多様性信者を装うはねっ返りの痴態

イタリアの有名なストリートアーティスト・ジョリット(Jorit)が、ロシアのソフィで開かれた青少年フォーラム中にプーチン大統領と一緒に撮った写真が物議をかもしています。

ジョリットはフォーラム会場で突然立ち上がり、壇上にいるプーチン大統領に「あなたがわれわれと何も変わらない人間であることをイタリア人に知らせたい。なので一緒に写真を撮らせてほしい」と語りかけました。

プーチン大統領は気軽に要求に応じ、ジョリットの肩を抱いて嬉々としてカメラに収まりました。

写真そのものも、明らかにプーチン大統領に媚びている発言も、人々の肝をつぶしました。イタリア中に大きな反響が起こりました。そのほとんどがジョリットへの怒りの表明でした。

多くの人が、「プーチンのプロパガンダに乗った愚か者」「プーチンの宣伝傭兵」「金に転んでプーチンの役に立つことばかりをするバカ」などとジョリットを激しく指弾しました。

イタリアは多様性に富む国です。カトリックの教義に始まる強い保守性に縛られながらも、さまざまの考えや生き方や行動が認められ千姿万態が躍動します。

それは独立自尊の気風が強烈だったかつての都市国家群の名残です。外から見ると混乱に見えるイタリアの殷賑は、多様性のダイナミズムがもたらすイタリアの至宝なのです。

言うまでもなくそこには過激な思想も行動もパフォーマンスも多く見られます。ジョリットのアクションもそうした風潮のひとつです。

多様性を信じる者はジョリットの行動も認めなければなりません。彼の言動を多様性の一つと明確に認知した上で、自らの思想と情動と言葉によって、それをさらに鮮明に否定すればいい。

イタリアにはジョリットの仲間、つまりプーチン支持者やプーチン愛好家も多くいます。先日死亡したベルルスコーニ元首相がそうですし、イタリア副首相兼インフラ大臣のサルヴィ・ビーニ同盟党首などもそうです。

隠れプーチン支持者を加えれば、イタリアには同盟ほかの政党支持者と同数程度のプーチンサポーターがいると見るべきです。

プーチン大統領は、ジョリットの笑止なパフォーマンスを待つまでもなく人間です。しかし、まともな人間ではなく悪魔的な人間です。

彼と同類の人間にはヒトラーがいます。だがヒトラーはヒトラーを知りませんでした。ヒトラーはまだ歴史ではなかったからです。

一方でプーチン大統領はヒトラーを知っています。それでも彼はヒトラーをも髣髴とさせる悪事を平然とやってのけてきました。

ヒトラーという歴史を知りつつそれを踏襲するとも見える悪事を働く彼は、ヒトラー以上に危険な存在という見方さえできます。

ヒトラーの譬えが誇大妄想的に聞こえるなら、もう一つの大きな命題を持ち出しましょう。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っています。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立しました。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもありました。

筆者が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことです。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生みました。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになりました。できるようになった、と信じました。

欧州はかつて、プーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえしました。

言葉を替えれば欧州は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けました。

彼は欧州を始めとする西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのです。

しかし、欧州のいわば希望的観測に基づくプーチン観はしばしば裏切られました。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合です。それを機会にロシアを加えてG8に拡大していたG7は、ロシアを排除して、元の形に戻りました。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れませんでした。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」しました。そうやって自由主義世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまいました。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑いませんでした。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということでした。

プーチン・ロシアも血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずだ、と思い込みました。

ところがどっこい、ロシアは2022年2月24日、主権国家のウクライナへの侵略を開始。ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された、未開国であることが明らかになりました。

プーチン大統領の悪の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を虐殺し続けていることに尽きます。

日本ではロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった、などなどのこじつけや欺瞞に満ちた風説がまかり通っています。

東大の入学式では以前、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりしました。

それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説です。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方、と思い込んで吠え立てているだけのつまらない代物です。

それらと同程度の愚劣な大道芸が、イタリアのストリートアーチスト・ジョリットがやらかしたプーチン礼賛パフォーマンスなのです。

 

 



