ロックダウンに便乗する“ままごと”

以前の記事に

“手始めに、次のエントリーあたりでイタリア全土が封鎖された中での具体的な生活の様子を書いてみようと思う。イタリアの切羽詰った状況が日本に飛び火するようなことがあれば、もしかすると、このブログを読んでくれている日本の読者の皆さんの役に立つかも知れないから云々”



書いたものの、中々すぐには行動できずに来ました。他のテーマで書くべきことが多すぎたからです。また筆者は3月の初旬からほぼ完全に自宅籠りの生活を送っていて、これといって特別な要素もない、ということにも気づきました。

加えて、北部イタリア・ロンバルディア州の片田舎にある筆者の住まいには、周辺の家のほとんどがそうであるように庭があり、おかげで開放感があります。さらにそこは古い落ちぶれ貴族の邸宅だった場所で、床面積が広い。普段はひどく持て余している無駄な空間や不便な造りが、巣ごもりの生活では息抜きさえもたらす要素になっています。

そんな場所での隔離生活なので、特殊なケースであり、従ってその内容を書いてもあまり役に立つ情報にはならない、という疑念がありました。しかし、強制的な外出禁止がいかなるものであるかの「一例」として、書いておくのも悪くない、と思い直しました。また5月4日から始まるロックダウンの段階的解除がうまくいけば、隔離生活の記憶も薄れていくだろうから今がチャンス、とも考えました。

「自宅監禁」と呼んでもかまわない厳しい外出制限が真に苦痛になるのは、多くの場合おそらく都会生活者においてです。特に庭やバルコニーのない狭いアパートやマンションに住む、且つ子供のある家族にとっては極度の苦悶に違いない。またイタリアの場合は、一戸当たりの面積が欧州の中では狭い部類に入ります。かつてウサギ小屋と揶揄された日本ほどではないにしても、家族全員が長期間閉じこもるには厳しい環境です。

苛烈な外出制限や移動規制に象徴される隔離封鎖、あるいはロックダウンが敷かれている日常は、敢えて表現すれば「自由な監獄」です。数は少ないが営業を許されている仕事や病気など、れっきとした理由があれば外出はできます。食料の買出しも可能です。散歩や運動も自宅内や敷地、また集合住宅の中庭などでならできないことはない。牢屋のようだが少しの自由はあるので「自由な監獄」、と。

筆者の家族の場合は、庭を歩いたり屋内で少し動きはするものの、自主隔離とロックダウン期を加えたほぼ2ヶ月間、一歩も家の外に出ていません。食料の買出しにさえ出ない。普段から食料の備蓄が少しあることと、外出自粛(法令による禁止ではなく)が奨励されていた時期に、割と多目の食料や必需品を買い集めているからです。

自主的に自宅待機を始める1週間ほど前から、筆者は家族と共に少しづつ食料の買い置きを始めました。加工牛乳にはじまるロングライフ食材を買い求め、肉類も多く冷凍庫に備蓄しました。自宅待機を始めてからも同じ動きをしました。筆者は長い自宅隔離を意識して、呆れる妻を無視しては、ビールやワインも大量に買い込みました。街に出て日本酒までも仕入れました。

わが家は田園地帯にあって買出しには常に車が必要なこともあり、もともと食料を多めに備蓄する習慣があります。それに加えて、友人らを招いて庭でバーベキューをしたり飲み会や食事会などをすることも多い。それに備えての食材の買い置きもごく普通の行動パターンです。元々飲食品の蓄えが多いところに、ロックダウンを意識しての買いだめも進めました。おかげで2ヶ月も閉じこもった今でも、なおかつ食料や飲み物の余裕があります。

それでも野菜や果物などの生鮮品は今日までに3度配達してもらいました。住まいのある村のスーパーや食料品店など、営業を許されている生活必需品店は、頼めば宅配サービスをしてくれるのです。そのこと自体は便利なのですが、実はそこには自ら店に出向いて食材を買う時とは違う不安があります。

店で買い物をするときは、自分の手で商品に触り、仕分けをし、自分で全てを制御します。が、配達の場合は品物の接触も運搬も何もかも全て他人任せです。従って荷物の受け渡しの際や、あるいは荷物そのものにさえ、スーパーの人混みの中と同様にウイルス感染の可能性があるのではないか、と不安を覚えたりしないでもないのです。

