エリザベス女王の平凡な、だが只ならぬ孤独

エディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に伴う英王室関係の記事を追いかけていて最も印象的だったのは、教会の席に黒い小さな塊となって丸まり、頭をたれている老女王の姿でした。

73年間も連れ添った伴侶をなくして悲しみにくれるエリザベス女王は、落ちぶれたとはいえ強大な権威に包まれ人々の畏怖を集める、大英帝国の君主ではなく、どこにでもいる孤独な老女に過ぎませんでした。

加えて、大英帝国あるいはイギリス連邦の君主のイメージと、小さな黒い塊との間の途方もない落差が、彼女をさらに卑小に無力に見せて哀れを誘いました。

丸まって黒くうずくまっている94歳の女王はおそらく、夫の棺を見つめながら自らの死についても思いを巡らしていたのではないか。

彼女が自らの死を予感しているという意味ではありません。

生ある限り人は死を予感することはできません。生ある者は、生を目いっぱい生きることのみにかまけていて、死を忘れているからです。それが生の本質です。

生きている人は死の「可能性」について思いを巡らすことができるだけです。そして思いを巡らすところには死は決してやって来ません。死はそれを忘れたころに突然にやって来るのです。

夫の死に立会いつつ自らの死の影も見つめているように見える老いた女性は、ひ孫世代までいる大家族の中心的存在です。彼女の職業はたまたま「英国女王」という存在感の大きな重いものです。

女王という職業、あるいは肩書きのイメージ的には、背筋を伸ばし傲然と座っていてもおかしくない人物が、背中を丸め小さく固まっている姿はいたいけで憐れでした。そこに世界の同情が集まったのは疑いありません。

夫の棺をやや下に見おろす教会の席で、コロナ感染予防の意味合いからひとり孤独に座っている女王の姿には、悲しみに加えて、自らの人生の終焉を直視している者の凄みも感じられて筆者はひどく撃たれました。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説があります。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドです。

おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになります。むろんメンバーの死も例外ではありません。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。

現在の英王室の最大のスターである女王は、妻であり母であり祖母であり曾祖母です。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭いました。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされました。

英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつけます。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々です。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王です。

そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たします。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せます。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型です。

92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになりました。

女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作りました。女王はそうやって見事に危機を乗り越えました。

女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきました。英王室の人気の秘密のひとつです。

危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙です。英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けられたのは、女王の卓越した政治手腕に拠るところが大きい。

女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想ですが―明仁上皇を彷彿とさせます。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治しました。

両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもありません。

喪服と帽子とマスクで黒一色に身を固めて、小さな影のようにうずくまっているエリザベス女王の姿を見ながら、筆者はとりとめもなく思いを巡らしていました。

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エルドアン“仁義なき戦い”大統領を無視したフォンデアライエン“穏健派”委員長の知性

先日、名実ともにEU(欧州連合)大統領と同格と見なされる欧州委員会のフォンデアライエン委員長が、トルコのエルドアン大統領にコケにされたエピソードには、そこに至るまでの多くの秘められた事象や因果関係が絡み合っています。

まず第一は、エルドアン大統領による根強い女性蔑視の心情。これはアラブ・アジア的後進性に原因があり、辞任した森喜郎東京五輪組織委員会長などにも通底する因習。エルドアン大統領の場合には、かてて加えてムスリム文化独特の男性優位思考が幾重にもからまっていますから一筋縄でいきません。

トルコ側はミシェルEU大統領の席をエルドアン大統領の脇に用意したものの、EU大統領と同位のフォンデアライエン委員長には提供せず、彼女は状況に驚いて棒立ちになりました。やがて男2人から遠い位置の、且つ格下を示唆するソファに腰を下ろして会談に臨みました。この成り行きをトルコ側は、EUの意向に沿ったもの、と不可解な言い訳をしました。

だがそれより数年前のそっくり同じ場面では、双方ともに男性だったEU大統領と委員長が、エルドアン大統領の両脇にそれぞれの椅子を提供されています。そのことから推しても、エルドアン大統領が、わざと女性委員長を見下して状況を演出したと見られています。何のために?むろん出る女性杭(くい)を打つために、でしょう。

