若者を殺さないコロナのたくらみ

欧州に遅れてコロナ危機が始まった南北アメリカや中東の感染拡大が続く中、いったん落ち着いていたヨーロッパにも再び状況悪化の兆しが見えてきました。

1波で過酷な試練を体験した西ヨーロッパでは、主にスペイン、フランス、ドイツなどにクラスターの発生や感染増加が顕著になっています。

1波で最も悲惨なコロナ危機を体験したイタリアは、世界一峻烈とされたロックダウンを導入した効果もあって、今のところは欧州の中でも感染拡大が少ない。

だが、そうはいうものの、イタリアでも新規の感染者はコンスタントに出ていて、いつ状態が悪化してもおかしくない環境です。

欧州の感染者の増加は、夏のバカンスを楽しむ人々の動きと関連しています。厳しい移動制限に象徴されるロックダウンが終わったことを受けて、多くの人々が観光地やリゾートに移動を始めました。

コロナ危機の中でも、いやむしろコロナ危機だからこそ、バカンスで開放感を味わいたいと考える人々がいて、彼らが移動を開始したとたんに感染拡大が始まりました。

コロナウイルスは自らでは動かず、飛ばず、移動しません。常に人とともに動き人によって運ばれ、拡散し、宿りを増やしていきます。だからこそ人は人との接触に細心の注意を払わなければなりません。

その注意が時として若者には足りません。彼らは感染防止策に無頓着である場合が少なくありません。感染拡大は全ての年齢層の人々によってなされるものの、圧倒的に若者によるケースが多い。

若者は、コロナに感染しても重症化する可能性が低い。死亡する可能性は、高齢者と違ってもっと低い。そこから感染防止策を軽視する心理が芽生え、それは彼らの行動に出ます。

彼らはこう考えています。「俺たちは大丈夫。コロナは老人の問題だ」と。そして夜の繁華街やリゾートの街やビーチで、コロナなどどこ吹く風で思いのままに集い歓楽します。

そこで新型コロナに感染して無症状のまま再び思いのままに動き移動し活動して、他者にウイルスを受け渡していきます。彼らが高齢者へ移すことを腹から気に病むことはほんどありません。

むろん祖父母など肉親に高齢の者がいれば少しは気にすることもあるでしょうが、それとて長く緊張を維持したり気を配ったりする理由にはなりません。彼らはいつも自身のみずみずしい生を目いっぱい謳歌することに懸命です。それが若さというものです。

若者の大多数が自主的に感染対策にまい進すると考えるのは愚かです。彼らはコロナが若者も「殺す」形に変異でもしない限り、感染対策を完璧に遂行することはありません。感染拡大防止の最大の障害は若者なのです。

若者ではない人々はそのことに薄々気づき始めています。若者も気づいていますが、彼らの命にかかわることではないので高をくくっています。若者と高齢者間の分断が始まろうとしています。もしかするともう始まったのかもしれません。

日本ではここ最近、コロナに感染しても症状が軽いかあるいは全く出ない、比較的若い年代の人々の集団感染が発生しているようです。実は欧州でも感染者の年齢層が低くなっています。

特にスペインとフランスまたドイツで、休暇を楽しむ若者が都会やリゾート地で深夜に集まって騒いでは、感染する事態が頻発しています。その後彼らはそれぞれの家庭に戻って高齢者を感染させます。

そうした事態を受けて、スペインのカタルーニャ州はついに725日、ナイトクラブや深夜営業のバーを再び2週間ほど閉鎖すると発表しました。その動きは欧州各国に伝播しそうな雲行きです。

ウイルスが変異し、若者を重症化させ、最悪の場合は死亡させるようにならなくても、彼らの行動パターンが変化する可能性はあります。

爆発的な感染拡大が起きて、再びロックダウン(あるいは日本なら緊急事態宣言)が導入されることです。そこでは経済が滞り雇用危機が発生して、彼らも恐慌のただ中に投げ出されます。

そうなれば無鉄砲な者たちも少しは反省することでしょう。だがそれでは遅すぎる可能性があります。破壊された経済が元に戻るのは至難です。彼らはその前に感染防止に真剣に取り組んだほうがいい。

若者をそういう方向に導くのは、若者ではない大人たちの役割です。とりわけ政治の責任です。欧州はその方向に動きつつあるようです。しかし日本の政治は、行動を起こすどころか、問題の核心にさえ気づいていないように見えます。

ところで活動的で行動範囲も広い若者がコロナに感染しても症状が出ないのは、全くの偶然なのでしょうか?無症状なので彼らは感染しても活発な動きを止めず、さらに感染が拡大します。

もしもそれが仕組まれた作戦だとするなら、なんと怖いことでしょう。そしてなんという深い知恵なのでしょう。深い知恵はもしかすると高齢者のみを殺す、とも決めているのかもしれません。なぜ?地球上に高齢者が増えすぎたから?

新型コロナの凄みは、知恵があるようにも見えることです。もしかするとワクチンも治療薬もなにもかも無効にする知恵まで秘めているのでは?とさえ思わせます。むろん人間はそれ以上の知恵を持つ、と信じてはいます。が、時として新型コロナは、その信頼を揺るがすほどの殺気さえ見せるところが忌まわしい限りです。

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伊ロックダウン異聞Ⅱ

新聞に次の主旨のコラムを書きました。

 

 

~菜園でコロナと遊ぶ~

ことしは新型コロナのせいで2月以来なにもかもが異例づくしの展開になっている。

イタリアは一時期、世界最悪のコロナ感染地となって全土がロックダウンされ、住民の外出や移動が厳しく制限された。

僕は毎年3月になると自宅敷地内にある菜園で土を起こし、プランターで育苗なども行って野菜作りをする。

ことしは自宅待機で時間があり余る分、菜園仕事にも熱が入りそうなものだった。ところがまるっきりそんな気分になれなかった。

菜園仕事が始まる3月からが、まさにイタリアのコロナ地獄のピークだった。不安がつのって野菜作りどころではなくなっていたのだ。 

4月も終わる頃にようやくその気になって、菜園全体にサラダ用野菜の混合種をびっしりとまいた。一部を普通に収穫してサラダとして食べ、残りは生いしげるままに放置しようと考えた。 

