イタリア式新聞意匠のエスプリ

私事になりますが先頃、ミラノに本拠を置くイタリア随一の新聞Corriera della seraから筆者を取材したいという連絡がありました。ここしばらく遠い昔にアメリカで賞をもらったドキュメンタリーが蒸し返されることが続いたので、またそのことかと思いました。少しうんざりした、というのが本音でした。

ところが古い作品の話ではなく、イタリア・ロンバルディア州のブレシャ県内に住むプロフェッショナルの外国人を紹介するコーナーがあり、そこで筆者を紹介したい、と記者は電話口で言いました。断る理由もないので取材を受けました。

そうは言うものの、あえて今取材依頼が来たのは、やはり昔の受賞作品が見返されたことがきっかけだということは、記者の関心の在所や質問内容で分かりました。しかしそれは不快なものではありませんでした。記者の人柄が筆者の気持ちをそう導きました。

発行された新聞を見て少しおどろきました。丸々1ページを使ってかつ何枚もの写真と共に、筆者のことが紹介されていました。過去に新聞に取材をされたことはありますが、1ページいっぱいに書かれた経験など皆無です。

アメリカで賞をもらったときでさえ、もっとも大きく書かれたのは日本の地方新聞。写真付きで紙面の4分の一ほどのスペースでした。全国紙にも多く紹介されましたが、本人への直接の取材はあまりなく、筆者の名前と受賞の事実を記しただけのベタ記事がほとんどでした。

それなものですから、1ページ全てを使った報道に目をみはりました。下の絵です。

イタリアの新聞には顔写真が実に多く載ります。それは自我意識の発達した西洋の新聞ということに加えて、人が、それも特に「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響しています。彼らは人の個性に強くひきつけられます。そして個性と、個性が紡ぎだす物語は顔に表出される、と彼らは考えています。

記事の文章は顔に表出された物語をなぞります。だが文章は、顔写真という“絵”あるいは“映像”よりももどかしい表現法です。絵や映像は知識がなくても解像し理解できますが、文章はどう足掻いても文字という最低限の知識がなければ全くなにも理解できません。

直截的な表現を好むイタリアの国民性は、彼らのスペクタクル好きとも関係しているように見えます。イタリアでは日常生活の中にあるテレビも映画も劇場もあらゆるショーも、人の動きもそして顔も、何もかもがにぎやかで劇的で楽しい表現にあふれています。新聞でさえも。。

筆者を紹介する記事は、若い頃の顔写真をなぞって物語を構成していて、記事にある東京、ロンドン、ニューヨークなどの景色は一切載っていません。筆者が生まれ育った南の島の、息をのむように美しいさんご礁の海の景色でさえも。

記者にとっては、つまりイタリアの読者にとってはそこでは、海や街の景色や事物や自然よりも人物が、人物だけが面白いのです。そして人物の面白さは顔に表れて、顔に凝縮されています。かくて紙面は顔写真のオンパレードになります。

若い自分の写真は面映いものばかりですが、幸い今現在の、成れの果ての黄昏顔もきちんと押さえてくれているので、どうにか見るに耐えられると判定しました。

日本で結婚披露宴をしたとき、筆者は黒紋付ではなく白を着たいと言い張りましたた。べつに歌舞伎役者を気取ったわけではなく、黒よりも白のほうが明るくて楽しいと思ったのです。今となってみると、あれでよかったと思います。

ちなみにその披露宴場には、あらゆる色の紋付き袴が賃貸用に備えられていました。天の邪鬼は自分以外にもいるらしい、と思ったのを昨日のことのように覚えています。

 

 


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メルケルはサッチャーより優しい鉄の女だ

ドイツの政治不安が続いています。

先月の連邦議会選挙で、僅差の勝利を収め第1党になった中道左派の社会民主党(SPD)が、連立政権の樹立を目指しています。しかし先行きは不透明です。

社会民主党は第3党の「緑の党」と、第4党の自由民主党(FDP)との3党連立を模索しています。だが緑の党と自由党の政策の違いは大きく、共存は容易ではありません。

第2党になったメルケル首相所属のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)も、緑の党と自由党との連立政権樹立を狙っています。

それは4年前の政治混乱時とよく似た構図です。当時は総選挙で第1党になったキリスト教民主・社会同盟が、連立政権樹立を目指しましたが紛糾

紆余曲折を経て、前回選挙では第2党だった社会民主党との大連立が成立しました。今回選挙では第1党と第2党が逆転したのです。

社会民主党は、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟の影で、長い間存在感を発揮できない苛立ちを抱えてきました。そのこともあって、辛うじて第1党になった今回は、メルケル色を排除しての連立政権構想を立てています。

だが既述のように僅差で第1党になったことと、連立を組みたい緑の党と自由民主党の間の不協和音もあって政権樹立は容易ではありません。

連立交渉が長引き政治不安が深まれば、2017年同様に大統領を含む各界からの圧力が強まって、結局社会民主党はキリスト教民主・社会同盟との大連立を組まざるを得なくなる可能性も出てきます。

4年前の総選挙では連立交渉がおよそ半年にも及びました。政治不安を解消するために、シュタインマイヤー大統領が介入して各党に連立への合意を勧告しました。

その結果大統領自身が所属する社会民主党が妥協して、同盟との大連立を受け入れたといういきさつがあります。

大統領が介入した場合には、議会第1党から首相候補を選ぶのが慣例。その後議会で無記名の指名選挙が実施されます。そこで過半数の賛成があれば首相に就任します。

埒が明かずに指名選挙が繰り返され、合計3度の投票でも決着がつかなければ、大統領は少数与党政権の首班として首相を指名します。それでなければ議会を解散して新たな総選挙の実施を宣告します。

次の政権ができるまでは、メルケル首相が引き続きドイツを統率します。言葉を変えればドイツは、政治不安を抱えながらも、メルケル首相という優れた指導者に率いられて安泰、ということでもあります。

少し妄想ふうに聞こえるかも知れませんが、いっそのことメルケル首相が続投すれば、ドイツはますます安泰となり、EU(欧州連合)も強くまとまっていくだろうに、と思います。

