょうか。

フォスコ・マライーニの勇猛な行動に震え上がった収容所の監視役の秘密警察官は、ヤギを調達して父親に与えました。

フオスコ・マライーニはその乳を搾ってダーチャと兄弟に与えて飢えをしのぎました。

そのエピソードはダーチャの両親やダーチャ自身によってもあちこちで語られ書かれたりしていますが、筆者は10年以上前に作家と会う機会があって、そのとき彼女自身の口からも直に聞くことができました。

フォスコ・マライーニの壮烈なアクションは、コロナパンデミックの最中に死地に赴こうとした8000人のイタリア人老医師のエピソードを筆者に思い起こさせます。

8000人の年老いた医師の魂の中には、カトリックの教義の刷り込みがあります。片やフォスコ・マライーニの魂には、最善の形での武士の精神の刷り込みが見られます。

そしてそれらの突出した強さは-繰り返しになりますが-コロナ地獄の中では一般の人々によってもごく普通に顕現されていました。

善男善女によるボランティアという形での献身と犠牲の尊い働きがそれです。

死と隣り合わせの医療現場に突き進んだ退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎません。

当時は多くのイタリア国民が、厳しく苦しいロックダウン生活の中で、救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍しました。

イタリア最大の産業はボランティアです。

イタリア国民はボランティア活動に熱心です。彼らは誰もがせっせと社会奉仕活動にいそしみます。

善良なそれらの人々の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になります。まさにイタリア最大の産業です。

無償行為の背景には、自己犠牲と社会奉仕と寛容を説くカトリックの強い影響があります。

カトリックの教義は、死の危険を顧みずにボランティアを申し出た老医師らの自己犠牲の精神と、ボランティアにいそしむ一般国民の純朴な精神の核になっています。

それはさらに、学者であるフォスコ・マライーニが、家族のためにささげた自己犠牲、つまり斧で自分の指を切断するという果断な行為にもつながっています。

武士道は筋肉を鍛え上げたサムライの険しい肉体だけに宿るのではありません。

自己犠牲を恐れないか弱い女性や善良な男たち、また年老いた医師たちの中にもある気高く尊い精神なのです。

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安倍元首相の国葬に反対する

安倍元首相を国葬にするのは、日本の民主主義の底の浅さと、過去に大きく国を誤った保守強硬派の呪縛が依然として強いことの証しのようで違和感を拭えません。

犯行が容疑者の個人的な恨みによるものなら、民主主義云々を言い立てて元首相を国葬にするのは欺瞞です。権力の乱用と批判されても仕方がないのではないでしょうか。

国葬にする理由を問われて岸田首相は、①長期間に渡る政権運営、②多くの分野で重要な実績をあげたこと、③国内外、特に外国から多くの哀悼のメッセージが寄せられていることなどを挙げました。

その上で岸田首相は「わが国は暴力に屈せず、断固として民主主義を守り抜く」と、あたかも銃撃事件が政治的・思想的動機に基づくもの、と決めつけるような主張を繰り返しました。

個人的怨恨が犯行の動機らしいという重要な情報を敢えて無視して、論点をずらそうとでもするような相変わらずの奇妙な言動です。

安倍元首相の理不尽な死に対しては衷心から哀悼の意を表しつつ、筆者は礼賛一辺倒の議論や報道に対しては強い疑問を持ちます。

同時に彼の国葬についても反対します。何よりも法的根拠が希薄です。また功罪ある元首相の実績を、あたかも功のみであるかのように言い募る誤魔化しにはとてもついていけません。

元首相と旧統一教会の癒着についても徹底解明されるべきです。それ以前の曖昧な状況下で国葬を決定するのは、「民主主義を守る」どころか、逆に民主主義に反する所業です。

犯行の動機や影響についての考察、元首相の実績への賛否や是非、また国葬に対する賛否両論などが多数出回っています。国葬賛成論は岸田首相のそれにほぼ集約されるように思います。

筆者自身は安倍元首相の実績には多く疑問を持ち、国葬に対しては明確に反対の立場ですが、外国に住んで日本を客観的に眺める立場からもう少し踏み込んだ意見を述べておきます。

まず岸田首相が明言した国葬の理由について:

①長期間に渡る政権運営が国葬に値するというのは、法的にも歴史的にも倫理的にも破綻した主張です。

長く政権を担うことが国葬にあたるなら、ここイタリアのベルルスコーニ元首相も合計で10年近くに渡り首相を務めました。実績も少なくありません。だが醜聞にまみれた彼が国葬に値するといえば、悪魔や鬼がしてやったりと笑うことでしょう。