菜園は有機農法で耕しているため雑草が繁茂し虫がわく。特に雑草に閉口する。だがコロナが猛威を振るう中では菜園の草取りもできるだけ省略したかった。

サラダ用の野菜は根がおだやかで除去が簡単だ。土中深くまで根を張るしつこい、処理に困る、ある種の雑草とは大違いである。

そこで野菜をまんべんなく育てて雑草の成長の邪魔をできないか、と思いついたのだった。 

5月になると各種のサラダ野菜が生いしげった。雑草は明らかに少ない。7月の今も同じ。どうやら思惑は当たったようだ。今後はこの手を使って雑草対策をしようかと考えている。 

しかし、野菜作りには連作障害という問題が付いてまわる。サラダ用野菜ばかりを毎年作付けすると障害が起きかねない。それでも始末に困る雑草よりは増し、とも思うが実際にはどうなのだろうか。

新型コロナ禍がもたらしたもう一つの悩ましい課題である。

 

 

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愛しのロックンダウンロール

ロンドンUCLの統計によると、イギリス人の3人に1人は、新型コロナの感染拡大抑止のために行われたロックダウンを楽しんだ、ということです。

楽しんだと答えたのは、より多くの収入があり、心身の特に心の健康に問題のない30歳から59歳の年齢層の人々でした。

また孤独ではなく、同居人がいたり子供のいる家族があったりすると、外出や移動が厳しく禁止されるロックダウンでも前向きに捉える傾向が強い、という結果も出ました。

筆者はこの報告にうなずく気持ちでいます。筆者もどちらかと言えば、世界一過酷とされたイタリアのロックダウンを楽しんだほうです。少なくともそれほど苦にしませんでした。

筆者の年齢は統計の59歳を超えています。また子供は独立して家を出ています。が、同居人の妻がいます。また金持ちではないが生活には困っていない、など統計に当てはまる部分とそうでない部分があります。

統計には示されていませんが、都市ではなく田舎に住んでいることもロックダウンに耐えやすい重要な条件になる、と実体験から思います。自宅に庭があればさらに息抜きができます。

また、自宅のような限られた空間内でもできる趣味を持っているかどうかも大切です。筆者は自宅を含む近隣のほぼ全ての家が庭を有する、田園地帯に住んでいます。そして一日中読書をしていても一向に飽きません。

幸い同居人の妻も読書好きで、読書の間は会話が途切れるという、彼女にとっての不都合を苦にしません。外出ができないロックダウン中の日々の大半を、夫婦はそれぞれに読書三昧で過ごしました。

在宅時の筆者の別の趣味は野菜作りと料理です。だがコロナが猛威を振るっていた間は不安感もあって菜園に足が向かず、料理も普段以上に気を入れることはありませんでした。妻がいつもよりも多くキッチンに立ったことも原因でした。

ブログその他の文章を書くことでも少なからず時間が潰れました。結局、一日が30時間ほどあっても問題ない、と思えるくらいに充実した日々がほとんどでした。

そうはいうものの、それならば再びロックダウンがあっても同じように楽しむか、と問われればあまり自信はありません。自宅待機は構わないのですが、外出をして騒ぎ遊ぶ時間がない事態はもうたくさん、という気分です。

それは個人的な資質の問題です。テレビ屋の筆者は、ロケやリサーチや会合等でスタッフを始めとする多くの人々に会い、騒ぎつつ仕事を進めるのが好きです。その一方でひとり孤独に本を読み、書き物などをすることも厭いません。動と静が交互に入れ替わるのが筆者の生活パターンです。

ことしはロックダウンのおかげで数ヶ月にも渡って静の時間ばかりが過ぎて行きました。ところがロックダウンが終わった今も、動の生活パターンはまだ十分には訪れません。そろそろ外出をし、騒ぎつつ遊び、仕事をしたい、というのが正直な思いです。

だがそれだけが動の時間を待ち望む理由ではありません。ロックダウン中はイタリア内外の友人らとビデオ電話を交わし合い、オンライン飲み会なども楽しみました。しかし、ロックダウンが終わった今は、バーチャルなそれらの邂逅は終わりにしたい。

そして以前のように人々と実際に顔を合わせて歓談し、飲み、食べ、騒いで共に人生を楽しみたいと思います。ところが同時に、筆者の中にはそれを億劫がる心も育っています。誰にも会いたくない気分もするのです。

筆者はロックダウンを通して、人に会わずに生きる時間の愉快を知ってしまいました。

少しまずい兆候だと思います。他者に会うことを面倒くさがるようでは気持ちは沈むばかりです。コロナめに心を折られて人生を棒に振ってはたまりません。気をつけよう、と自らを鼓舞しつつ、それでも秋から冬にかけての再びのロックダウンや外出規制にも備えようと気を配ったりもしています。

そんな個人的な感慨とは別に、自宅から一歩も出られないほど過酷で長いロックダウン体験がもたらした、人々の心理の綾や変遷また心の陰りや逆に光明、といったことなどもひどく気になります。人の心のあり方がコロナ禍で一変したのであれば、それは新型コロナの行く末と同じくらいに重要な「事件」に違いないと思うからです。

 

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今度こそ日本は本当の規制をかけたほうがいい

イタリアがふいに新型コロナに襲われて、外からの援助も一切ないまま世界一のコロナ地獄の中で呻吟していたころ、筆者は「日本は即刻、イタリアの轍を踏まない準備に走るべき」というタイトルの記事で故国の注意を促し、その後もことある毎に国の外から見た意見や感想を述べてきました。