強いEUは、トランプ前大統領の負の遺産を清算しきれないアメリカや、一党&変形&異様な独裁国家つまり中ロ北朝鮮にもにらみをきかせ、それらのならず者国家の強い影響下にある世界中のフーリガン国家などにも威儀を正すよう圧力をかけることができます。

卓越したリーダーの資質を持つメルケル首相には、人生100歳時代を地で行ってもらって、ドイツ首相から大統領、はたまたEUのトップである欧州委員会委員長などの職を順繰りに就任して世界を導いてほしい。

人の寿命が延びるに従って世界中の政治家の政治生命も飛躍的に高まっています。バイデン大統領は間もなく79歳。ここイタリアのベルルスコーニ元首相は85歳。マレーシアのマハティール氏は2018年、92歳という高齢で首相に就任しました 。

また2019年、老衰により95歳で死去 したジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、93歳まで同国のトップであり続けました。中曽根元総理なども政治生命の長大な政治家でした。メルケル首相は67歳。それらの政治家の前では子供のようなものです。

メルケル首相は、疲れた、休みたい、という趣旨の発言をしているということですが、彼女も結局政治家です。周りからの要請があれば、胸中に秘めた政治家魂に火がついて政界復帰、というシナリオも十分にあり得るのではないでしょうか。

危機の只中にあるにもかかわらず病気と称して2度も政権を投げ出し、あたかも政界から身を引くかのような言動でフェイントをかけておいて、首相擁立の黒幕的存在と見なされているどこかの国の元首相さえいます。

その元首相は、国内の右翼や歴史修正主義者やトランプ主義者らにウケるだけで、世界では何の影響力も持ちません。むしろ過去の歴史を反省しない危険な民族主義者と規定されていて、国際的には国益を損なう存在です。

メルケル首相は、その元首相とは大違いで、ドイツの過去の蛮行を正面から見据えて反省し、迷惑をかけた周辺国への謝罪の気持ちを言葉にし実行し続けました。その姿勢は国際社会からも高く評価されました。

引退を発表した彼女を惜しむ世界の声は、そうした誠実でぶれない人柄と強い指導力、また比類のない実績の数々を称えて日々高まっているようにさえみえます。

メルケル後のドイツ政権はいつかは成立するでしょう。だが新政権のトップが無力だったり非力と見なされた場合には、メルケル復権を求める声が実際に高まる可能性は十分にあると思います。

個人的には筆者はそういう状況の到来をひそかに願ってさえいます。

 

 

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「永遠の都」の女性市長が堕ちてもなお永遠な理由(わけ)

10月3日-4日に行われたローマ市長選挙で現職のヴィルジニア・ラッジ市長が落選しました。

ラッジ氏は2016年、ローマ誕生以来2769年間続いてきた男性オンリーの支配体制に終止符を打ちました。

ローマは、オオカミに育てられた双子の兄弟ロームルスとレムスが、紀元前753年に建設して以降、常に皇帝や執政官や独裁官や教皇や元首などの男性指導者に統治されてきました。

生粋のローマっ子で当時37歳のラッジ氏は、彗星の如くあらわれて鋭い舌鋒で既存の政治家を糾弾。私がローマの全てを変える、と主張しました。

当時ローマでは、前市長が公費流用疑惑で辞任し、市当局がマフィアと癒着していた醜聞が明らかになるなど、市民の怒りと政治不信が最高潮に達していました。

ラッジ氏は、既成の政党や古い政治家を厳しく批判して支持を伸ばしていた反体制政党、「五つ星運動」の所属。時節も追い風になって彼女は大勝しました

ラッジ市長は、サラ金や麻薬密売を武器にローマにはびこる犯罪組織、カザモニカ(casamonica)を押さえ込んで市民の喝采を浴びました。

だが一方で、バスや電車に始まる公共交通機関のサービスの落ち込みや劣化する一方のインフラなど、ローマの構造的な腐食や疲弊には無力でした。

中でもゴミ問題に対する市の対応の遅れと拙さが厳しい批判を浴びました。ラッジ市長は「永遠の都」に日々積みあがっていく腐敗物を尋常に処理できなかったのです。

ローマには街に溢れるゴミを目当てに、イノシシの群れが徘徊する事態まで起きました。それでもラッジ市長は有効なゴミ処理策を打ち出せませんでした。驚くべき非力です。

彼女の奇態はそこでは終わりませんでした。ラッジ市長は市内の公園や歴史的建造物の庭園で芝刈り機を使う代わりに、ヤギや羊また牛などを放牧し草や木々の葉を食べさせて清掃しようとしました。

そうすることで財政難が続く永遠の都の台所を救い、環境保護にも資することができる。一石二鳥だ、と彼女は言い張ったのです。

そのアイデアは実は彼女独自のものではありません。例えばパリやドイツのケルンなどでも、小規模ですが公園などに羊を放牧して草を食ませ掃除をしています。欧州のみならず世界中に同じ例があります。

だが、ローマの場合には余りにも規模が大きい。ローマは欧州随一の緑地帯を持つ都市なのです。導入する動物の数や管理に加えて、垂れ流す糞便のもたらす衛生・健康被害を想像しただけでも実現は不可能と知れます。

市長の批判者は、そのアイデアはゴミをカモメに食べてもらう企画とそっくりの、ラッジ市長の荒唐無稽な施策だ、と激しく反発しました。

同時に彼らは「市長はやがて蚊を退治するためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない」などとも嘲笑、愚弄しました。

ラッジ市長は政治的には無能だったと筆者も思います。世界有数の観光都市ローマの道端にゴミが溢れる状況を改善できないなんて、まさしく言語道断です。

しかしラッジ市長は-例えば日本に比べれば遥かに進んでいるとはいうものの-欧米先進国の中では女性の社会進出が遅れているイタリアの首都の、史上初の女性トップでした。

ローマには何食わぬ顔で女性蔑視・男尊女卑を容認するカトリックの総本山バチカンがあります。

カトリックは許しと愛と寛容を推進する偉大な宗教ですが、ジェンダーに関しては救えないほどの古い思想また体質を持っています。

欧米先進国の中でイタリアの女性の社会進出が遅れているのはカトリックの影響も大きい。欧州の精神の核の一つを形成してきたローマは、ジェンダーという意味ではひどく後進的な都市なのです。

