攘夷論にも見える東京五輪の危うさ

東京五輪は外国人観客を排除して開催することになりました。「全ての観客を排除」ではなく、外国人観客だけを受け入れない、というところが気になります。

日本人、外国人を問わず観客は一切入れない、つまり『無観客での開催』というのならまだ納得できます。だが日本人はOKで外国人は排除、という内容は驚きです。

観客を「受け入れる」とか「受け入れない」などの婉曲な言い方をしていますが、要するにそれは外国人観客を「排除」して開催、ということです。まるで幕末の攘夷運動のようでもあります。

激しい暴力と憎悪が伴った当時の攘夷運動とはもちろん違いますが、日本人の根深い外国人嫌いや排外思想がにじみ出ているようで、少し胸騒ぎがしないでもありません。

極右系保守主義者や民族主義者などは例によって、飽くまでもコロナの感染拡大防止のための措置であって排外思想の体現ではない、と言い張りそうです。

だが、それほどに感染防止を徹底したいのなら、日本人観客も締め出して無観客で開催するのが筋です。

もっと言うなら、五輪の中止が最大の感染予防策です。パンデミックにかこつけて、競技会場には日本人は入場できるが外国人はオフリミット、という考えは差別と同じアブナイ思想です。

日本人観客はコロナ感染とは無関係とでもいうのでしょうか。

その決定には、日本人自身が無意識のうちに日本人は特別と考えてしまう「異様な日本人心理」がはたらいているのではないか、と危惧しないでもありません。

日本国内での開催だから日本人だけは特別に競技場に入っても良い、という考えがあるとしたらそれもまた攘夷論です。あるいは攘夷論に似た排外差別思想です。

オリンピックは開催国だけのものではありません。世界の人々が共に手を取り合って運営し、楽しみ、友誼を深める世界共有の祭典です。それがオリンピックの理念です。

世界のコロナ状況は、五輪開催がGOになること自体が異様に見えるほどに悪い。感染拡大も世界的な移動制限も止むことはなく、変異株が猖けつを極めています。

それでも敢えて開催すると決めたのですから、コロナ対策などに自信があるのでしょう。ここまでの浪費と先の経済的利害のみに目がくらんだ無謀な動きではないことを祈ろうと思います。

それにしても日本政府の戦略の貧しさは絶望的とさえ感じます。日本は安倍前政権時代からコロナ禍が進行しても五輪開催を諦めない、と一貫して主張してきました。

それなのになぜワクチン対策を強烈に推し進めなかったのでしょうか。日本のワクチン接種状況がいま現在、例えばイスラエル並みのレベルであったならば事態は大きく違っていました。

おそらく五輪が始まる7月頃には国民の大半が接種を済ませていて、感染拡大の不安を覚えることなく五輪祭りを楽しむ環境が整っていたことでしょう。

そうなれば外国人観客の到来も問題にならなかったはずです。やみくもに五輪開催を叫ぶだけで、なんらの長期戦略もなかった安倍前首相の罪は重い。

その安倍政権の中枢にいて、やがて政権そのものさえ引き継いだ菅首相は、ワクチンどころかコロナ感染防止を国民に呼びかける方法さえまともに知らない体たらくです。

世界の統計では、多くの国の70%以上の国民が、東京五論を開催するべきではない、と考えています。

ここイタリアに限って言えば、筆者の周囲の人々や友人知己のうちの8割以上が、東京五輪開催に反対、という雰囲気です。

彼らはほとんどが親日の人々です。五輪中止論に同情しながらも、コロナが猖けつ を極める今の状況では、とてもスポーツ大会には気持ちが向かない、と一様に語ります。

統計では、日本人でさえ大半が7月からの五輪開催に反対、とされています。そんな中で、いやそんな中だからこそ、コロナからの復興の象徴としてオリンピックを開催する、と主催者は言います。

その心意気は善しとするべきです。開催のタイミングが果たして適切かどうかはさておいても、考え方は間違っていないと思います。

しかし、聖火リレーの様子などを衛星中継で見ていると、強烈な違和感に襲われるのもまた事実です。世界のコロナの状況にはお構いなしに日本人だけで盛り上がる様子がしっくりこないのです。

世界から孤立して一人勝手に騒ぐのは、日本人であることしか自慢するものがない日本教の狂信者の、いま流行りの空騒ぎにも似ているようです。

つまり「日本ってすごい」「日本って素晴らし過ぎる」などと自画自賛する、珍妙な「集団陶酔シンドローム」のような。

隔絶されて極東の島国に生きている「日本島民」が、世の中に認められたい一心で「世界祭の五輪」を誘致した。

ところが運悪くコロナで状況が一変した。でも、何も気づかない振りで必死に盛り上がっている。。

みたいな、悲しくも怖い光景に見えないこともないのです。

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国民と対話できない管首相は飛べない鳥より悲しい

詭弁が呼ぶ迷走

イタリアにいながら衛星放送を介して日本とのリアルタイムでほぼ毎日菅首相を目にします。むろんネット上でもひんぱんに見ます。出くわすたびに気が重くなります。

国会の答弁では相変わらず自らの言葉を持たず官僚が書いた文面を読み上げています。そのせいなのか目つきがあまり良くないと映ります。人を信用せず絶えず疑惑に囚われている眼差しに見えます。