イタリアは最悪の状態を「いったん」抜け出して落ち着いています。ところが深刻な危機には陥らなかった日本は、小休止のあと、思いがけなくも第2波の到来か、と誰もが不安になるほどの感染拡大の時間を迎えています。

筆者は個人的に第2波は必ずイタリアも日本も襲うと考えてきました。ですのでそれがやって来たらしいことには驚きませんが、イタリアの前に日本が第2波に見舞われるようなら少し意外な感じがしないでもありません。

日伊双方はロックダウンを解除して―「緊急事態宣言」 というのは同調圧力を罰則とする日本式ロックダウンです―社会経済活動をほぼ通常に戻しました。従って今は国民の感染防止策への気の入れ方と責任ある行動の有無が結果を左右します。

そして3密を意識して国民が慎重に動くという観点では、イタリアよりも日本のほうがはるかに国民の意識が高く信用できます。それなのに日本が先に第2波に襲われるのは、イタリアが2月21日を境に突然コロナ地獄に落ち込んだ事件と同じ、とまでは言いませんが結構な驚きです。

2020年7月23日現在の感染状況は、イタリアよりも日本のほうが深刻です。数字で言えば7月23日の日本の新規感染者数は795人、一方イタリアのそれは280人。ここしばらくは常に日本の新規感染者数が上回っています。しかも一日あたりの検査数は依然としてイタリアが勝っていますので、数字のギャップはさらに大きい可能性があります。

しかし数字の現況はほとんど意味を成さない可能性もまたあります。イタリアがふいにコロナ感染地獄に突き落とされた2月21日、国内の感染者はたった3人でした。そのうち2人はイタリア旅行中の中国人夫婦。もう1人は武漢から政府専用機でイタリアに帰国した56人のイタリア人のうちの、若いイタリア人男性。3人はローマで隔離されてほとんど何の問題もありませんでした。

一方、日本は当時、クルーズ船乗客を含めて80人前後の感染者を抱えていました。日本のほうがはるかに深刻に見えたのです。しかし、周知のように情勢は一気に逆転し、イタリアは2月21日を境に文字通り世界一のコロナ地獄国へと転落します。片や日本は感染者数も死者数も少ない幸運な国のひとつであり続けています。

しかしながら7月後半の今は、東京を筆頭に日本の新型コロナ感染者が急速に増えています。それは第2波の襲来か否かという観点ではなく、第1波が継続していて人の移動が活発になるとともにウイルスの活動も旺盛になった、と言うほうが正しいのではないかと筆者は考えています。

第2波の襲来と言うと、あたかも日本がウイルスを一度は押さえ込んだように聞こえます。また実際にそう考える人も多くいます。日本ではこれまで感染爆発が起きなかった事実や、死者数が極端に少ない点などを勘案すれば、そう捉えることもできるかもしれません。

だがCovid-19による死者が少ないのは―あくまでも個人的な感想で専門的知見によるものではありませんが―日本の対策が効を奏したからではないと筆者は思います。また結核ワクチンBCGの接種の影響や、日本人が過去に新型コロナに類似したウイルスに感染して免疫を得た説など、専門家の見解もいくつか出回っています。だがどの説も科学的に証明されてはいません。

単に日本が運が良かっただけ、という考え方もあります。その可能性は50%ほどの確率でありそうに見えます。ともあれその不思議については、今後科学的な究明が進むことでしょう。大きな謎が科学の分野で残るわけですが、コロナ対策をめぐる日本の政治もそれに負けないくらいに大きな謎です。

つまり、感染拡大を押さえ込むよりも、国民の社会経済活動、特に経済活動を優先させたい政治の思惑ばかりが堂々とまかり通るのが不思議です。決して経済を無視して言うのではありません。経済は重要です。経済困窮で死者が出かねないという議論さえも理解できます。

しかし経済をうまく回しつつ感染拡大も防ぐ、というのは世界中のあらゆる国が掲げる理想でありながら、これまでのところ誰もそれに成功していません。日本政府は本気でそれに挑む覚悟と知恵をもっているのでしょうか?筆者にはとてもそうは見えません。それどころか覚悟も知恵もおざなりです。

アメリカは再選を目指したいトランプ大統領の思惑で経済優先策が取られ、コロナの感染拡大と死者の山が築かれています。またブラジルではボルソナーロ大統領が、アメリカよりも強権的な手法が取りやすい政治土壌をいいことに、経済ファーストと叫んでやりたい放題に振舞って、これまたアメリカ以上の惨状を招いています。

一方日本では、経済の専門家といえば聞こえがいいのですが、金の計算に余念がない守銭奴の専門家や御用学者らが、例によって世界の情勢を見ようともせずに、日本の経済の落ち込みばかりを言い立てて社会不安をあおっています。

そんな折に専門家に輪をかけた拝金主義者の政治屋が、よってたかってさらに日本社会の強欲度をあおり、経済の効率を高める政策のみを推し進めようと画策します。経済が停滞すればCovid-19による死者よりもはるかに多くの国民が死亡しかねない、とさえ彼らは主張します。

それには一理ありますが、経済不安のみを一方的に強調する論はまやかしです。日本はコロナ禍に見舞われている世界の国々の中では、経済的にはきわめて恵まれています。日本の経済的な傷は浅いのです。たとえばここイタリアを見れば良い。コロナの猛襲を受けて前代未聞のロックダウンをかけたこの国の経済は、壊滅的な打撃を受けました。

イタリアはもともとG7国の中では最悪の経済状況に悩まされてきました。そこにコロナ禍がやって来て経済はいよいよ落ち込みました。だがそれは多かれ少なかれ欧州の全ての国に当てはまる現実です。イタリア以上の落ち込みを見せるのは、10年前の欧州ソブリン危機の後遺症に悩むギリシャやスペインなどに限られはするものの、英独仏の経済大国なども巨大なダメージを受けたのです。

