権力者ではなく国民が威張るのが真の民主主義

国民と対話できない菅首相はうっとうしい稿に続いて菅首相について書きます。彼の存在は、日本の政治家の奇天烈を世界に知らしめるのに最善のテーマ、と考えます。そこで今後もこだわって書いていければと思っています。

それは筆者のこの文章が世界で読まれるという意味ではなく、彼の存在自体が世界に日本の政治の不思議を物語る。筆者その様子を語ろうという意味です。

適任者とも見えないのに、いわばタナボタのようないきさつで日本国のトップになった菅首相は、彼がその地位に登りつめたのではなく、国民がそこに据えてやったものです。

ところが菅首相は、権力者の常ですっかりそのことを忘れてしまったようです。あるいは彼はその事実を、事実通りに受け取って考えてみることさえないのもしれません。

だがわれわれ国民は決してそのことを忘れてはなりません。なぜならそれは民主主義の根幹にかかわる重大な要件だからです。

つまり国民が「主」であり彼ら権力者は「従」、という厳とした構造が民主主義であるという真実です。

それにもかかわらずに、特に日本の権力者は上下を逆転して捉えて、自らがお上であり主権者である国民が下僕でもあるかのように尊大な態度に出ます。

非はむろん政治家のほうにあります。だが、彼らをそんなふうにしてしまうのは、長い歴史を通して権力者に抑圧されいじめぬかれてきた国民の悲しい性(さが)でもある、という皮肉な側面も見逃せません。

日本国民が、民主主義の時代になっても封建社会の首木の毒に犯されていて、政治家という“似非お上”の前についつい這いつくばってしまうのです。

そして政治家は、彼らを恐れ平伏している哀れな愚民の思い込みを逆手に取って、ふんぞり返っている背をさらに後ろに反らして付け上がり、傲岸不遜のカタマリになってしまいます。

日本国民はいい加減に目覚めて、背筋を伸ばして逆に彼らを見下ろすべきです。

権力者が国民を見下ろす風潮は、民主主義がタナボタ式に日本に導入されて以後も常に社会にはびこってきました。厳しい封建制度に魂をゆがめられた日本人が、どうしてもその圧迫から脱しきれない現実がもたらす悲劇です。

明治維新や第2次大戦という巨大な世直しを経ても桎梏はなくなりませんでした。なくならなかったのは、世直しの中核だった民主主義が、日本人自らが苦労して獲得したものではなかったからです。

民主主義は欧米社会が、日本に勝るとも劣らない凶悪な封建体制を血みどろの戦いの末に破壊して獲得したものです。日本はその果実だけを試練なしに手に入れました。だから民主主義の「真の本質」がわからないのです。

菅首相は日本の未熟な民主主義社会で、その器とも見えないのに首相になってしまいました。そして首相になったとたんに、日本の政治権力者が陥るわなに見事にはまって、自らを過信して思い上がりました。

言葉を替えれば彼は、自らを「お上」だと錯覚しある種の国民もまた彼をそう見なしました。底の浅い日本民主主義社会でひんぱんに描かれる典型的な倒錯絵図です。

管首相はコロナ対策で迷走を繰り返しながら、国会質疑や記者質問に際して横柄な態度で失態を隠したり、説明責任を逃れたり、ブチ切れたり逆切れしたり、と笑止で不誠実な対応を続けました。

そこには国民との対話こそが民主主義の根幹、ということを全く理解できないらしい政治屋の、見苦しくうっとうしい姿だけがあります。

管首相の一連の失態の中でも最も重大な不始末は、ことし1月27日、国会質疑で立憲民主党の蓮舫代表代行に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことでしょう。

蓮舫氏の言い方に問題があったことよりも、管首相が国民の下僕である事実を忘れて国民への報告(=対話)を怠り、開き直って居丈高に振る舞ったことが大問題です。

日本最強の権力者という願ってもない地位を国民の“おかげ“で手に入れながら、彼は日本の政治家の常で自らが民衆の上に君臨する「お上」だと錯覚しました。

それは彼に限らず日本の政治家に特有の思い込みです。彼らは権力者という蜜の味の濃い地位に押し上げられたことに感謝し、謙虚にならなければならない。ところが逆に思い上がるのです。

民主主義における権力者は、あくまでも民意によってその地位に置かれている「市民の下僕」です。ところがその真理とは逆の現象が起こる。それはー繰り返しになりますがー日本の民主主義の底が浅いことが原因です。

国民は権力者に対して、「俺たちがお前を権力の地位に付けた。お前は俺たちの下僕だ。しっかり仕事をしなければすぐに首を切る(選挙で落選させる)。そのことを一刻も忘れるな」 と威圧しつづけるべきなのです。