古代の精神を持つそのローマで、ヴィルジニア・ラッジ市長という女性のトップが生まれた歴史的意義は大きい。

われわれは例えば、パリやロンドンやニューヨークなどの、欧米の他の偉大な都市で女性市長が誕生しても、もはや誰も驚きません。それらの都市は既に十分に近代的で「男尊女‘’」の社会環境にあるからです。

ローマは違います。

さり気なく且つ執拗に男尊女卑の哲学を貫くバチカンを擁する現実もあって、イタリア国内を含む欧州の他の都市のように近代的メンタリティーを獲得し実践するのは困難でした。

それが古来はじめて転換したのです。

転換の主体だったラッジ市長は、彼女の使命を終えて政治の表舞台から去ることになりました。

だが彼女が任期中にたとえ多くの懸案を解決できなかったとしても嘆くことはありません。

なぜなら厳とした男尊女卑の因習を持つイタリアで、初の「女性ローマ市長」になったラッジ氏の真の役割は、例えばアメリカ初の黒人大統領バラック・オバマ氏のそれに似た、歴史の分水嶺を示す存在であり続けることだけ、とも考えられるからです。

 

 

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猥褻は作品ではなく、それを見る者の心の中にある

チチョリーナな農婦

イタリア南部の町サプリで、1800年代に書かれた詩に基づいて作られた銅像が女性蔑視だとして物議をかもしています。

詩のタイトルは「サプリの落ち葉拾い」。当時の支配者ブルボン家への抗議を示すために、仕事を放棄した農婦の自己決定権を描いています。銅像はその詩へのオマージュです。

ところが銅像の農婦はすけすけのドレスを着ていて、特に腰からヒップのラインが裸同然に見えます。それに対してフェミニストやジェンダー差別に敏感な人々が怒りの声を挙げました。

銅像は女性の自己決定を無視し、反ブルボン革命について全く何も反映していない。女性はまたもや魂を欠いた性の対象に過ぎない肉体だけを強調され、「サプリの落ち葉拾い」が語る社会的且つ政治的問題とは全く関係がないと糾弾しました。

それに対して銅像の作者で彫刻家のエマヌエレ・スティファーノ(Emanuele Stifano )さんは、何事にもただただ堕落のみを見たがる者に芸術を説明しても意味がない、と反論しました。

作品も評論も心の目の見方

筆者は彫刻家に味方します。銅像が優れた作品であるかどうかは別にして、それは創作アートです。何をどう描いても許されるのが芸術活動です。

芸術作品に昇華された農婦は、裸体でもシースルーの服を身にまとっていてもなんでも構わない。作者の心の目に見える姿が、そこでの農婦の真性の在り方なのです。

また同時にその作品を鑑賞する者には、作品をいかようにも評価する自由があります。

従ってフェミニストが、銅像は女性への侮辱だと捉えるのも正当なものであり、彼らの主張には耳を傾けなければなりません。

批判や怒りは鑑賞者の心に映る作品の姿です。作者が自らの心に見える対象を描くように、鑑賞者も自らの心の鏡に映してそれを審査します。

筆者はそのことを確認した上で、銅像の作者の言い分を支持し、一方で批判者の論にも一理があると納得するのです。

芸術と猥褻の狭間

だが、批判者の一部が「銅像を破壊してしまえ」と主張することには断固として異を唱えます。

極端な主張をするそれらの人々は、例えばボッティチェリのビーナスの誕生や、ミケランジェロのダヴィデ像なども破壊してしまえ、と言い立てるのでしょうか。

彼らが強弁しているのは、農婦の銅像は女性の尊厳を貶める下卑たコンセプトを具現化している。つまり猥褻だということです。

体の線がくっきりと見えたり、あるいはもっと露骨に裸であることが猥褻ならば、ビーナスの誕生も猥褻です。また猥褻には男女の区別はないのですから、男性で裸体のダヴデ像も猥褻になります。

あるいは彼らが、農婦像は裸体ではなく裸体を想像させる薄い衣を身にまとっているから猥褻だ、と言い張るなら筆者は、ナポリのサンセヴェーロ礼拝堂にある「美徳の恥じらい」像に言及して反論したいと思います。

美徳あるいは恥じらい

女性の美しい体をベールのような薄い衣装をまとわせることで強調しているその彫像は、磔刑死したイエスキリストの遺体を描いた「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像を守るかのように礼拝堂の中に置かれています。

「美徳の恥じらい」像は、イタリア宗教芸術の一大傑作である「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像にも匹敵するほどの、目覚ましい作品です。

「サプリの落ち葉拾い」像の農婦がまとっている薄地の衣は、実はこの美徳の恥じらい像からヒントを得たものではないかと筆者は思います。

大理石を削って薄い衣を表現するのは驚愕のテクニックですが、銅を自在に操ってシースルーの着物を表現するのも優れた手法です。

筆者は農婦の像を実際には見ていません。しかしネットを始めとする各種の情報媒体にあふれているさまざまの角度からの絵のどれを見ても、そこに猥褻の徴(しるし)は見えません。

女性差別や偏見は必ず取り除かれ是正されるべきです。しかし、あらゆる現象をジェンダー問題に結びつけて糾弾するのはどうかと思います。

ましてや自らの見解に見合わないから、つまり気に入らないという理由だけで銅像を破壊しろと叫ぶのは、女性差別や偏見と同次元の奇怪なアクションではないでしょうか。

猥褻の定義  

猥褻の定義は存在しません。いや定義が多すぎるために猥褻が存在しなくなります。つまり猥褻は人それぞれの感じ方の表出なのです。

猥褻の定義の究極のものは次の通りです。

「男女が密室で性交している。そのときふと気づくと、壁の小さな隙間から誰かがこちらを覗き見している。男も女も驚愕し強烈な羞恥を覚える。ある作品なりオブジェなり状況などを目の当たりにして、性交中に覗き見されていると知ったときと同じ羞恥心を覚えたならば、それが即ち猥褻である」

筆者の古い記憶ではそれはサルトルによる猥褻の定義なのですが、いまネットで調べると出てきません。だが書棚に並んでいるサルトルの全ての著作を開いて、一つひとつ確認する気力もありません。