ジェンダーギャップや差別という観点で見れば、エルドアン大統領とムスリム女性蔑視文化の関係は、ナントカに刃物、というくらいに危険な組み合わせです。修正や矯正は両者共に至難の業、と見えますからなおさらです。

だが問題はトルコ側だけにあるのではありません。委員長と共に行動していたミシェルEU大統領の立ち居も、きわめて無神経且つ稚拙でした。彼は立ち往生している同僚の女性委員長にはお構いなしに、エルドアン大統領に合わせて自分の椅子に腰を下ろしたのです。

男性はこういう場合、つまり女性が共にいる場合、公式、私的、外交、遊びや仕事を問わずまたどこでも、女性が先に着席するのを見届けてから座するものです。それは最近になって問題化した性差別やジェンダー平等などとは無関係の、欧米発祥のマナーです。いわゆるレディーファーストの容儀です。彼は欧州人でありながらそれさえしませんでした。

非常識、という意味ではミシェルEU大統領は、エルドアン大統領に勝るとも劣りません。彼は既述のようにエルドアン大統領に習ってさっさと椅子に腰を下ろし、なす術なく立ちつくしているフォンデアライエン委員長を、カバを連想させる鈍重さで眺めました。

彼はそうする代わりに、状況の間違いを正すように毅然としてトルコ側に申し入れるべきでした。

ミシェルEU大統領は、後になって自らの不手際を批判されたとき、重要な会談を控えた外交の場で、事を荒立てて機会を台無しにしたくなかったと弁明しました。

それが言い逃れであるのは明らかです。なぜなら外交の場だからこそ彼は、外交のプロトコルに則って、フォンデアライエン委員長用に自分の椅子と同じものを設置するよう、トルコ側に求めるべきです。

もしも本当に事を荒立てたくなかったならば、欧米式のマナーに基づいて、彼自身が立ち上がって委員長に自分の椅子を勧めるべきでした。

その後で、トルコ側の対応を見定めつつ彼がソファに座るなり、あらたに自身の分の椅子を要求するなりすれば良かったのです。

見事なまでにドタマの中がお花畑のEU大統領は、外交どころか日常のありきたりの礼節さえわきまえていない男であることを、自ら暴露したのでした。

言うまでもなくレディーファーストという欧米の慣習と、女性差別という世界共通の重要問題を混同してはなりません。

だが、ミシェル大統領がもしも的確に行動していれば、トルコの男尊女卑思想の前で女性委員長が公に味わった屈辱を避けられただけではなく、彼の一連の動きがジェンダー平等を呼びかける強力なメッセージとなって、世界のメディアを賑わせた可能性もあっただけに残念です。

EUは選挙の洗礼を受けない官僚機構が支配する体制を常に批判されてきました。そのことも引き金のひとつとなって、英国は先ごろEUから離脱しました。

英国離脱とほぼ同時に起きたコロナパンデミックでは、ワクチン政策でEU枠外にいるまさにその英国に遅れを取って、連合自体は体制の限界をさらけ出しました。

その最中に起きた、ミシェル大統領の失策は、EUそのものの不手際を象徴的に表しているようで先が思いやられます。

トルコ・アンカラでのエピソードは、非常に重い外交問題にまで発展しかねない出来事でした。だがフォンデアライエン委員長が「今後起きてはならないこと」と裏で釘を刺すだけに留めて、それ以上騒がなかったためにすぐに収束しました。

委員長が金切り声を上げて、火に油を注がなかったのは幸いでした。個人的には彼女の冷静な対応を評価したいと思います。

ところで、このエピソードには実はイタリアのマリオ・ドラギ首相がからんでいます。

ドラギ首相は会談の直後、フォンデアライエン委員長をかばってエルドアン大統領を“独裁者”と呼んで厳しく批判しました。普段は独仏、またつい最近までは英を含めた3国の陰に隠れているイタリアですが、ドラギ首相は異例の対応をしました。