国民は彼ら「普通の人」を、権力者という人もうらやむ地位に据えてやっています。国民はそのことをしっかりと認識して、彼らに恩を着せてやらなければなりません。

彼ら政治家や権力者が威張るのではなく、国民が威張らなければならない。それが良い民主主義のひな型なのです。

だが日本ではほぼ常に権力者が「主」で国民が「従」という逆転現象がまかり通ります。政権交代がなかなか起きないこともその負のメンタリティーを増長させます。

多くの先進民主主義国のように政権交代が簡単に起きると、国民は権力者の首が国民の手で簡単にすげ替えられるものであることを理解します。理解すると権力者にペこぺこ頭を下げることもなくなります。

具体的な例を挙げればイタリアで2018年、昨日までの政治素人集団だった「五つ星運動」が、連立政権を構築して突然権力の座に就きました。そんなことが現実に起きると、事の本質が暴かれて白日の下にさらされます。

つまり、言うなれば隣の馬鹿息子や、無職の若者や、蒙昧な男女や、失業者や怠惰な人間等々が、代議士なり大臣などになってしまう現象。彼らの在り方と組織構成が権力者の正体であり権力機構の根本なのです。

そういう状況が日常化すると、権力なんて実は誰でも手に入れられる、あるいは国民の力でどうにでもなる代物だ、ということがはっきりとわかって、民衆は権力や権力者を恐れなくなります。

そこではじめて、真の民主主義が根付く「きっかけ」が形成されていくのです。


facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

菜園の気さくなスターたち

菜園をたがやしてわかったことはたくさんありますが、作りやすい野菜と育てるのが難しい野菜がある、ということもそのひとつです。

そんなことはあたり前だと思っていましたが、じつはそれはどこかで読んだり聞いたりしたことで、自分で本当に野菜の種の選択や芽の成長過程などにかかわってみないかぎり、具体的にはわからないものだと気づきました。

筆者にとって作りやすい野菜とは、およそ次のようなものです。

種が早く、そして多く芽ぶく(つまりムダな種が少ない)。

萌えた芽の成長が早い。

水遣りや肥料がいらないか、最小限で済む。

病気になりにくい。

日照りや風や寒さに強い。など、など。

また地域によって異なる土質に適応しやすい。

土地の気候に順応しやすい。

などの人の力では変えられない条件に適合することも重要でしょうが、そうした点はあまり気にかけなくてもいいようです。

それというのも市販されている種子や苗は、種苗メーカーが長い間の経験で取捨していて、たとえば起源が南国の野菜でも寒い北イタリアで十分に育つ、などの品種改良がなされています。

逆に作りにくい野菜とは、上記とは逆の性質を持つもののことです。

10年あまりにわたって野菜を作った中で筆者が作りやすいと思うのは―いろいろありますがあえて二つだけを挙げるならば―ラディッシュと春菊です。

どちらも種をまき散らしておけば確実に芽ぶき、成長も早い。水遣りも少なくて済みます。また追肥もいりません。

ラディッシュは欧州で盛んに栽培されます。

春菊はここにはありませんので日本から種を持ち込みます。

ラディッシュはサラダで食べるのが主流ですが、煮たり焼いたり漬物にしたりもできます。

筆者はほぼ大根と同じとらえ方で扱い調理します。

上の写真は収穫したばかりのラデッシュを葉とともに味噌をまぶして半日ほど漬け込んだもの。イタリア人の友人らにも好評な味です。

一方春菊は、自分で作ってはじめて生食できることを知りました。新芽あるいは若芽を刈ってサラダにします。

みずみずしく香りもまろやか。きわめて美味です。

かつては筆者にとって春菊とは、においのきつい、鍋に入れることが多い、個性の強烈な野菜のことでした。

が、菜園で栽培して初めて、新芽がにおいも味もたおやかで上品な野菜だと知りました。

春菊の新芽のサラダを食べるのは、菜園をたがやす者の特権だとひとり合点していますが、実際はどうなのでしょうか。

ラディッシュも春菊も、春浅い時期に種をまいてもよく芽ぶきます。成長があきれるほどに早く、数週間から遅くても1ヵ月ほどで食べごろになります。

ラディッシュは一度収穫したらそれで終わりですが、春菊は切り取った茎からまた芽が出てくるので何度も収穫できます。

新芽を食べつづければ、夏の間ずっと楽しむことができます。

春菊はサラダ以外に、野菜炒めに加えたり、豆腐と煮たり、白和えにしたりもします。

だがここイタリアで新芽を食べる場合は、他のサラダ菜とまじえる生食がほとんどです。

そのときはオリーブ油と醤油だけで和えるのが鉄則です。

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

「島人大統領&島人判事」対「島マフィア」

1992年5月23日17時半頃、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の乗った車が、シチリア島パレルモのプンタライジ空港を市内に向けて走り出しました。