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名優アラン・ドロンの夢幻泡影

フランス映画の大スターアラン・ドロンが、自宅に隠し持っていた拳銃とライフルあわせて72丁と銃弾3000発余りを警察に押収されました。

彼は無許可で大量の銃器を所有していたのです。自宅には射撃場も密かに設置されていました。

ここイタリアを含む欧州には銃の愛好家が多い。アラン・ドロンはそのうちの一人に過ぎません。

公の射撃場も掃いて捨てるほどあります。プライベートなものはさすがにあまり聞きませんが、人里離れた広大な敷地の屋敷内ならあってもおかしくありません。

スター俳優の住まいはまさしくそういう場所のようです。

少しだけ不審に思ったのは、彼がなぜ銃所有許可を取らなかったのかという点です。

大スターだから許可がなくても許されると考えたのなら、ただのたわけでしょう。88歳の今日まで許可申請をしなかったのですからその可能性は高い。

若いころのアラン・ドロンは、のけぞるほどの美男子というだけのダイコン役者でしたが、年を取るにつれて渋い名優へと変貌しました。知性的でさえありました。

それだけによけいに、銃所有許可証を持たないことが不思議に見えます。

馬鹿げたニュースですが、筆者は個人的に興味を覚えました。筆者自身が最近銃に関わっているからです。

20数年前、筆者は自分の中にある拳銃への強い恐怖心を偶然発見しました。

銃に無知というのが筆者の恐怖心の原因でした。筆者はその恐怖心を克服する決心をして、先ず猟銃の扱いを覚えました。

猟銃を扱えるようになると、拳銃への挑戦を開始しました。

公の射撃場で武器を借りインストラクターの指導で銃撃を習います。その場合は的を射ることよりも、銃をいかに安全に且つ冷静に扱うかが主目的になります。

まだ完全には習熟していませんが、拳銃への筆者の恐怖心はほぼなくなって、かなり冷静に銃器を扱うことができるようになっています。

するとスポーツとしての銃撃の面白さが見えてきました。今後はさらに訓練を重ねた上で、拳銃の取得も考えています。

大スターとは違って筆者は銃保持の許可証はとうに取得しています。

恐怖の克服が進み、次いでなぜ銃撃がスポーツであり得るかが分かりかけた時、筆者はそれまでとは違う2つの目的も意識するようになりました

ひとつは、自衛のための武器保持

筆者は少し特殊な家に住んでいます。家の内実を知らない賊が、金目の物が詰まっていると誤解しかねない、落ちぶれ貴族の巨大なあばら家です。

イタリアにゴマンとあるそれらの家の住人はほぼ常に貧しい、ということを知らない阿呆な賊でも、賊は賊す。彼らは大半が殺人者でもあります。

筆者は臆病な男ですが、不運にもそういう手合いに遭遇した場合は、家族を守るために躊躇なく反撃をするであろうタイプの人間でもあります。銃はそのとき大いに役立つに違いありません。

ふたつ目はほとんど形而上学的な理由です。

つまり将来筆者が老いさらばえた状況で、死の自己決定権が法的にまた状況的に不可能に見えたとき、銃によって自ら生を終わらせる可能性です。

むろんそれは夢物語にも似たコンセプトです。なので形而上学的と言ってみました。

万にひとつも実現する可能性はないと思います。しかし、想像を巡らすことはいくらでもできます。

閑話休題

冒頭で触れたようにヨーロッパには銃器の収集家がたくさんいます。

何人かは筆者の周りにもいますし、古い邸宅に年代物の銃器を多く収蔵している家族もいくつか知っています。

ほとんどの古い銃は今も使用可能状態に保たれています。つまり管理が行き届いています。

アラン・ドロンの銃器のコレクションは、銃を身近に感じることが少なくない欧米の文化に照らして見るべき、と感じます。

意匠が美しく怖いほど機能的で危険な銃器は人を惹きつけます。

アラン・ドロンが、自身が演じた映画の小道具などを通して銃に惹かれていく過程が目に見えるようです。

不法所持はむろんNGですが、彼には犯罪を犯しているという意識はなかったに違いありません。

殺生をしないアラン・ドロンの銃は、欧州伝統の銃文化の枠内にあるいわば美術品のようなもの。

返す返すもそれらの所有申請を怠った大スターの膚浅が悔やまれます。






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文字のあるとことろには悉く文学がある

もう少し文学にこだわります。

文学論争は数学や物理学とは違って、数式で割り切ったり論理的に答えを導き出せる分野ではありません。「文学」自体の規定や概念さえ曖昧です。それらを探る過程が即ち文学、とも言えます。

曖昧な文学を語る文学論は「何でも可」です。従って論者それぞれの思考や主張や哲学は全てパイオニアとも言えます。そこには白黒が歴然としている理系の平明はない。人間を語るからです。だから結論が出ません。

文学とは要するに「文字の遊び「と考えれば、文字のあるとことろには悉く文学がある、ということもできます。

筆者はここではそのコンセプトでSNSを捉えようとしています。

筆者は文学を紙媒体によって学んできた古い世代の人間です。ところがSNSに接し、自らも投稿するようになり、さらに多くのSNS上の「文字」に出会ううちに、SNSには文学が充満していると気づきました。

その文学は、例えば筆者が卒業論文に選んだ三島由紀夫や再三再四読み返している司馬遼太郎や藤沢周平や山本周五郎、また今このとき胸が騒ぐ桐野夏生や宮本輝、あるいは過去のバルザック、安部公房、ソルジェニーツィン、スタンダール、太宰治、フォーサイスetc,etcの僕が読み耽ってきた多くの「役に立たない本」に詰まっている文学とは毛並みが違います。