そこには長年ECB(欧州中央銀行)の総裁として高い評価を受けてきたドラギ首相の責任感と、ほんの少しの驕りがあったと思います。

政治の国際舞台では、日本同様にほとんど何の影響力もないイタリアの宰相でありながら、ドラギ首相は過去の国際的な名声を頼りに、英独仏などに先駆けてエルドアン大統領を指弾したのです。

しかし他の欧州首脳は誰一人として彼に援護射撃をしませんでした。当事者のフォンデアライエン委員長も沈黙を守りました。ドラギ首相と委員長は、むろん私的には連絡を取り合ったでしょうが、委員長は既述のごとく表向きは口を閉ざして、事態への厳正な対応をEU機関に非公式に要請しただけでした。

ところが「事件」から10日ほどが経って、エルドアン大統領が、ドラギ首相を「無礼者」と罵倒する声明を出しました。筆者はトルコでの一件を、フォンンデアラオエン委員長にならって静かに見過ごすつもりでしたが、エルドアン大統領の突然の反撃に刺激されて、こうして書いておくことにしました。

エルドアン大統領がなぜ遅ればせに行動したのか、真意は分かりません。その一方でトルコのチャブシオール外相は、「ドラギ首相は独裁者の心配をするなら自国のムッソリーニを思い出すべき」と早くから反論していました。

今回のエルドアン大統領の声明に対しては、イタリア極右政党のジョルジャ・メローニ党首が反発し、ドラギ首相を強く支持すると表明しました。彼女はエルドアン政権の横暴とイスラム過激主義を糾弾。トルコがEUに加盟することにあらためて断固反対する、と息巻いています。

トルコの首都アンカラで起きたエピソードには、繰り返しになりますが、重大な歴史及び文化的要素や齟齬や思惑や細部が幾重にも絡み合っています。だがそこで生まれた逸話は、エルドアン大統領とミシェルEU大統領によるお粗末な外交の結果ですので、おそらくこれ以上に重大視しないほうが無難です。

騒げば騒ぐほど無益な緊張を誘発するのみで、エルドアン大統領が反省し、自説を変える可能性はほぼゼロだと思うからです。

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文章が吹きすべれば暴力がもうかり喜ぶ~文意が伝わらなくても書く意味があるわけ

文章の趣旨は、基本的に読者に100%は伝わらないと思っています。原因は書き手と読み手の両方にあります。

言うまでもなく書き手がヘタで、読者に読解力がない場合、というのがもっとも深刻でもっとも多い要因でしょう。

しかし、ひんぱんに起こるのは、書き手の思い込みと読者の思い込みによる誤解です。

書き手の思い込みは「書き手のヘタ」と同じ意味でもありますが、読者の思い込みは少し違います。

読み手はいかに優れた人の場合でも、文章を「読みたいようにしか読まない」のです。

そのために同じ文章でも読み手によって全く違う解釈が生まれます。

黒と白、という極端な違いはあるいは少ないかもしれませんが、黒と白の間のグラデーションの相違、という程度のずれは多くあります。

そこに読者の「感情」がからまると、違いは目に見えるほど大きくなります。

例えば暴力に関する記述に接したとき、それと同じシチューエーションで殴った側に立ったことがある読者と、殴られた側にいた読者の間には、文意にそれぞれの「感情」がからまって違う解釈になる可能性が高い。