筆者は一歩も外出をせずに 読書三昧 の暮らしをしています。 その合間に 執筆をし、料理をして食べ、風呂やシャワーを使い、WEBを巡り、少しだけ妻のおしゃべりに付き合い、日伊英3ヶ国語のニュースを見、読み、聞き、最後にRAI(イタリアのNHK)の夜のニュースをじっくり見ながらワインやビールを飲む、という暮らしを続けています。それは退屈どころか、読書用に1日当たりあと数時間は余計に時間がほしい、とさえ思う日々です。

繰り返しになりますがイタリアは5月4日、ロックダウンの一部を解除します。それに伴い、先ず製造業や建設業などで約450万人の勤め人が仕事に復帰します。段階的解除については賛否両論が渦巻いています。営業再開が遅れる美容業界などは激しく反発。すると即座にそれらの動きに便乗する政治家などが騒がしく声を上げ始めました。また感染者が少ない南部カラブリア州は、6月1日からの営業開始、と国が決めたレストランやカフェなどの飲食店の営業を、5月4日から許可する、と宣言して物議をかもしたりもしています。

急展開を主張するのは少数派です。国民の多くは、ここまでの新型コロナの脅威を恐れて、慎重な解除を望んでいます。だがそこは悩ましい状況です。良く言えば陽気でカラフルな多様性が目覚ましい国、イタリア。悪く言えばジコチューでまとまりのない人々がひしめく国、イタリアです。異を唱え「わが道を行く」と叫んで譲らない者には事欠きません。

新型コロナウイルス以前も不調だったイタリア経済は、2月以来のウイルスとの過酷な戦いによって大きなダメージを受けました。Covid-19にまつわる多くの数字が感染の沈静化を示唆している今、過酷なロックダウンを徐々に緩和して経済を動かし、「自宅待機疲れ」がピークに達している人々のストレスを軽減するのは必要不可欠なことです。だがそれには飽くまでも、「感染拡大がぶり返した場合には即座にロックダウンに移行する」というコンテ首相の宣言が、担保として付いてまわることを願いたいと思います。




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新型コロナのせいで書きそびれている事ども

2月初め以来、新型コロナウイルスにまつわる話ばかりを書いてきました。なにしろ突然にイタリアが世界最悪のCovid19跋扈地となり、中でも筆者の住まう村を含む北部ロンバルディア州が、正真正銘の感染爆心地となりました。身の危険も感じつつそのことについて書き続けてきました。

イタリアは相変わらず苦境の中にいます。日本は「日本式のロックダウン」つまり緊急事態宣言の延長を決めました。新型コロナウイルスはそれ自体のおぞましさはさて置いて、良い意味でも悪い意味でもあらためて欧州と日本の根本的な違いにも気づかせてくれました。それを実感できるのは外国に住まう者の特権、というふうにも思います。

古来、祖国を出て外国をさまよう者には根無し草の悲哀というものが付きまとうものですが、筆者の中にはそういう気分が全く生まれませんでした。それは生活や境遇や生業などが原因で「無理やり」国を出なければならなかった人々と違って、筆者が「すき好んで」外国に出奔した人間だからでしょう。しかも英国、米国、ここイタリアと移り住みました。その間には多くの国々も訪れました。

悲哀など感じる暇はありませんでした。今後もさらに多くの国や地域を旅するつもりでいたところに、新型コロナウイルスの惨禍がやってきました。人生はげに何があるかわかりません。新型コロナはむろん憎むべき変災ですが、それには人間の驕りへの懲罰、という意味合いが込められているようにも感じます。人間はコロナ禍を機に少しは謙虚になっていくのかもしれません。

そうなれば人類も捨てたものではない。世界中でたくさんの人がバタバタ倒れている今はまだ少し早く、敢えて口にすれば不謹慎のそしりを免れない、と感じつつもあえて言葉を選ばずに書いておきます。つまり、もしも新型コロナウイルスのおかげで人間が「自然や和平や科学や道理の前に恭謙な存在」になるのなら、コロナ禍もまた悪くはないのかもしれない、と。

月9ドラマ「監察医 朝顔」

民放のドラマは欧州では多くの場合、数ヶ月~半年ほどの遅れで放映されます。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法のこのドラマも同じ。イタリアが新型コロナウイルス感染爆発の地獄に陥る直前に最終回が放映されました。

