白鵬は文明を忘れて早く日本人になったほうが良い

おどろき

NHKスペシャル「横綱 白鵬 “孤独”の14年」というドキュメンタリー番組を見ました。不可解な部分と妙に納得できる部分が交錯して、いかにも「異様な横綱」に相応しい内容だと感じました。

2007年に22歳の若さで横綱になった白鵬は、心技体の充溢したような強い美しい相撲で勝ち続けました。

途方もない力量を持つ白鵬の相撲が乱れ出したのは30歳を過ぎた頃からだ、とNHKスペシャルのナレーションは説明しました。

加齢による力の衰えと、“日本人に愛されていない”という悩みが彼の相撲の劣化を招いた、というのです。

加齢は分かりますが、白鵬には「日本人に愛されていないという悩みがあった」という分析は、新鮮過ぎて少しめまいがしたほどでした。

筆者は引退前5~6年間の白鵬の動きにずっと違和感を抱いてきました。それは30歳を過ぎてから白鵬の相撲が乱れ始めた、という番組の見方とほぼ一致しています。

だが筆者は白鵬の変化を、彼の思い上がりがもたらしたものと考えてきました。一方NHKスペシャルは、彼の力の衰えと日本人に愛されたいといういわば「コンプレックス」が乱れの原因と主張するのです。

大横綱の光と影

白鵬は2020年にコロナパンデミックが起きる前までは、荒っぽい取り口も多いものの常に力強い相撲を取っていると筆者は感じていました。

今の時代、アスリートの力の衰えを30歳で見出すのは中々むつかしい。20歳代後半から30歳前後がプロ選手の最盛期というイメージさえあります。

一方で取り組み前や取り組み後の彼の所作は見苦しかった。鼻や口を歪めてしきりに示威行為を繰り返し、仕切り時間一杯になるとタオルを放り投げたりします。

取り組みで相手を倒すとダメ押し気味に殴る仕草をする。ガッツポーズは当たり前で腕を振り肩をいからせてドヤ顔を作る。威嚇する。

仕上げには賞金をわしづかみにして拝跪し、それだけでは飽き足らずに振り回し振りかぶる。日本人には中々真似のできないそれらの動きは品下って見えました。

見苦しい所作は、時間が経つにつれて増えていきました。だが20歳代までの白鵬は、冒頭で触れたように心技体の充実した模範的な横綱に見えていました。

事実、横綱になって3年後の2010年には、彼の優勝を祝して館内に自然に白鵬コールが起こるほどに彼は尊敬され愛され賞賛されていました。後に目立つようになる醜い所作も当時はほとんど見られませんでした。

功績

彼は優勝を重ね、全勝優勝の回数を増やし、双葉山に次ぐ連勝記録を打ち立て、北の湖、千代の富士の優勝回数を上回る記録を作りました。そしてついには大鵬の優勝回数を超えてさらに大きく引き離しました。

次々に記録を破り大記録を打ちたてながら、彼は相撲協会を襲った不祥事にも見事に対応しました。賭博事件と八百長問題で存続さえ危ぶまれた相撲協会をほぼひとりで支えました。

名実ともに大横綱の歩みを続けるように見えた白鵬はしかし、日馬富士、鶴竜、稀勢の里の3横綱の台頭そして引退を見届けながら徐々に荒れた相撲を取るようになりました。同時に取り組み前後の所作も格段に見苦しくなって行きます。

筆者は彼の取り口ではなく、土俵上の彼の行儀の悪さを基に、白鵬は横綱としての品格に欠けると判断し、そう発言してきました。

白鵬が次第に品下っていったのは、彼の思い上がりがなせる技で、誰かが正せば直ると筆者は信じていました。しかし一向に矯正されませんでした。そして彼はついに、筆者に言わせれば「晩節を汚したまま」引退しました。