あるいは恋愛において、相手を捨てた側と捨てられた側の感情の起伏も、文意の解釈に影響することがあると思います。

それどころか、女と男という性差も文章読解にすでに影響している可能性があります。女と男の物事への感じ方には違いがあります。

その違いが文章読解に作用しないとは誰にも言えません。

そうしたことを考えだすと書く作業はひどく怖いものに見えてきます。

だが書かないと、理解どころが「誤解」さえもされません。つまりコミュニケーションができない。

人の人たるゆえんは、言葉によってコミュニケーションを図ることです。つまりそうすることで人はお互いに暴力を抑止します。

言葉を発せずに感情や思いを胸中に溜めつづけると、やがてそれは爆発し、人はこわれます。

こわれると人は凶暴になりやすい。

それどころか、コミュニケーションをしない人は、いずれ考えることさえできなくなります。

なぜなら「思考」も言葉だからです。

思考や思索の先にある文学は言うまでもなく、思想も哲学も言葉がなければ成立しません。数学的思考ですら人は言葉を介して行っています。

それどころか数式でさえも言葉です。

さらに感情でさえ言葉と言えるのかもしれません。なぜならわれわれは感情の中身を説明するのに言葉をもってするからです。

感情がいかなるものかを説明できなければ、他人はもちろん自分自身にもそれが何であるかがわかりません。ただやみくもに昂ぶったり落ちこんだりして、最後には混乱しやはり暴力に走ります。

暴力は他人に向かう場合と自分自身に向かう場合があります。自分自身に向かって振るわれる最大の暴力が自殺です。

暴力は自分に向かうにしろ他人に向かうにしろ、苦しく悲しい。

暴力を避けるためにも、人はコミュニケーションをする努力を続けなければなりません。

文章を書くとは、言うまでもなくコミュニケーションを取ることですから、たとえ文意が伝わりづらくても、書かないよりは書いたほうがいい、と思うゆえんです。

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豆腐屋もテレビ屋も味噌屋も誰もが書くからWEBはカラフルで愉快でダイナミックで、いわく言いがたい

書く理由

筆者はテレビドキュメンタリーを主に作るテレビ屋ですが、できれば文章屋でもありたいと願っています。昔から書くことが好きで新聞や雑誌などにも多くの雑文を書いてきました。それは全て原稿料をいただいて書く有償の仕事でした。

原稿料の出ない文芸誌の小説も書きました。原稿料どころか、掲載の見込みのない時でも、テレビ屋の仕事の合間を縫ってはせっせと書きました。

小説で原稿料をもらったのは、後にも先にもロンドンの学生時代に書いた「小説新潮」の短編のみです。新人賞への応募資格を得るための、懸賞付きの月間新人賞小説、というものでした。

要するに新人賞に応募できる力があるかどうかを問うものです。それに佳作入選しました。佳作ながらも、懸賞という名で原稿料がきちんとロンドンまで送られてきました。

今はせっせとブログ記事を書いています。公の論壇では1本数十円単位という、スズメの涙とさえ呼べないシンボリックな額ながら、一応原稿料が出ます。

個人ブログはむろん無償です。それでも書くのは、書く題材がたくさんあって且つ書くことが苦にならないからということに尽きます。あえて言い足せば「自由だから」というのもあります。

最近は筆者の書くブログが、情報や思考や指針として誰かの役に立つなら書き続けよう、という思いにもなっています。無償で学べるというのはきわめて重要なことです。

おこがましい言い草ですが、筆者のブログが誰かの学びになるなら、あるいは学びの手助けになるなら、無償のまま書き続ける意義がある、と考えるのです。

consumer goods

新聞雑誌などの紙媒体に書く場合には、必ず編集者や校正者がいます。WEBでは彼らの役割もたいてい書き手自身が担います。ですから誤字脱字に始まる多くの間違いから逃れられません。

その一方で何をどう書いても文句を言われない。字数もほぼ思いのままです。

編集者や校正者がいる中で書いた過去の文章は、あまり筆者の手元には残っていません。それはテレビ番組の場合も同じです。幾つかの長尺ドキュメンタリーを除いて、筆者は作品のコピーを取っていません。

多くの報道番組や短編ドキュメンタリーは作った先から忘れる、というふうです。

テレビ番組は「consumer goods =消費財あるいは日用品」というのが筆者の認識です。映画とは違って、テレビ番組は連日連夜休みなく放映されます。日常の生活必需品また消耗品と同じように次々に消費されて消えていくのです。

制作者の側もひっきりなしに取材をし、構成を立て、番組を作っていきます。その形はやはり消費財。消耗品です。ですからそれをいちいち記録して置くという気にはなれません。