ファルーネ判事はマフィア殲滅を目指して戦うイタリアの反マフィア勢力の旗手。島の出身であることを活かして、闇組織との激しい法廷闘争を繰り返していました。

自動車道を時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される 。判事の車はマフィアの襲撃を防ぐために常に高速走行することが義務付けられていた)で疾駆していた車が17時56分48秒、凄まじい爆発音と共に中空に舞い上がりました。

ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えました。

マフィアはそうやって彼らの敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去りました。

いわゆる「カパーチの悲劇」です 。

ほぼ2ヶ月後の7月19日、ファルコーネ判事の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺されました。

セルジョ・マタレッラ大統領はコロナ禍中の5月23日、パレルモ市内の刑務所のホールで催されたファルコーネ、ボルセリーノ両判事の29回目の追悼式典に参列しました。

それはマタレッラ大統領の最後の式典参加になると見られています。彼の任期は来年2月まで。大統領は2期目の選挙への出馬は目指さない、とつい先日明言しました。

マタレッラ大統領はシチリア島人です。そればかりではありません。彼は家族をマフィアに殺された凄惨な過去を持っています。

1980年1月6日、シチリア州知事だった兄のペルサンティ・マタレッラがマフィアに襲われて死にました。州知事は反マフィア活動に熱心でした。

それに怒った犯罪組織が刺客を送って知事に8発の銃弾を撃ち込みました。

たまたまその場に居合わせたセルジョ・マタレッラは、救急車に乗り込んで虫の息の兄を膝に抱いたまま病院に向かいました。

兄の体とそれを掻き抱いている弟の体が鮮血にまみれ車中に血の海が広がりました。

そのむごたらしい出来事が、当時は学者だったセルジョ・マタレッラを変えました。

彼は兄の後を継いで政治家になる決心をししたのです。

マフィアを合法的に殲滅するのが目的でした。3年後、彼は下院議員に初当選。

そうやって筋金入りの反マフィア政治家、セルジョ・マタレッラが誕生しました。

2015年、セルジョ・マタレッラはイタリア共和国大統領に選出されました。

マフィア撲滅を願う彼は、殺害された反マフィア判事らの追悼式にも毎年参列してきました。

シチリア島を拠点にするマフィアは、近年イタリア本土の犯罪組織ンドランゲッタやカモラに比べて陰が薄いように見えます。

だがそれはマフィアが消えたことを全く意味しません。

マフィアから見れば、新興勢力とも呼べるンドランゲッタやカモラが派手に活動するのを隠れ蓑にして、老舗の暗黒組織はむしろ執拗にはびこっています。

現にコロナパンデミック禍中では、マフィアが困窮した事業や一般家庭を援助する振りで取り入り、彼らを食い物にする実態なども明らかになりました。

マフィアを完全に駆逐することは難しい。

それでも反マフィアの看板を下ろさないマタレッラ大統領は、あるいは来年からは市民のひとりとして、故郷の判事追悼式典に参加するのかもしれません。

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

ワクチン抜け駆け接種者も許すイタリアの空気感

イタリアを含むEU(欧州連合)のワクチン接種戦略は、宇紆余曲折をたどりながらもほぼ軌道に乗りつつあります。

2021年、5月18日現在のイタリアのワクチン接種状況は:19.618.272人で人口の 32,89% 。このうち2回接種を受けた者:9.241.064人で人口の15,49%。

接種率約33%というイタリアの数字は、EU全域の数字と見てほぼ間違いありません。

EU27ヵ国は共同でワクチンを購入し、人口に応じて公平に分配する仕組みを取っています。人口が多いほど受け取るワクチンの数は多くなりますが、接種比率はほぼ同じです。

しかし国によって接種状況は違います。

ある国は高齢者への接種を優先させ、ある国は医療従事者への接種をまず徹底し、他の国は両方を組み合わせるなど、国によってワクチンの使い道は自由に裁量できるのです。

例えばここイタリアでは医療従事者への優先接種を大幅に進めたあとで、80歳以上の高齢者への接種を始めました。

5月20日現在は、50歳代の国民への接種も開始されています。

ワクチンの数が足りなかった2月から3月にかけては、順番や年齢を無視して抜け駆け接種をする不届き者の存在が問題になりました。

筆者の近くでも、介護で多くの老人に接することが多い、と偽って抜け駆け接種をした女性がいます。50歳代の彼女は他人の家で働くいわゆる家事手伝い。

長い間寝たきりだった夫を介護していた事実を利用して、あたかも他者の介護もする介護人資格保有者のように装い2月頃にワクチンの優先接種を受けました。

そのことがバレて近所で評判になりましたが、彼女は悪びれず「私は他人の家に入って清掃をするのが仕事。人の家だから感染のリスクが高い」と強弁してケロリとしていました。