彼は安倍政権の官房長官として脅しを専門にしていた、という噂をいやでも思い出してしまいます。脅しの性癖が形を変えて、だが端的に出るのが、批判されて「俺はそうは思わない」と開き直る見苦しい答弁なのでしょうか。

菅首相には前後の見境なく且つエビデンスも示さないまま、開き直ったり強弁したり詭弁を弄する癖があるようです。強弁が得意なところは彼のボスの安倍前首相にも似ています。

菅義偉首相は昨年12月14日、GoToトラベルを全国一斉に停止すると発表しました。それでいながら「GoToトラベルの人の動きによる感染拡大の証拠はない」と言い張りました。

それならなぜあのときGoToトラベルを止めたのだ、とありきたりの論難をする代わりに、ここで次のことを指摘しておこうと思います。

欧州の真実

欧州各国は、昨年3月から4月がピークだった感染拡大第1波の沈静化を受けて、5月から徐々にロックダウンを緩和し6月には多くの国がほぼ全面的にそれを解除しました。

それを受けて厳しい移動規制に疲れきっていたヨーロッパの人々は、どっとバカンスに繰り出しました。また仕事や旅行での人の動きも活発になりました。

その結果、夏ごろから英仏独スペインなどの主要国を筆頭に、欧州では感染拡大が再び急速に強まりました。第2波の到来です。

欧州の主要国の中では、唯一イタリアだけが感染拡大を免れました。

第1波で世界最悪のコロナ地獄を味わったイタリアは、ロックダウンを解除したものの、社会経済活動の再開スピードを抑えたり感染予防策を徹底し義務化するなど、慎重な政策を取り続けました。

それが感染抑制につながりました。

だがイタリアはEU(欧州連合)の加盟国であり、人と物の動きを自由化しているシェンゲン協定内の国でもあります。国外からの人の流入を止めることはできず、バカンス好きの自国民の移動を抑えることもできませんでした。

規制解除の開放感で高揚したイタリアの人々は、国内で動き回り、国外に出た者はウイルスを帯びて帰国し、他者に受け渡しました。そうやってイタリアにも遅い第2波がやってきました。

コロナウイルスは自身では動かず、飛びもせず、這い回ることもしません。必ず人に寄生して人によって運ばれ、移動先で新たな宿りを増やして行きます。

欧州全体とイタリアの例に照らし合わせて見ても、管首相の強弁とは裏腹に、GoToトラベルの人の動きが感染拡大の大きな一因、という見方には信憑性があることが分かります。

アナクロ陰気なムラオサ(村長)

「GoToトラベルは感染拡大を招かない」という菅首相の根拠のない主張は、経済を重視する気持ちから出た悪気のない言葉かもしれません。だが、不誠実の印象は免れない。

そんな例を出すまでもなく、菅首相の話しぶりや話の内容には、分別や学識がもたらす「知性」が感じられません。知性を基に形成される深い思考や創造などの「教養」に至っては、皆無とさえ言いたくなります。

もっと言えば古代のムラ社会のネクラなボスが、いきなり現代日本のトップに据えられたような印象さえあります。そういう人が日本の顔として国際政治の舞台にも出て行くことを思うと気が重くなります。

何よりも問題なのは、それらの負の印象が錯綜し相乗して、菅首相の存在自体から明朗さを消し去ってしまうことです。それがテレビ画面ほかで見る彼の印象です。

彼は実際には明るいオジさんなのかもしれません。だが国民にとっても世界の人々にとっても、メディアで見る菅首相の印象が彼の存在の核心部分になっているのは否定できません。

イメージの重さ

イメージは火のないところに立つ煙のようなものです。実体がありません。従ってイメージだけで人を判断するのは危険です。しかし、また、「火のないところに煙は立たない」とも言います。それは検証に値するコンセプトなのです。

一般的に見てもそうです。ましてや彼は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在です。そこではイメージが重要です。

菅首相のイメージの善し悪しは日本の国益にさえ関わります。細部にこだわって言えば、彼のネクラな印象は、例えば外国を旅する一人ひとりの日本国民のイメージさえ悪く規定しかねません。無視できないことなのです。

明朗さに欠ける国のトップのイメージは致命的です。国際政治の顔で言えば、中国の習近平国家主席や韓国の文在寅大統領、さらにいえばトルコのエルドアン大統領などの系譜のキャラです。

明朗な人の印象は、存在や言動や思想が、善悪は別にして「はっきりしている」ことから来ます。その点菅首相は表情も言動もはっきりしない。だから人に与える印象が暗い。そこは文在寅大統領も似ているようです。

中国の習主席は表情や物腰がヌエ的です。トルコのエルドアン大統領は、無知蒙昧なムラのボス的雰囲気が、不思議と暴力を連想させてうっとうしい。それが彼の暗さになっています。

コミュニケーション力

イメージもさることながら、日本のトップとしての菅首相の最大の難点は、何といってもコミュニケーション力の無さです。政策やポリシーや政権の方針といったものは、実は菅内閣はまっとうなものを掲げています。

それらは政策立案のうまい優秀な官僚やブレーンが考え出したものです。そして首相たるものの最大の役目は、彼の政権のブレーンが編み出したポリシーを、国民にわかり易く伝えることです。