そこでこうして不確かなまま指摘だけしておくことにしました。

キリスト教的猥褻

学生時代、筆者はその定義こそ猥褻論議に終止符を打つ究極の見解だと信じて小躍りしました。

しかし、まもなく失望しました。それというのもその認識は西洋的な見方、要するにキリスト教の思想教義に基づいていて、一種のまやかしだと気づいたのです。

その理論における覗き見をする者とは、つまり神です。神の目の前で許されるのは生殖を目的とする性交のみです。

だからほとんどが悦びである性交をキリスト教徒は恥じなければなりません。キリスト教徒ではない日本人の筆者は、その論議からは疎外されます。

その認識にはもうひとつの誤謬があります。性交に熱中している男女は、決してのぞき穴の向こうにある視線には気づきません。性交の美しさと同時にその魔性は、そこに没頭し切って一切を忘れることです。

性交中に他人の目線に気づくような男はきっとインポテンツに違いない。女性は不感症です。セックスに没頭しきっていないから彼らはデバガメの密かな視線に気づいてしまうのです。

猥褻は人の心の問題に過ぎない

そのように筆者は究極の猥褻の定義も間違っていると知りました。

そうはいうものの筆者はしかし、いまこの時の筆者なりの猥褻の定義は持っています。

筆者にとっての猥褻とは、家族の全員及び友人知己の「女性たち」とともに見たり聞いたり体験した時に、「羞恥を覚えるであろう物事」のことです。

筆者はサプリの農婦の像やビーナスの誕生やダヴィデ像、そしてむろん美徳の恥じらい像を彼らとともに見ても恥らうことはありません。恥らうどころか皆で歓ぶでしょう。

その伝でいくと、例えば女性器を鮮明に描いたギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を、もしも筆者に娘があったとして、その娘とともに全く怯むことなく心穏やかに眺めることができるか、と問われれば自信がありません。

しかしそれは、娘にとっては何の問題もないことかもしれません。問題を抱えているのは、飽くまでもここにいる筆者なのです。

そのように猥褻とは、どこまでも個々人の問題に過ぎません。

 

 


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メルケル首相の再就職先

9月26日、ドイツのみならずEU(欧州連合)の命運さえも左右するドイツの連邦議会選挙が行われます。

なぜEUにも「影響を与える」と表現せずにEUの「命運さえも左右する」と強い言葉を用いるかと言えば、選挙後にメルケル首相が退陣するからです。

16年間ドイツを率いてきたメルケル首相は、ドイツだけでなくEUの最大のリーダーでもありました。

それどころか、変形独裁国家の首魁であるプーチン大統領にも毅然として対峙し、トランプ食わせ者大統領が出現すると、正義と自由と民主主義の旗手として断固たる態度で彼の嘘に挑みました。

トランプ大統領の太鼓持ちだった安倍首相や定見のない英メイ首相、若いだけが取り柄の仏マクロン勇み足大統領、またただそこにいるというだけで、空気と同じ無意味な存在だった伊ジェンティローニ首相などとは大違いだったのです。

ドイツもヨーロッパもそして世界も、アンゲラ・メルケルという偉大な指導者を失う。ドイツの総選挙が行われる2021年9月26日は、そんな劇的なコンセプトが遂行される時間なのです。

ポスト・メルケルのドイツの政治地図はカオスと歪みと落書きの坩堝のようです。

メルケル首相が所属するキリスト教民主同盟のラシェット党首、選挙戦終盤になって支持率を伸ばしている 社会民主党のショルツ党首が後継争いをしていますが、メルケル首相の前では悲しいほどに器が小さく見えます。

目先が変わるという意味で注目を集めた緑の党のベアボック共同党首は、なんと日本にも通底する陳腐な学歴詐称問題と文章盗用疑惑などで激しいバッシングを受けて沈没しました。

どんぐりの背比べにしか見えない首班候補らが、しのぎを削っているだけの寂しい現実。それがドイツ総選挙の実態なのです。

世界にはピカロな指導者が跋扈しています。

例えば一党独裁国家、中国の習近平ラスボス主席や変形独裁国家の首魁プーチン大統領。彼らの腰巾着である世界の強権首脳たち。

はたまた反動トランプ主義者の英ジョンソン、伯ボルソナーロ、欧州最後の独裁者ベラルーシのルカシェンコ、欧州の最後から2番目の独裁者ハンガリーのオルバン首相など、など。

それらのくえない権力者に対抗できるのは、今のところ、メルケル首相だけです。

バイデン大統領でもなければマクロン大統領でもない。ジョンソン首相に至っては、トランプ前大統領の金魚のフンという実体を、ピエロの仮面で隠しているだけの危険人物だから問題外です。

そしてトランプ“事件の根源”前大統領や、今触れたジョンソン“ゴマの蠅”Brexit首謀者らを称賛するのが、ここイタリアのサルヴィーニ“極右”「同盟」党首でありメローニ“仁義なき戦い”「イタリアの同胞」党首です。

そこにはフランスの極右ルペン指導者がいてオランダの自由党がありオーストリア、ギリシャ、ドイツ、ノルウエーetcの極右「暴力信奉勢力」がずらりと並びます。

それらの反動勢力は、極東で言えば中国であり北朝鮮です。そして中国と北朝鮮にも匹敵するのが、日本国内で隠然と蠢く歴史修正主義者であり靖国信者であり東洋蔑視主義者らです。

彼らはいわゆるバナナ人種。表は黄色いのに中身が白くなって、アジアを見下し白人至上主義者のトランプやバノンを仲間と勝手に思い込む。

トランプやバノンが蔑んでいる非白人でありながら、自らが白人の域にいるつもりで白人至上主義者らに媚びを売るのです。

なんと悲しくなんと寂しく、そして何よりもなんと醜い現実でしょう。

米ケツ舐め実践者&ネトウヨヘイト系排外差別主義者らは、さっさと目覚めなければなりません。

目覚めて、われわれの父や祖父らが犯した罪を認めて腹から謝罪し、現実を見据え、歴史を真正面から見て恐れず、そのことによって日本民族の優秀性を穏便に証明するべきです。

