豆腐屋もテレビ屋も味噌屋も誰もが書くからWEBはカラフルで愉快でダイナミックで、いわく言いがたい

書く理由

筆者はテレビドキュメンタリーを主に作るテレビ屋ですが、できれば文章屋でもありたいと願っています。昔から書くことが好きで新聞や雑誌などにも多くの雑文を書いてきました。それは全て原稿料をいただいて書く有償の仕事でした。

原稿料の出ない文芸誌の小説も書きました。原稿料どころか、掲載の見込みのない時でも、テレビ屋の仕事の合間を縫ってはせっせと書きました。

小説で原稿料をもらったのは、後にも先にもロンドンの学生時代に書いた「小説新潮」の短編のみです。新人賞への応募資格を得るための、懸賞付きの月間新人賞小説、というものでした。

要するに新人賞に応募できる力があるかどうかを問うものです。それに佳作入選しました。佳作ながらも、懸賞という名で原稿料がきちんとロンドンまで送られてきました。

今はせっせとブログ記事を書いています。公の論壇では1本数十円単位という、スズメの涙とさえ呼べないシンボリックな額ながら、一応原稿料が出ます。

個人ブログはむろん無償です。それでも書くのは、書く題材がたくさんあって且つ書くことが苦にならないからということに尽きます。あえて言い足せば「自由だから」というのもあります。

最近は筆者の書くブログが、情報や思考や指針として誰かの役に立つなら書き続けよう、という思いにもなっています。無償で学べるというのはきわめて重要なことです。

おこがましい言い草ですが、筆者のブログが誰かの学びになるなら、あるいは学びの手助けになるなら、無償のまま書き続ける意義がある、と考えるのです。

consumer goods

新聞雑誌などの紙媒体に書く場合には、必ず編集者や校正者がいます。WEBでは彼らの役割もたいてい書き手自身が担います。ですから誤字脱字に始まる多くの間違いから逃れられません。

その一方で何をどう書いても文句を言われない。字数もほぼ思いのままです。

編集者や校正者がいる中で書いた過去の文章は、あまり筆者の手元には残っていません。それはテレビ番組の場合も同じです。幾つかの長尺ドキュメンタリーを除いて、筆者は作品のコピーを取っていません。

多くの報道番組や短編ドキュメンタリーは作った先から忘れる、というふうです。

テレビ番組は「consumer goods =消費財あるいは日用品」というのが筆者の認識です。映画とは違って、テレビ番組は連日連夜休みなく放映されます。日常の生活必需品また消耗品と同じように次々に消費されて消えていくのです。

制作者の側もひっきりなしに取材をし、構成を立て、番組を作っていきます。その形はやはり消費財。消耗品です。ですからそれをいちいち記録して置くという気にはなれません。

日々作品を生み出していくのが、筆者の仕事であり筆者の喜びでもあります。数年あるいは十数年に一回、などという割合で作品を作る映画監督とは違うのです。

日々作品を生み出すから常に「今」を生き「今」と付き合っていかなければなりません。それが筆者のささやかな自恃の源でもあります。もっともここ最近はテレビの仕事は減らし続けていますが。

あらゆるエンターテイメントまた芸術作品は、作り手の事情に関する限り「作った者勝ち」です。作品のアイデアや企画や計画やそれらを語る「おしゃべり」は、「おしゃべり」の内容が実現されない限り無意味です。

番組がなんであれ、制作者にとっては、アイデアや企画を作品に仕上げること自体が、既に勝利なのです。その出来具合については視聴者が判断するのみです。

新聞や雑誌などに次々に掲載されて消えていく、雑文や記事もそれと同じだと筆者は考えています。ですのでそれらを記録していませんし多くの場合コピーを手元に置いてもいません。

それが正しかったかどうか、と問われれば少し疑念もないではありませんが。

紙媒体の一長一短

そんな中で新聞のコラムだけは、1本1本がごく短い文章だったにもかかわらず、多くをコピーして残してきました。それが連載の形だったからです。

1本1本が読み切りの文章ですが、一定の間隔で長い時間書き続けたため、あたかも長尺のドキュメンタリーのような気がしたのです。長尺だから手元に残した、というふうです。

新聞なのでコラムの編集者は新聞記者です。プロの編集者ではないから当然彼らは編集者の自覚がなく、よく自分の趣味趣向で文章を直したりします。本をあまり読まない者に特にその傾向が強いようです。

本を読まない者は、文章をあまり知らないと見えるのに、新聞記事の要領という名目で自身の嗜好にひきずられて、原稿に手を入れます。本を読まない者の嗜好ですからそれは主観的で、「直し」も改善どころか意味不明になり稚拙です。

むろんネガティブなことばかりではなく、新聞的な簡潔と具体性を要求されることで省筆に意識が集中して、より明快で短い文章を書く鍛錬にはなったような気がします。

またコラムとはいうものの、客観性を重視するというスタンスは、テレビ・ドキュメンタリーや報道番組のそれとほぼ同じで親しみが持てます。

WEBの深遠

以上、筆者自身の経験と今の思いを書きましたが、WEB上には筆者のように本職のかたわらに書いている人々が無数にいます。

むろん本職として書いている人々もいます。本職が紙媒体のライターで、同時にWEBにも書いている、という人々もいます。

しかし、圧倒的多数の「書き手」はあらゆる職業の、あらゆる境遇の、あらゆる思惑を持つ「物書き」です。

それらの人々を素人と呼ぶことも可能ですが、あえてそうは呼ばずに「物書き」と表現します。文章書きに素人も玄人もないと考えるからです。

あるのは「上手い書き手」と「下手な書き手」です。後者を素人と呼びたくなりますが、それは当たりません。なぜなら玄人あるいはプロの作者の中にも下手な書き手はいくらでもいるからです。

こういう言い方もできます。他人の文章は、あなたが読んでみて「好き」と感じない限り「下手な文章」です。そして 下手な文章を書く書き手は、プロ、アマを問わず全員が下手な「物書き」です。

WEB上では下手と上手が錯綜して文章を書きまくり、紙媒体を凌駕する勢いで作品が生まれ乱舞しています。乱舞する文章たちはカラフルで愉快でダイナミックで、状況はいわく言いがたいほどに深遠です。

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

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