国民が理解しなければ、政策への支持は得られず、結果それを実行に移すこともできない。即ち政策は無いにも等しいものになります。

菅首相は自らの言葉を持たないばかりではなく、国民と対面していながら官僚が準備した「政策文書」を下を向いて読み上げることが多い。それはコミュニケーション法としては最悪です。

彼は自分で考え、書いていないから内容を覚えていない。そのため正面を向いて国民に語りかけることができない。さすがに内容を理解してはいるのでしょうが、文面を覚えていないから棒読みをするしかありません。

せめて文面を暗記していれば、カメラ目線で、すなわち視線を国民にしっかり合わせながら内容を読み上げることができます。つまり語りかけるポーズが取れる。

正面を向いて語りかける言葉は国民の心に響きやすい。そこから菅首相への親近感が生まれ、それは政策への支持となって実を結びます。

コミュニケーション力が貧弱であるにもかかわらず、彼は文書を暗記しカメラに向かって語りかける努力さえしない。努力そのものがコミュニケーションの一環だという基本概念さえ知らない。

それは「俺が理解されないのは相手が悪い」という典型的な傲岸思想をもたらします。菅首相が国会答弁やインタビューなどで見せるそっけなさや閉鎖性は、そこに起因しているように見えます。

コミュニケーション力ほぼゼロの管首相が、今後国際会議などで世界中の首脳や政治家や各種官僚などと会談し、付き合い、外交関係を結んでいく状況を想像するのは難しい。

なぜならコミュニケーションのできない者には、それらの活動で成果を挙げることもできないからです。それどころか、それらの営為自体が実は「コミュニケーションそのもの」ですから状況は深刻です。

ムラの言語

日本人は一般的に欧米人に比べてコミュニケーション能力が低い、とよく言われます。日本文化が能弁や自己主張や個人主義に重きを置かない、内省的な傾向の強い社会・人文・生活体系だからです。

政治家もその縛りから逃れることはできません。

古い時代の日本の農民は、ムラの中だけで通用するいわば無言の言語「阿吽の呼吸」を駆使して彼らだけの意思伝達のシステムを作り、何かがあるとシステム外の者を村八分にしました。

片や現代の日本の政治家は、仲間や政党や派閥などの政治ムラの中で、彼らだけに通用する「根回し」という名のコミュニケーションの体系を作り上げます。

だが仲間や群れや徒党内だけで通用する意思伝達手法は、忖度や憶測や斟酌の類いの仲間内の符丁にとどまるものであって、不特定多数の人々に一様に、あるいは広範に伝わる真のコミュニケーションではありません。

菅首相の言葉が中々国民の心に沁み入らないのは、彼が政治ムラ内だけで通じる言語を使っているからです。彼が政界でのしあがったのは、彼の話す言葉が政界では十分以上に通用しているからなのでしょう。

だがテレビを見ている国民には一向に意味が伝わらない。国民は政界ムラ内の人間同士が使う言葉なんて知りません。知らない言葉に感動しろと言われても、国民にはなす術がないと思うのです。

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不幸中のさらなる不幸という悲運

筆者は先日、東日本大震災10周年に際して何か書くつもりで今月のはじめあたりから構えていたが、いざ3月11日になるとその気になれなかった、と書きました

つまり出来事があまりにも巨大すぎて、その巨大さに負けて何も書けない、と言ったのです。だがそれは、事案の大きさを強調したい気持ちを言い訳にした逃げだと気づきました。

つまり筆者は考えることを放棄して、事が重大すぎて自分には表現できない、と辞柄し書くことから逃げました。そう気づいたのであらためて考え、書くことにしました。

筆者が大震災10年の節目に何かを書く気を失ったのは、主にNHKの良質の報道番組やドラマに接して文章に無力感を覚えたからです。

東日本大震災から10年の節目ということで、NHKは筆者が知る限り3月の初めころから多くの関連番組を放送してきました。

ニュースや特集番組またドキュメンタリー。さらにドラマもありました。綾瀬はるか主演の『あなたのそばで明日が笑う』また遠藤憲一主演の『星影のワルツ』は実際に見ました。

ほかにも「ハルカの光」「ペペロンチーノ」など、大震災を扱ったドラマがいくつかあったらしいのですが、前述の2作以外は見逃しました。

民放のドラマ「監察医朝顔」でも大震災で行方不明の母親をモチーフに家族の物語が展開します。昨年に続いてそれもずっと見ています。

被災者の苦難と葛藤と痛みは尽きることなく続いています。また家族を失った遺族の悲嘆も終わることはありません。だがそれらは時間とともに癒される可能性も秘めています。

なぜなら少なくともそれらの被災者は、不幸にも亡くなってしまった愛する人々との「別れ」の儀式を済ませています。再出発への区切りあるいはけじめをつけることができたのです。

一方、行方不明の家族を持つ人々にはその安らぎがありません。彼らは永遠に愛する家族を待っています。時には重過ぎるほどのこだわりが被災者の生を支配しています。

日本人が遺体にこだわるのは精神性が欠落しているから、というキリスト教徒、つまり欧米人の優越感に基づく言い草がかつてありました。今もあります。

キリスト教では人は死ぬと神に召されます。召されるのは魂です。召された魂は永遠の生命を持ちます。だから肉体は問題になりません。言い方を変えれば、精神は肉体よりも重要な事象です。