またドイツのメルケル前首相は、2005年から2021年まで実に16年間も政権を維持しました。だが民主主義と法の支配が堅固なドイツでは、彼女が「無条件に」国葬になることはあり得ません。ドイツの国葬の条件は法律に明記されています。

一方で安倍元首相を国葬にするのは、国葬令が1947年に失効した現在は違法です。岸田首相の言う「内閣府設置法」 の適用はこじつけにしか見えません。

②安倍元首相は多くの分野で重要な実績をあげたことは事実ですが、同時に多方面で民主主義に逆行したり欺瞞にまみれた政策、言動にも終始しました。森友・加計・桜を見る会などがそうです。

また民意に反して辺野古に新基地建設を強行するなどの横暴も見逃せません。

加えて自らの死と引き換えに、山上容疑者によって旧統一教会との癒着疑惑まで暴かれてしまいました。

多くの闇と罪に目をつぶって拙速に国葬を決め、国民を分断するほどの強い反対意見があるにもかかわらずにそれを無視しようとするのは、あるいは何か別の意図でもあるのでしょうか。

③安倍元首相首相の悲劇的な最期を受けて、内外から多くの哀悼の意が示されるのは当たり前すぎて国葬の理由になどなり得ません。

9年近くも日本の首相を務めた安倍元総理は、G7ほかの国際会議にも必ず出席し外遊も多くしました。彼の政治信条がどうであれ、世界中の指導者や著名人が弔意を示すのは外交儀礼上も当然のことです。

再びここイタリアのベルルスコーニ元首相にからめて言います。

もしも今ベルルスコーニ元首相が死去するなら、彼に敵対した人々も含めて多くの哀悼のメッセージが寄せられるでしょう。暗殺などの横死である場合には、さらに多くの同情と弔意が殺到するのは必至です。

人の死とはそういうものです。ましてや安倍元首相は長く日本国のトップに君臨した人物です。彼が「実際には何者であるか」には関係なく、哀悼の意が多く集まるのが当たり前です。

国外から寄せられる多くの弔意の裏にある本音を見逃してはなりません。

それはこうです:

「日本が近隣国を始めとする世界に振るった暴力を否定したがる、歴史修正主義者としての安倍元首相には怒りを覚えるが、暗殺者によって不慮の死を遂げた彼に強い憐憫の情を表明します」というものです。

良識と良心を持つ「米国を含む」世界の知性の多くは、安倍元首相の姑息な歴史修正主義を完全に見抜いていて、絶えず監視の目を向け警戒心を抱き続けてきています。

それが見えないのは、“外交辞令“とさえ呼べる類いの国際儀礼の多くを、本音と取り違える初心な人々や、安倍元首相を救世主と崇めるネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者くらいのものではないでしょうか。

安倍元首相は、日本の過去の過ちを認めず、軍国主義日本の被害者の国々や人民に謝ることを拒否しました。だが彼の致命的な誤謬は、「謝らないこと」ではありません。

日本の過去の過ちを過ちとして認識できないこと自体が問題なのです。過ちと認識できないのは無明と優越意識のなせるわざです。そこに確信犯的な思い込みが加わると真実はいよいよ遠のいて見えなくなります。

理由が何であれ日本の過去の過ちを過ちとして認識できないから、安倍元首相は平然と歴史を修正し、あったことをなかったことにするような言動を続けたのです。

再び言います。

安倍元首相が銃撃され亡くなったのは、悲しいあってはならない惨劇でした。山上容疑者の行為と背後関係者は徹底して糾弾されるべきです。

同時にこの事件に対しては「生前がどうであれ死ねばみな仏。死者に鞭打つな」という日本に顕著な美徳(世界にも同様の考え方は多い)を適用してはなりません。

なぜなら政治家などの公人は、必要ならば死者も大いに鞭打つべきです。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞してもたとえ死しても、監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿です。なぜなら監視をすることが後世の指針になります。

公の存在である政治家は、公の批判、つまり歴史の審判を受ける。受けなければなりません。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もありますが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまとう。決してやってはなりません。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきです。「生きている人間を貶めない」ことこそ、真の善意であり寛容であり慈悲です。だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべき、理想の行為。

安倍元首相は普通の男ではありません。日本最強の権力者だった人物です。日本の将来のために良い点も悪い点も全て洗い出して評価しなければなりません。

それをしないまま、あるいは賛美一辺倒の偏った評価だけに基づいて国葬が執り行われるのは、民主主義を守るのではなく民主主義を踏みにじる許し難い行為、と重ねて主張します。

参照:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch…/52291110.html

http://blog.livedoor.jp/terebiyain…/archives/52128918.html

http://blog.livedoor.jp/terebiyain…/archives/52173441.html

http://blog.livedoor.jp/terebiyain…/archives/52258325.html

http://blog.livedoor.jp/terebiyain…/archives/52273203.html

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イタリア大統領が無敵の専制君主になる季節

イタリア大統領って何者?