似たようなことがイタリア中で起こりました。4月初めの段階で、自分の番でもないのに割り込みで抜け駆け接種を受けた者は、全国で230万人にものぼりました。

中でも南部のシチリア、カラブリア、プーリア、カンパーニャ各州で割り込み接種が多く、4州ではそのせいで優先接種を受けるべき80歳代以上の住民の接種が大幅に遅れました。

そのうちナポリが州都のカンパーニャ州では、デ・ルーカ州知事自身が順番を無視して抜け駆け接種をしたことが明るみに出ました。

批判を浴びると知事は、「カンパーニャ州は年齢順ではなく業種別に接種を進める」と開き直りました。

南部4州に加えて、フィレンツェが州都のトスカーナ州でも割り込み接種が多くありました。同州では80歳以上の人を尻目に接種を受けた狡猾漢が、弁護士や役場職員や裁判官などを中心に12万人にも及びましだ。

似たようなことは、お堅いはずのドイツでさえ起こってます。例えば旧東ドイツのハレ市では、64歳の市長が、優先接種の対象となっている80歳以上の人々を出し抜いてワクチン接種を受けました。

市長は「時間切れで廃棄処分に回されそうなワクチンを接種しただけ」と言い訳しました。しかし原理原則に厳しいドイツ社会は抜け駆けを許さず、辞職を含む厳しい処分を受けると見られています。

同様な問題は日本でも起こっています。が、ドイツほどの苛烈な批判にはさらされていませんし、状況そのものもイタリアほどひどくはありません。とはいうものの、どの国であれ、コネや地位を利用しての抜け駆け接種はやはり見苦しい。

その一方で、ドイツの厳格さも息が詰まるように感じるのは、よく言えばイタリア的寛容さ、悪く言えばイタリア的おおざっぱに慣れた悪癖なのかもしれません。

「人は間違いをおかす。だから許せ」が信条のイタリア人は、醜聞まみれのあのベルルスコーニさんも許し、ワクチン抜け駆け接種のろくでなしなども最終的には許してしまいます。

人間ができていない筆者は、どちらも許せないと怒りはするものの、結局イタリア人の信条にひそかに敬服している分、ま、しょうがないか、と流してしまういつもの体たらくです。

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

国際的味覚

値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないでしょうか。

例えば筆者は、サクランボが大好きですが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れません。

だが筆者は明らかにイタリアのものがおいしいと感じます。なぜか。

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからです。

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、筆者は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのです。

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

筆者は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがあります。

しかし、これはいいことばかりとは限りません。

というのも筆者は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

このように、何事につけ国際化というものは善(よ)しあしなのです。

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

管首相のコロナ対策は「押し」の妥協ではなく「受身」の妥協の連続だから信用できない

日本のワクチン政策はお粗末のひと言に尽きます。欧米各国のワクチン接種が進む中、日本は医療従事者への十分な接種さえままならず、高齢者への接種も大幅に遅れています。

一般国民への接種など一体いつになるやら分からない、と言い切っても今のところはあながち言い過ぎではないでしょう。

筆者は既に2月、菅政権のワクチン獲得への動きが鈍いと書きました。欧州にいて生き馬の目を抜くワクチン争奪戦を間近に見ている筆者の目には、日本政府の構えがひどく稚拙に見えたのです。

筆者の印象はどうやら正しかったようです。

菅首相は、ワクチンが近く大量に入荷するのでもあるかのような発言を繰り返していますが、真偽のほどは分かりません。たとえ入荷してもべらぼうな値段を支払らう結果になるのではないかと危惧します。

ワクチン政策以外にもコロナ感染防止策全般、経済運営、東京五輪への展望など、など、菅政権の動きはなにもかもが迷走状態に見えます。

経済も感染防止も大事

言うまでもありませんが、コロナ禍の世界では感染拡大を抑え込みつつ経済も回し続けることが正義です。

感染拡大防止のみを重視してロックダウンを導入すれば、経済が破壊され国民はコロナとは別の危険にさらされます。昨年の春、世界一過酷で世界一長いロックダウンを敷いたイタリアの経済が、これでもかというまでに破壊され多くの人々の暮らしが成り立たなくなったのが好例です。

イタリアよりはゆるく、期間も短かいロックダウンを導入した欧州の他の国々も同様の被害を受けました。欧州一の経済大国でビジネスも好調なドイツでさえ、ロックダウンによって経済は大きなダメージを受けました。