アメリカでさえ経済危機に陥っています。それらに比較すれば日本の状況ははるかに良いのです。自粛という名の下に社会経済活動に規制をかけた日本では、経済活動が完全にストップすることはありませんでした。経済はむろん落ち込みました。だがもう一度言います。日本経済は世界の中ではとても幸運な部類に入っています。

少々の経済の停滞や空腹が国民に死をもたらすことはありません。日本は経済の停滞と、その結果としての国民の少しの空腹でさえも覚悟で、新型コロナの封じ込めに専心するべきです。日本は以前、それを怠りました。少なくともPCR検査を徹底しなかったことで、市中に潜むおびただしい数のウイルス、あるいは無症状の感染者を見過ごした可能性があります。それが現在の感染者の増大につながっているのかもしれないのです。

死者が少ない日本の現実は幸いです。そのわけは今後科学が解き明かすでしょう。それは胸がわくわくするほどの好奇心を誘う謎です。だが今このときは、その幸運をうまく利用して経済を伸ばすことではなく、「幸運を利用して幸運をさらに強化する」方法を考えるべきです。つまり、さらなる経済の落ち込みを覚悟しての感染防止策を採ることです。

早く言えば、ロックダウンかそれに近い厳しい規制を導入する覚悟を決めること。むろん日本式ロックダウン即ち「緊急事態宣言」でも構いません。国民の自粛に頼る手法は、日本社会の後進性、未開性を端的にあらわすもので不快ですが、背に腹はかえられません。

1918年に始まった「スペイン風邪」の大流行時には、アメリカ国内の都市のうちロックダウンを素早く、強烈に、且つ長期間行ったところほどパンデミック終結後の経済回復が早かった、という研究もあります。時代も経済状況も違うものの、含蓄に富む内容です。だからという訳ではありませんが、筆者はここでも前回と同じように「日本政府は断固とした政策を取れ」と主張します。


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コロナ第2波の足音が聞こえる

イタリアが世界一のコロナ地獄におちいったのは2月。寒いころでした。コロナ地獄は3月、4月と悪化し5月になって少し落ち着きを見せました。イタリア政府は5月から段階的にロックダウンを緩和し、6月には全面的に解除しました。

7月の今はコロナの勢いは衰えたように見え、国内の社会経済活動がほぼ普通に戻りました。だが新規の感染者は恒常的に発見されていて終息には程遠い。それどころか個人的には筆者は第2波の襲撃は不可避と考えています。

新型コロナウイルスは第1波が去って第2、第3波が来るあるいは来ない、と語られるのが普通で筆者自身もそう表現してきました。が、実はそれは誤りで、コロナは常にそこにあって密かに増殖、つまり感染拡大を続けている、というのが正しいのではないかと考えています。

イタリアは世界最悪のコロナ禍中にいた2~3月、また4月の悪夢を経て、第1波が去り次の攻撃を戦々恐々としながら待っている、と多くの人が考えています。しかし、死者数こそ減っているものの、新規感染者はひっきりなしに発見されて累計の感染者数は確実に増えています。「第1波が去った」とは言えないように思うのです。

日本の状況も欠かさず見ていますが、イタリアよりも新規の感染者が多い状況は、やはり第1波の終焉や第2波の始まりと言うくくりよりも、コロナが常にそこにあって密かに宿りを広げている、と見たほうがいいのではないでしょうか。

2020年7月17日の状況は、イタリアよりも日本のほうがより深刻な危機にあると見えます。イタリアの感染者は世界でもトップクラスの検査数の結果として出ていますが、日本の検査数は以前よりも増えたとはいえ多くの国々に比較すると相変わらず少ない。それにもかかわらずここ最近はイタリアを上回る数の感染者が出続けているのです。

古くて、しかし常に新しい問いですが、日本の実際の感染者はやはりはるかに多いのではないか。死者数が極端に少ないことと、無症状の感染者が全体のおよそ半数にも上る、とされる新型コロナ感染の実態が現実を見えにくくしているのではないか、という疑念がどうしてもつきまといます。

2020年7月17日現在の日本の感染者数は前日比623人増です。230人の新規感染者が見つかったイタリアよりもかなり多い。このまま増大し続ければ感染爆発という状況もあり得ます。これまで危ない危ないといわれながらも感染爆発が抑えられてきた分、日本国内にいる人々はきっと不安でしょう。

しかし、ここイタリアにいてコロナ禍に「突然」且つ「深刻に」襲われ、どこからの助けも受けられないまま恐ろしい日々を過ごした体験を持つ者には、―言うまでもなく避けられればそれに越したことはありませんが―感染爆発が来ても恐るるに足らず、という思いもあります。イタリアのように医療崩壊さえ起こさなければ、苦しい中にも救いはあると考えるのです。

当時のイタリアの恐怖を今このとき味わっているのは、おそらくインド、パキスタン、イランほかの中東諸国、またブラジルとペルーに代表される南米各国などでしょう。医療体制が脆弱なそれらの国では、先進国でありながら医療崩壊に陥った際のイタリアの絶望感と恐怖に似たものを実体験しているのではないか、と容易に推察できます。

独裁国家の中国を除けば世界一過酷とされた、イタリアのロックダウンの日々はまだ記憶に新しい。そしてあの日々はきわめて高い確率でまたやって来る、と筆者はどうしても思ってしまいます。たとえあれほど厳しい規制の日々ではなくても、移動制限をはじめとする統制が導入される日が近い将来必ず来る、と考えるのです。なぜでしょうか。