日本を含む世界の反動勢力に静かに、だが断固として対峙できる政治家が―繰り返しになりますが―今のところアンゲラ・メルケルさんただ一人なのです。

そんな彼女が政界を引退するのは、世界の巨大な損失です。

そこで彼女をなんとしても再就職させたいと考えるのです。

転職先は、EU(欧州連合)のトップの座である欧州委員会委員長がもっとも相応しいのではないでしょうか。

EUの現在の委員長はウルズラ・フォンデアライエン氏です。

フォンデアライエン委員長は、知性的で清潔感に溢れ人柄も誠実なようですが、残念ながら政治的な重みに欠けるきらいがあります。

また世界に跋扈する悪の大物政治家らの向こうを張って、自由と民主主義と人権擁護主義を死守できるのかも、心もとない。

引退するメルケル首相が委員長の座に座れば理想的です。

フォンデアライエン氏はメルケル委員長の補佐役になるか、あるいはドイツ首相へと横滑りしてもらえば良いと思います。

メルケル首相には、なんとしてももうしばらくは世界のリーダーの位置にいてもらいたい、と願うのは筆者ひとりだけでしょうか。

 

 





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イタリアをたたいてみれば文明開化の音がする

イタリアで安楽死を法制化するように求める署名運動が、75万人余りの賛同を集めました。

これによって、安楽死への賛否を問う国民投票が、早ければ来年にも実施される可能性が高くなりました。

イタリアでは50万人以上の署名で国民投票が実施される決まりです。

安楽死は、命の炎が消え行くままに任せる尊厳死とは違って、本人または他者が意図的に命の炎を消す行為です。

その意味では尊厳死よりもより罪深いコンセプトであり、より広範な論議がなされるべき命題と言えるかもしれません。

別の言い方をすれば、安楽死は尊厳死を内在させているが、尊厳死は安楽死を包含しない。

筆者は安楽死及び尊厳死に賛成する者です。

いわゆる「死の自己決定権」を支持し、安楽死・尊厳死は公的に認められるべきと考えます。

回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに安楽死を実行する状況が訪れた時には、粛然と実行されるべきではないでしょうか。

生をまっとうすることが困難な状況に陥った個人が、安楽死、つまり自殺を要求することを否定するのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

安楽死を容認するときの危険は、「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに安楽死させることです。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性があります。親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるでしょう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら-繰り返しになりますが-回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを受け入れるべきです。

イタリアでは安楽死は認められていません。そのため毎年約200人前後もの人々が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をします。そのうちのおよそ6割は実際にスイスで安楽死すると言われます。

安楽死に対するイタリア社会の抵抗は強い。そこにはカトリックの総本山バチカンを抱える特殊事情があります。自殺は堕胎や避妊などと同様に、バチカンにとってはタブーです。その影響力は無視できません。

だが堕胎や避妊と同様に、禁忌の壁が高かった安楽死についても、崩壊の兆しが少しづつ見えていました。そしてついに、その是非を問う国民投票が実施されるかもしれないところまでこぎつけました。

(尊厳死を含む)安楽死は、命を救うことが至上命題である医療現場に、矛盾と良心の呵責と不安をもたらします。イタリアではそこにさらにバチカンの圧力が加わるのです。

医者をはじめとする医療従事者は、救命という彼らの職業倫理に加えて、自殺を否定し飽くまでも生を賛美するカトリック教の教義にも影響され、安楽死に強い抵抗感を持つようになります。

自殺幇助が犯罪と見なされ5年から12年の禁固刑が科されるイタリアですが、実は2019年、憲法裁判所は世論の圧力に屈して例外規定を設けました。

延命措置を施されつつも治る見込みのない患者が、肉体的また精神的に耐え難い苦痛を覚え続け、且つ患者が完全に自由で明晰な判断が可能な場合は例外とする、としたのです。

安楽死を推進する人々に対しては、キリスト教系の小政党などから「死の文化」を奨励するものだという批判が上がりました。

またカトリックの総本山であるバチカンは、自殺幇助は「その本質が悪魔的」として、従来の批判を声高に繰り返しました。

それらは極めて健全な主張です。生を徹頭徹尾肯定することは、宗教者のいわば使命であり義務です。彼らが意図的に命を縮める安楽死を認めるのは大いなる矛盾です。

安楽死を怖れ否定するのは、しかし、宗教者や医療従事者のみならず、ほぼ全ての人々に当てはまる尋常な在り方でしょう。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければなりません。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきです。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合にのみ、安楽死は認められるべきと考えます。

カトリックの教義に従順なイタリアの「健全で保守的な世論」が、安楽死という重いテーマを正面から見据えて、北欧などを中心とする開明的な国々に追随する方向へと進んでいることを筆者は歓迎します。

 

 


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南イタリアの異常気象の舞台裏

米気象学会は8月25日、昨年2020年のヨーロッパの気温が観測史上最高を記録したと発表しました。

それは世界でも史上3番目に入る暑さでした。

スイス、ベルギー、フランス、スペイン、スウェーデン、ノルウェーなど、欧州の17カ国で史上最高気温となりました。

一方、米海洋大気局(NOAA)によれば、ことし7月の世界の平均気温は16.73度となり観測史上で最も高くなりました。

7月は1年で地球が最も暑くなる時期。

2021年7月は例年にも増して暑くなり、142年間の観測史上で最も暑い月となりました。

そうした流れの中で2021年8月11日、イタリアのシチリア島では欧州の過去最高気温となる48,8℃が記録されました

それまで欧州で最も暑かった記録は、1977年にギリシャのアテネで観測された48℃です。

炎熱はアフリカのサハラ砂漠が起源の乾いた風と共にやってきました。

熱波と乾燥に伴って、シチリア島のみならずイタリア本土やギリシャ、またキプロスやトルコなど、地中海沿岸の国々に山火事が頻発して緊急事態になりました。

8月25日までに焼失したイタリア全土の山林はおよそ15万8千ヘクタール。

その数字はイタリアの3大都市圏ローマとミラノとナポリを合わせた面積に匹敵します。

15万8千ヘクタールは、2017年全体の焼失記録およそ14万1千ヘクタールを既に超えています。

なおイタリアでは 2018年に14,000ヘクタール、2019年には37,000ヘクタール、2020年には53,000ヘクタールの山林が灰になっています。

山火事は夏のイタリアの風物詩のような様相を呈していますが、他の国々とは違う陰鬱な顔も持っています。

ほとんどの山林火災が、放火あるいは人災として発生しているのです。

具体的には全体の54,7%が放火。13、7%が不慮あるいは人の不注意から来る事故。

一方で落雷などが原因の自然発生的な山火事は、全体の2%以下にとどまっています。

放火は多くの場合犯罪組織と結びついていると考えられています。

マフィア、ンドランゲッタ、カモラなどが、土地争いに絡んで脅迫や強奪を目的に火を点けたり、緑地を商業地に変えようとしたり、ソーラーパネル用の土地を獲得しようと暗躍したりします。

