‘’建物語り“”という“ヒト物語り”~ムッソリーニ&ミラノ中央駅~

イタリアにある膨大な数の歴史的建築物の中で、最も新しいものの一つがミラノの中央駅舎です。

1931年にオープンしたミラノ中央駅は、イタリアの国鉄駅の中ではずば抜けて威厳のある外観を持つ建物。

世界で一番美しい駅舎と呼ぶ建築評論家もいます。

駅舎は1925年に工事が始まって6年後に完成しました。

イタリアの国家的大プロジェクトは、何百年も工事が続いたものも少なくありません。たとえば同じミラノの大聖堂ドゥオーモは、およそ500年もかかって完成しました。

竣工まで長い時間がかかった歴史的建造物はほかにもたくさんあります。その伝統は今も残っていてイタリアの建築工事の進捗は遅い。

大事業だったミラノ中央駅の駅舎がわずか6年で完成したのは、横暴で険しいファシズム政権が工事関係者の尻をたたき続けたからです。

駅舎を規定する正式な建築様式名はありません。

リバティやアールデコの混合様式とされますが、「リットリア様式」とも呼ばれます。リットリアとはムッソリーニが権力を握っていた時代の建築群の総称。つまりファシスト様式。

古代ローマ帝国に倣って質実剛健を目指したと言われています。

筆者が知る限り、ミラノを訪れる多くの日本人は駅の堂々としたたたずまいに感動します。筆者も嫌いではありません。

ところが、実は、この駅の建物を多くのイタリア人は毛嫌いします。

理由はただひと言、「威張っている」です。

要するに洗練されていない、ということです。

筆者はイタリア人のそのセンスや見識に感嘆します。

例えばベニスの中心、大運河沿いに立ち並ぶ建築群は、その一つひとつが洗練を極めた美しいものばかりです。

それに比較するとミラノ駅舎のシンプルな力強さは、硬い印象があり繊細とは言えないかもしれません。

ベニスでは当時の貴族や大商人が、東方貿易で得た莫大な富を惜しみなく注ぎ込んで、優美な建築物を作りました。

大運河沿いに家を持つのは名誉なことだと考えられましたから、彼らは競ってより美しいものを創ろうとしました。

そのために建築群はさらに洗練を極めることになりました。彼らには「そういう家」が必要だったのです。

一方独裁者のムッソリーニは、自らの威厳を示すために大上段に構えた威圧的な印象を持つ建物を創る必要がありました。

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要するに彼もまた彼なりの必要に迫られたのです。

歴史的建造物は、それが巨大だったり威厳があったり古色蒼然としているからすごいのではありません。「誰かがその建物を必要とした」という点がもっとさらにすごいのです。

「建物とは人」のことにほかなりません。

ムッソリーニの時代には、彼と追随するファシストらが必要としたためにファシズムを象徴するリットリア様式の建築物が多く造られ、中でも目立つものがミラノ中央駅舎です。

目の肥えたイタリア人は、駅舎の威風にムッソリーニの野心やごう慢や民主主義への冒涜などを嗅ぎ取って、まゆをひそめます。

それは洗練を極めた建物群で街を埋め尽くして、ついには全体が芸術作品と言っても過言ではないベニスのような都市を造ってきた、イタリア人ならではの厳しい批評だと筆者には見えます。

建築が彼らに受け入れられるためには、ムッソリーニの負の記憶がなくなって、駅舎が建物自体の生命を宿し始める、恐らく何世紀もの時間が必要に違いありません。

長い時を経ても駅舎がなおそこに立っているなら、それはつまり人々が、「存続させるに値する建物」と見なしたからです。

誰かが必要としたために生まれた建物は、その後の人々の要求に支えられて生き続けます。

建物は時代の要望やニーズによってさらに長生きをし、短い命しか与えられていない我々人間から見れば、ほとんど永遠にも見える年月をさえ生き抜きます。

駅舎が将来そんな運命をたどったまさにその時にこそ、人々は建物を美しいと感じることでしょう。

美の正体は、先に触れたところの、長い時間を生き延びた建築物に宿る独自の生命です。

つまり建物を必要とした古人の意図と、時間と、建物そのものが分かちがたく融合した強い生気。

人々は溢れ出る生気の豊かさに心を撃たれて、恍惚としてそこに立ち尽くすことになるはずです。

 

 

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“ドラギ大統領”待望論の罠

2022年のイタリア大統領選は、オミクロン株が猖獗を極めている中で行われます。そこで通常は1日に2回づつ投票を行う慣例を改めて、1日1回だけ投票を実施すると定められました。

有権者は上下両院議員と終身議員、また各州代表をあわせた1009人。

国会内では対人距離を保つために人数を制限して順番に投票し、議事堂の外には感染者の議員らのためにドライブスルー方式での投票所も設置されました。

全員が投票を済ませるには時間がかかるため、1日に1回の投票が限度、となったのです。

イタリア大統領選では正式な候補者は存在せず、形式上それぞれの有権者が思い思いの人物に1票を投じる、という方法が取られます。

そうはいうものの、しかし、彼らの全員が党や党派に属しているため、グループごとに決めた人物に票が行くことになります。

票の行方は常に流動的で、はじめのうちは全く先が読めないケースがほとんどです。初回投票を含む前半の採決では、欠席者や無効の白票の数も多い。

理由は状況を見て態度を決めようとする動きが活発化するためです。

投票が繰り返されるごとに、いわば人選が進行して有力な候補が明らかになっていきます。

投票が反復される舞台裏では、有権者どうしはもちろん党と会派、また派閥や連合などによる話し合いや切り崩しや脅しや賺しなどの権謀術数が繰り広げられます。

3回目までの投票では、当選者は全体の3分の2以上の票数を得ることが要求されます。だがそれ以後は過半数の得票で大統領が選出されます。

大統領選では、票決を繰り返しながら、もっともふさわしい人物が絞り込まれていくのです。

ふさわしい人物とは、党派を超えた政治的に公正と見なされる人物。人格的にも清廉なイメージの者が好まれるケースが多い。歴代のイタリア大統領はそうやって選ばれてきました。