ロックダウンが緩和されて以降、3密への警戒はおろかマスクさえきちんと付けない人々が、海で山で街中でまたレストランをはじめとするあらゆる歓楽施設で、集まり寄り添い顔を突き合わせて歓楽に余念がないからです。ウイルスにとっては絶好の増殖機会です。

また、2月から5月初めまでのすさまじい感染拡大は収まってはいるものの、暑い夏に入ってもイタリアの新規感染者はゼロではありません。ゼロどころか、既述のようにコンスタントに発生しています。7月に入ってからも新規感染者の数は毎日100人以上300人未満の間で推移しているのです。




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中国鬼とのかくれんぼ 

先の記事「COVID-19の今を斬る~ 中国は有罪?無罪?」を読んだ読者から、新型コロナ危機に関連して中国を全面否定しないのは腑に落ちない、という趣旨のメッセージがありました。それに答えて記しておくことにしました。

中国が先日、「香港国家安全維持法」を強引に成立させ施行して、自由香港の終わりが来たとさえ言われる横暴が現実のものとなりました。香港の人々の深い失望と無力感が、ひしひしと筆者の胸に伝わってきます。

筆者が中国を牛耳る中国共産党と首魁の習近平主席を「ほぼ全面的に」否定しながら、中国国民には罪はないと敢えて付け加えることが多いのは、中国国内にはまさにこの香港人と似た立場の国民が少なからずいると考えるからです。香港に加えて台湾の人々も同じ脅威にさらされています。

民主主義国家の場合、時の政権はまがりなりにも国民の意志によって形成され存在しています。国によって民主主義の成熟度に差があり民主主義体制自体も不備な点が多々あるために、問題は尽きることがありませんが、われわれは今のところ民主主義に勝る政治体制を発見していません。

そして民主制はその多くの欠点にもかかわらず、王制や貴族制や君主制などの過去の遺物的な政治体系、また専制や独裁制や全体主義などの近・現代の強権政治構造と比較して、はるかに開明的な仕組みです。むろん一党独裁の中国など問題にもならないほどの優れた政治システムです。

しかしながら、民主主義の優位性にもかかわらず、中国一党独裁国家は特に経済発展というコンセプトでくくって眺めると、あるいは民主主義と不可分の資本主義よりも効率的ではないか、という疑問を抱かせるほどに成功しています。中国独自の「社会主義市場経済」の不思議ですね。

欧米や日本などの先進国は、貧しかった中国を経済的に援助し続けることで彼の国を甘やかし過ぎました。そして中国が経済大国になった今、それらの先進国と世界は、往々にして成功した中国に遠慮し恐れさえして、中国はますますつけ上がる、という構図が出来上がってしまいました。

経済大国とはいえ中国には、民主主義国家に当たり前の基本的人権の保障、すなわち言論と表現の自由、法の下での平等と保護、集会結社の自由、宗教の自由などは皆無です。中国の都会に住んで働く農民工が、決して都市戸籍を得られず、死ぬまで農民のままでいなければならない仕組みなどを勘案すれば、職業の自由さえない、とも言えます。

中国における権力は、習近平氏を頂点にした共産党員によって独占されて、かつての王や専制君主並みかそれ以上の強権によって民衆はがんじがらめに縛られ統制され抑圧されて生きています。それでも権力に近い国民は、普通に権力に守られあるいは権力の便宜を受けて、特権階級となります。

またそれらの特権階級の係累や傘下にある人々も恩恵にあずかって生活水準が良くなったと感じ、権力を大いに支持します。そこには知識人や文化人やインテリ層や専門家集団、また富のおこぼれにあずかって喜ぶ無数の一般大衆などがいます。

彼らは全員が共産党支配を善しとし、中国が何事も世界で一番の国と思い、そう行動します。中には共産党の強権体制の弊害を知り、民主主義体制の長所を知りつつも、自分が特権の恩恵を受け続ける限り何も問題はない、と考える者もいるでしょう。

また思想統制、情報管理、洗脳教育などによって、一党独裁の現在の中国が最善の政治体制と“信じこまされている”無知蒙昧な民衆もいます。彼らは共産党員ではなくても、中国こそ善、中国こそ世界をリードする国、中国万歳、と叫んで排外主義を身内にはぐくみ募らせます。日本のネトウヨ系排外差別主義者らと同じ類の民衆ですね。

筆者に批判的な読者が「中国人は誰もが独善的」と非難するのは、もしかすると彼らがなにかのはずみでそんな類の人々にしか出会っていないからではないでしょうか?だが一般化は禁物です。筆者もそういう人たちを知っていますが、同時にそうではない中国人にもかつて住んでいた米英で、またここイタリアでも多く出会っています。

巨大国家中国には、民主主義体制下における言論、思想、移動行動、教育、政治行為など、全ての自由を知りつつ、それを享受できない、これまたおそらく「無数の」という形容詞を使っても許されるほどの多くの国民がいます。悲しいことに香港や台湾の人々も、近い将来この階層に組み込まれる可能性があります。

そうした人々の存在は、反体制運動家の逮捕や抑圧の現実、チベットの状況、ウイグル族への弾圧など、われわれ自由主義世界の住民にも漏れ伝わってくる断片的な情報で知ることができます。が、実態は判然としません。なぜか。まさに中国が独裁国家であり情報統制を最重要の命題と位置づける警察国家だからです。

強権体制の犠牲になっている国民がいて、前述の如く犠牲になっていることにさえ気づかない無知な民衆がいます。ただ「自らが抑圧されている」と気づくためには情報がなくてはならない。無知な大衆は、「比較する情報」が不足していると政府の非にも気づけないことがよくあります。

だから習近平主席が引っ張る共産党独裁政権は、情報を遮断しまた操作して、民衆をできる限り知の光の届かない暗闇の中に置こうと躍起になります。知の闇の中の人々も、積極的に習近平とその周りの権力に加担していない限り、全て「共産党の犠牲者」と筆者は考えています。