イタリアでまた政変があり、例によって通常は何の権限もない飾り物の大統領がふいに強い力を発揮しまた。

マタレッラ大統領が辞表を提出したドラギ首相の申し出を拒否して、もう一度連立工作をするよううながしたのです。

ドラギ首相は大統領の命令に従って連立工作を試みました。だが、議会最大勢力のポピュリスト政党「五つ星運動」の裏切りはくつがえらず、ドラギ政権は崩壊。9月に総選挙が行われることになりました。

国家元首であるイタリア大統領は、上下両院議員と各州代表の投票によって選出されます。普段は象徴的な存在で冒頭で触れたように実権はほとんどありません。

ところが政治危機のような非常時には議会を解散し、組閣要請を出し、総選挙を実施し、軍隊を指揮するなどの「非常時大権」を有します。大権なのでそれらの行使には議会や内閣の承認は必要がありません。

政府が瓦解するなどの国家の非常時には、かつての絶対君主を思わせるような強い権力を行使することも許され、機能しない議会や政府に代わって単独で一切を仕切ることができます。

いわば国家の全権が大統領に集中する事態になるのです。


対抗権力のバランス

イタリア共和国は政治危機の中で大統領が議会と対峙したり、上下両院が全く同じ権限を持つなど、混乱を引き起こす原因にもなる政治システムを採用しています。

ムッソリーニとファシスト党に多大な権力が集中した過去の苦い体験を踏まえて、権力が一箇所に集中するのを防ぐのが目的です。

憲法によっていわゆる「対抗権力のバランス」が重視されているのです。

議会は任期が満了したり政治情勢が熟すれば解散されなければなりません。議会が解散されれば次は総選挙が実施されます。総選挙で過半数を制する政党が出ればそれが新政権を担います。

その場合は大統領は、政権樹立に伴う一連の出来事の事後承認をすれば済みます。それが平時のイタリア大統領の役割です。

しかし、いったん政治混乱が起きると、大統領は一気に存在感を増します。


民主主義の権化vs民主主義の真髄

イタリアの政治混乱とは言葉を変えれば「大統領の真骨頂が試される」時でもあり、「大統領の“非常時大権“の乱用」による災いが起きるかもしれない、微妙且つ重大な時間でもあります。

例えば2018年の第1次コンテ政権誕生を巡っては、見方によっては大統領の非常事大権の乱用ではないか、とさえ疑われる事態が起きました。

当時マタレッラ大統領は、五つ星運動と同盟の「ポピュリスト連合」が推薦したコンテ首相候補をいったん否認しました。

もっと正確にいえば、首相候補を介して五つ星運動と同盟が提出した閣僚名簿のうち、財務相候補のパオロ・サヴォナ氏を拒否することで、コンテ内閣の成立を一度は阻止しました。

マタレッラ大統領は、憲法に沿って「制度としての大統領の権限」を行使したのです。

民主主義制度の権化のようなイタリア大統領が、たとえ連立とはいえ過半数を制した2政党が政権を樹立する、というこれまた「民主主義の正統な制度」に真っ向から挑むというジレンマに陥りました。

そしてマタレッラ大統領は、自らと並立する民主主義の正当な仕組みの片方を敢えて否定する道を選びました。


道義的責任

なぜそれが可能になったのかというと、イタリア大統領には制度として国家非常事態の際に議会に対抗できる力を持つと同時に、道義的な理由で時の政権や議会に物申す権限も託されているからです。

イタリアはEU圏内最大規模の累積債務を抱えて呻吟し、借金を減らすための緊縮財政をEUに迫られてこれに合意しています。五つ星運動と同盟が主張するバラマキ政策が実施されれば、イタリア経済はさらなる打撃を受け国民が不幸になり、EUとの約束も守れなくなります。

マタレッラ大統領は、EUへの信義や国民生活を守るという「道義的責任」に基づいて、反EU且つ反緊縮財政の立場を採るサヴォナ氏を否認し、それによってコンテ内閣全体も否定しました。