一方、犯罪者の意図的な悪行とは別に、乾き切った山野また畑地などでは火災が容易に発生します。

例えば農夫が焼き畑農法の手法で不注意あるいは不法に下草に火を放った後に制御不能に陥ります。

人々がバーベキューや炊事や湯沸かしの火を消し忘れる。

ドライバーが車の窓から火のついたままの煙草を投げ捨てて、乾き切った道路脇の枯草に引火する。

不埒な通行人が同じように煙草のポイ捨てをすることもあります。

7月から8月の間の南部イタリアはほとんど雨が降りません。山野は既述のようにアフリカ由来の高気圧や熱波に襲われて、気温が高くなり空気が極度に乾いています。

砂漠並みに乾燥した山野の枯葉や枯草は、ガソリンのように着火しやすく一気に炎上して燃え盛るのです。

犯罪や事故による山林火災は昔から常に発生してきました。近年は地球の温暖化に連れて気温が上がり、山火事がより発生しやすくなっている、とされます。

だが、南イタリアの山林火災に関する限り、気候変動を隠れ蓑にした犯罪者らの悪行のほうが、地球の温暖化そのものよりもより深刻、とさえ言えそうです。

 

 

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集団免疫効果“ただ乗り”の是々非々 

世論調査によるとイタリア人の8割がコロナワクチンの接種を義務化するべき、と考えています。

驚きの統計は、反ワクチン過激派NoVax(ノー・ヴァックス)が、ワクチン接種を証明するグリーンパスを阻止するとして、全国の駅を占拠すると宣言した直後に発表されました。

列車の運行を妨害しようとしたNoVaxの試みは失敗しました。強い危機感を抱いた当局が全国の主要駅に厳しい警護策を導入したからです。

グリーンパスはレストランや劇場等への入店入場のほか、飛行機や列車移動に際しても提示を要求されます。NoVaxが駅を占拠して列車の運行を妨害しようとしたのもそれが理由です。

イタリアのワクチン接種は割合順調に進んでいます。

しかしワクチン接種を拒む人々も一定数存在しています。彼らはワクチンの拙速な開発や効果を疑って反対します。それは理解できる動きです。

コロナワクチンが迅速に開発されたのにはれっきとした科学的な理由があります。また完璧なワクチンや効果が100%のワクチンは存在しません。その中でコロナワクチンは効果が極めて高い。

それを知らずに―だが理解できないこともない理由で―ワクチン接種をためらう人々とは別に、根拠のないデマや陰謀論に影響されてワクチン反対を叫ぶ人々もいます。

それらの人々のうち、陰謀説などにとらわれている勢力は、科学を無視して荒唐無稽な主張をするトランプ前大統領や、追随するQアノンなどをほう彿とさせます。

彼らを科学の言葉で納得させるのはほとんど不可能に近い。思い込みがほぼ彼らの宗教になっていて、他者の言葉に貸す耳を持たないからです。

イタリアにおいてはそれがNoVaxを中心とする少数の反ワクチン過激派の人々です。

彼らは単にワクチン接種を拒否するばかりではなく、政治家や医療専門家やジャーナリストなどを脅迫したり、ワクチンの接種会場に火炎瓶を投げつけたりするなど、過激な動きを続けています。

NoVaxを含む反ワクチン論者の人々は、彼らなりの考えで自分自身と愛する人々の健康を守ろうとしています。

従って彼らを排除するのではなく、政治が彼らを説得して、ワクチン接種に向かうように仕向けるべきですが、現実はなかなか難しい。

ワクチンはフェイクニュースや思い込みに縛られている人々自身を救います。同時に彼らが所属する社会は、コロナ禍から脱出するために「集団免疫」が必要です。

反ワクチン派の人々は、それ以外の人々が副反応のリスクなどの対価を払ってワクチンを接種して、やがて社会全体が守られる集団免疫に達したとき、何の貢献もしないまま同じ恩恵を受けます。

それはいわゆる フリーライダーつまりただ乗り以外のなにものでもありません。

ワクチン接種の必要性を理解しない者、あるいは理解してもワクチン接種を意図的に拒む者には、罰則が科されてもあるいは仕方がないと考えます。反社会的行為にも当たるからです。

いったんそうなった暁には、ワクチンの強制接種、という施策が取られるのも時間の問題でしょう。

イタリア国民の80%がワクチンの強制接種に賛成という統計は、2020年に世界に先駆けて凄惨なコロナ地獄を体験した人々の切実な願いの表れと見えます。

イタリアではワクチン強制接種論と平行して、基礎疾患のある高齢者を対象に3回目のワクチン接種を始めるべき、という意見も出ています。

後者はすぐにでも実施されるでしょうが、ワクチンの強制接種に関しては、まだまだ紆余曲折があるのではいか、と思います。

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口は災いの元、無口は災いそのもの

菅朴念仁首相を生んだ土壌

菅首相の退陣が決まったとたんに、これまで口を噤んでいた猫も杓子も誰もが、まるで石もて追うように批判の大合唱になっていると見えるのは、筆者の思い過ごしでしょうか。

多くの問題を抱えて迷走した菅首相でしたが、もっとも重大な手落ちは絶望的なコミュニケーション能力だったのではないか。

それは失策というよりも彼の人となりや気質の問題ではありました。

しかし何よりも奇妙なのは、発信力がほぼゼロの政治家が長く生き延び、あまつさえ総理の地位にまで登り詰めることができる日本の社会のあり方です。

短期間とはいえ彼が宰相の地位に留まることができたのは、無口や沈黙を許すのみならず、ほとんど賞賛さえする日本独特の社会風習があるからです。

ふたりのスター

菅首相の訥弁を思うとき、筆者はよく今は亡き銀幕の大スター高倉健と、大相撲の人気力士遠藤を連想します。

そこで日本人に愛される2人の例をひいて、日本人とコミュニケーションについて考えてみたい。

なお、あらかじめ断っておきますが、筆者は健さんと遠藤の大ファンです。

健さんの映画はたくさん観ました。寡黙な男の中の男。義理や人情のためなら命も投げ出す「ヤクザの健さん」はいつもまぶしくカッコよかった。

力士の遠藤は、足が天井にまで投げ上げられるかと見える四股の美しさと、相撲のうまさが際立っています。もはや30歳にもなって出世は高くは望めないかもしれませんが、いつまでも気になる力士です。