だがそれならばということで、経済の推進のみに力を入れて感染拡大を放置すれば、国民の健康と命が危機にさらされます。先頃までのアメリカや現在のブラジルが好例です。また感染抑止策を誤ったり医療体制が脆弱だったりしてもコロナ被害は拡大します。インドほかの世界の貧しい国々がその好例です。

これまた当たり前のことですが感染防止と経済活動は相反します。欧米や日本などの先進国では、経済規模が大きい分、2者が対立することからくる痛みも大きくなります。

押しの妥協と受身の妥協

感染防止と経済推進という二つの正義はぶつかり合う。だが両立させなければならない。その両立は妥協によってのみ可能になります。

妥協は民主主義とほぼ同義語です。民主主義国である欧米各国や日本は、民主主義のプリンシプルに従って感染拡大と経済活動の妥協点を見つけ出さなければなりません。

言葉を変えれば、感染拡大を完全に押さえ込むことはできない。経済活動を完全に止めることもできない。従ってある程度の感染拡大と犠牲者を受け入れる、という苦痛に耐えながら経済も回していかなければならない。

そのことをメッセージにして明確に国民に伝えるのが菅首相の義務です。

言い方を変えればコロナ対策とは、感染と経済を見据えながら妥協を繰り返して行く、ということにほかなりません。

妥協することは、弱腰、優柔不断、敗北など、ネガティブな印象をしばしば国民に与えます。

妥協に際しては、追い詰められて仕方なくそれを受け入れたのではなく、強い意志と不退転の決意また責任感から導き出したポジティブな方向転換である、と国民に思わせなければならない。

それでなければ国民は納得しません。

“ポジティブな妥協”ができるのが有能な政治家です。あるいは常にポジティブな妥協をしている、と国民に語りかけることができるのが優れた指導者です。それはつまり、コミュニケーション能力の優れたリーダーということです。

良かれと思って実行した政策が行き詰まるのはよくあることです。その時に間違いを間違いと認めて、さて今後はどうするのかと国民に直接に、且つただちに語るのです。

正直に、誠実に、飾らずに、がキーワード

例えば昨年のGoToトラベルはそれ自体は悪くない政策です。だが運悪く遂行のタイミングを間違ったために感染拡大を招きました。菅首相はそこでGoToトラベルの人の移動は感染拡大の原因ではない、と愚劣な言い訳や強弁を弄するべきではありませんでした。

そうではなく、間違いを認めた上で「人の動きが活発になる年末年始には一旦停止するが、経済を立て直すためには重要不可欠な策なので時期を見て再開する」と正直に且つ明確に国民に伝えれば良かったのです。

正直に、誠実に、飾らずに、そして真摯に国民に語り掛けること。何も難しい仕事ではありません。なぜそんな当たり前のことができないのでしょうか。秋田の田舎の出の朴訥で真面目で醇正・篤実な人柄の男が管義偉、という触れ込みはもしかすると嘘なのでしょうか?

残念ながら日本の政治家は、菅首相に限らず伝統的にコミュニケーション力が弱い。ゼロと言っても良いかもしれません。

それでも日本の外から見ていると、その政権や人となりへの賛否は別にして、最近では中曽根、小泉両元首相のようにコミュニケーション力の強い人も出ました。だが形成されかけたその伝統は、安倍前首相によって後退し、菅首相によって完全に死に絶えたようにさえ見えます。

日本の政治家は説明責任という成句をナントカの一つ覚えのように口にしますが、彼らには常に言葉が足りない。政治家が説明責任を果たすのは最低限の義務です。政治家にはそれに加えて独自の考えをより明確に国民に伝える能力、すなわちコミュニケーション力がなくてはなりません。

それを「間違いを隠さない正直と勇気」に裏打ちされた能弁、と言い換えても構わないと思います。管首相のように間違いから目を逸らしたり建て前や口上を述べ立てて誤魔化すのはコミュニケーションではありません。

菅首相には、世界の有能な指導者の多くが持っているコミュニケーション力も分かりやすさもありません。それは彼が寡黙だからではなく彼の発する言葉には既述のコンセプト、つまり「間違いを隠さない正直」と「勇気に裏打ちされた能弁」が欠けているからです。だから国民の琴線に触れない。

発信できないなら去るべし

菅首相には的確なコミュニケーション力が欠けているだけではありません。就任直後に起きた日本学術会議問題に始まりコロナ対策などでも露見し続けているように、彼には政策方針の転換の理由を「詳しく説明する言葉」さえないのですから、何をか言わんやです。