その結果、既述のごとく、五つ星運動と同盟の2大ポピュリスト勢力による政権樹立も、取りあえず阻止する形になったのです。

いわば欧州の良心、あるいは民主主義国家の道徳意識の体現ともいえる理由での大統領の政治介入は、先に触れたように制度上の権力行使と並んで受容されるものです。

大統領が自身の良心に基づいて、時の政権や議会に介入できる仕組みは、実はイタリア大統領の専売特許ではありません。ドイツ大統領などにも共通する欧州発祥の基本原理です。

例えばドイツのシュタインマイアー大統領は2017年、ドイツ総選挙後に政治空白が発生した際、連立政権に参加するように、と社会民主党に強く働きかけまし

その行為は制度上の合法的な動きであると同時に、EUの結束とドイツの極右勢力を抑制する、という大統領の「道義的」心情も強く反映したものでした。


問題点

そうではあるもののしかし、マタレッラ大統領が2018年、制度的権限と道義的権限を併せて行使して、ポピュリスト政権の成立を阻んだのは、2つの意味で問題があります。

一つは単純に、民主主義国家のイタリアで、選挙の洗礼を受けた2政党が、連立を組み過半数制覇を成し遂げて、政権樹立を図った真っ当な行為を妨害したこと。

もう一つは、マタレッラ大統領が元々左派の民主党に属し、民主党と同様の「親EU主義者」である点です。

彼は成立しかけている連立政権が、自らの政治信条に合わない「反EU・反体制のポピュリスト政権」だからこれを潰した、という見方もできます。それは権限の乱用と指弾されても仕方のない動きでした。

事実、五つ星運動のディマイオ党首は当時、連立政権の樹立が拒否されたことを受けて、マタレッラ大統領を弾劾にかけると公に宣言しました。

筆者はEU信奉者であり、五つ星運動と同盟のほとんどの政策には違和感を覚える者です。ですからマタレッラ大統領の心情が理解できます。

そうではあるものの、長い連立協議を経て政権合意に至った五つ星運動と、同盟の両党が政権を樹立する権利は認めなけれならない、とも考えます。民主主義の重要原理の一つは主義主張の違う者を認め尊重することにほかなりません。

マタレッラ大統領はコンテ内閣の成立を阻んだ直後に、自らの権限でEU信奉者のカルロ・コッタレッリ氏に組閣を要請しました。それには議会多数派の五つ星運動と同盟が猛反発しました。

紛糾の末に、五つ星運動と同盟は、財務大臣候補にローマ大学のジョバンニ・トリア教授を立てて、再びマタレッラ大統領に閣僚名簿を提出。今度は大統領が承認して第1次コンテ内閣が船出しました。


歴史は繰り返される

そして今回、マタレッラ大統領はドラギ首相の辞表を受け入れず、政権の維持を要請するなど強い権限を発動しました。

そしてドラギ首相が連立工作に行き詰まると、首相の再びの辞任要請を受け入れて、議会を解散し総選挙を行う決定を下しました。

イタリアはコロナパンデミックによる経済・社会的な打撃からの回復が遅れて呻吟しています。そこにウクライナ戦争が起きました。イタリアの経済、社会はさらなる窮地に陥っています。

そんな中、ほぼ全政党の信任を受けたドラギ内閣は、首相の強いリーダーシップと明確なビジョンを武器に目覚ましい仕事を続けてきました。

ところが五つ星運動の独断とエゴによる狂気じみたアクションを受けて、ドラギ政権はあっさりと終焉を迎えました。

政権を倒した五つ星運動党首、コンテ前首相へのイタリア国民の怒りは大きく、同時に国家の先行きは闇の中です。

イタリアは再び政治混乱の季節に入りました。総選挙の後の政権樹立を含め、国家の舵取りは混迷するのが必至です。

再び、再三再四、マタレッラ大統領が非常時大権を駆使して共和国をリードする可能性が高い、筆者と思います。

この先しばらくは、イタリアの政情から目が離せない日々が続きそうです。

 

 

 