肉体(遺体)にこだわって精神を忘れる日本人は未開であり、蒙昧で野蛮な世界観に縛られている、とそこでは論が展開されます。

それは物理的、経済的、技術的、軍事的に優勢だった欧米人が、自らの力を文化にまで敷衍して彼らはそこでも日本人を凌駕する、と錯覚した詭弁です。

物理、経済、技術、軍事等々の「文明」には疑いなく優劣があります。しかし、精神や宗教や慣習や世界観等々の「文化」には優劣はありません。違いがあるだけです。

それにもかかわらず、かつてはキリスト教優位観に基づくでたらめな精神論がまかり通りました。面白いことに、日本人自身がそんな見方を受け入れてしまうことさえありました。

それは欧米への劣等感に縛られた日本人特有の奇怪な心理としか言いようがありません。欧米の圧倒的な文明力が日本人を惑わせたのです。

日本人が遺体に執着するのは、精神に加えて肉体が紛れもなく人の一部だからです。両者が揃ってはじめて人は人となる。死してもそれは変わらないと日本人は考えています。それが日本の文化です。

同時に日本人は、遺体を荼毘に付することで、肉体的存在が精神的存在に昇華することも知っています。筆者自身もその鮮烈な体験をしました。

母を亡くした際、母の亡きがらがそこにある間はずっと苦しかった。だが、一連の別れの儀式が終わって母の骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えました。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間でした。筆者は岩のような確かさでそのことを実感することができました。

片や、彼らのみが精神を重視するとさえ豪語する欧米人は、「再生」という存意にもとらわれていて、遺体を焼き尽くすことはしません。

荼毘に付して遺体を消滅させてしまうと、再生のときに魂の入る肉体がないから困ります。だから遺体は埋葬して残します。

その点だけを見ると、再生思想にかこつけて遺体を埋めて温存しようとするキリスト教徒の行為こそ、肉体にこだわり過ぎる非精神的なもの、という考え方もできます。

だがそれは「山と言えば川と言う」類の、不毛な水掛け論に過ぎません。信じる宗教が何であろうが、死者の周りで精神的にならない人間などいません。

精神を神に託すのも、荼毘を介して精神存在を知るのも、人間が肉体的存在であると同時に「精神的存在」でもあるからです。

日本人(非リスト教徒)は、遭難や事故や災害で亡くなった人の遺体が見つからないといつまでも探し求め待ち続けます。肉体(遺体)にこだわります。

だが実は、津波で行方不明になった肉親を家族がいつまでも探し続けるのは、遺体にこだわっているのではなく、その人に「会って」生死を確かめたいからです。

会って不幸にも亡くなっていたなら、荼毘に付して精神的存在に押し上げてやりたいからです。それは死者の魂が神に召される事態と寸分も違わない精神的営為です。

同時にそこには―あらゆる葬礼がそうであるように―生者への慰撫の意味合いがあります。生者は遺体に別れを告げ荼毘に付することで悲運と折り合いをつけます。

けじめが得られ、ようやく大切な人の死を受け入れます。受け入れて前に進みます。前に進めば、時が悲しみを癒してくれる可能性が生まれます。

だが生死がわからず、したがって遺体との対面もできない行方不明者と、家族の不幸には終わりがありません。けじめがつけられないから終わりもないのです。そうやって彼らの不幸は永遠に続きます。

被災地と被災者の周囲には、行方の知れない大切な人を求め、思い、愛し続ける人々の、悲痛と慟哭が満ち満ちています。筆者はせめてそのことを明確に記憶し、できれば映像なり文章なりに刻印することで、彼らとの絆を確認し続けようと思います。

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ロックダウン・エレジー

2020年の過酷なロックダウン開始から1年と5日目の3月15日、イタリアは再び都市封鎖を敢行しました。

ただし今回は全国20州のうち11州が対象。

残り9州のうち8州にはややゆるい準ロックダウンが適応されます。

島嶼のサルデーニャ州は唯一、規制の対象から外れます。島の感染防止策がうまくいっているからです。

期日は復活祭が終わる4月5日まで。

復活祭期間の4月3日~5日はサルデーニャを除く全土が完全封鎖されます。復活祭中は例年、祭りを祝う人の動きが盛んになるからです。

2020年3月10日からのロックダウンに比べて世間が割と穏やかに見えるのは、国民がコロナに慣れたから。危険は人々が慣れた分、むしろ高まっていると見るべきでしょう。

昨年の第1波以来、常に最悪の感染地であり続けているロンバルディア州に住まう筆者にとっては、いわば毎日が変わらずロックダウン中です。

食料の買出しや仕事、あるいは通院などでは外出できますが、必ず自己申告の外出証明書を携帯しなければなりません。

筆者はその証明書とマスク、また消毒液等を常時車に積んで動くのが習慣になっています。わが家は田園地帯にあって何をするにも車が必要なのです。外出しない時はむろん自宅に留まっています。

筆者は必要以外には全く外出をしないで、執筆を含む仕事とWEB巡りと読書三昧の暮らしをしています。その合間にテレビも結構見ます。 日伊英3ヶ国語のニュースとスポーツ。また主にNHK系の日本のドラマです。

コロナ禍以前からやっている料理もよく作ります。春から夏には菜園も耕します。夜はRAI(イタリアのNHK)の8時のニュースをじっくり見ながらワインやビールを飲む、という暮らし。