日々作品を生み出していくのが、筆者の仕事であり筆者の喜びでもあります。数年あるいは十数年に一回、などという割合で作品を作る映画監督とは違うのです。

日々作品を生み出すから常に「今」を生き「今」と付き合っていかなければなりません。それが筆者のささやかな自恃の源でもあります。もっともここ最近はテレビの仕事は減らし続けていますが。

あらゆるエンターテイメントまた芸術作品は、作り手の事情に関する限り「作った者勝ち」です。作品のアイデアや企画や計画やそれらを語る「おしゃべり」は、「おしゃべり」の内容が実現されない限り無意味です。

番組がなんであれ、制作者にとっては、アイデアや企画を作品に仕上げること自体が、既に勝利なのです。その出来具合については視聴者が判断するのみです。

新聞や雑誌などに次々に掲載されて消えていく、雑文や記事もそれと同じだと筆者は考えています。ですのでそれらを記録していませんし多くの場合コピーを手元に置いてもいません。

それが正しかったかどうか、と問われれば少し疑念もないではありませんが。

紙媒体の一長一短

そんな中で新聞のコラムだけは、1本1本がごく短い文章だったにもかかわらず、多くをコピーして残してきました。それが連載の形だったからです。

1本1本が読み切りの文章ですが、一定の間隔で長い時間書き続けたため、あたかも長尺のドキュメンタリーのような気がしたのです。長尺だから手元に残した、というふうです。

新聞なのでコラムの編集者は新聞記者です。プロの編集者ではないから当然彼らは編集者の自覚がなく、よく自分の趣味趣向で文章を直したりします。本をあまり読まない者に特にその傾向が強いようです。

本を読まない者は、文章をあまり知らないと見えるのに、新聞記事の要領という名目で自身の嗜好にひきずられて、原稿に手を入れます。本を読まない者の嗜好ですからそれは主観的で、「直し」も改善どころか意味不明になり稚拙です。

むろんネガティブなことばかりではなく、新聞的な簡潔と具体性を要求されることで省筆に意識が集中して、より明快で短い文章を書く鍛錬にはなったような気がします。

またコラムとはいうものの、客観性を重視するというスタンスは、テレビ・ドキュメンタリーや報道番組のそれとほぼ同じで親しみが持てます。

WEBの深遠

以上、筆者自身の経験と今の思いを書きましたが、WEB上には筆者のように本職のかたわらに書いている人々が無数にいます。

むろん本職として書いている人々もいます。本職が紙媒体のライターで、同時にWEBにも書いている、という人々もいます。

しかし、圧倒的多数の「書き手」はあらゆる職業の、あらゆる境遇の、あらゆる思惑を持つ「物書き」です。

それらの人々を素人と呼ぶことも可能ですが、あえてそうは呼ばずに「物書き」と表現します。文章書きに素人も玄人もないと考えるからです。

あるのは「上手い書き手」と「下手な書き手」です。後者を素人と呼びたくなりますが、それは当たりません。なぜなら玄人あるいはプロの作者の中にも下手な書き手はいくらでもいるからです。

こういう言い方もできます。他人の文章は、あなたが読んでみて「好き」と感じない限り「下手な文章」です。そして 下手な文章を書く書き手は、プロ、アマを問わず全員が下手な「物書き」です。

WEB上では下手と上手が錯綜して文章を書きまくり、紙媒体を凌駕する勢いで作品が生まれ乱舞しています。乱舞する文章たちはカラフルで愉快でダイナミックで、状況はいわく言いがたいほどに深遠です。

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超俗派のあなたと殺すことしかできない私との間の愛について

イタリア語でパスクア、英語でイースターの復活祭には、毎年子ヤギ料理を食べます。招待されていく先で食べるのが普通です。

復活祭とは、全ての人の罪を背負って十字架で磔(はりつけ)にされたイエス・キリストが、3日後に再生したことを祝う祭典。

復活祭に子ヤギ料理を食べるのは、イエスキリストを偲んで食べられた子羊料理が、子羊によく似た子ヤギへと広まったものです。

ことし、2021年4月4日の復活祭でも、子ヤギの肉を食べる罪を犯してしまいました。菜食主義者のあなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の死体です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに、知の円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギの肉を食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。