途中の回では、行き倒れた老人と息子が意味深な親子関係だったらしいことを匂わせるエピソードを挿入しながら、結局ふたりの間の壮絶な(?)ドラマは描かれませんでした。それはシリーズのまたドラマ構成上のあきらかな破綻です。

「そこにある銃は発砲されなければならない」とするいわゆるチェーホフの銃は、ドラマ作りにおけるプロットの重要性を説く理論で、劇中に提示されるあらゆるものには意味がある、という本則を伏線のあり方にからめて語っています。言葉を変えれば「劇中に余計な要素を入れてはならない」ということ。「監察医 朝顔」の死んだ老人と息子のエピソードがまさにそれです。

突然提示された行き倒れの老人と息子のエピソードは、そこに披露された以上必ずストーリーが展開され深化されて全体の中の必然にならなければならない。ところが一切そういうことは起きず、エピソードは無意味にそこに投げ出されて無意味に消えるのです。

最終回では津波に流された母親の死のトラウマを克服する朝顔が描かれます。それはいいのですが、夫の桑原があるいは事故で死ぬのか?と視聴者の気をひきつける展開を示唆しておきながら、何もなかったという安易なドラマ作りになっています。それもまた行き倒れの父親と息子の挿話と同じ粗略さでつまらない。

もう一つ重要な瑕疵に見えるコンテンツを指摘しておこうと思います。

朝顔の監察チームは、それぞれが医学のエキスパートですが、ドラマで重要な役割を負っている「死体」を常に「ご遺体」と呼びます。筆者はそこにも強い違和感を覚えました。実際の監察医たちもそうなのでしょうか?死体を遺体と呼ぶのは、亡くなった人への尊称です。

「ご遺体」と呼ぶのはもっと真摯な言葉です。特に日本には死者を貶めないという風習があります。悪人でも亡くなってしまえば仏であり敬意の対象です。ほとんどの日本人はそれを肯定的にとらえます。だが死体を解剖して死の謎を解明する監察医は科学者です。科学者は、科学する対象に対しては余計な感情移入をしないほうがいい。してはならない。それでなければ冷静な分析や考察や解析が雲る可能性があります。

「ご遺体」という言葉は、ドラマを観ている視聴者の心情に配慮してのフィクションだと思いますが、余計な忖度です。もしも実際の監察医たちが、遺骸を常に「ご遺体」と呼んでいるようなら、筆者はもっとさらに違和感を覚えます。行過ぎた礼はマナーではなく、慇懃無礼という不実です。


壇蜜のイスタンブール

壇蜜がトルコのイスタンブールを旅する紀行ドキュメンタリー『壇蜜 生と死の坩堝』 。壇蜜というタレントはとても興味深い。女性的という意味でもそうですが、知性的にもなにかがある、と感じさせます。彼女が遺体衛生保全士であったり葬儀の仕事をしていた体験などが、艶っぽい外観と不思議に調和している気配があって面白いのです。

街の雰囲気も彼女の自然体の紀行報告も悪くありませんでした。筆者も知っているイスタンブールの街が別の印象になって提示されていました。ベリーダンサーとの交流シーンでは、ひたすら性的なだけと見られがちなベリーダンスが、激しい体の動きによって人を楽しませることが主眼のショーだと訴えます。

ベリーダンスの衣装に着替えて体当たりで取材をする壇蜜と、若く美しく且つ小さな子供の母親でもあるダンサーの言動に説得力があって、ベリーダンスへの見方が変わること請け合いのシークエンスになっていたように思います。

タイトルの「生と死の坩堝」にからむエピソードでは、しかし、イスラム教を特別視する姿勢が強すぎて違和感も覚えました。葬儀を取材したものですが、死者の親族の叔父が「死は終わりではなく、始まり」と語ったあとに、壇蜜が「死者に行かないでとすがる気持ちよりも、“逝くなら見送らなくちゃ”という気持ちのほうが強いように思う」と語るシーンは嘘っぽい。

彼らはわれわれ日本人と全く同じように死を悼み、恐れ、愛する者をなくした苦しみの中で、「行かないで!」と懇願しながらそこに立ち尽くしているだけです。それ以下でもそれ以上でもない。イスラム教徒だけが、あるいはイスラム教の教義だけが、その普遍的な心情とは違う思想や哲学を宿している、と示唆するのは偏見や差別の温床になる可能性さえ秘めた危険な見方です。