いま現在も緊急事態宣言の混乱、オリンピック問題、ワクチン入手難、などと大揺れに揺れています。菅首相は例によって官僚の作文にしがみついて、安心安全に東京五輪を開催する、ワクチンは間もなく入荷するなどと反復していますが、何が根拠になっているのかさえよく分かりません。

それでいながら菅政権はー矛盾するようですがー既述のように感染予防も経済の推進も「政策」としてはまともな内容のものも掲げています。ところがそれが国民に十分に伝わっていません。伝わらなければ政策は無いにも等しい。

コミュニケーション能力が弱い菅首相の施策は、たとえそれが感染防止と経済活動を秤にかけた上での適切な「妥協」であっても、行き当たりばったりの結果にしか見えず、逃げや敗北の色が濃い動きに見えてしまいます。

管首相は追い詰められて「受身の妥協」をするのではなく、常に先手先手と政策を押し進めて、それが間違っていた場合には、即座にそのことを認め「積極的に妥協」して、修正し前進する勇気と誠実と知恵を持つべきです。

それができないのなら、速やかに去ることが、彼の言う国民への最大の奉仕になると考えます。




facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

ワクチン特許権の停止というたわけ

バイデン米大統領が、コロナワクチンの特許権を一時停止することに賛成、と表明して世間を騒がせています。

いわば特許を開放して、ワクチン開発者たちの知的財産を世界中に分け与えるべき、という主張です。

特許権を停止することで、企業秘密である生産ノウハウに誰もがアクセスしてワクチンを製造することができる。そうやってワクチンが貧しい国々にも行き渡る。だから公平だ、という論法です。

しかし、それを果たして公平と呼べるのでしょうか?

新型コロナは変異種の猖けつ もあり世界をますます恐慌に陥れています。その中でも特に苦しんでいるのがインドをはじめとする途上国です。

そのインドと南アフリカが口火を切って、ワクチン特許の一時停止論が盛んになりました。

ワクチン製造の秘密をまず彼らが無償で手に入れて、世界中の途上国も同じ道を行きワクチンを大量に製造して、コロナ禍から脱する、というわけです。

そのアイデアをバイデン大統領が支持しました。彼は善意を装っていますが、ここまでアメリカは同国産のワクチンを独り占めにしている、という途上国などからの批判をかわす意図も透けて見えます。

それに対して主に英独仏をはじめとする欧州各国が不支持を表明しました。彼らは貧しい国々へのワクチンの流通を阻んでいるのは特許権ではなく、生産能力や品質基準の問題だと主張しています。

またIFPMA(国際製薬団体連合会)も「ワクチンの特許を停止しても、生産量が増えたり世界規模の健康危機への対抗策が直ちに生まれるわけではない」と反論。

IFPMAはさらに、増産の真の障害はワクチンの原材料不足、サプライチェーンの制約、各国のワクチンの囲い込み、貿易障壁などが主要な要因だとも論じています。

当事者たちのそうした懸念を待つまでもなく、特許権を保護しなければ研究開発に必要な民間投資が活性化せず、政府等の資金提供も損なわれます。それはイノベーションが起こらずワクチンの開発製造が不可能になるかもしれないことを意味します。

インドの惨状に心を痛めない人はまれでしょう。また先進国だけがワクチンの接種を進めて途上国や貧しい国々にまで行き渡らなくてもよい、と考える者もよほどの冷酷漢でもない限りあり得ません。

弱者や貧しい人々は必ず救済されなければなりません。だが、そのために多くの努力と犠牲と情熱を注いでワクチンを開発した人々や会社が、犠牲になってもいいという法はない。

ワクチンの開発製造は慈善事業ではありません。能力と意志と勇気と進取の気性に富んだ人々が、多大な労力を注ぎ込み且つ大きな経済的リスクを冒して手に入れたものです。

彼らは成功報酬を目当てにワクチンを開発します。利益を得たいというインセンティブがあってはじめてそれは可能になります。それが自由競争を根本に据えた資本主義世界の掟です。

懸命に努力をしても彼らの知的財産が守られず、したがって金銭的報酬もなければ、もはや誰も努力をしなくなります。しかもパンでミックは今後も繰り返し起きることが確実です。

製薬会社は高く強い動機を持ち続けられる環境に置かれるべきです。それでなければ、次のワクチンや治療薬を開発する意欲など湧かないでしょう。彼らの努力の結果である特許権を取り上げるのは間違いです。

特許権を取り上げるのではなく、それを基にして生産量を増やし急ぎ先進国に集団免疫をもたらすべきです。その後すばやく途上国や貧困国にワクチンを送る方策を考えればいい。

世界はひとつの池のようなものです。先進国だけが集団免疫を獲得しても、他の地域が無防備のままならコロナの危険は去りません。ですから先ず前者を救い同じ勢いで他も救えば良いのです。