昨年はロックダウンが明けた6月から8月の間は、感染拡大がかなり収まったこともあって、外出もひんぱんにしました。

バールでワインを楽しみレストランにもよく出かけました。常にマスクをして対人距離を取り、密を避ける努力をしながらの行動でしたが、それなりに楽しく時間を過ごしました。

バカンス期が過ぎて再び感染拡大が始まってからは、毎日がほぼロックダウンの状態に戻りました。そこでは庭で焚き火をすることも覚えました。

日本のコタツにヒントを得たと考えられる鉄製の焚き火台が手に入ったのです。冬の間はそれを使ってしきりに焚き火をしました。

実を言えば、2021年3月半ばの現在もーまた今後もしばらくはー焚き火台のぬくもりと明かりを大いに楽しんでいます。

午後5時ころから暗くなる7時あたりまで、暖まりつつ、例によってワインをはじめとする酒を楽しみます。読書をするときもあります。

そこでもチーズやサラミまたプロシュットなどをはじめとするいわゆるサルーミ(加工肉)類、自分で作る肴などをさかんに食べます。

結果、動かず飲んで食べる日々が重なって、体は丸くなりナチュラル落髪も進んで頭はテカるものの、人間のできていない悲しさで精神は残念ながら未だ丸くはなりきれません。

それでも寒さが大きく和らぐまでは庭火を続けるつもりでいます。泣いても怒っても楽しんでも同じ人生。ならば泣かず怒らず楽しむべき、と信じるからです。

そんな具合に退屈しない毎日ですが、それでも自在に外出をできない生活には少しうんざり気味、というのが正直なところ。

この閉塞状況から脱出するにはワクチンの普及しかないことは明らかです。相変わらずワクチンを一日千秋の思いで待ち続けています。


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大震災10年目の丹心

東日本大震災10周年に際して何か書くつもりで今月のはじめあたりから構えていましたが、いざ3月11日になるとその気になれませんでした。

何を書いても大震災の巨大な悲劇の前では浅薄で実がなく、口からでまかせのような印象があります。

その気分は10周年を振り返るNHKの報道やドラマやドキュメンタリー等を見る間にいよいよ募りました。

多くの犠牲者と、いまだに避難を続ける4万人余りの被災者、そして2529人の行方不明者。行方不明者の周囲に渦巻く深い悲しみ。

それらをあらためて知らされると、下手な文章で下手な感情移入などできない、と腹から思うのです。

2011年5月、微力ながら東北の被災地を援助するために自家の庭でチャリティーコンサートを催しました。

多くの人の力でそれはうまく行きました。

コンサートが終わった直後から、次は10周年の節目にまた開催しようと決めていました。しかし、昨年からのコロナ禍で、とうていかなわない夢となりました。

コロナパンデミックは大震災の思い出さえも消しかねいほどのインパクトを世界に与えました。

あまりにも大き過ぎる不幸の記憶は、それでもむろん消えはしませんが、そこに思いを込める時間が短くなったのは否定できません。

その意味でもコロナパンデミックは、重ねて憎い現象だと繰り返し思います。

時間が過ぎて心騒ぎが少し治まったとき、思うところを書けるなら書こうと心に決めてはいます。

なぜならたとえあの大震災といえども、記憶はひたすら薄らいでいくことが確実ですから、いま書けることは書いておくべき、と考えるのです。

 

 

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伊ロックダウン1周年の陽気なブルー

2020年の今日、イタリアは新型コロナの感染拡大防止のために全土のロックウンを断行しました。

薬局と食料品店を除くすべての店が閉鎖され、病気治療や食料の買出し以外の国民の外出が厳しく制限されました。

イタリアは、そのほぼ20日前の2月21日から23日にかけて、クラスター絡みの感染爆発に見舞われました。

感染者と死者が激増する中で医療崩壊が起こり、北部の感染爆心地では、軍のトラックが埋葬しきれない遺体を満載して列を成して進みました。

その凄惨な映像は世界を震撼させました。

ロックダウンはイタリアの前に中国の武漢でも行われました。だがそれは国民を思いのままに生かし、殺すことができる独裁国家での出来事。

民主主義国家イタリアにとっての十全の参考にはなりませんでした。

国民の自由を奪うロックダウンは憲法違反、という強い批判もある中、イタリア政府は民主主義国では不可能とも考えられたほぼ完全な都市封鎖を決行しました。

当時のジュゼッペ・コンテ首相は「明日、強く抱きしめ合えるように今日は離れていましょう。明日、もっと速く走れるように今日は動かずにいましょう」という名文句を添えて国民に忍耐と団結と分別ある行動を要請しました。

見習うべき手本のない状況の下、死臭を強烈に撒き散らすコロナの恐怖におののいていたイタリア国民にとっては、他に選択肢はありませんでした。彼らは政府の強硬な施策を受け入れました。

