アートに救われた人殺しの村

イタリア、サルデーニャ島に集落中の建物が壁画で覆われた村があります。深い山中にあるオルゴーソロ(Orgosolo)です。人口約4500人のその村は、かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語です。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村でした。イタリア本土の発展から取り残された島嶼州サルデーニャの、さらに奥の陸の孤島に位置していたからです。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知りませんでした。貧しさの中に溺れ、あがき続けていたのです。

そのためにある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めました。また残りの村人たちは、隣人であるそれらの実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていきました。

犯罪に基盤を置く村の経済状況が良くなることはありませんでした。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行しました。かつてのオルゴーソロの現実は、イタリア本土の発展に乗り遅れたサルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものでもあります。

イタリア半島の統一に伴ってイタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も少づつ姿を消していきました。

第2次大戦後初の経済危機がイタリアを襲った際、国が村の土地を接収しようとしました。それをきっかけに村人の反骨精神が燃え上がります。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めました。山賊や殺人犯や誘拐犯らはイタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのです。

アナキストなどが先導する反骨アーチスト集団は、村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗しました。1960年代終わりのことです。

オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの最大の担い手ではありますが、実はそれの先駆者ではありません。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのがサルデーニャ島の壁画アートの始まりでした。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになりました。特に内陸部の僻地などにに多いのが特徴です。そこは昔から貧しく。今日も決して豊かとは言えない村や町が大半を占めています。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けました。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物者が訪れるようになっています。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結です。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、既述のように貧困から逃れようとして犯罪に走りました。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残りました。そして「反骨の血」を持つ者らが中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いたのがオルゴーソロの壁画アートなのです。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきました。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つと捉えられるべきものですが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なります。

まず地理的に考えれば、サルデーニャ島はイタリア本土とかけ離れたところにあります。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっています。

一見なんでもないことのように見えますが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たしました。イタリア半島から見て西方の、なぜかイタリアのどの島よりも「アフリカ側にある」と考えられた同島は軽視されたのです。

錯覚に近い人々の思い込みは、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る進入・支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていきました。

島の支配者はアラブからスペインに変り、次にオーストリアが名乗りを上げて最終的にイタリア共和国になりました。以後サルデーニャ島は、イタリアへの同化と同時に自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けています。

島が政治・経済・文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命です。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることです。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむりますが、同時に経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受けます。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命です。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定されます。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々の住民と比べると、「本土との精神的距離が遠いと感じている」ように筆者には見えます。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの「怒れるアート壁画」ではないか、と筆者は以前から考えていました。だから島に着くとほぼ同時に筆者はそれを見に行かずにはいられませんでした。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが、家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、筆者は自らの思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのでした。

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official site:なかそね則のイタリア通信

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