だがNHKスペシャルは、白鵬の所作ではなく「取り口」が乱れたのだと力説しました。それは横綱審議委員会と同じ見方です。

つまりどっしりと受けてたつ「横綱相撲」ではなく、張り手やかち上げを多用する立会いが醜い、とNHKスペシャルも横綱審議委員会も主張するのです。

それは筆者の意見とは異なります。筆者は以前にブログで次のように書きました

強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。
だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。
白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。
あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。
白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。
白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。
それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。
要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。
張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。
対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは白鵬の品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。
もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。

晩節を汚した立ち合い

そんな具合に筆者は横審ともNスペともちょっと違う意見を持っています。だが、自分の見解が果たして妥当なものであるかどうかの確信はありません。それというのも白鵬は、彼の最後の土俵となったことしの名古屋場所で、またしても驚きの動きをしたからです。

全勝で迎えた7月場所の14日目、白鵬は時間いっぱいの仕切りで、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いの構えに入りました。館内がどよめき対戦相手の正代は面食らって立ちすくみました。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と評価した立ち合いです。正代は訳がわからないままに立ち、白鵬は例によって張り手を交えた戦法でショックから立ち直れない正代を下しました。

異様な相撲はそこでは終りませんでした。白鵬は翌日の千秋楽でも大関の照ノ富士を相手に、殴打あるいは鉄拳にさえ見える張り手を何発も繰り出して、相手の意表をつき小手投げで勝ちました。45回目のしかも全勝での優勝の瞬間でした。

白鵬は正代との一戦を「散々考え抜いた末に、彼にはどうやっても勝てないと感じたので、立ち合いを“当たらない”で行こうと決めた」とインタビューで語りました。

立ち合いを当たらないとは、要するに変化する、逃げる、などと同じ卑怯な注文相撲のことです。

だが何が何でも勝ちに行く、という白鵬の姿勢は責められるべきものではありません。相撲でも勝つことは重要です。また、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いに臨むのも、反則ではありません。かち上げや張り手が禁じ手ではないように。

それどころか仕切り線から遠くはなれて俵際から立ち合うという形は、ある意味では誰も思いつかなかった斬新な戦法です。ましてや横綱がそれをやるなどとは誰も考えないでしょう。

文化と文明の相克

白鵬の張り手やかち上げを「まともな戦法」と主張する筆者は、正代戦での彼の立ち合いもまっとうな戦術の一つ、と認めて庇護しなければなりません。だが、全くそんな気分にはなれません。

その立ち合いと、立ち合いに続く戦いは、白鵬の土俵上の所作や土俵外での言動に勝るとも劣らない醜さだと筆者は感じました。

白鵬の戦法は理屈では理解できます。しかし筆者の感情が受け入れません。そしてこの感情の部分こそが、つまり、「文化」なのです。

勝つことが全て、という白鵬の立場は普遍的です。相撲は勝負であり格闘技ですから勝つことが正義です。それはモンゴル人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、われわれ日本人も、要するに誰もが理解しています。

誰もが理解できるコンセプトとはつまり文明のことです。白鵬の立ち位置は文明に拠っているためにいかにも正当に見えます。だが筆者を含む多くの日本人はそこに違和感を持ちます。われわれにの中には文明と共に日本文化が息づいているからです。

その日本文化が、大相撲はただ勝てば良いというものではない、とわれわれに告げるのです。

文化は文明とは違って特殊なものです。日本人やモンゴル人やイタリア人やスーダン人など、あらゆる国や地域に息づいている独特の知性や感性が文化です。そして文化は多くの場合は閉鎖的で、それぞれの文化圏以外の人間には理解不可能なことも珍しくありません。

普遍性が命である文明とは対照的に、特殊性が文化の核心なのです。従って文化は、その文化の中で生まれ育っていない場合には、懸命に努力をし謙虚に学び続けない限り決して理解できず、理解できないから身につくこともありません。

相撲は格闘技で勝負ごとだから何をしても勝つことが重要、という明晰な文明は正論です。だがそれに加えて「慎みを持て」という漠たる要求をするのが文化なのです。日本文化全体の底流にあるそのコンセプトは、大相撲ではさらに強い。