国と法と規則に従うことが大嫌いなイタリア国民が、ロックダウン中は最大96%もの割合いで政策を支持しました。

そこにはコンテ首相の熱い誠実とそれを国民に伝える卓越したコミュニケーション力がありました。

イタリアの先例はその後、次々に感染爆発に見舞われたスペイン、フランス、イギリス、アメリカなどの規範となりました。

それらの国を介して規範はさらに拡大し世界中が恩恵にあずかりました。

当のイタリアは、過酷ですばやいロックダウン策が功を奏して、5月以降は感染拡大に歯止めがかかりました。

しかし夏のバカンスが終わるころには、前述の国々を追いかける形で、感染拡大第2波に呑み込まれて行きました、

ロックダウンからちょうど1周年の今日、イタリアは再び全土ロックダウンを敢行するか否かの瀬戸際に立たされています。

コロナウイルスの変異種による感染拡大が激しくなっているのです。

3週間の全面封鎖を要求する声もあります。しかし、今のところは週末だけをロックダウンし、状況によってオンとオフを繰り返す方式が有力視されています。

それは昨年末から年始にかけても取られた方策です。

ロックダウンが始まった昨年のこの時期には、庭のモクレンの花が7分咲きほどになっていました。

ことしは去年より寒く、開花が遅れました。それでも蕾がほころび出しています。

コロナは花を枯らすことはできない。

季節を止めることもできない。

人の歩みを止めることも実はできない。

人は勇気を持ってコロナに対峙しワクチンを開発してそれを克服しようとしています。

おそらく筆者は来年の庭のモクレンの開花を、マスクを付けずに、春の空気を思い切り吸いつつ眺めていることでしょう。

そう切に願っています。

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違和感大の伊レンツィ元首相だが、暴力より一億倍マシだ

先日、マッテオ・レンツィ元首相に封筒に入った2発の銃弾が送りつけられました。犯人は分かりませんが、ここ最近レンツィ元首相はそこかしこからの恨みを買っています。

彼はことし1月、第2次ジュゼッペ・コンテ内閣から自身が率いる「Itaria・Viva」党所属の閣僚を引き上げて連立政権を崩壊させました。結果、マリオ・ドラギ内閣が誕生しました。

イタリアは新型コロナパンデミックに打ちのめされています。その最中に政治混乱を引き起こしたレンツィ元首相には、厳しい非難が投げつけられました。

「壊し屋」という異名を持つ彼は、権謀術数に長けていて、政敵はもちろん仲間でさえ容赦なくなぎ倒す手法で知られています。

現在46歳のレンツィ元首相は、29歳でフィレンツェ県知事になり、34歳でフィレンツェ市長に当選。その5年後には首相になりました。

39歳での首相就任は、それまで最も若い記録だったムッソリーニの42歳を抜いて史上最年少になりました。

レンツィ氏の若さと華々しい経歴は、驚きと期待と希望をイタリア中にもたらしました。筆者も彼の行動力とEU信奉主義のスタンスに共感を覚えました。

しかし、少しの不安はありました。彼はすぐさま腐敗政治家の象徴のようなベルルスコーニ元首相とも手を結んだからです。だがそれはまた、彼の優れた政治力の表れのようにも見えました。

そうはいうものの、筆者のその不審は残念ながら時とともに増大しました。筆者は「壊し屋」の異名どおりの彼の政治手法に違和感を隠せなくなっていきました。

筆者の違和感は多くの人の違和感でもあったようです。レンツィ首相は、人が彼を俊才と見なすよりもさらに強く自らを頼むところがあるらしく、自己過信気味の鼻持ちならない言動を多く見せるようになりました。

それが最高潮に達したのが、2016年の憲法改正を問う国民投票でした。自信過剰の絶頂にいたレンツィ首相は、「私(憲法)を取るか否か」と言うにも等しい思い上がったスローガンを掲げて、国民と政敵の憎しみを買いました。

彼は国民投票で大敗し首相を辞任しました。辞任したあとも、もはや「生来のもの」と誰もが納得した尊大な言動は止まず、しばしば人々の反感を招きました。

そんな具合に元首相にはただでも敵が多いのですが、1月の政変は特にタイミングが悪く、彼自身が「私は多くの人の怨みを買った」と告白するほどの醜聞になりました。

加えて彼は、自らが誘起した政治危機の真っ最中にサウジアラビアを訪れて、同国人記者の殺害指示やその他の疑惑でも憎まれている、ムハンマド皇太子をさんざん持ち上げる言動をしました。

それだけでも十分に不可解な行動に映るのに、彼はサウジアラビアから1000万円以上の報酬を受け取っていたことが判明しました。レンツィ元首相への非難は嵐の勢いで膨張しました。

そこに死の脅迫を示唆する銃弾送付事件が起きました。愚劣且つ幼稚な行為ですが笑って流せるような事案ではありません。政争に暴力が伴うようでは独裁国や軍政国と同じです。

実は筆者は1月の政変以来レンツィ元首相を糾弾する記事を書き続けてきました。それだけでは飽き足らず、さらなる批判を書こうと考えていた矢先に銃弾事件が発生しました。

筆者はかつて彼に大きな期待をかけました。その分失望も大きく、2016年前後から厳しい批判者になりました。1月の政変にも強い怒りを覚えました。

しかし、彼に銃弾を送りつけた蛮行には、元首相への批判など物の数にも入らないほどの憤りを感じます。卑怯・下劣な行為は強く指弾されなければなりません。

そのことを明言した上で、レンツィ元首相への抗議は続けたい。彼は一国の首相まで務めた男です。しかもれっきとした現役の政治家。彼の言動の責任はとても重い。

暴力には断固として反対しますが、それは筆者が彼への批判を取り下げるべき理由には全くならない、と考えます。

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イタリア「五つ星運動」が「コンテひとり星運動」になる?