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バカの壁を壊せないイタリア政治

マリオ・ドラギ首相が辞任して、イタリアのお家芸の政治危機が始まりました。

近年は野心家のマッテオ・レンツィ元首相が政権をぶち壊す悪役を多く演じてきました。

だが2019年には政権与党だった極右「同盟」のマッテオ・サルビーニ党首が、第1次コンテ内閣を破壊しました。

そしてその2年後には、再びレンツィ元首相が悪役を演じて、第2次ジュセッペ・コンテ政権が崩壊しました。

その後に成立したマリオ・ドラギ政権が7月21日、事実上空中分解したのです。連立政権内の今回の裏切り者は、「五つ星運動」党首のジュゼッペ・コンテ前首相です。

自らの政権を木っ端みじんにされたコンテ前首相が、今度は他者の内閣を引き裂いた恰好です。

もっともドラギ政権の崩壊には、コンテ前首相に加えて同盟のサルビー二党首、ベルルスコーニ元首相などの反逆もからんではいますが。

コンテ前首相は、2021年の首相辞任後に彼の政権を支えた五つ星運動の党首に迎えられました。

つまりコンテ前首相はそうやって、極左の真っ赤なハチマキを巻き付けて吠えるポピュリスト政党の党首になりました。

とたんに彼は、自身が首相当時にNATOと約束した防衛費増額を認めない、と言い出して約束を平然と破る過激論者の一端を示しました。

そしてロシアがウクライナを侵略すると、彼のボスである五つ星運動創始者のベッペ・グリッロ氏に追随して、ロシアのプーチン大統領を擁護する立場を取りました。

五つ星運動は、ロシアと中国にきわめて親和的な組織。創始者のグリッロ氏はトランプ主義者でもあります。

2019年、イタリアはEUの反対を無視して、G7国では初めて中国との間に「一帯一路」構想を支持する覚書を交わしました。

その時のイタリア首相は件のコンテ氏。覚書に署名したのは、当時五つ星運動の党首だったディマイオ副首相。今は外務大臣です。彼もコンテ氏同様に中国が大好きな男です。

コンテ前首相とドラギ政権の対立が決定的になったのは、前者がイタリアのウクライナへの武器供与に強硬に反対したことです。

コンテ前首相は、武器の供与が戦争終結を遅らせる、と考える人々に近いように見えますが、実はプーチン・ロシアへの忖度が背後にあります。

彼は、武器に金を使うならイタリアの貧者を救済しろ、と叫ぶのが得意です。

ウクライナ危機は欧州危機であり、ロシアに対抗することが欧州の一部であるイタリアの救済にもつながることを理解しません。あるいは理解しない振りをしています。

五つ星運動の旗艦政策は、ベーシックインカムすなわち最低所得保障です。

五つ星運動党首で前首相のコンテ氏が、貧者を救済しろと吼えるのは、彼の政権が導入した最低所得保障制度を死守したいから。

それは五つ星運動の最大の票田につながっています。

イタリアの貧富の格差は開き続けています。

弱者はいうまでもなく救済されなければなりません。だがそのことを盾に金をバラまく五つ星運動のやり方は無残です。

金をバラまくのではなく、それが確実に弱者に行き渡る仕組みを作り、同時に仕事を創出する政策を考えるのが為政者の役割です。

現行の制度では多くの不正受給が明らかになっています。また特に南イタリアでは、予想されたようにマフィアやカモラなどの犯罪組織が交付金に喰らいついています。

言いにくいことを敢えて言いますが、怠け者で補助金に寄りかかることが得意な者も多い地域では、仕事をしない若者が増えています。

たとえ仕事をしても、報酬を闇で受け取って失業中を装い給付を受ける、という者も多い。

働き者が多い筆者の住む北イタリアにおいてさえ、給付金を目当てに仕事をしない者が増えて、人手不足が深刻化している現実さえあります。

五つ星運動のバラ巻き策は、百害あって一利なし、というふうです。いや、真に貧しい弱者へ行き渡る金もあるのですから、百利のうち五利ぐらいはあるのかもしれません。

それでもやはり、バラまき策は人心をたぶらかし、嘘と怠惰と不誠意を増長させると筆者は思います。

またウクライナが危機に瀕し、欧州もそれに巻き込まれている現在は、ウクライナに武器を供与して他の欧州の国々と共にロシアに対抗するべきです。

欧州の民主主義と自由と富裕は、ロシアのような覇権主義勢力の横暴を黙って看過すれば、たちまち破壊される類いの脆い現実です。それらは闘って守り、勝ち取るものなのです。

それは断じて戦争を推進するべき、という意味ではありません。攻撃され侵略された場合には、反撃し守りぬくべきということです。

欧州が破壊されイタリア共和国が抑圧されれば貧者も金持ちもありません。誰もが等しく地獄に落ちます。コンテ前首相と彼の周囲の過激論者にはそれが分からないようです。

4年前、イタリア政界に彗星のようにあらわれた素人政治家のコンテ氏は、世界に先駆けてコロナ・パンデミックの地獄に沈んでいたイタリアに、全土ロックダウンという前代未聞の施策を導入してこれを救いました。

