負け馬たちの功績

いま英国議会下院で起きているBrexit(英国のEU離脱)をめぐる議論の嵐は、民主主義の雄偉を証明しようとする壮大な実験です。それが民主主義体制の先導国である英国で起きているからです。

そこでは民主主義の最大特徴である多数決(国民投票)を多数決(議会)が否定あるいは疑問視して、煩悶し戸惑い恐れ混乱する状況が続いています。それでも、そしてまさに民主主義ゆえに、直面する難題を克服して前進しようとする強い意志もまた働いています。

民主主義とは、民主主義の不完全性を認めつつ、より良いあり方を求めて呻吟することを厭わない政治体制のこと。だから議論を戦わせて飽くことがありません。言葉を変えれば、不都合や危険や混乱等々を真正面から見つめ、これに挑み、自らを改革・改善しようと「執拗に努力する」仕組みのことです。

民主主義は完全無欠なベスト(最善)の政体ではありません。他の全ての政治システムよりもベター(より良い)なだけです。しかしベストが存在しない限り、“ ベターがベスト ”です。チャーチルはそのことを指して、民主主義はそれ以外の全ての政治体制を除けば最悪の政治だ、と喝破しました。

2016年、英国議会はBrexitの是非を決められず、結果として市民の要請に応える形で国民投票を行いました。国民の代表であるはずの議会が離脱の当否を決定できなかったのはそれ自体が既に敗北です。しかし国民投票を誘導した時の首相ディヴィッド・キャメロンと議会はそのことに気づきませんでした。

国民投票の結果、Brexitイエスの結果が出ました。民主主義の正当な手法によって決定された事案はすぐに実行に移されるべきでした。事実、実行しようとして議会は次の手続きに入りました。そこでEUとの話し合いが進められ、責任者のメイ首相は相手との離脱合意に達しました。

ところが英国議会はメイ首相とEUの離脱合意の中身を不満としてこれを批准せず、そこから議会の混乱が始まりました。それはひと言でいえば、メイ首相の無能が招いた結果だったのですが、同時にそれは英国民主主義の偉大と限界の証明でもありました。

議会とメイ首相が反目し停滞し混乱する中、彼女はもう一方の巨大な民主主義勢力・EUとの駆け引きにも挑み続けました。そこではBrexitの是非を問う国民投票が、英国民の十分な理解がないまま離脱派によって巧妙に誘導されたもので無効であり、再度の国民投票がなされるべき、という意見が一貫してくすぶり続けていました。

だが改めての国民投票は、民主主義によって選択された国民の意志を、同じ国民が民主主義によって否定することを意味します。それは矛盾であり大いなる誤謬です。再度の国民投票は従って、まさに民主主義の鉄則によって否定されなければなりません。

そこで「議会で解決の道が探られるべき」という至極当たり前の考え方から論戦が展開されました。審議が続き採決がなされ、それが否定され、さらなる主張と論駁と激論が交わされました。結果、事態はいよいよ紛糾し混乱してドロ沼化している、というのが今の英国の状況です。

そうこうしているうちに時限が来て、EUは英国メイ首相の離脱延期要請を受け入れました。それでも、いやそれだからこそ、英国議会は今後も喧々諤々の論戦を続けるでしょう。それはそれで構わない。構わないどころか民主主義体制ではそうあるべきです。

だが民主主義に則った議会での議論が尽くされた感もある今、ふたたび民主主義の名において、何かの打開策が考案されて然るべき、というふうにも筆者には見えます。その最大最良の案が再度の国民投票ではないか、とも思うのです。

なぜ否定されている「再国民投票案」なのかといいますと、2016年の国民投票は既に“死に体”になっている、とも考えられるからです。民意は移ろい世論は変遷します。その変化は国民が学習することによって起きる紆余曲折であり、且つ進歩です。

つまり再度の国民投票は「2度目」の国民投票ではなく、新しい知識と意見を得た国民による「新たな」国民投票なのです。初の審判から経過3年、という月日が十分に長いかどうかは別にして、2016年の国民投票以降の英国の激動は、民主主義大国の成熟した民意が、民主主義の改善と進展を学ぶのに十二分以上の影響を及ぼした、と考えることもできます。

いうまでもなく英国議会は、メイ首相を信任あるいは排除する動きを含めてBrexitの行方を自在に操る権限を持っています。同時にこれまでのいきさつから見て、同議会はさらなる混乱と停滞と無力を露呈する可能性もまた高い。ならば新たな国民投票の是非も議論されなければならないのではないか、と考えます。

そうなった暁には、投票率にも十分に目が向けられなければなりません。そこでは前回の72,1%を上回る投票率があるほうが望ましい。2016年の国民投票後の分析では、EU残留派の若者が投票しなかったことが、離脱派勝利の大きな一因とされました。

もしもその分析が正しいならば、投票率の増加は若者層の意思表示が増えたことを意味し、同時にその結果がもたらす意味を熟知する離脱派の「熟年国民」の投票率もまた伸びて、2016年次よりもなお一層多くの国民が意思決定をした、と見なすことができるでしょう。

要するにBrexitをめぐる英国の混乱と殷賑は、既述したように民主主義の限界と悪と欺瞞と、同時にその良さと善と可能性を提示する大いなる実験なのです。それは民主主義の改革と前進に資する坩堝(るつぼ)なのであって、決してネガティブなだけの動乱ではありません。