繰り返しになりますが、民主主義体制下では政治権力は国民の意志によって作られています。従って一国の責任は国民全体の責任、とも捉えることができる。政権に反対する国民は、あるいは自らには責任はないと主張するかも知れません。だが、それは間違いです。彼にも責任はあります。

なぜなら彼は現行の政権下では不利益をこうむっているかもしれないが、次の選挙で彼に利益をもたらすと考えられる政権を選ぶことができるからです。言うまでもないことですが民主主義国家には選挙によって政権が変わるという一大特徴があります。国民は政権を選ぶ可能性を有することで、巨大な政治的自由を享受しています。

一党独裁国家、中国の国民にはその自由がない。自由どころか彼らの多くは政治体制の犠牲者です。また彼らは習近平率いる独裁政権の樹立にかかわっていません。かかわることを許されていない。だから彼らには中国共産党に科せられるべき罪はないのです。民主主義国家との大きな違いはそこにあります。中国政権と民衆を筆者がいつも切り離して考える努力をしているのはそれが理由です。

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アッパレ自民党

中国が「香港国家安全維持法」を施行させたことに抗議して、自民党は延期されている習近平国家主席の国賓としての日本訪問を中止しろ、と政府に求めるといいます。

政府は安倍首相が代表ですが、自民党総裁もまた安倍首相なのですから、結局その方針は安倍首相主導のものなのでしょう。筆者は政治的に安倍首相を支持しないが、この決定は大いに支持します。

米トランプ大統領は、「香港国家安全維持法」に対する中国への抗議を口先だけで吼えて何もしません。いや、香港に認めている経済優遇措置を破棄して一応の制裁は科しました。だが中国はそんな制裁など屁とも思っていないでしょう。

習近平主席が率いる一党独裁機構内では、彼の一存で14億余の民衆の生き死にさえ縦横に裁断できます。香港が経済的に行き詰まるなら、そこが完全に破綻し人々が死に絶えるまで制裁されたままにしておけばよい、とさえ彼らは考えます。

考えるばかりではなく、彼らは計略を実行することができます。それは単なる経済よりもはるかに大きな、抑圧、隠蔽、また暴力御免の、デスポティズムという名の万能カードです。ここ最近の米中経済戦争において、中国がアメリカが打ち出す政策に一向にひるまないのも同じ背景があるからです。

米国が香港、つまり中国に科した経済制裁は、自由市場経済では重要な意味を持ちますが、一党独裁国家に対してはそれほどの効果はないでしょう。自由主義陣営はそろそろそこに気づくべきです。そして経済制裁や規制とは違う何かを編み出すほうがいい。

それは米国一国だけではなく、あるいは欧州やEU単独でもなく、むろん日本やインドやカナダやオーストラリアなどの独自策では毛頭なく、自由主義陣営が一丸となって考え実行しなければ決して成功しません。米中経済摩擦でアメリカが単独で中国に対峙して、少しも埒が明かないのが何よりの証拠です。

だがトランプ大統領は、日本を除くほとんどの先進国と自由主義陣営の国々と対立しています。少なくとも蜜月関係にはない。アメリカファーストの利己主義と品格のかけらもない言動が各国の反感を買っているのです。何でもかんでも彼に従うのは、アメリカの従僕に徹して恥じない安倍政権のみです。

香港国家安全維持法への一応の反撃も米国は一国のみで行いました。他の国々を先導して強力な態勢で中国に物申そうという意識がまるでありません。当たり前です。その少し前にはG7をアメリカで開催しようとして、コロナ禍を言い訳にする独メルケル首相やカナダのトルド-首相らにそっぽを向かれています。全く信用がないのです。

結局トランプ大統領にとっては自身の選挙だけが重要で、世界の自由と民主主義と人権などという高尚なコンセプトには興味がないのでしょう。それどころがコンセプトの意義さえ理解していない可能性がある。だから香港の国安法への対応も一国主義のおざなりなものになってしまっています。

トランプ大統領の変わり映えのしない動きとは裏腹に、日本は自民党が習近平国家主席の国賓としての日本訪問を中止するべき、と主張しはじめました。本気ならアッパレな動きです。ぜひその方針を維持してほしいと思います。

だが何事につけトランプ大統領の政策にケツナメ追従する安倍政権です。今回も中国に制裁を科したトランプ大統領に盲目的に従っただけ、という見方もあるでしょう。だが、それは違うように見えます。

なぜなら曲がりなりにも自民党(つまり安倍政権)独自の考えで明確に習近平訪日を拒否する、と言ったのですから評価されてしかるべきです。トランプ大統領に追従するだけの外交を展開していた政府、および政権党の自民党にしては、上出来の内容です。

おそれることなくその線でまい進してほしい。アッパレなものはアッパレです。従来なら安倍政権つまり自民党は、トランプ大統領のケツをなめる一方で、中国に対してもいい顔をして「習近平主席の訪日を待ち続ける」などと言い張るあたりがオチだったのですから。。

 

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自業自得なスケープゴート

 

5月25日、ニューヨークのセントラルパークで、黒人男性に規則違反を指摘された白人女性が、いわば仕返しに(心理的に)警察に電話をして「黒人が私を脅している」と通報して問題になりました。事件は沙汰止みになるどころか捜査が進展して、被告女性は虚偽申告の罪で起訴されることになりました。

筆者は妥当な結果、と思う一方で、正直少しの違和感も禁じ得ません。

妥当だと思うのは、ビデオに記録された被告と被害者のやり取りの一部始終を見る限り、あたかも相手に暴力でも振るわれたかのように装う被告の演技と嘘は許しがたい。また電話申告の内容は実質、「黒人の男が私を殺そうとしている」と言うにも等しいひどいものです。