文明のみを追い求める白鵬は、そのことに気づき克服しない限り決して横綱の品格は得られません。さらに言えば白鵬の場合、気づいてはいるものの克服する十分な努力をしていない、というふうにも見えます

驚きの“日本人に愛されたい症候群”

しかしながら白鵬の在り方のうちで最もよく分からないのは、彼が「日本人に愛されたいという強い願望を持っている」というNHKスペシャルの指摘です。

番組によると白鵬は、日本人に愛されたいと願っていて、それが叶わないために屈折しコンプレックスとなりプレッシャーになって相撲が乱れたのだといいます。

そうした白鵬の思い込みは、日本人横綱である稀勢の里との対戦の際に、観客が日本人である稀勢の里のみを応援して自分を軽んじている、という見方を彼にもたらしました。

彼はさまざまな場面でそんなひけ目や葛藤また孤独感を抱いて相撲ファンを恨み、それに沿った言動をして日本社会から隔絶していきました。

それらが事実なら、反動で白鵬は2017年、優勝インタビューにかこつけて万歳三唱を観客に要請し、2019年には3本締めを強制したりして顰蹙を買い、さらに溝を深めていった、という分析も可能です。

筆者は白鵬の土俵上の所作とともに万歳三唱や3本締めを冷ややかに見てきました。あまり利口なやり方ではない、と苦笑する思いでいました。従ってそのことに批判的らしい番組の方向性に納得しました。

しかしその原因が、いわば「日本人に愛されたい症候群」によるとは思いもよりませんでした。

日本人に愛されたい願望がある、とは日本人に嫌われているということです。少なくとも白鵬自身はそう感じているということです。

それはもしかすると、日本人の中にある執拗な人種差別あるいは排外感情を、白鵬が感じ続けているということなのかもしれません。

大相撲に絡んだ人種差別は、小錦騒動などでも明らかでした。しかしモンゴル人の鶴竜が横綱に昇進した時点で、人種差別は克服されたと筆者は書きました。

白鵬はバナナ日本人など恐れなくていい

そうはいうものの、圧倒的な強さを誇った白鵬が、人種差別的な苦悩を抱えている、という意識とともに最後の優勝シーンを思い返してみると、ちょっとつらい気持ちになりました。

名古屋場所の千秋楽に白鵬は家族を招待していました。彼が優勝を遂げた瞬間、奥さんと子供たちは嬉し泣きをしました。筆者はそれを、膝の怪我を克服して復活した白鵬を家族が喜び称える姿、と信じて疑いませんでした。だがそこに人種差別的な要素が加わるとひどく違うシーンに見えてきます。

白鵬の「日本人の奥さん」と「日本人の子供たち」は、理不尽な差別を受ける夫また父親が、重圧を跳ね返してまた優勝を遂げたことを祝い、賞賛し、誇る気持ちから喜びの涙にくれた、とも考えられるのです。

では向かうところ敵なしの強さと、存在感を示し続けた白鵬を否定しようとする勢力とは、いったい何でしょう。

それはおそらく、日本人であるということ以外には何も誇るものを持たない「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」、あるいは皮膚は黄色いのに中身が白人のつもりのバナナ市民、つまり「国粋トランプ主義者」あたりではないいでしょうか。

それらの下種な勢力は、モンゴル人だからという理由で白鵬を貶めようとすることも十分考えられます。

だが先に触れたように白鵬は、2007年に横綱に昇進して以降力強く美しい相撲で快進撃を続け、野球賭博や八百長問題で存続の危機にまでさらされた大相撲を救った立役者です。

その意味では日本人以上に日本の最重要な伝統文化の一つを守った男なのです。白鵬がもしもバナナ国民の中傷や攻撃を受けていたのなら、怖れることなく告発をするべきです。

日本の国際的な評判を貶めるだけの反日・亡国の輩、すなわち「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」あるいは「国粋バナナ・トランプ主義者」等々を怖れる必要などまったくありません。

 

 

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