だが、巧まざるユーモアや介護の重圧や自分探しの旅や草花を愛でる言葉やペット愛や野菜つくりの悲喜こもごもやといった、尽きない話題が溢れ返るSNS劇場にはまさしく文学があります。

それらの文学は、短いものほど面白い。筆者はツイッター(意味不明なマスク氏のXとはまだ呼べずにいる)をあまり利用しませんが、 ツイッターがこの先、情報交換ツールから「文学遊び」ツールへと変化した場合は、特に日本で大発展するのでないかと思っています。

なぜなら日本には短歌や俳句という偉大な短文文学の伝統があるからです。もしかするともうそうなっているのかもしれませんが、既述のように筆者は ツイッターに登録はしているものの、ほとんど利用していません。

本が筆頭の紙媒体、ブログ、Facebook、テレビ、インターネット全般、とただでも忙しい日常にツイッターの慌しさを加える気が起きないのです。なのでツイッターの今この時の実態を知りません。

ブログもFacebookも短い文章ほど面白い。その点筆者は冗漫な文章書きなので、長い文章を短くしようと日々悩んでいます。

文学論っぽい話は:

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52255786.html

https://terebiyainmilano.livedoor.blog/archives/52185388.html

等を参照してください。

 

 

 

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等を参照していただきたい。

文学という迂遠

文学とは、文字を介して学ぶ芸術性の低い芸術です。

なぜ芸術性が低いのかと言いますとと、文学は文学を理解するために何よりも先ず文字という面倒なツールを学ばなければならない、迂遠でたるい仕組みだからです。

片や絵画や音楽や彫刻や工芸その他の芸術は、見たり聞いたり触れたりするだけで芸術の真髄にたどり着けます。文字などという煩わしい道具はいりません。

文学以外の芸術(以下:鑑賞するのに何の装置も要らないという意味で純粋芸術と呼ぶ)は、それらを創作できること自体がすでに特殊能力です。

誰もが実践できるものではないのが純粋芸術です。

一方で文章は、子供から大人まで誰でも書くことができます。文字を知らない者は日本ではほぼゼロです。世界の趨勢もその方向に進んでいます。

おびただしい数の人々が多くの文章を書きます。それはSNSへの投稿であり手紙であり日記であり葉書であり解答であり、はたまた課題であり企画であり回答でありメモなどです。

SNSでは、小説でさえ意識されることなく書かれている場合があります。そのつもりのない文章が面白い小説になっていたりするのです。

膨大な数の文章は全て、文字を介してやり取りされ表現され読み込まれる知識、即ち文学です。

あらゆる芸術は、そこに参画する人の数が多いほど、つまり裾野が広いほど質が向上します。参加者の切磋琢磨と競合がそれを可能にします。

文学という芸術分野は裾野が巨大である分、そこから輩出する才能も大きく且つその数も多大である可能性が高い。

文学は、文字を知って初めて理解できるという点で回りくどい仕掛けですが、その分感動は深いとも言えます。

誰でも実践できる「作文」と同じ手法で作品が成り立っているために、その中身が人々の人生の機微に重なりやすいからです。

真の恐怖や怒りや悲哀や憎しみや歓喜などの「感情の嵐」の前では、人は言葉を失います。激情は言葉を拒否します。

強い感情の真っ只中にある者は、ただ叫び、吼え、泣き、歯ぎしりし、歓喜の雄たけびを上げ、感無量に雀躍するだけです。

ところが人は、言葉にできないほどの激甚な情動の津波が去ると、それを言葉に表して他者に伝えようと行動しはじめます。

言葉にならない激情を言葉で伝える、という矛盾をものともせずに呻吟し、努力し、自身を鼓舞してついには表現を獲得します。

自らを他者に分からせたいという、人の根源的な渇望が万難を排して言葉を生み、選び、組み立てるのです。

絵画や音楽を始めとする純粋芸術の全ても、実は究極には言葉によってのみその本質が明らかにされます。

絵画や音楽に感動する者は、苛烈なパトスに見舞われている人と同じで言葉を発しません。新鮮な情感に身を委ねているだけです。

昂ぶりが落ち着き、さてあの魂の震えの中身は何だっただろうか、と自らを振り返るとき、初めて言葉が必要になります。自身を納得させるにも、感銘の中身を他者に伝えるにも言葉がなくてはなりません。