あっぱれな仕事ぶりでした。

当時イタリアは、国家非常事態宣言下にありました。政府は議会に諮ることなく、閣議決定だけで法律を制定することができました。

コンテ首相はその制度に守られてほぼ自在に規制を行いました。

未曾有のコロナ恐慌に陥っていたイタリアの国民は、コンテ政権が打ち出すロックダウンほかの強烈な規制を唯々諾々と受け入れました。それしか道がなかったからです。

コンテ首相にそれなりの求心力があったのは確かですが、空前のパンデミックの中では、あるいは誰が首班であっても成し得た仕事だった可能性も高い。

ともあれ危機を抜け出したコンテ首相を待っていたのは、彼自身と彼を支える五つ星運動が「体制側」とみなして反発する政治勢力の巻き返しでした。

連立を組む小政党が離脱してコンテ政権は立ち行かなくなりました。またその前には冒頭で述べたように、連立相手の同盟が反乱を起こしてコンテ政権は危機に陥ったことがあります。

そして2022年7月、今度はコンテ氏率いる五つ星運動が反旗を翻して、ドラギ政権を崩落させました。彼はそうすることでイタリアに再びの政治危機をもたらすことになりました。

それはイタリアではありふれた政変劇です。一見するとカオスに見えますが、それがイタリア政治の王道です。

地方が都市国家の意気を持ち続けているタリアでは、中央政府の交代劇は深刻に捉えられはするものの、各地方はそれぞれが独立独歩の前進を試みようとします。

試みようとする意志を固く秘めています。だから大きくは動揺しません。それがイタリアの最大の長所である多様性の効能です。

だからといってコンテ前首相の罪が消えるわけではありませんが。。。

 

 

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エーゲ海の光と風~欧州のゆりかご

「ヨーロッパとは何か」と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に持つ壮大な歴史文明、という答え方ができます。

ということはつまり、現世を支配している欧米文明の大本(おおもと)のすべてが、地中海にあるということになります。

なぜなら、南北アメリカやオーストラリアやニュージーランドでさえ、天から降ったものでもなければ地から湧き出たものでもない。ヨーロッパがその源です。

また近代日本は欧米を模倣することで現在の繁栄を獲得し、現代中国も欧米文明の恩恵を蒙って大きく発展し続けています。世界中の他の地域の隆盛も同じであることは言うまでもありません。

ヨーロッパを少し知り、そこに住み、ヨーロッパに散々世話になってきた筆者は、これから先じっくりと時間をかけて地中海域を旅し、その原型を見直してさらに学んでみたいと考えています。

ただし、その旅はできれば堅苦しい「勉強」一辺倒の道行きではなく、遊びを基本にして自由気ままに、のんびりと行動する中で見えてくるものを見、見えないものは見えないままにやり過ごす、というふうな余裕のある動きにしたいと願っています。

テレビドキュメンタリーや報道番組に長く関わってきた筆者は、何事につけ新しく見聞するものを「もしかするとテレビ番組にできないか?」と、いつも自分の商売に結び付けてスケベな態度で見る癖がついてしまっています。つまり、いやらしく緊張しながら物事を見ているのです。

筆者はそのしがらみを捨てて、本当の意味で「のんびり」しながら地中海世界を眺めてみたい。

そうすることで、これまで知識として筆者の頭の中に刷り込まれている地中海、つまり古代ギリシャ文明や古代ローマ帝国やキリスト教などの揺籃となった輝やかしい世界を、ゆるい、軽い、自在な目で見つめてみたい。

それができれば、仕事にからめて緊張しながら見る時とは違う何かが見えてくるのではないか、と考えています。

基本的な計画はこんな感じ。

イタリアを基点にアドリア海の東岸を南下しながらバルカン半島の国々を巡り、ギリシャ、トルコを経てシリアやイスラエルなどの中東各国を訪ね、エジプトからアフリカ北岸を回って、スペイン、ポルトガル、フランスなどをぐるりと踏破する。

中でもギリシャに重きをおいて旅をする。また訪問先の順番にはあまりこだわらず、その時どきの状況に合わせて柔軟に旅程を決めていく計画。期間は10年程度、と見積もっていました。

ところが10数年前、筆者の地中海紀行が始まるとすぐに、イスラム過激派のテロが横行し始めました。

筆者は命知らずの勇気ある男ではありません。テロや誘拐や暴力の絶えない地域を旅するのは御免です。

地中海域のアラブまた北アフリカの国々は、「将来機会がある場合に訪ね歩く」と筆者はきっぱり割り切りました。

そうやって予定を変更し、世情が落ち着くまでは欧州内の旅行に限ることにしました。

そこではギリシャが筆者の関心の大部分を占めています。

地中海は場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っています。

地中海の日光は、イタリア北部を抱くリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。

白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達します。

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空があります。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がっているのです。