被告の深い人種差別意識があらわになった醜悪な光景もさることながら、電話を受けた警官が現場に駆けつけて、うむを言わさずに被害者の男性を射殺したかもしれない蓋然性を考えれば、恐ろしい内容です。そういう事件が日常茶飯に起こっているのがアメリカの問題です。

同時に、違和感も覚えます。彼女の行為は許しがたいものですが、それがきわめて多くの白人に共通する「秘められた」差別意識であることが分かりますから、正義感にあふれた人々が騒げば騒ぐほど、被告がいわばそれを正当化するためのスケープゴートにされているようにも感じるのです。

被害者が被告女性の攻撃の様子を撮影したビデオがSNSで拡散されたために、彼女は人種差別を理由に事件後すぐに会社をクビになりました。さらに彼女は公式に謝罪したにもかかわらず、「殺してやる」という脅迫まで受けたりしています。その後も捜査が進められて起訴にまで至りました。

事件発生後の一連の出来事は、正当であると同時にどうも胡散臭いとも筆者は感じます。いま述べたように被告はSNSほかで激しく叩かれ死の脅迫さえ受ける一方で、職を失い住まいを追われました。つまり、被告はすでに相当以上に「社会的制裁」を受けています。だから許されるべき、という意見もあるかもしれません。

そういう意味からではありませんが、筆者は彼女に対してどうしても少しの同情を禁じ得ません。繰り返しになりますが、人々の(特に白人)中の悪意を見えなくするための大騒ぎのようにも見えて仕方がありません。

むろん差別者自身に彼らの差別感情を秘匿する意志がそこで働くとは思えません。が、大勢が騒ぐことで、彼らの心の中に巣食う差別意識が知らず隠蔽されていくという効果があらわれます。筆者はどちらかといえばその点をより憂慮します。

一方ではまた、言うまでもなく被告が指弾されることで、社会全体の悪意が抉り出されてその毒が弱まる可能性は高い。こうした事件を罰する意義はまさにそこにあります。

だが、悪意が心身の奥深くにまで食い込んでいる者、つまり、例えばトランプ大統領の登場によって暴露された、大統領自身を含む半数近い米国人のうちの特に差別意識と憎悪心が強い者にとっては、喧騒は格好の隠れ蓑になる可能性もある。

被告女性を糾弾するばかりではなく、日本のネトウヨ系排外差別主義者らの同類である米国人、つまり差別と憎しみという心の闇に支配されてうごめく、特に白人の米国人の実態について思いをめぐらし監視を続けることが、真の「差別反対思想」やそれへの賛同を示す際の重要なポイントではないか、と考えます。

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岡江久美子さんのこと

 

テレビ屋という仕事柄、各界の著名な方々に会う機会が多くあります。むろん仕事です。そのことについてはれっきとした理由がない限り、文章には書きません。仕事上の出会いですからむやみに披露するのは、自分の中に設けているいわば守秘義務にも似た原則に違反する、という気がしています。

しかし近年、いきさつとか功績とか人柄などを考慮しつつ、いくつかの出会いについては書いて置くほうがいいのではないか、とも考え出しています。主に亡くなった方々を中心に。それは大きくいえば歴史の一要素、とも見なせるからです。

イタリアでは取材を通して、誰もが顔や名を知っている方々にお目にかかりました。ファッションデザイナーやプロサッカー選手にも多く出会いました。90年代が中心です。サッカー選手はもはや全員が現役を引退しています。が、どなたも健在です。一方、デザイナーは亡くなった方も多い。

仕事とはまったく別の場で行き逢った有名人の方もいます。そのひとりが先日新型コロナウイルス感染症で亡くなった岡江久美子さんです。岡江さんとは筆者が大学卒業間近だった頃に、世田谷区・千歳船橋駅近くの居酒屋で偶然に隣り合わせ、年齢が近いこともあったのでしょう、とても親しく楽しく語り合った記憶があります。

映画の話を多くしました。いつかいっしょに映画を撮りましょう、ぐらいの生意気を言ったかもしれません。筆者は大学卒業後には、ロンドンの映画学校入学を目指して渡英することが決まっていました。そのせいもあっていわば気持ちがハイの状態でした。英国留学についても多くを語ったと思います。

既に有名人なのに、岡江さんには気取りも気負いも、むろん思い上がりのかけらさえも見えませんでした。お互いに20歳代前半の若者同士とはいえ、社会的な立場は大いに違います。それなのに筆者に対している彼女の表情や物腰や言葉使いには、自然体の美しさだけがにじみ出ていました。

文字通り明るくさわやかで聞き上手。また大いに話し上手でもでありました。ごく普通の若者だった筆者が美形の有名人に萎縮しなかったのは、ひとえに岡江さんの飾らないお人柄ゆえでした。筆者は終始あたかも大学の女子学生のうちの、親しみやすい人と会話をしているような気分でいました。

大いなる田舎者である筆者は、都会出身の女子学生にいつも憧れていました。東京出身の岡江さんはその典型的な存在にも見えました。垢抜けて麗らかでしかも可愛い女性。筆者はまさに学生気分で彼女に対し、岡江さんもおそらくそれに似た気分で返してくれていたような記憶ばかりがあります。

それから半年後に筆者は英国に渡り、4年以上後に日本に帰国してTVディレクターになりました。岡江さんがいろいろなところで活躍なさっていることは分かっていました。同じ時代に筆者は、東京を基点にアメリカのケーブルTV向けの報道番組やドキュメンタリーを矢継ぎ早に作っていました。

その気になればテレビ局やプロダクションなどの関係者を通して、岡江さんにコンタクトを取ることは可能でした。われわれはテレビカメラの向こう側とこちら側、また有名女優としがないディレクター、という立場の違いはあるものの、つまるところ同じ業界人同士ではあるのです。