感動も、思考も、数式でさえも全て言葉です。あるいは言葉にすることによってのみその実体が明らかになるコンセプトです。

文学そのものは言うまでもなく、これまで論じてきた「言葉ではない」あらゆる芸術も、全て言葉によってその意味が形作られ、理解され、伝達されます。

言葉を介してしか存在し得ない文学は、たるい低級な芸術ですが、文学以外の全ての芸術を包括する究極の芸術でもある、という多面的な装置です。

文学は文字によって形成されます。そして文字は誰でも知っています。文学は誰もが「文章を書くという創作」にひたることができる芸術です。

文学の実践には―創作するにしろ鑑賞するにせよ―絵心や音感やセンスという特殊能力はいりません。誰もが自在に書き、読むことができます。

書く行為には上手い下手はありません。優劣のように見える形態はただの違いに過ぎません。そして違いとは、個性的ということにほかなりません。

文字を知る者は誰もが創作でき、且つ誰もが他者の書いた文章、つまり作品を鑑賞することができます。作者と読者の間には、才能という不可思議な要素が作る壁がありません。

文学の奥部はその意味では、絵画や音楽とは比べ物にならないほどに広く、めまいを誘うほどに深い、と考えます。

 

 

 


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日独GDP逆転の目くらまし

日本がドル換算名目GDPでドイツに抜かれて世界第4位になりました。

そのことに胸が騒ぐ人々は、日独のGDPが逆転したのは異様なほどの円安のせいで、実態を反映しているのではない、などと強がります。

それにも一理あります。

しかし両国のGDPが反転したのは単に円安のせいではなく、日本経済の凋落傾向が加速しているから、と見たほうがもっと理にかないます。

実はドイツ経済も万全ではなく、むしろ日本同様に衰退トレンドに入っています。

欧州随一の化学メーカーBasfや家電のMieleが人員縮小を発表したことなどが象徴的です。

つまり、どちらかと言えば落ちぶれつつある日本とドイツのうち、日本の落ちぶれ度合いが勝っているために起きたのが、日独のGDP逆転、というのが真実でしょう。

為替相場で円が安いという弱みは、日本とドイツの人口差によって帳消しになってもおかしくありません。

要するに経済力が拮抗しているなら、人口8千万余りのドイツは人口1億2千万の日本には適わない、というのが基本的な在り方です。

だがそうはなっていないのですから、日本の零落の度合いがやはりドイツよりも大きいのです。

始まったものは必ず終わり、生まれたものは確実に死にます。盛者は例外なく落魄し、投げ上げた石は頂点に至ると疑いなく落下します。

隆盛を誇ってきた日独の経済もまた同じです。

高齢化社会の日本では、イノベーション力が鈍化し、ただでも低い生産性の劣化が進む、というのは周知の展望です。

長い目で見れば、そのネガティブな未来を逆転させるのが多様性です。

多様性は例えば男尊女卑文化を破壊し、年功序列メンタリティーを根底から覆し、外国人また移民を受け入れ登用する等々の、ドラスティックな社会変革によって獲得されます。

ところが日本人は裏金工作でさえ集団でやらなければ気が済まない。赤信号皆なで渡れば怖くない主義に毒された、日本独特の反多様性社会は重篤です。

大勢順応主義、画一性、閉鎖嗜好性などが、日本経済のひいては日本社会の癌です。

日本のGDPは為替頼みではなく、多様性に富む文化の構築によって将来幾らでも逆転が可能です。

だがそんなことよりもさらに重要なことがあります。

つまり日独は共に豊かな自由主義社会の一員であり、今後も極度の失敗をしない限り、この先何十年もあるいは何世紀にも渡って、勝ち組であり続けるであろう前途です。

落ちぶれてもまだまだ世界の豊かな国の一つでいられるのが日独です。

世界には、日独の足元程度の経済力と富裕を得たくても適わない国が多々あります。むしろそうした国々で成り立っているのが、今このときのグローバル世界です。

上を見れば切りがありません。だが下を見れば、必ず自らの巨大な幸運に気づくことでしょう。

今の経済の動向はむろん、われわれが資本主義社会の恩恵に与っている限り重要です。

だがもっとさらに重要なことは、われわれが豊かな社会に住んでいるという厳然たる事実です。

わが身のその多幸を思えば、今この時の名目GDBの順位に一喜一憂する必要はありません。

 

 

 

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ナワリヌイ殺害はプーチンの弱さという幻想

アレクセイ・ナワリヌイ氏が死亡、というBBCの速報を見るとすぐに筆者はなにか記事を書こうと試みました。

だが思い浮かぶのはプーチン超自然現象大統領への憎悪だけでした。

身内にじりじりと湧く怒りをそのまま記そうと思いましたが、そういう趣旨記事は筆者はもうこれまでに何度も書いています。

無力感に襲われました。

ナワリヌイ氏が毒殺未遂から生還してロシアに帰国し即座に逮捕された頃、プーチンもののけ大統領はその気になれば彼を簡単に殺せるだろうが、今回はそうしないのではないか、という見方が広まりました。

なぜなら世界世論が固唾を呑んで成り行きを監視しています。さすがのプーチン地獄絵図大統領でも易々と手は下せない、と世界の常識ある人々は心のどこかで考えていました。

その予想は再び、再三、再四、つまりいつものように裏切られました。プーチン何でもありのデスマッチ大統領は、自由世界の一縷の望みをあざ笑うかのようにナワリヌイ氏を屠りました。