そこにはしばしば強い風が吹きつのります。海辺では強風に乗ったカモメが蒼空を裂くように滑翔して、ひかり輝く鋭い白線を描いては、また描きつづける。

何もかもが神々しいくらいに白いまばゆい光の中に立ちつくして、筆者はなぜこれらの島々を含む地中海世界に現代社会の根幹を成す偉大な文明が起こったのかを、自分なりに考えてみたりします。

ギリシャ文明は、大ざっぱに言えば、エジプト文明やメソポタミア文明あるいはフェニキア文明などと競合し、あるいは巻き込み、あるいはそれらの優れた分野を吸収して発展を遂げ、やがて古代ローマ帝国に受け継がれてキリスト教と融合しながらヨーロッパを形成して行きました。

その最大の原動力が地中海という海ではなかったのか。中でもエーゲ海がもっとも重要だったのではないか。

現在のギリシャ本土と小アジアで栄えた文明がエーゲ海の島々に進出した際、航海術に伴なう様々な知識技術が発達しました。それは同じく航海術に長けたフェニキア人の文明も取り込んで、ギリシャがイタリア南部やシチリア島を植民地化する段階でさらに進歩を遂げ、成熟躍進しました。

エーゲ海には、思わず「無数の」という言葉を使いたくなるほど多くの島々が浮かんでいます。それらの距離は、お互いに遠からず近からずというふうで、古代人が往来をするのに最適な環境でした。いや、彼らが航海術を磨くのにもっとも優れた舞台設定でした。

しかもその舞台全体の広さも、それぞれの島や集団や国の人々が、お互いの失敗や成功を共有し合えるちょうど良い大きさでした。

失敗は工夫を呼び、成功はさらなる成功を呼んで、文明は航海術を中心に発展を続け、やがてそれは彼らがエーゲ海よりもはるかに大きな地中海全体に進出する力にもなっていきました。

例えば広大な太平洋の島々では、島人たちの航海の成功や失敗が共有されにくい。舞台が広過ぎて島々がそれぞれに遠く孤立しているからです。だから大きな進歩は望めない。

また逆に、例えば狭い瀬戸内海では、それが共有されても、今度は舞台が小さ過ぎるために、異文化や新しい文明を取り込んでの飛躍的な発展につながる可能性が低くなる。

その点エーゲ海や地中海の広がりは、神から与えられたような理想的な発展の条件を備えていた・・

イタリアやギリシャ本土から島々へ、あるいは島から島へと移動する飛行機の中でエーゲ海を見下ろしながら、筆者はしきりとそんなことを考えます。

 

 

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エーゲ海の島々の歓喜と少しのアンニュイ

ゲイの島

ギリシャ・キクラデス諸島のうちのミコノス、パロス、ナクソス島を訪ねました。

このうちミコノス島には旅の初めに半日、終わりに一泊二日だけ滞在。乗り換えおよび中継地としてあわただしく通り過ぎました。

それでも島のにぎやかさと楽しさ、またオーバーツーリズム気味の歪みにも十分に触れたと感じました。同島では短い滞在の間に目からうろこの料理にも出会いました。

ミコノス島はLGBTQの人々が好んで訪ねる島としても知られますが、それは最近になって出てきた拡大解釈で、ゲイの人々が愛する島、というのが元々の状況だろうと思います。

ミコノスタウンの通りやカフェ、バーなどではゲイらしい男性カップルを見かけましたが、それは欧州のどこにでも見られる風景。そこだけが特別とは感じませんでした。

情報ではそれらの皆さんが集まる店やビーチや溜り場などが別にあるようです。

筆者はゲイではありませんが、明るい彼らが好きでゲイの友人も多くいます。ミコノス島でも会えるのをどこかで期待していました。

なぜゲイ旅行者の人々がコノス島を目指すようになったかというと、元ケネディ大統領夫人だったあのジャクリーン・オナシスさんが、1970年代にゲイの島として推奨・紹介したのが発端でした。

それとは全く別に筆者はギリシャ神話のアポロンにまつわる話を考えていました。

美しい青年の神・アポロンは、多彩な力を持ち恋愛にも多く関わりました。相手は女性が大半ですが、美少年のキュパリッソスやヒュアキントスとも愛し合いました

アポロンはミコノス島の目と鼻の先にある古代遺跡のメッカ、デロス島に祭られています。ゲイの人々は男を愛した美しいアポロンを慕って隣のミコノス島に集まるようになった。。

