連休という果報、飛び石連休という貧困

2019年、日本のゴールデンウイークが10連休になるというニュースは、ここイタリアにいても日本の衛星放送やネットを介していやというほど見、聞き、知っていました。

それに関連していわゆる識者や文化人なる人々が意見を開陳していましたが、その中にはまるで正義漢のカタマリのような少し首を傾げたくなる主張もありました。

いわく10連休は余裕のあるリッチな人々の特権で、休みの取れない不運な貧しい人々も多い。だから、10連休を手放しで喜ぶな。貧者のことを思え、と喧嘩腰で言い立てたりもしていました。

10連休中に休めない人は、ホテルやレストランやテーマパークなど、など、の歓楽・サービス業を中心にもちろん多いと考えられます。

しかし、まず休める人から休む、という原則を基に休暇を設定し増やしていかないと「休む文化」あるいは「ゆとり優先のメンタリティー」は国全体に浸透していきません。10連休は飽くまでも善だったと筆者は思います。

休める人が休めば、その分休む人たちの消費が増えて観光業などの売り上げが伸びます。その伸びた売り上げから生まれる利益を従業員にも回せば、波及効果も伴って経済がうまく回ります。

利益を従業員に回す、とは文字通り給与として彼らに割増し金を支払うことであり、あるいは休暇という形で連休中に休めなかった分の休息をどこかで与えることなどです。

他人が休むときに休めない人は別の機会に休む、あるいは割り増しの賃金を得る、などの規則を法律として制定できるかどうかが、真の豊かさのバロメーターです。

そうしたことは強欲な営業者などがいてうまく作用しないことが多い。そこで国が法整備をして労働者にも利益がもたらされる仕組みや原理原則を強制する必要があります。

たとえばここイタリアを含む欧州では、従業員の権利を守るために日曜日に店を開けたなら翌日の月曜日を閉める。旗日に営業をする場合には割り増しの賃金を支払う、など労働者を守る法律が次々に整備されてきました。

そうした歴史を経て、欧州のバカンス文化や「ゆとり優先」のメンタリティ-は発達しました。それもこれも先ず休める者から休む、という大本の原則があったからです。

もちろん休めない人々の窮状を忘れてはなりませんが、休める人々や休める仕組みを非難する前に、働く人々に窮状をもたらしている社会の欠陥にこそ目を向けるべきなのです。

休むことは徹頭徹尾「良いこと」です。人間は働くために生きているのではありません。生きるために働くのです。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものです。

人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる。特に長めの休暇は大切です。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの働く日本人を見るたびに、筆者はそういう思いを強くします。

バカンス大国ここイタリアには、たとえば飛び石連休というケチなつまらないものは存在しません。飛び石連休は「ポンテ(ponte)=橋または連繋」と呼ばれる“休み”でつなげられて「全連休」になります。

つまり 飛び石連休の「飛び石」は無視して全て休みにしてしまうのです。言葉を変えれば、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全体が橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になります。

長い夏休みやクリスマス休暇あるいは春休みなどに重なる場合もありますが、それとは全く別の時期にも、イタリアではそうしたことが一年を通して当たり前に起こっています。

たとえば今年は、日本のゴールデンウイーク前の時分にもポンテを含む連休がありました。復活祭と終戦記念の旗日がからんだ4月20日から28日までの9連休です。

その内訳は:4月20日(土)、21日(日“復活祭”)、22日(月“小復活祭=主顕節”・旗日)、23日(火“ポンテ”)、24日(水“ポンテ”)、25日(木“イタリア解放(終戦)記念日”・旗日)、26日(金“ポンテ”)、27日(土)28日(日)の9日間。

もちろん誰もが9連休を取る(取れる)わけではありません。23日(火)と24日(水)は働いて25日から28日の間を休む。つまり26日(金)だけをポンテとして休む、という人も相当数いました。同時に20日から28日までの長い休暇を取った人もまた多かったのです。

そうした事実もさることながら、旗日と旗日の間をポンテでつなげて連休にする、という考え方がイタリア国民の間に「当たり前のこと」として受け入れられている点が重要です。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に「連続」にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方です。休日を切り離すのではなく、できるだけつなげてしまうのです。

「連休」や「代休」という言葉があるぐらいですからもちろん日本にもその考え方はあります。だがその徹底振りが日本とイタリアでは違います。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、飛び石連休という思考法が依然として存在していることで分かるように思います。

一方でイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけては「できるだ長く休む」ことを願っています。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じています。 そして彼らは願ったり感じたりするだけではなく、それを実現しようと躍起になります。

そんな態度を「怠け者」と言下に切り捨てて悦に入っている日本人がたまにいます。が、彼らはイタリア的な磊落がはらむ豊穣が理解できないのです。あるいは生活の質と量を履き違えているだけの心の貧者です。

休みを希求するのは人生を楽しむ者の行動規範であり「人間賛歌」の表出です。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてきません。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす価値は、休暇を取ることによってのみ理解できるように思います。

2019年に出現した10連休は、日本の豊かさを示す重要なイベントでした。日本社会は今後も飛び石連休を「全連休」にする努力と、連休中に休めなかった人々が休める方策も含めて、もっとさらに休みを増やしていく取り組みを続けるべきです。




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