先日辞任したイタリアのジュゼッペ・コンテ首相が、「五つ星運動」に入党するよう熱心に誘われ、その気になっているようです。

入党と言っても、党を率いてくれるように創始者のベッペ・グリッロ氏と幹部に頼まれたのです。

「五つ星運動」の支持率は低迷しています。一方、彼らの支えで1月まで政権を維持したコンテ前首相の人気は未だ衰えません。

「五つ星運動」はコンテ人気を利用して浮上したい。片やコンテさんにも政治の世界でもう一度脚光を浴びたい気持ちがあるかもしれません。

コンテ前首相は2018年6月、大学の法学教授から突然宰相に抜擢されました。

彼は「」五つ星運動」に担がれ、これを連立相手の「同盟」が受け入れました。「五つ星運動」と「同盟」は、左右のポピュリスト、と称されるように考え方や主張が大きく違います。

加えて両党はどちらも自らの党首を首相に推したい思惑もあり、折り合いがつきませんでした。そこにコンテ氏が出現。

「同盟」は政治素人の彼を組しやすいと見て首相擁立に同意しました。

議会第1党の「五つ星運動」と第2党の「同盟」の妥協で誕生したコンテ首相は、初めのうちこそ2党の操り人形と揶揄されたりしました。しかし、時間と共に頭角をあらわしました。

コンテ首相はバランス感覚に優れ、清濁併せ呑む懐の深さがあり、他者の話をよく聞き偏見がないと評されます。

彼のリーダーシップは、「同盟が連立を離脱したとき、同党のサルビーニ党首を「自分と党の利益しか考えておらず無責任だ」と穏やかに、だが断固とした言葉で糾弾した時に揺るぎ無いものになりました。

そして2020年はじめ、世界最悪と言われたコロナ地獄がイタリアを襲いました。

コンテ首相は持ち前の誠実と優れたコミュニケーション力で国民を励まし、適切なコロナ対策を次々に打ち出して危機を乗り切りました。

するとことし1月、コンテ政権内にいたレンツィ元首相が反乱を起こして倒閣を画策。第3次コンテナ内閣が成立するかと見えましたが、政権交代が起きてドラギ内閣が成立しました。

2018年の政権樹立から2021年1月の政権崩壊まで、「五つ星運動」はコンテ首相を支え続けました。しかし、党自体の勢力は殺がれる一方でした。

「五つ星運動」は政権運営に不慣れな上に内部分裂を続けました。ディマイオ党首が辞任するなどの混乱も抱えました。

そこにコンテ首相の辞任、ドラギ新内閣の成立と、「五つ星運動」にとってのさらなる危機が重なりました。

そうした情勢を挽回する思惑もあって、「五つ星運動」の生みの親グリッロ氏は、コンテ前首相に党首かそれに匹敵する肩書きで同党を率いるように要請しました。

コンテ前首相が「五つ星運動」のトップになれば、彼自身の政治家としてのキャリアと「五つ星運動」の党勢が大きく伸びるかもしれません。

逆に情勢によっては両者が失速して政界の藻屑となる可能性も高い。

「ほぼ革命に近い変革」を求める「五つ星運動」を、その気概を維持したまま「普通の政党」に変えられるかどうかがコンテ前首相の課題です。

「五つ星運動」は2018年の選挙キャンペーン以来、先鋭的な主張を修正して穏健な道を歩もうとしています。EU懐疑主義も捨てて、ほとんど親EUの政党に変貌しつつあります。

「五つ星運動」はコンテ政権と引き換えに誕生したドラギ内閣を信任しました。それは彼らが、彼らの言う「体制寄り」に大きく舵を切ったことを意味します。それが原因で同党はさらに混乱し造反者も出ました。

そうやって「五つ星運動」はまた分裂し党勢もますます殺がれました。落ち目の彼らの希望の星がコンテ前首相なのです。

穏健になり過ぎれば、彼らが攻撃の的にしてきたイタリアの全ての既成勢力と同じになる。一方で今のまま先鋭的な主張を続ければ党は生き残れない。

「五つ星運動」は特に経済政策で荒唐無稽な姿をさらしますが、弱者に寄り添う姿勢の延長で、特権にどっぷりと浸っている国会議員の給与や年金を削る、とする良策も推進しています。

またベルルスコーニ元首相に代表される腐敗政治家や政党を厳しく断罪することも忘れません。2018年6月の連立政権発足にあたっては、連立相手の「同盟」にベルルスコーニ氏を排除しろ、と迫って決して譲りませんでした。

コンテ前首相は、五つ星運動のトップに就任した場合、同党の過激あるいは先鋭的な体質を、いかに穏やかな且つ既成の政治勢力とは違うものに作り変えるか、という全く易しくない使命を帯びることになります。


 

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文章が吹きすべれば暴力がもうかり喜ぶ~文意が伝わらなくても書く意味があるわけ