エピソードとしてはギリシャ神話にからめるほうが面白いと思うのですが、それはあくまでも筆者の妄想です。

有名観光地のミコノス島には、欧州全域をはじめとする世界各国から旅行者が押し寄せます。むろんゲイではない人々が大多数です。

宮古島よりも小さなミコノス島は開発が進み人があふれています。ギリシャ国内や世界の富裕層が家や別荘を所有しているため土地建物は極めて高価です。

物価もきわめて高いミコノス島は、将来は一般の観光客を締め出して、富裕層オンリーのリゾート地として特化されるのかもしれません。

だが、現在のところはクルーズ船などを利用して押し寄せる大衆観光客もあふれています。一見したところではオーバーツーリズム気味です。特に島の中心地のミコノスタウンの人出はすさまじい。

ミニ・ミコノス島

次に訪れたパロス島は、ミコノス島を追いかけて観光地化が急速に進み、滞在した島で第2の街ナウサは、ミニ・ミコノスタウンの趣きがありました。

洒落たカフェやバーやレストラン、各種店舗、またナイトスポッなどが目白押しだが、都会的な中に、いわばどうしても「垢抜け切れない」ような不思議な雰囲気が漂っていました。

それは不快ではなく、むしろほほえましい印象で興味深いものでした。

今回はナウサのホテルに滞在しましが、連日レンタカーで島の南岸のビーチに通いました。一帯のビーチが広く静かで美しかったからです。

借りた車では面白い体験もしました。

レンタカー会社に「小型の車を」と予約しておいたところ、なんとベンツに当たったのです。ベンツを運転したのは初めての体験。実際にハンドルを握ってみて、ベンツがなぜ優れた車なのかを体感しました。

道をがっしりと掴んで一気に加速するような走りで、爽快かつ安全確実な印象を常に抱き続けました。

パロス島の物価はミコノス島に匹敵するほど高騰しています。

しかし、島の中心地のパリキアやナウサを離れると、野趣あふれる野山や素朴な集落を背景にビーチが多くあって、宿泊費用もやや安い印象がありました。

食事も郊外のレストランがより美味しいと感じました。

ナウサの港には、数百から1千卓を並べて大型クルーズ船から吐き出される大量の観光客を受け入れているレストランなど、過剰に観光化した店も多くやや食傷させられました。

過度に観光化した全ての店の料理が不味いとは言えないでしょうが、あまりにも多くのツアー客が群がる店に足を向けるのは勇気がいります。

魅惑のカスバ

パロス島のすぐ隣にあるナクソス島は、キクラデス諸島最大の島です。ビーチも多く山岳地帯も広がっています。

島の中心地のホラ(ナクソスタウン)には、北アフリカなどのカスバを髣髴とさせる一画があって非常に驚きました。古い歴史的マーケットです。地元の人たちはその町をオールドタウンと呼んでいます。

北アフリカのアルジェリアあたりのカスバ、あるいはイスタンブールのバザールなどを、規模を小さくした上で洗練された店やレストランや装飾などをはめ込んだ街、とでもいうような雰囲気があります。

建物の全体は古い時代のものがそっくり残されていますが、そこに入っているあらゆるものがひどく趣があって垢抜けています。芸術的センスにあふれているのです。

店やレストランを経営する人々もイギリスやフランス、アメリカや北欧出身者が多い。

地元の経営者に混じって店を切り盛りする、それらの人々の新しいアイデアやセンスや営業方針などが相まって、市場の雰囲気を磨き上げている、と見えました。

いわば「都会的に洗練されたカスバ」がホラのオールドタウン、あるいは歴史的マーケットなのです。

パロス島ではホラから車で15分ほどのビーチ脇にアパートを借りました。

アパートからビーチに降りる小道の角にレストランがありました。

レストランでは子豚と子羊の丸焼きがほぼ毎日提供されていました。食べてみるとどちらも秀逸な味がしました。特に印象深かったのは子豚の丸焼きです。

子羊の丸焼きも疑いなく特上級の味でしたが、ナクソスでは他の店でも美味い子羊レシピが多々あったため、その分印象が薄れたのです。

ナクソス島は一級のバカンス施設を備えた魅惑的なリゾート地です。それでいながらミコノス島や隣島のパロス島と比べると、観光開発がすこし緩やかなペースで行われているように見えます。

観光業以外にはほとんど産業のないキクラデス諸島内にあって、ナクソス島は畜産や農業が盛んで食料の自給率も圧倒的に高い島です。

雄大な自然と洒落たリゾート施設が共存するナクソス島は、キクラデス諸島のうちのミコノス、ミロス、サントリーニ、パロスなどの島々よりは知名度は低い。

だが筆者にとっては、たちまち再訪したい島の筆頭格に躍り出ました。

 

 

 

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