単にコンタクトを取るばかりではなく、筆者は仕事を作って岡江さんに出演を依頼することもできました。米ケーブルTV番組は、日本を紹介する2、3分の報道セグメントから10分前後の報道ドキュメンタリーまたソフトニュースなどから成り立っていました。

筆者は若くて未熟ながらも企画アイデアだけは豊富で、連日機関銃のように起案をし、日米混合のスタッフと共にロケに出かけ、編集作業に没頭していました。筆者の企画はぼ全てが通って制作に回されました。ケーブルテレビはいわば黎明期で新しいことにがむしゃらに挑戦していました。だから駆け出しのディレクターに過ぎない筆者の計画でも、よく受け入れられたのだと思います。

番組企画のひとつとして、たとえば岡江久美子さんを取り上げて、日本のタレントあるいは女優の生き様、とでもいうようなタイトルで短いドキュメントを制作することも十分に可能でした。ケーブルTVというマイナーな媒体とはいえ、れっきとしたアメリカ向けの番組ですから、当時日本人は芸能人やアーチストに限らず、文化人また知識人など、ほぼ誰もが積極的に出演を受けてくれていました。

しかし、多忙な日々の中で岡江さんにお願いをする企画を出すことはなく、筆者はまもなくニューヨークに移動することになりました。そこで2年余り仕事をした後に、今度はイタリアに移住しました。どの国にいても日本には仕事や休暇でひんぱんに帰り、岡江さんがTBSの『はなまるマーケット』 で活躍されていることなども知りました。

日本の仕事では主にNHKにお世話になりました。しかし、民放にもかかわりむろんTBSとの仕事もしました。しかし、岡江さんとの接点はないまま時間は過ぎました。テレビでお顔を拝見するたびに、遠い学生時代の記憶を呼び起こしながらひとり勝手に親しむのみでした。

再会することはありませんでしたが、新型コロナ感染症で亡くなったという驚愕のニュースを衛星放送で知って、すぐにイタリアからお悔やみの記事を書こうと思いつきました。しかしながら、冒頭で述べたプロのテレビ屋としての自制が勝り、ためらいました。

そうこうするうちに岡江さんの訃報から2ヶ月が経ちました。だが今も新型コロナの脅威は消えていません。たとえば世界一厳しいとされたロックダウンが終わったここイタリアでは、反動で人々のタガがはずれたのか、3密の危険への警戒心などもどこかに吹き飛んだようです。マスクも付けずに人々が密集して、歓楽にひたる光景がひんぱんに見られます。怖い状況です。

そしてそれは、イタリアほどのコロナ地獄は経験しなかった日本でも、どうやら似たり寄ったりの様相を呈し始めたようです。ほんの少し前の日本では、志村けんさんや岡江さんの訃報が、人々の中に新型コロナへの強い危機感を植え付けるきっかけになりました。

その視座ではおふたりは、自らの死を持って多くの日本人の命を救った、とも言えます。それを尊崇する意味でもやはり自分なりに追悼の意思を示しておこうと考えました。また、岡江さんとは仕事でご一緒したことはないのだから、いわば1人のファンとしてブログ上でお悔やみを申し上げるのは許されるのではないか、とも思いました。

訃報が公表されて以降、岡江さんのお人柄に対する賞賛が後を絶ちません。筆者ははるか昔の学生時代に偶然にお会いして、彼女の人品の清らかさに感銘を受けた自分の印象と、多くの人々のそれが同じであることを誇りに思いつつ、胸中でそっと手を合わせています。

 

 

 


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伊ロックダウン異聞

新聞に次の主旨のコラムを書きました。

 

 

~ロックダウンこぼれ話~

統計によると、新型コロナもなんのその、 イタリア人のほぼ半数がことしも夏のバカンスを計画している。しかし実際に宿泊先や交通機関などの予約を入れているのは、たった5%強。

最低でも一週間は滞在するのが当たり前のバカンスに、予約なしで出かける者はまずいない。従って“6月になっても予約を入れていない”とは、ほぼバカンスに行かない、と言っているに等しい。

一方バカンスに出ない、と決めた約半数の国民のうちの25%は、ごく素直に「新型コロナが怖いから」と答えた。また16%の人々は、コロナの影響で収入が減ってとてもバカンスどころではないという。

イタリア人は3月10日~5月3日のロックダウン中に平均2キロ太った。自宅にこもって運動や散歩もできないのに人々の食事の量は18%増えた。

不安やストレス、食料不足になるのではないか、という恐怖感などが悪く作用した。ロックダウンが明けた今、イタリア人の47%が減量が最大の目標と答えている。

ロックダウン中は66%の家庭が、野菜や果物の皮など、食べられない部分を除いて食料をほとんど捨てず、約75%が自宅待機中は食べ物を以前よりもより大切に扱った。

世界のあらゆる富裕国の人々と同様に贅沢に慣れ切っているイタリア国民が、新型コロナ禍を機に“もったいない”の精神に目覚めたのなら、災いもよしとする余地があるかもしれない。

さらに同時期には約63万人が禁煙に成功した。ただし、電子タバコの喫煙者は43万6千人増加。紙巻きタバコから電子タバコに乗り換えた者が多いと見られている。なぜそうなったかは不明。

ロックダウン初期の3月には犯罪も約70%減少した。DV(家庭内暴力)も37、4%減った。これはDVが増えたイギリスやフランスとは逆の現象である。

一方、高利貸しなどの悪徳商法の被害者は約10%増加。経済的に行き詰まった小規模事業者や個人が、マフィアなどの犯罪組織から金を借りるケースが急増したのだ。

また倒産の危機にある企業は国全体の4割近くにものぼる。コロナ惨禍は特に観光業界を直撃した。観光やバカンスが盛り上がる夏を迎えても、ホテルの半分以上は営業を再開しない(できない)と見られている。

 

 

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