先進国は、それ以外の世界のコロナを収束させなければ、どうあがいても彼ら自身の100%の安全を獲得することはできません。

そのためにも特許権を守りつつ生産を大急ぎで増やして、まず先進国を安全にし、その安全を他地域にも次々に敷衍していけばいいのです。

途上国はコロナという大火事に見舞われています。同時に先進国も熱火に焼かれています。自家が燃えているときには、よその家の火事を消しに行くことは中々できません。

まず自家の火事を鎮火させてから、急ぎ他者の火事場に向かうのが最も安全で効果的な方法です。それでなければ共倒れになって、二つの家が焼け落ちかねません。

バイデン大統領は、ここは善人づらで無定見な政治パフォーマンスをしている場合ではありません。重大な発明をした製薬会社を守りつつ、世界の健康を守る「実務」パフォーマンスもぜひ見せてほしいものです。

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

反ワクチン論者の理外の理

明るい兆し

イタリアのコロナワクチン接種計画が軌道に乗りつつあります。

EU(欧州連合)のワクチン療治スキームはことしに入ってから挫折しっぱなしでした。EU加盟国のイタリアもむろん例外ではありません。

構想が崩れたのは、ワクチン製造会社の供給の遅れでした。特にアストラゼネカが大きく停滞。それは同社がイギリスへの配分だけをこっそり拡大したから、という疑惑さえ生まれました。

しかしアストラゼネカ社以外からの供給が3月半ば頃から徐々に増えて、EUのワクチン政策は当初の計画に少しづつ追いつきました。イタリアの状況もそれに連れて改善しました。

5月6日時点でのイタリアのワクチン接種は一回接種が15.640.473回。総人口のおよそ26,22%。2回接種済みの者は6.826.350人です。

イタリア政府は4月26日、全土にわたるロックダウンを徐々に解除していくと決めました。観光・飲食店業界などが、これ以上の休業には耐えられない、と激しく政府を突き上げました。

それが思い切った緩和策の導入をもたらしました。だが、その大きな規制緩和策の裏には、ワクチン接種環境が改善しつつある、という政府の自負もあります。

懸念

政策転換は危険な賭けです。なぜならイタリアのワクチン接種は、たとえばイギリスやアメリカなどに比べるとはるかに数が少ない。拙速な規制緩和は強いリバウンドを呼ぶリスクがあります。

それとは別に、イタリアにはワクチン接種に絡むもうひとつの懸念もあります。強い反ワクチン勢力の存在です。それが「“No Vax(ノー・ヴァクス)” 」です。

No Vaxはイタリアの左右のポピュリスト政党、五つ星運動と同盟の主導で勢力を拡大しました。きっかけは2017年、イタリア政府が全ての子供に10種類のワクチンを接種する義務を課そうとしたことによります。

過激集団No Vaxはワクチンの「危険と不自然性」を叫んで政府に噛み付きました。そこに「反体制」を標榜する両党が飛びついて運動の火に油を注ぎました。火はたちまち燃え盛りました。

2018年の総選挙では、五つ星運動と同盟が躍進して両党による連立政権が発足。NoVaxはさらに隆盛しワクチン反対運動は激化の一途をたどりました。

そこに新型コロナが出現しました。NoVaxはそれまでの主張を踏襲拡大して、新型コロナウイルス・ワクチンにも断固反対と叫び始めました。

いきさつ

ワクチンの効能に疑問を持ち、且つ安全性に不安を持つ人々は、世界中で増え続けています。きっかけは20年以上前に遡ります。

イギリスの医師、アンドリュー・ウェイクフィールドが、はしかの予防接種は自閉症を引き起こす、というセンセーショナルな論文を発表しました。これが反ワクチン派の人々を狂喜させました。

論文はその後ねつ造だったことが分かり、彼は医師免許を剥奪されました。しかし、道理を全く認めようとしない反ワクチン過激派の人々には、そんな真実など存在しないにも等しいものです。

彼らはその後もワクチンの危険と欺瞞を「盲信」し続けました。イタリアのNoVaxはその流れをくむ運動です。それはほぼ彼らの宗教ですから、科学の言葉は通じません。

各国のグループをまとめる国際的な反ワクチン組織は、狂信的で声が大きいNoVaxが引っ張るイタリアの反ワクチン活動を、「抵抗のシンボル」とさえ見なしています。

しかし、そうはいうものの、ここ最近のイタリアの状況は少し静かになっています。

国論

コロナワクチンに猛然と異議を唱えているのは、極く少数の過激な人々です。それを裏付けるように、イタリアでワクチン接種が始まってからは、実力行使にまで及ぶ極端な動きは少ない。