昨年8月のプりコジン氏に続く政敵の暗殺です。

暗殺だから真相は分かりません。証拠がない。だが証拠がないのがプーチンメガトン級悪霊大統領の仕業である証拠、というのが真相でしょう。

お尋ね者のプーチン政権下では、独裁者に刃向かった人々が次々と殺害されてきました。政治家に始まりジャーナリスト、オリガルヒ、反体制派の活動家、元情報機関員、軍人など枚挙に暇がありません。

プーチン人間じゃない人間大統領は、魂の奥深くまでスパイです。なにものも信用せず何者であろうが虫けらのように殺せる死体転がし魔。

ナワリヌイ氏は殺害されたことで殉教者になった、という説があります。だがその殉教者とは、飽くまでも自由主義社会の人々にとってのコンセプトです。

大半のロシア人にとっては、彼の死は殉教どころかどうでもいいこと、という見方が現実に近いのではないでしょうか。

ロシア国民にとっては民主主義や人権よりも安定が大事、とロシア国内に潜む反体制派の人々は断言します。

プーチン悪の根源大統領の専制政治は、少なくとも国内に安定をもたらします。その安定を脅かす反体制活動は忌諱されます。

ロシア国内にプーチンゴマの蠅大統領への反撃運動が起こりにくいのは、多くが政権の抑圧によるものです。だが、それに加えて、ロシア国民の保守体質が反体制運動の芽を摘む、という側面も強いと考えられます。

大統領選挙が間近に迫る中、ナワリヌイ氏を意図的に殺害するのは、プーチン辻強盗大統領にとって得策ではない、との意見も多くありました。だがそれらも反プーチン派の人々の希望的観測に過ぎませんでした。

ナワリヌイ氏を消すことはロシア国内の多くの事なかれ主義者、つまり積極的、消極的を問わずプーチン支持に回る者どもを、さらにしっかり黙らせる最強の手法だ、とプーチン裏世界の暗黒魔大統領は知悉していたのです。

プーチン非合法人間大統領の恐怖政治は、その意味においては完璧に成功していると言えます。

ナワリヌイ氏を殺害することは、ロシア国内の鎮定に大いに資する。彼の関心はロシア国民を支配し権力を縦横に駆使して国を思い通りに動かすことだけにあります。

欧米を主体にする自由主義社会の批判は、プーチン暴力団員大統領にとっては蛙の面にションベン、無意味なことなのです。

批判を批判として怖れ尊重するのは民主主義社会の人間の心理作用であって、専制主義者には通じない。われわれはいい加減、もうそのことに気づくべきです。

彼は自由主義社会の多くの人々の予想に反して、いとも簡単にくナワリヌイ氏を抹殺しました。

プーチン下手人大統領は病気だ、悩んでいる、ためらっている、西側の批判を怖れている、などの楽観論は捨て去らなければなりません。

ましてやナワリヌイ氏を殺害したのはプーチン阿鼻叫喚大統領の弱さの表れ、などというもっともらしい分析など論外です。

長期的にはそれらの見方は正しい。なぜならプーチン妖怪人間大統領は不死身ではありません。彼の横暴は彼の失脚か、最長の場合でも必ず来る彼の死によって終わります。

だがそれまでは、あるいは彼の最大の任期が終了する2036年までは、プーチン越後や、お主も役者よのう大統領は今のままの怖れを知らない、強い独裁者で居つづけると考えるべきです。

ナワリヌイ氏は、彼を描いたアカデミー賞受賞のドキュメンタリ-映画「ナワリヌイ」の中で、「邪悪な者は、善良な人々を黙らせることで勝利する。だから沈黙してはならない。声を挙げよ。あきらめるな」と語りました。

プーチン鬼畜のなせる業で生まれた大統領は、彼が倒れるまでは圧倒的に強い。

自由と民主主義を信じる者はそのことをしっかりと認識して声を挙げつづけ、挑み、断固とした対処法を考えるべきです。

対処法とは言うまでもなく、西側諜報機関などによる彼の排除また暗殺さえも睨んだドラスティックな、究極のアクションのことです。

 

 

 