彼らふたりは通常の意味でのコミュニケーション力はゼロ以下です。だがそのことは健さんが優れた俳優であり、遠藤が優秀な力士である事実をなんら傷つけません。

ムッツリ遠藤

遠藤はNHKの大相撲中継において、横綱・大関を倒したときや勝ち越しを決めたときなどにインタビューされる。そのときの彼の受け答えが、見ている者が苦しくなるほどに貧しい。

相撲取りはしゃべらないことが美徳という暗黙の掟がある。しゃべる男は軽い、という日本のある種の社会通念に縛られて、無理やり感情の表出を抑える。

そしてその同じ行為を続けるうちに、習慣は彼らの中で血となり肉となってついには彼らの本性にまでなります。相撲社会全体を覆っている無言の行という風儀は、人工的に作られたものです。しかし、もはやそれが自然と見えるまでに浸透しています。

しかし、遠藤の受け答えは自然ではない、と筆者の目には映ります。自らを強く律して言葉を発しないようにしていると分かるのです。だがその仕方に相手、つまりインタビューアーへの配慮がありません。

「遠藤自身がインタビューを迷惑がっている」と分からせることを意識しているのか、顔や態度や言葉の端々に不機嫌な色を込めてしゃべります。それは見ていてあまり愉快なものではありません。

遠藤のインタビュアーへの反感は、巡りめぐってファンや視聴者への反感として顕現されます。それはつまりコミュニケーションの否定、あるいは彼自身が理解されることを拒絶している、ということです。

遠藤のあまりの言葉の少なさと、少ない言葉に秘められた一種独特な尊大さは、力士としての彼の力の限界が見えてきたことと相俟って、見ていて悲しい。

遠藤はかつて、大関くらいまではスピード出世するのではないかと見られました。だが、相撲の巧さが即ち相撲の小ささになってこじんまりとまとまってしまい、大関は夢のまた夢状態になりました。

だがそれは彼のプロ力士としての力の現実であって、コミュニケーションを拒む彼の訥弁とはむろん関係がありません。彼の訥弁を良しとする日本文化が問題なのです。まるで相手を見下すのでもあるかのような遠藤のひどい訥弁も許されるから、彼は敢えてそれを改善しようとは考えない。

そうはいうものの、しかし、大相撲のダンマリ文化から開放された力士が、突然あふれるように饒舌になるのもまたよくあることです。最近では 稀勢の里の荒磯親方が、引退したとたんに大いなるおしゃべりになって気を吐いています。

また元大関琴奨菊の秀ノ山親方 、同じく豪栄道の武隈親方 なども、引退して親方になるや否や饒舌になって、大相撲解説などで活躍しています。 

彼らは心地良いしゃべりをするなかなか優れたコミュニケーターであり、語り口や語る内容は知性的でさえあります。

そうしたことから推しても、力士の無口は強制されたものであることが分かります。遠藤のケースも同じなら、彼は現役引退後にハジけて大いなる“おしゃべり”になるのかもしれません。

だんまり健さん

高倉健の場合には、2001年5月に放送されたNHK『クローズアップ現代』で、国谷裕子のインタビューを受けた際に、彼の“反コミュニケーション”振りが徹底的に示されました。

健さんはそこで国谷キャスターの質問の度に、じれったくなるほどの時間をかけて考え、短く、だが再び時間をかけてゆっくりと答えていきます。

それは何事にも言葉を選んでしっかりと答える、という彼の美質として捉えられ、確立し、世に伝えられてもいる内容なのですが、筆者の目には「言葉を選ぶ」というよりも「言葉が無い」状態に見えました。

あるいは考えを表現する言葉が貧弱、というふうにも。

その後はインタビューを介して、彼がスクリーンで演じる役柄と生身の高倉健自身が交錯し、合体して分別が不可能なほどに一体化していることが明らかになっていきます。健さん自身もそのことを認める展開になります。

個人的には現実の人身と役柄が渾然一体となる状態は優れた俳優の在り方ではない。しかし、高倉健という稀有な存在が、生身の自分と銀幕上の個性をそれとは知らずか、あるいは逆に意識して、融合させて生きている現実が明らかになるのは興味深い成り行きでした。

彼は男らしい男、男の中の男、また義理人情のためなら命も投げ出す高倉健、という日本人が好きなコンセプトに自身をしっかりとはめ込んで生きているのです。

そして「高倉健という人間」が、本名の小田剛一も含めて「俳優の高倉健」と完全に合体している姿に、彼自身が惚れています。

彼が惚れて自作自演している高倉健は、韜晦し過ぎるほどに韜晦する人間で、しかも彼自身はその韜晦するほど韜晦する高倉健が大好き、とういうのが彼の生の本質です。

高倉健と力士遠藤は、韜晦し過ぎで且つ韜晦する自分が好きな男たちなのです。

健さんも遠藤も誰をはばかることもない成功者であり有名人です。むろんそれで一向に構わない。それが彼らの魅力でもある。なぜなら「韜晦」は日本人のほぼ誰もが好きな概念だからです。

目は口ほどにはものを言わない

一方、日本人のコミュニケーション力というコンセプトの中では、それらの朴訥な態様はきわめて陰鬱で且つ深刻な命題です。

「口下手を賞賛する」とまでは言わなくとも、それを忌諱もしない日本文化があって、健さんの寡黙や遠藤の無言、果ては菅首相の訥弁が許されています。

繰り返しますが、それはそれで全く構わないと思います。なぜならそれが日本の文化であり、良さです。おしゃべり過ぎる例えばここ欧米の文化が、逃げ出したくなるほど鬱陶しい場合も多々あるのです。