仲間同士でつるんで気勢を上げる以外には、接種会場に火炎瓶を投げつけたり、高齢者を煽動して集団で接種を拒否させたりという動きがニュースになったぐらいです。

またイスラエルや米英など、“ワクチン接種先進国”における成功が刺激となって、やはり予防接種は重要だという気運が全国的に高まりつつあるのも確かです。

それでも過去のイタリアのありさまを思うと不安は大きい。

元々存在する嫌ワクチン気分に加えて、イタリアの良く言えば多様性に富む国の様態、悪く言えば分裂気質の国民性が、国を挙げてのワクチン接種キャンペーンに影を落としています。

英独仏などの欧州先進国とは違って、イタリアは同じ先進国ながら統一した民意が形成されにくい。だからこそイタリア政府は事あるごとに「イタリア全国民こぞって~」という類のキャンペーンを張りたがります。

それは多様性ゆえに四分五裂する世論をまとめるための、イタリア政府の懸命の努力のあらわれなのです。

だがイタリアは、英独仏や北欧各国に比べて合理性への信仰心が薄い。そこが同じカトリック教国であるフランスとも違う、イタリアの弱点であり面白さです。

フランスも反ワクチン勢力の強い国ですが、最終的には合理的思考が勝って、イタリアとは対照的にワクチン接種賛成論が世論を席巻する可能性が高いと考えられます。

集団免疫

イタリアはそうはならないかもしれません。いま現在の正確な統計はありませんが、昨年末あたりの統計では、ワクチン接種に積極的なイタリア人は60%あまりというものもありました。

その60%あまりの人々が、ワクチン接種状況を良い方向に引っ張っているとするなら、やがてそれは行き詰まってしまうかもしれない。そうなるとイタリア政府が目指す「集団免疫」の獲得が頓挫する可能性もあります。

「集団免疫」は運が良ければ、国民全体のワクチン接種率70%程度で達成できるともされます。だが一般的には80%程度が目安で、数字が高ければ高いほど確率が高くなります。

既述のように今日現在の明確な統計はありませんが、筆者が友人知己その他を含む独自のネットワークで調べた限りでは、80%の接種率に至るのはかなり厳しいように感じます。

積極的にワクチン接種に反対、とまでは言わなくても、喜び勇んで接種会場に足を運ぶ気にはなれない、という者も多いのです。

NoVaxを筆頭にしたワクチン懐疑派の喧伝と、血栓などの健康被害が発見されたアストラゼネカ・ワクチンの出だしでのつまずき等が、大きく影響しているようです。

統計の数字にこだわるわけではありませんが、イタリアのワクチン戦略は接種率が60%に近づいたあたりで停滞し、その後は何らかの措置が取られない限り「集団免疫」の完成には至らない可能性があります。

そうなった場合イタリア政府は、一般的には懐疑論が強い「ワクチン接種の義務化」を模索するかもしれません。イタリアは先日、欧州で初めて医療従事者のワクチン接種を義務化した国でもあります。

多様性と自由を尊重するところがイタリア共和国の最大の美点ですが、それは行き過ぎてカオスを呼び込むことも多い。そしてカオスが制御不能に陥ると、伝家の宝刀「強制施行策」が抜かれます。ワクチン接種もそうなる可能性があるように思います。

切捨てではなく説得が解決策

NoVaxを筆頭にするワクチン懐疑派の人々は、彼らなりの考えで自分自身と愛する人々の健康を守ろうとしています。

問題は彼らが間違った情報や嘘に惑わされていることです。

ワクチンはフェイクニュースや思い込みに縛られている人々自身を救います。同時に彼らが所属する社会は、コロナ禍から脱出するために「集団免疫」が必要です。

それはワクチン懐疑派を含む社会の大多数がワクチン接種を受けたときに達成されます。ワクチン懐疑派の人々を切り捨てれば、ワクチンの社会的な効果は半減しかねません。

従って彼らは正しい情報と科学の言葉によって説得されるべきです。決して切り捨てられるべき存在ではありません。彼らを納得させるのが政治の仕事です。

いうまでもなくコロナパンデミックは、反ワクチン派の人々が主張するように、自然のままに蔓延させることで「自然に」集団免疫ができ「自然に」終息する、という考え方もあります。

しかし、そこに至るまでに一体何人の人が死に、医療崩壊を含むどれだけの社会の混乱と不都合と不利益があるかを考えた場合、やはりワクチンによって終息を図ることが重要です。

また、ウイルスが絶え間なく変異する怖い存在であることを考えても、できるだけ迅速に宿主を減らして、ウイルスの活動を封じ込むべきです。

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信