動乱を「EU内の紛糾」と視野を広げ俯瞰して見た場合、大きな変革の波は、先ず英国と欧州の成熟した民主主義の上に、Brexit国民投票を実施した当人のデイヴィッド・キャメロン前首相という負け馬がいて、それにイタリアの負け馬マッテオ・レンツィ前首相が続き、テリーザ・メイ英国首相というあらたな負け馬が総仕上げを行っている、という構図です。

民主主義の捨て石となっている彼ら「負け馬」たちに、筆者はカンパイ!とエールを送りたい気持ちです。なぜなら3人は、民主主義の捨て石であると同時に、疑いなくそれのマイルストーンともなる重要な役割を果たしていて、民主主義そのものに大きく貢献している、と考えるからです。






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「子ヤギ食らい」という自罪

4月21日はイタリアのパスクアでした。イギリスではイースター。日本語で言えば復活祭。イエス・キリストの死からの復活を寿ぐキリスト教最大のイベント。ハイライトは祭り当日に供される子ヤギまたは子羊料理です。

不信心者の筆者にとっては、パスクアは神様の日というよりも、ほぼ一年に一度だけ食べる子ヤギ料理の日。イタリアでは子羊料理は一年中食べられますが、子ヤギのそれはきわめて難しいのです。

ことしは初めてレストランで復活祭の子ヤギ料理を食べました。去年までは家族一同が自宅で、または親戚や友人宅に招かれて食べるのが習いでした。

実はことしも親戚に招かれていましたが、子ヤギも子羊も供されない普通の肉料理の食事会、と知って遠慮しました。年に一度くらいは特別料理を食べたいのです。

復活祭前夜の一昨日、友人からも子ヤギ料理への誘いがありました。しかし、すでにレストランを予約してしまっているという不都合もありましたので、そちらもやはり遠慮しました。

結論をいえば、レストランでの食事は大いに満足できるものでした。12時半に始まって4時間にも渡ってつづいた盛りだくさんの料理のメインコースは、もちろん子ヤギのオーブン焼きです。

それは「成獣肉料理」を含むこれまでに食べたヤギおよび羊肉料理の中でも第一級の味でした。来年も同じ店で食べてもいいとさえ思っています。

イタリアのレストランでは子羊料理は一年中提供されます。その一方で、子ヤギ料理は復活祭が過ぎるとほぼ完全に姿を消します。

ヤギは山羊、つまり「山の羊」と呼ばれるくらいですから、飼育や繁殖がむつかしくて数が少ない、ということがその理由かもしれません。

復活祭になぜ子羊や子ヤギ料理を食べるのかと言いますと、由来はキリスト教の前身ともいえるユダヤ教にあります。古代、ユダヤ教では神に捧げる生贄として子羊が差し出されました。

子羊は犠牲と同義語です。イエス・キリストは人間の罪を贖(あがな)って磔(はりつけ)にされました。つまり犠牲になったのです。

そこで犠牲になったもの同士の子羊とイエス・キリストが結びつけられて、イエス・キリストは贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」とみなされるようになりました。そこから復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができたのです。

復活祭に子羊を食べるのは、そのようにユダヤ教の影響であると同時に、「人類のために犠牲になった子羊」であるイエス・キリストを食する、という意味があります。

救世主イエスを食べる、という感覚はとても理解できないという日本人も多くいます。だがよく考えてみれば、実はそれはわれわれ日本人が神仏に捧げたご馳走や酒を後でいただく、という行為と同じことだと考えられます。

神棚や仏壇に供された飲食物は、先ず神様や仏様が食べてお腹の中に入ったものです。その後でわれわれ人間は供物を押し頂いて食べます。それはつまり神仏を食するということでもあります。

われわれは供物とともに神様や仏様を食べて、神仏と一体化して煩悩にまみれた自身の存在を浄化しようと願うのです。キリスト教でも恐らくそれは同じです。そんなありがたい食べ物が子羊料理なのです。

子羊はそれによく似た子ヤギにも広がり、現代のイタリアでは復活祭当日とその前後の時期には、子羊料理よりも期間限定のイメージが強い子ヤギ料理のほうが多く食べられるようです。

筆者は冒頭でことわったように不信心者なので、神や霊魂や仏や神々と交信するありがたさは理解できません。ただ、おいしいものを食べる幸せを何ものかに感謝したい、とは常々思っています。

イタリアでは復活祭の期間中に、通常400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理されてきたとされます。それ以外の期間にも80万頭が消費されてきました。

しかし、その数字は年々減ってきて、ここ数年は200万頭前後に減少したという統計もあります。不景気のあおりで人々の財布のヒモが堅いのが理由です。子ヤギや子羊の肉は、豚肉や牛肉などのありふれた食材に比べて値段が張るのです。

一方で消費の落ち込みは主に、動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏しているという見方もあります。最近はいたいけな子ヤギや子羊を食肉処理して食らうことへの批判も少なくありません。

2017年にはあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買いました。

ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになったのです。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出ました。

筆者は正直に言ってその胡散臭さに苦笑します。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身する元首相も驚きですが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのです。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのでしょうか。

動物の食肉処理の現場は凄惨なものす。筆者は以前、英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験があります。屠殺される全ての動物は、次に記す豚たちと同じ運命にさらされます。

食肉処理される豚は、1頭1頭がまず電気で気絶させられ、失神している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られ、血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていきます。

その工程は全て流れ作業です。血の雨が降るすさまじい光景ですが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がありません。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものです。

菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思います。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果があります。

だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかならなりません。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きています。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っています。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことです。それが人間の定めです。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実です。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることです。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もありません。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直です。筆者はイタリアにいる限りは、復活祭に提供される子ヤギあるいは子羊料理を食べる、と決めています。

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