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中国と五つ星運動の“マインドコントロールまがい“がはびこる時代

熱烈な「五つ星運動」支持者のジャンカルロCは、新型コロナがイタリアを打ちのめした昨年の春以降、過激なほどの中国批判者になりました。

「五つ星運動」は極左ポピュリストとも呼ばれ中国と極めて親しい関係です。2018年の総選挙で議会第1党になり、極右政党「同盟」と手を組んで連立政権を樹立しました。

ジャンカルロCは支持政党の「五つ星運動」を介して熱心な中国愛好者になりました。だが中国を毛嫌いするようになった今は「五つ星運動」にも懐疑的です。

それでもジャンカルロCは「五つ星運動」にはまだ未練があるようです。南イタリア出身の彼は「五つ星運動」の旗印である最低所得保障(ベーシックインカム)策を熱く支持しています。

「五つ星運動」は貧困層に月額約10万円を支給するその政策をゴリ押ししてついに実現させました。ジャンカルロCは彼の故郷の親族や友人知己の一部が支給金に助けられている、と考えています。

だがその政策は貧困層という水をザルで掬うようなものです。南イタリアを拠点にする幾つもの犯罪組織が、制度を悪用して資金を盗み肥え太っていることが分かっています。

貧しい人々の大半は組織犯罪に利用されるだけで、援助金は彼らに行き渡りません。それでもバラマキ策を推進する「五つ星運動」への南部の支持は強い。

援助金を掠め取って巨大化する犯罪組織が、民衆を脅したりすかしたり心身双方をいわば殴打するなどして票をまとめ、自在に操作すると考えられるからです。

ジャンカルロCと筆者は最近次のような会話をしました。

ジャン:中国に核爆弾を落としてやりたい。

ジャンカルロCは、友人ふたりが交わす無責任な会話の空気に気を許して、口先ばかりながら中国に対してしきりに物騒なことを言います。

筆者は答えます。

A:口先だけは相変わらず勇ましいね。だがイタリアも日本も核兵器は持たないよ。中国をやっつけるには核兵器を持つ米英仏と協調してこらしめるしかない。だが君の好きな「五つ星運動」は反EUで英仏が大嫌い。英がEUから去っても嫌イギリス感情は残っている。トランプが消えたので彼らはアメリカも好きではなくなった。どうするんだい?

ジャン:どうもしない。ただ習近平も中国人も憎い。地上からいなくなってほしい。

A:なんだい。つい最近まで僕が中国政府を批判したら傷ついていた男が。

ジャン:あの頃はコロナはなかった。中国がコロナを世界に広めた。中でもイタリアは最悪の被害を受けた。中国も中国人もクソくらえだ。

A:別に中国人をかばうつもりはないが、ウイルスは中国以外の場所でも生まれる。新型コロナもそうかもしれない。

ジャン:だが奴らはウイルスとその感染を隠蔽した。なんでも隠していつでも平気で嘘をつくのが中国人だ。

A:中国人を一般化するのはどうかな。それを言うなら「習近平政権はなんでも隠蔽し平気で嘘をつく」だろう。それなら僕もそう思う。

ジャンカルロCは馬鹿ではありません。かつて法律を学び弁護士を目指しました。が、挫折。世界を放浪した後に家業のワイン造りを継承したものの、ジプシーだったという先祖のひとりから受け継いだらしい放浪願望の血が騒ぎ、家業を捨てました。再び漂泊して北イタリアに定住。実家の情けも借りて少しのワイン販売で糊口をしのいでいます。その間にNPOを立ち上げて人助けにもまい進しているという男です。

A:なんにしても君が中国の欺瞞と危険に気づいてくたことはうれしいよ。チベットやウイグル弾圧、台湾脅しと香港抑圧。わが日本の尖閣諸島も盗もうと画策している国だ。

ジャン:尖閣は知らんが香港はひどい。台湾への横槍も聞いている。

A:君らイタリア人はチベットやウイグルには関心が高いが、香港、台湾のことになると、遠隔地の騒ぎと捉えてモグラみたいに無知になる。尖閣のことを知らないとはけしからん。

ジャン:でも中国が南シナ海でやりたい放題をしているのは知っている。尖閣諸島も南シナ海の一部なんだろう?