食の起源

NHKスペシャルの「食の起源」は、テーマも情報も眼目も構成もいいのに、TOKIOというあまり必要とは思えないナビゲーターを置いたおかげで、違和感のある仕上がりになりました。

TOKIOのファンにはうれしい仕掛けなのでしょうが、この手の番組にはナビゲーターやレポーターは不似合いです。これは決してTOKIOが悪いという意味ではなく、ドキュメント内容以外の要素はNGという意味です。

ご飯(米)、塩、脂、酒、、美食、と取り上げられた素材を見るだけでも心躍るような構成。だが、せっかくの知的好奇心を満たす要素に、TOKIOのほとんど中身のないコメントや空騒ぎが織り込まれて、全てを台無しにしていると感じました。

タレントを使って視聴率を上げる腹積もりは分かりますが、番組の質が落ちるばかりで感心しない。せめて彼らの喋りの中に新たな情報が含まれていればまだ我慢もできますが、文字通りのダベリ一色。むろんそれはディレクターを始めとする制作サイドの不手際です。出演者は台本に沿って喋っています。

知的なテーマや、内容の濃い「構成もの」の質が悪い時に、タレントを添えてゲタをはかせるのは、民放の番組の十八番です。NHKは民放的「殷賑依存症」の番組作りをするようならあまり存在意義はありません。それならば民放になれ、と言われても返す言葉がなくなるのではないでしょうか。

大相撲3月場所

史上初の無観客での興行。白鵬が、もはや優勝回数を数えるのさえつまらないほどの回数で、また優勝。場所後に朝乃山が大関昇進を果たしました。だが、最近は栃ノ心、高安、豪栄道など、大関から陥落する力士が相次いでいて、申し訳ないが朝乃山にもあまり期待する気が起こりません。大関というのは昔はもっとずっと強かったようなイメージがありますが、それは子供時分の筆者の錯覚だったのかもしれません。

観客のいない取り組みは初めのころこそ違和感がありました。だが筆者は割合と早い段階で慣れました。それは土俵上の申し合いが真剣勝負であるのがよくわかったからです。若いころに、元大関貴乃花の藤島部屋で真剣勝負のぶつかり稽古を見たことが、筆者の大相撲への信頼の強い土台になっています。

大相撲に八百長があったのは事実でしょうが、筆者はそれが世論の猛烈な指弾に遭って矯正されたと信じています。なぜならテレビ画面から伝わってくるのは、筆者が学生時代に間近で感じた力士たちの真剣で厳しい息遣いと、緊張と裂ぱくの気合が激突するガチンコの凄みと同じ空気だったからです。

だからといって大相撲を無観客で見続けたいとは思いません。大相撲の醍醐味はやはり、多くのファンの声援が飛ぶ会場での取り組みにこそある、と強く感じます。

新外来語の威力

筆者が知る限り、日本語にはつい最近まで、疫学で「小規模の感染者集団」をあらわすクラスターという言葉はありませんでした。少なくとも「日常日本語」には見られなかった。それは新型コロナウイルス感染症対策に関する政府の専門家会議が初めに使って、たちまち一般化したものです。

日本の専門家たちには知見が不足していた。そこで英語を持ち出して概念を表現しました。お上のその決定を従順な大衆が受け入れました。地域封鎖や隔離や移動禁止などが合わさった「ロックダウン」、爆発的な感染流行を示すとされる「オーバーシュート」という英語由来の外来語も全く同じです。

筆者はそういう日本社会の大勢順応・迎合主義、つまり何事につけ主体的な意見を持たず「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回って、これに付き従う者や風潮や精神に強い違和感を覚える者です。従って文章を書く際には、それらの言葉を極力用いない、と抵抗を試みました。

ところが三つの言葉は、“即座に”という形容が過言ではないほどの速さで一般化しました。感染者集団や隔離封鎖また感染爆発などという日本語よりも、伝達が早くコンセプトもよく理解されます。そこで今では筆者も、締まらない話ながら、そうした言葉をひんぱんに使うようになってしまいました。

それは悪く言えば日本人の節操の無さ、良く言えば日本語ひいては日本文化の柔軟な精神を端的にあらわしている、というふうにも見えてとても面白いとも感じます。



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