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生き物語り~ヴィットガビの受難~

猟犬のヴィットガビは、呼吸がうまくできないので、とても苦しかった。

でも、飼い主の猟師の命令なので、瓦礫(がれき)の下にうずくまってじっとしていた。

ヴィットガビは文字通り息を殺して這いつくばっていた。息を詰めたのはあえてそうしたのではなかった。呼吸がほとんどできなかったのだ。

それでもヴィットガビは我慢した。我慢をするのは慣れていた。

生まれてから13年間ヴィットガビはいつも我慢をしてきた。

若い時は忍耐が足りずに少し騒いで、飼い主にぶたれたりしたこともある。

が、年を取って動きが鈍くなった今は、我慢をするのはたやすいことだった。思うように動けなければ、じっとしているしかないからだ。

ヴィットガビが生まれたヴァル・トロンピは、北イタリア有数の山岳地帯。

南アルプスに連なるロンバルディアの山々の緑と、澄んだ空の青と、多彩な花々の色がからみ合って輝き、はじけ、さんざめく。

自然の豊富なヴァル・トロンピア地方はまた、ハンティング(狩猟)のメッカでもある。

ヴィットガビは、生まれるとすぐに猟犬として訓練され、子犬の頃から野山を駆け回って飼い主の狩りの手伝いをしてきた。

だが、ここ数年は速く走って獲物を追いかけたり、主人が撃った獲物をうまく押さえ込んだりするのが思うようにできなくなって、彼に叱られることが多くなった。

それでも、じっと我慢さえしていれば、主人の怒りはやがて収まって、少しの食べ物ももらえた。

年老いたヴィットガビは、昔以上に我慢をすることで生きのびることを覚えた。

今やヴィットガビにとって生きるとは、「我慢をすること」にほかならなかった。

ヴィットガビはいつものようにじっと我慢した。苦しくても、いつまでも我慢をした。

昼とも夜ともつかない時間が過ぎていった。

ヴィットガビはさらに我慢をした。

でも、ついに我慢ができなくなった。

なぜなら、まったく呼吸ができなくなったのだ。

ヴィットガビは知らなかったが、彼が瓦礫の下にうずくまってから40時間が過ぎようとしていた。

ヴィットガビはひと声吠えた。

一度吠えると、堰を切ったように声が出て止まらなくなった。

ヴィットガビはもう我慢しなかった。

彼は低く吠え続けた。吠えることで呼吸困難から逃れようとした。

瓦礫の近くを通りかかった人がヴィットガビのうめき声に気づいた。驚愕した通行人はすぐさま警察に連絡を入れた。

駆けつけた2人の警官が、取るものもとりあえず素手で瓦礫を掘り起こしにかかった。通行人もあわてて手を貸した。

瓦礫を50センチほど掘り起こした時、ガラクタにまみれて喘(あえ)いでいる中型犬が見えた。

警官が助け出すと、ヴィットガビは安心したのか吠えるのを止めた。

ぐったりしている犬を警官は大急ぎで獣医の元に運んだ。

飼い主に生き埋めにされたヴィットガビは、そうやって九死に一生を得た。

動物虐待の罪でヴィットガビの飼い主は逮捕された。彼は警官にこう言い訳した。

「犬はもうてっきり死んだと思って埋めた・・」

と。

だが誰も彼の言葉を信じなかった。

なぜならヴィットガビは生きる喜びで輝いていた。与えられたたくさんの水を飲み干し、食事に飛びついて、われを忘れて食べて食べて食べまくって、たちまち元気になった。

明らかに嘘をついている飼い主の男は、拘禁と多額の罰金刑に処せられた。

それでは納得しない人々、特に動物愛護過激派の人々は、飼い主の男を生き埋めにしろと怒った。

ヴィットガビのような酷(むご)いケースはさすがに希(まれ)だが、年を取った狩猟犬が虐待されたり捨てられたりする事件は、残念ながら1年を通し世界中でひんぱんに起こる。

そして、虐待の犠牲になるのはもちろん狩猟犬ばかりではない・・

 

 

 

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Zen的Perfume

Perfumeが好きです。

いまPerfumeを香水と思った人はオッchanでありオバchanです。

ならばPerfumeとは何か。

Perfumeは若い女性3人組のアイドルグループです。

Perfume好きをもっと具体的に言えば、実はPerfumeの歌「ワンルーム・ディスコ」が好きです。

それは♪ジャンジャンジャン♪という電子音(デジタルサウンドと言うらしい)に乗って次のように軽快に歌われます。

♪ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ ディスコディスコ ディスコディスコ~ 
なんだってすくなめ 半分の生活 だけど荷物はおもい 気分はかるい 窓をあけても見慣れない風景 ちょっとおちつかないけれど そのうち楽しくなるでしょ 
新しい場所でうまくやって いけるかな 部屋を片付けて 買い物にでかけよ 
遠い空の向こうキミは何を思うの? たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない 云々♪                                               
デジタルサウンドという新鮮な音の洪水に乗って流れるメロディーもいいが、歌詞がもっと良い。

つまり:「なんだってすくなめ 半分の生活」「荷物はおもい 気分はかるい」「そのうち楽しくなるでしょ」「たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない」

それらの前向きな態度や思考は全き禅の世界です。禅とは徹頭徹尾プラス思考の世界です。

受身ではなく能動的であること。消極的ではなく積極的であること。言葉を替えれば行動すること。「書を捨てよ。町へ出よう」と動くこと。またはサルトルの「アンガージュマン」で行こうぜ、ということです。