A:少し違うが、まあ、遠いイタリアから見た場合はそういう捉え方も許されるだろう。習近平一味は相も変わらず傍若無人な連中だよ。ミャンマー軍の信じられないような悪行も、つまりは中国のせいだと見られている。中国の後ろだてがあるから、弱体で卑劣なミャンマーの軍人が、自国民を大量に殺戮できる。

ジャン:やっぱりそうなのか。

A:北朝鮮の狂犬・金正恩総書記がいつも牙を剥いているのも中国が背後にいるからだ。その中国をイタリアは、というよりも君の好きな「五つ星運動」は、賞賛し持ち上げ庇っている。イタリア政府は覇権主義国家と握手して「一帯一路」構想を支持する旨の覚書まで交わした。あれは全て「五つ星運動」のゴリ押しによって実現した。

ジャン:わかっているよ。だから僕は「五つ星運動」への支持を止めた。覚書は間違いだった。

A:だが「五つ星運動」は相変わらず中国を慕っている。

ジャン:そんことはない。いつまでも中国にしがみついているのは、「五つ星運動」の中でも外相のディマイオくらいのものじゃないかな。

A:どうだか。ま、とにかく君がアンチ中国になったのはいいことだ。米中アラスカ会談で「アメリカにはアメリカの民主主義があり中国には中国の民主主義がある」とのたまうような欺瞞だらけの、厚顔で未開で野蛮な全体主義国だ。君が「五つ星運動」と中国のマインドコントロール並みの縛りから抜け出したのはいいことだ。

中国への不信感と怒りはイタリアでもじわじわと増えている雰囲気です。だが国際社会は、中国が香港でやりたい放題をやっても、ウイグルで民衆を弾圧しても、ミャンマーの虐殺部隊をそそのかしていても、ほとんど為す術がないように見えます。欧州はウイグル問題に関連して中国に制裁を科しアメリカもいろいろと動く素振りではいます。だがそのどれもが迅速な効果をあらわすものではなく、時間が経つごとに中国の横暴はエスカレートして被害者が増えるばかりに見えます。

中国に武力行使ができない限り、国際社会は一致団結して彼の国の蛮行に対していくしかありません。この際は日本も覚悟を決めて、中国に向けて強く出たほうがいいのではないでしょうか。あくまでも対話によって問題を解決するのが理想ですが、これまでの中国の傲岸不遜な言行の数々をいやというほど見てきた目には、ソフトなアプローチは効果がないと映ります。

国際社会は経済的に成長した中国が、徐々に民主化していくと期待しました。しかしそれは全くの幻想であることが明らかになりました。中国は国際社会の支援と友誼と守護で大きく成長しました。それでいながら強まった国力を悪用して、秩序を破壊し専横の限りを尽くして世界を思いのままに操ろうとしているようにさえ見えます。

中国の野望達成のプロセス上で発生しているのが、ウイグルやチベットへの弾圧であり、台湾および香港への圧力と脅しと嫌がらせであり、尖閣諸島への横槍です。中国はそれだけでは飽き足らず、ミャンマー軍による自国民への残虐行為も黙認しているとされます。黙認どころか、積極的に後押しをしているという見方もあります。

習近平独裁体制の暴虐は阻止されるべきですし、必ず阻止されるでしょう。なぜならデスポティズムの方法論は、人々を力でねじ伏せて自らに従わせようとするだけのもので、体制の内側からじわりとにじみ出る魅力で人々の気を引くことはありません。

世界の人々に愛されない、従って訴求力のない政治体制や国家は、将来は確実に崩壊するでしょう。だがそうはいうものの、今この時の世界は、残念ながら中国の専横の前に茫然自失して、いかにも腺病質に且つ無力に見えます。民主主義を信奉する自由主義社会の結束が、いつにも増して求められているのはいうまでもありません。

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