言うまでもなく人のコミュニケーションや相互理解や国際親善等々は、言葉を発することでなされます。

言葉を用いないコミュニケーションもむろんあります。表情やジェスチャーや仲間内の秘密の符丁やサインなど、などです。

しかし思想や哲学や科学等々の複雑な内容の意思伝達は言葉で行われます。それ以外のコミュニケーションは、動物のコミュニケーションと同じプリミティブな伝達手段です。

人間のコミュニケーションは「おしゃべり」の別名でもあります。しゃべらなければ始まらないのです。

ところが日本にはおしゃべりを嫌う沈黙の文化があります。寡黙であることが尊敬される。この伝統的な精神作用が、日本人を世界でも最悪な部類のコミュニケーターにします。

自らの考えを明確に伝えて、相手を説得し納得させて同意を得るのがコミュニケーションの目的です。

同時に相手の反論や疑問も受け入れて、それに基づいてさらに説得を試みる。そのプロセスの繰り返しがコミュニケーションです。

おしゃべりであるコミュニケーションは、井戸端会議の「おしゃべり」に始まって、社会的な重要さを増すごとに「しゃべり」「話し合い」「議論」「討論」「討議」「対話」などと呼ばれます。

言葉は暴力抑止デバイス

それらは全て暴力や闘争や威圧や戦争を避けるために人間が編み出した手段です。

自然的存在としての人間、あるいは生まれながらの人間は暴力的です。人の行動は生存のためにアグレッシブにならざるを得ません。

そうでない者は食料を得られず、飢えて淘汰される可能性が高い。それが動物の生存原理であり自然の摂理です。

人の暴力性を和らげるのが言葉です。言葉は発信され、受け止められ、反応されることで言葉になり意義を獲得します。つまりコミュニケーションです。

コミュニケーションは積極的に「しゃべる」者によってより洗練され研ぎ澄まされ、改善されていきます。

世界中で行われてきたこの慣行は、人種が交錯し人流が激しい欧米では間断なく練磨が進みました。違う人種や国民間では対立が激しく、コミュニケーションが無くては血で血を洗う闘争が繰り返されるからです。

争いが絶えない欧米では、紛争毎にコミュニケーションの訓練も加速しました。

一方日本では、封建領主による言論・思想弾圧に加えて、単一民族と国民が誤解するほどに似通った人種や同言語話者が多かったことなども手伝って、コミュニケーションの重要性が薄かった。

そのために、島あるいはムラの人々の間で、お互いに察し合うだけで済む「忖度・あうんの呼吸」文化が発達し、今日にまで至りました。

何度でも言いますが、それはそれで全く構わないと思います。多くを語らなくてもお互いに分かり合える、というのは心が和む時間です。そこには日本の美が詰まっています。

しかしながら、日本が「世界の中の日本」として生きていく場合には、日本人同士でしか理解し合えない寡黙や無言や訥弁はやはり不利です。いや、それどころか危険でさえあります。

日本はそろそろ重い腰を上げて、討論や会話や対話を重視する教育を始めるべきです。また重い口を開いて、世界に向けて自己主張のできる者をリーダーとして選択するべき、とも考えます。

 

 

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菅首相の退陣を悲しまない真義

自民党の総裁選にからませて、「コミュニケーションが不得手らしい菅首相は日本の国益に資さないから選挙に敗れるか自粛して退いたほうがいい」という趣旨の記事を書いていました。

するとまさにそこに、「菅総理、総裁選に出馬せず総理大臣を辞任」という記事が飛び込んできてひどく驚きました。

だが驚いたのは、ニュースのタイミングであってその内容ではありません。

菅首相の突然の辞任表明は、つまるところ自民党内の政争に敗れた、ということです。政界の暗闘は日常茶飯事ですからそれは何も驚くべきことではありません。

こういう場合、日本人のいわば心得として、死者を貶めないという 慣習を敷衍して「戦いに敗れて辞めていく者を悪く言わない」という一見善意じみた風儀もあります。

だが、政治家や悪人などの場合には、必要ならば死者も大いに貶めるべきです。

ましてや権力の座にあった者には、職を辞しても死しても監視の目を向け続けるのが民主主義国家の国民のあるべき姿です。なぜなら監視をすることが後世の指針になるからです。

公の存在である政治家は公の批判、つまり歴史の審判を受ける。

受けなければなりません。

「死んだらみな仏」という考え方は、恨みや怒りや憎しみを水に流すという美点もありますが、権力者や為政者の責任をうやむやにして歴史を誤る、という危険が付きまといます。決してやってはなりません。

他者を赦すなら死して後ではなく、生存中に赦してやるべきです。「生きている人間を貶めない」ことこそ真の善意であり寛容であり慈悲です。

だがそれは、普通の人生を送る普通の善男善女が犯す「間違い」に対して施されるべき理想の行為。

菅首相は普通の男ではなく日本最強の権力者です。日本の将来のために良い点も悪い点もあげつらって評価しなければなりません。口をつぐむなどもってのほかです。

国際社会においてはコミュニケーションは死活問題です。

コミュニケーションは、沈黙はおろか口下手や言葉の少ない態度でも成立しません。日本人のもっとも苦手なアクションの一つである会話力が要求されます。

その観点から眺めたときに、菅義偉首相の訥弁ぶりは心もとない

いや、訥弁でも話の中身が濃ければ一向に構いません。だが、菅首相の弁舌の中身もまた弁舌の形自体も、分かりづらくて国際社会では苦しい。

コミュニケーション力のない政治家が国のトップに座るのは世界では珍しいケースです。なぜなら国際社会の規範では、コミュニケーション能力こそが国のトップに求められる最重要な資質だからです。

魑魅魍魎の跋扈する政界で勝ち組のトップにいる菅首相は、、統治能力や政治手腕や権謀術数に長けているのでしょう。それでなければ今の地位にいることはあり得ません。

しかし、「政治ムラ」内での現実はともかく、菅首相は国民への訴求力が極めて弱いように見えます。訥弁でしゃべる姿が暗く鬱陶しい。

それはいわば貧乏や苦労人であることを売りにする日本の古い暗さです。あるいは時代錯誤がもたらす日本の過去の面倒くささです。

日本の国益に資さないそんな指導者は表に出ないほうが良い、というのが国際社会から祖国を眺めている者の、偽りのない思いです。

 

 

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