もっと別の言い方で説明すれば、「日々是好日(にちにちこれこうにち(じつ)」と同じ世界観。

日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味です。

つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、ということですね。

ワンルーム・ディスコは、軽い日常の、どうやら失恋したらしい女の子の、前向きな姿を今風のデジタルな音曲に乗せて、踊りを交えて歌う。

その軽さがいい。深く考えることなく、「軽々と」禅の深みに踏み込んでいるところがいい。

あるいは考えることなく「軽々と」禅の高みに飛翔している姿がいい。


詳しくは:https://terebiyainmilano.livedoor.blog/arch…/52319941.html
参照:Perfume ♪ ワンルーム・ディスコ/20160312Ⅱ

 

 

 

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文学あそび 

文学とはなにか。

それは言葉通りに「文字を介しての学び」です。学びは知識を包容しています。

文学は芸術としては程度の低い貧弱な形式です。なぜなら最低限でも文字を解し言葉を知らなければ内容を理解できないからです。

片や、例えば音楽や絵画は、文字を知らなくても内容を理解できます。少なくとも耳と目に入る情報だけで楽しめる。好きか嫌いかの判断ができる。

人の情感に訴える知識が芸術ですから、言葉などという面倒な手段がなくても心に沁みこむ音楽や絵画は文学よりも高尚な芸術です。

また文学の中でも、詩歌やポエムは語彙が少なくても伝達力が強い分だけ、小説よりも芸術性が高いと言えます。

筆者はまた次のようにも考えます。

それらの「程度の低い芸術」の中で、金を稼げる小説、つまりプロの小説だけを「小説」と呼び、金を稼げない小説を含む残りの全ての「文字を介しての学び」を文学と呼んでみます。

すると今筆者がここに書いている文章や、売れない下手な小説や、SNS愛好者の全ての皆さんがインターネット上に投稿している膨大な量の文章も、何もかも、全て「文学」です。

SNSは文字を知っているあらゆる人々が「文学」を遊ぶことのできる優れものです。

だから筆者はSNSを愛するのです。

 

 

 

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トランプ再選より不穏なドイツAfDの躍進

米大統領選に向けた共和党の候補者選びで、トランプ候補が第1戦第2戦と連勝しました。

共和党は11月の米大統領選へ向けて、どうやらトランプ候補を彼らのエースと決めたようです。

それを受けて世界の魑魅魍魎たちがあちこちでが呟いています。

~~

先ずイスラエル・ネタニヤフ首相:

米大統領選までは何があっても戦争は止めない。トランプが勝てばこっちのものだ。俺と同じ穴のムジナのトランプにとっては、パレスチナ人なんて虫けら以下だ。極端なイスラエル擁護者の彼は、大統領に返り咲けばわれらがユダヤの国を徹底的に支援するだろう。ああ、トランプの再選が待ち遠しい。

ロシア・プーチン大統領:

ウクライナへのエンパシーはかけらも持ち合わせない2期目のトランプ大統領は、アメリカの支出を削減するという理由だけでもウクライナに停戦を要求するだろう。ウクライナはアメリカの支援がなければ戦争を続けられない。奴らは失った領土とずたずたにされた誇りと愛国心を抱えたまま、絶望の底で停戦に応じることになる。俺の狙い通りだ。

北の将軍様:

トランプは頭の中身も体型も俺とそっくりだから大好きだ。早く俺に並ぶ独裁者の地位に戻れ。

中国・習近平主席:

バイデンもトランプも悪魔だ。だがEUや日本などともつるみたがるバイデンよりも、1人で騒ぎまくるトランプの方が御しやすい悪魔だ。

岸田首相:

死んでも私のアイドルである安倍氏に倣います。トランプ大統領閣下、どうかいつまでもあなたの金魚のフンでいさせてくださいませ。

ドイツAfD:

ホロコーストはすぐには起こさないつもりだ。今はユダヤ人より移民のほうがマジ臭い。次は総統様がおっしゃった黄色い猿の日本人や、規則を知らない未開人のイタ公は抜きで、プーチン、北のデブ、シューキンペーなどをたぶらかし巻き込んで、白人至上主義を宇宙にまで撒き散らす計画だ。

~~

第1次トランプ政権の最大の脅威はトランプ大統領自身でした。しかし、アメリカも世界も4年間で彼への対処の仕方を学びました。

トランプ大統領は相変わらず民主主義への挑戦ではあり続けるでしょう。

しかしトランプ再選の最大の脅威は最早トランプ大統領ではなく、彼に親和的なドイツの極右AfDがさらに勢力を伸ばすことです。

AfDがかつてのナチスと同様にホロコーストを起こす危険があるという意味ではありません。AfDの不寛容な怒りっぽい性格は危険です。が、彼らとてナチズムの悪と失敗は知悉しています。