文章の趣旨は、基本的に読者に100%は伝わらないと思っています。原因は書き手と読み手の両方にあります。

言うまでもなく書き手がヘタで、読者に読解力がない場合、というのがもっとも深刻でもっとも多い要因でしょう。

しかし、ひんぱんに起こるのは、書き手の思い込みと読者の思い込みによる誤解です。

書き手の思い込みは「書き手のヘタ」と同じ意味でもありますが、読者の思い込みは少し違います。

読み手はいかに優れた人の場合でも、文章を「読みたいようにしか読まない」のです。

そのために同じ文章でも読み手によって全く違う解釈が生まれます。

黒と白、という極端な違いはあるいは少ないかもしれませんが、黒と白の間のグラデーションの相違、という程度のずれは多くあります。

そこに読者の「感情」がからまると、違いは目に見えるほど大きくなります。

例えば暴力に関する記述に接したとき、それと同じシチューエーションで殴った側に立ったことがある読者と、殴られた側にいた読者の間には、文意にそれぞれの「感情」がからまって違う解釈になる可能性が高い。

あるいは恋愛において、相手を捨てた側と捨てられた側の感情の起伏も、文意の解釈に影響することがあると思います。

それどころか、女と男という性差も文章読解にすでに影響している可能性があります。女と男の物事への感じ方には違いがあります。

その違いが文章読解に作用しないとは誰にも言えません。

そうしたことを考えだすと書く作業はひどく怖いものに見えてきます。

だが書かないと、理解どころが「誤解」さえもされません。つまりコミュニケーションができない。

人の人たるゆえんは、言葉によってコミュニケーションを図ることです。つまりそうすることで人はお互いに暴力を抑止します。

言葉を発せずに感情や思いを胸中に溜めつづけると、やがてそれは爆発し、人はこわれます。

こわれると人は凶暴になりやすい。

それどころか、コミュニケーションをしない人は、いずれ考えることさえできなくなります。

なぜなら「思考」も言葉だからです。

思考や思索の先にある文学は言うまでもなく、思想も哲学も言葉がなければ成立しません。数学的思考ですら人は言葉を介して行っています。

それどころか数式でさえも言葉です。

さらに感情でさえ言葉と言えるのかもしれません。なぜならわれわれは感情の中身を説明するのに言葉をもってするからです。

感情がいかなるものかを説明できなければ、他人はもちろん自分自身にもそれが何であるかがわかりません。ただやみくもに昂ぶったり落ちこんだりして、最後には混乱しやはり暴力に走ります。

暴力は他人に向かう場合と自分自身に向かう場合があります。自分自身に向かって振るわれる最大の暴力が自殺です。

暴力は自分に向かうにしろ他人に向かうにしろ、苦しく悲しい。

暴力を避けるためにも、人はコミュニケーションをする努力を続けなければなりません。

文章を書くとは、言うまでもなくコミュニケーションを取ることですから、たとえ文意が伝わりづらくても、書かないよりは書いたほうがいい、と思うゆえんです。




 

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数字で見るイタリアコロナ地獄の1年

昨年の今頃のイタリアは厳しかった:

コロナ地獄が始まって、恐怖の絶頂にはまだ至らないが、不安と暗鬼と疑心があたりに充満しつつありました。

マスク姿のイタリア人がひどく鬱陶しく見えたことを覚えています。

それは間もなくごく当たり前の光景になりました。

2021年3月1日現在の新型コロナ状況を数字で確認しておくと:

感染者累計:293万8千371人

死者:9万7千945人(米、ブラジル、メキシコ、インド、イギリスに次いで世界6番目。なおイタリアの後には、フランス、ロシア、ドイツ、スペインが続く)

1日あたりの最大死者数:993人(2020年12月3日・第2波。第1波の最大数は3月27日の921)

1日あたりの最大感染者数:4万896人(2020年11月13日・第2波。第1波の最大数は3月21日の6554人。第2波に較べて少ないのは検査数が限られていたから)

1日あたりの最大ICU(集中治療室)患者数:4068人(2020年4月3日。第2波最大は11月25日の3848人)

死者平均年齢:81歳(80-89歳の死者数は全体の40%近くにのぼる)

治癒したコロナ患者:241万6千903人

累計検査数:約2千万

コロナ殉教医師:332名

経済関連の数字:

GDP:2020年は前年比8、9%の下落。下げ幅は意外にも小さいように見える。

失業&失職:2020年2月-12月の10ヶ月で42万の職が失われる。例によって女性が多く犠牲に。

最も打撃を受けた観光業やケータリングなどのサービス業を中心に、2020年12月の1ヶ月だけで女性は9万9千の職を失った。同じ期間の男性失業者の増加数は2千。

EU復興基金:EUからイタリアへのコロナ復興資金は約2090億ユーロ(およそ26兆5000億円)。そのうち約60%は低金利の融資。約40%が援助金。

ロックダウン開始前後の状況についてもおさらいをすると:

2020年2月22日:ロンバルディア州コドーニョ含む11の自治体を封鎖(人口5万人)。

2月23日:北部数州内の学校・美術館・劇場・映画館などの閉鎖命令。ヴェネツィアのカーニバルも中止

3月8日:ロンバルディア州と近郊の14県をロックダウン。

3月9日夜:ロックダウンを全土に拡大と発表(実効は10日から)。全国6千万人余りがほぼ全面移動禁止に(5月3日の一部緩和まで55日連続)。

3月11日夜:ジュゼッペ・コンテ首相はテレビ放送で食品など必需品の店と薬局以外の全ての店を閉鎖すると発表。

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