ヒトラーとナチズムとホロコーストを経験したドイツは、そしてひいては世界は、それらの再現を許しません。なぜなら「欧州の良心」がそれを阻むからです。

「欧州の良心」とは、欧州が自らの過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことです。

それは言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生み出しました。

「欧州の良心」はトランプ主義に異議を申し立て、プーチンロシアに対峙し、習近平中国の前にも立ちはだかります。

ヒトラーはヒトラーを知らず、ムッソリーニはムッソリーニを知りませんでした。だが今この時の欧州の極右は、ヒトラーもムッソリーニも知っています。

そして彼らは、ヒトラーとムッソリーニを極限のさらに向こうの果てまでも否定する、欧州の民意も知悉しています。

また彼らのうちの少しの知性ある者つまり指導者層も、ナチズムとファシズムの悪を知り尽くしています。だから彼らはヒトラーにもムッソリーニにもなり得ないでしょう。

だが、人々の怒りをあおり、憎しみの火に油を注ぎ、不寛容の熾き火を焚きつけるのが得意な彼らの悪意は、易々と世の中を席巻することが多い。歴史がそれを証明しています。

従って彼らは拡大する前に殲滅されたほうがいい。放っておくとかつてのヒトラーのNSDAP (国民社会主義ドイツ労働者党 )、つまりナチスのごとく一気に肥大し制御不能な暴力に発展しかねません。

とはいうものの、繰り返し強調しておきます。欧州の今この時の極右勢力はヒトラーのナチズムやムッソリーニのファシズムと同じではありません。

悪魔の危険を知り、悪魔ではないように慎重に行動しようとする悪魔が、現今の欧州の極右なのです。

それは2022年10月、イタリアで政権を握った極右政党「イタリアの同胞(FDI)」の在り方を検証するだけでも明らかです。

「イタリアの同胞」のジョルジャ・メローニ党首は、激しい反移民言論やEU懐疑思想を全面に押し出して総選挙を勝ち抜きました。

そして彼女は首相の座に就くと同時に選挙戦中の極右丸出しの主張を引っ込めて、より「穏健な極右」あるいは「急進的な右派」政治家へとシフトしました。

それにはイタリア独特の政治風土が大きく関わっています。

各地方が精神的に自主独立している自治体が、寄り合って統一国家を成しているのがイタリア共和国です。

多様性が何よりも優先されるイタリア共和国の政治は頻繁に乱れます。だがそれは外から眺めただけのイタリアの“見た目”に過ぎません。

イタリア政治には混乱はありません。多様性が担保する殷賑と狂乱と興奮が織り成す、百花繚乱というイタリア的な秩序があるだけです。

多様性は政治に四分五裂の勢力をもたらします。過激思想も生みます。極論者も政治的過激論者も跋扈します。

それらの過激勢力は、互いに相手を取り込もうとしてさらに過激に走るのではなく、より穏健へと向かいます。身近な実例が、1018年に発足した極左の五つ星運動と極右の同盟の連立政権です。

政権を樹立した彼らは、選挙運動中の過激な主張どおりにEUを否定し独立独歩の道を行くということはなく、いわば“穏健な過激派政権”となりました。

そして2022年に政権の座についた極右のメローニ首相も、選挙前の剽悍な言動を抑えて「穏健な過激派」へと変貌しました。それが彼らの正体、というのがふさわしいと思います。

ネオナチあるいはネオファシストとも呼ばれるAfDも、政権奪取あるいは連立政権入りを果たした暁には、メローニ首相が率いるイタリアの同胞(FDI)と同じ道を辿ることでしょう。

だがAfDは― 世界的には政治的弱小国に過ぎないイタリアではなく― EUを主導する大国ドイツの極右です。政権を握れば、イタリアの極右とは違う大きなインパクトを欧州に、そして世界に与えます。

そして最も重大な懸念は、彼らが反EUあるいはEU懐疑主義思想を深めることで、EUがひいては欧州が弱体化することです。

なぜなら世界がかく乱された第一次トランプ政権時代、ファシズム気質のトランプ主義に敢然と立ち向かったのは、EUを核に団結した強い欧州だけでした。

その欧州は同時に、中露の専制主義に立ち向かえる唯一の力であることも、またその時代に証明されました。

要するに欧州の弱体化は、本質的に世界の弱体化と同じです。

世界の民主主義の盟主は、専制主義とほぼ同義語のトランプ主義でさえ政権奪取が可能な米国ではなく、“欧州の良心”を堅固な民主主義で死守しようとする、EUを核とする欧州そのものなのです。

第2次トランプ政権が後押しをしそうに見えるドイツAfDの勢力拡大は、欧州の力を確実に大きく削ぎます。それこそがトランプ再選の最大の痛手であり脅威です。

 

 

 

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