最も職責にふさわしい人物が、選挙戦が進む過程で絞り込まれていくという形は、ローマ教皇選挙のコンクラーヴェに似ています。

またアメリカの大統領選で、民主党と共和党の候補が時間を掛けてふるいにかけられて、適任者が徐々に選び抜かれていくプロセスにも似ています。

今回の大統領選では、現職のドラギ首相が選出される可能性があります。国会議員ではない彼を大統領に祭り上げて、首相職を奪いたい勢力が存在するのです。

求心力のあるドラギ首相が大統領に横滑りした場合、新たなテクノクラート内閣が発足しない限り総選挙に雪崩れ込んで、極右が主導権を握る右派政権が成立する可能性があります。

むろん選出されたばかりの、且つリベラルの「ドラギ大統領」が、左派の民主党や左派ポピュリストの五つ星運動を取り込んで、極右系の政権の成立を阻止するシナリオも考えられます。

いずれにしても、大連立で安定している現在のドラギ内閣が終焉を迎えれば、イタリアの政局はたちまち混乱に陥る可能性が高い。

選挙初日の段階で大統領候補として名前が挙がっているのは、最も知名度が高いドラギ首相に続いてアマート元首相、ジェンティローニ元首相、マルタ・カルタビア法相、カシーニ元下院議長、などです。

マルタ・カルタビア法相が大統領になればイタリア初の女性大統領になります。

また現職のマタレッラ大統領の続投の目も消えていません。それどころか、選挙直前になって候補を辞退すると表明した、ベルルスコーニ元首相が復活する可能性もゼロではありません。

さらに投票行為が進行するうちに、全く下馬評に上らなかった人物が浮上する可能性もあります。出だしでは何も予期できず、同時に何でもありなのがイタリア大統領選なのです。

筆者が考える最も理想的な次期大統領は、現職のマタレッラ大統領の続投です。理由は次の通りです。

ドラギ政権は、イタリアの政治不安と経済混乱を避けるための、今このときの最善の仕組みです。だからせめて議会任期が終わる2023年まで存続したほうが良い。

そうなった場合には、ドラギ首相以外の人物が大統領にならなければなりません。すなわち現在名前が取りざたされている前述のジェンティローニ元首相、アマート元首相、カシーニ元下院議長、カルタビア法相などです。

だがそれらの人々は、今のところどちらも“帯に短し襷に長し”状態です。安心できるのはやはりマタレッラ大統領の続投です。

イタリア大統領は一期7年が基本です。しかし前任のナポリターノ大統領は例外的に2期目も務め、任期の途中で引退して現職のマタレッラ大統領が誕生しました。

マタレッラ大統領もナポレターノ前大統領と同様に、短い任期で2期目の大統領職を務めたほうが各方面がうまくいくと思います。

理想的なのは、マタレッラ大統領が議会任期が終わる2023年6月まで続投し、その後に選挙を経てドラギ首相が新大統領に就任することです。

将来、求心力の強い「ドラギ大統領」の下で総選挙が行われれば、たとえ反EU主義の右派政権が誕生しても、イタリアはたとえばBrexitの愚を犯した英国のようにはならないでしょう。

極右の同盟とイタリアの同胞も、また極左の五つ星運動も、正体はEU懐疑主義勢力です。

現政権内にいる同盟と五つ星運動は彼らの本性をひた隠しにしていますが、たとえば単独で政権を取るようなことがあれば、すぐにでもEU離脱を画策しかねません。

イタリアはEUにとどまっている限り、「多様性に富む、従ってまとまりはないが独創性にあふれた」イタリアらしいイタリアであり続けることができます。

EUで1番の経済力や政治力を持つ国の地位はドイツやフランスなどに任せておいて、イタリアはこれまで通り、経済三流、政治力四琉の“美しい国”であり続ければいいのです。

そのためにも強いEU信奉者であるドラギ首相とマタレッラ大統領がしばらく連携を続け、間違ってもEU離脱論者であるポピュリストが政権を奪取しないように画策したほうが良いと考えます。

筆者のその理想論に賛成するイタリア人はたくさんいます。

同時に反対する国民もまた多くいます。だからこその政治なのですが、衝撃が笑劇になり悲劇になって、ため息で終わる可能性が高いのがイタリア政治の特徴です。

 

 

 

 

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ベルルスコーニ笑劇がおじゃんでも、イタリア式ドタバタ猛烈政治喜劇の開演が楽しみだ

ベルルスコーニ元首相が1月24日から始まるイタリア大統領選に立候補しない、と表明しました。

理由は「国のために」だそうです。

元首相は同時に「ドラギ首相は(大統領にならずに)現職にとどまるべき」とも主張しました。

国のために身を引く、という宣言は噴飯ものです。翻訳すると「1ミリも勝つ見込みがないので立候補を断念する」というところでしょう。

彼を支持している極右の2党、すなわちイタリアの同胞と同盟は一枚岩ではありません。

世論調査で支持率1位を保っていた同盟が、最近その地位をイタリアの同胞に奪われて、同盟のサルビーニ党首が焦り、血迷い、内心で怒りまくっているように見えます。

そのせいかどうか、彼はいつもよりもさらに妄言・放言・迷言を繰り返し、右派の結束が乱れがちです。

それに加えて、議会最大勢力の五つ星運動とそこに野合した民主党が、ベルルスコーニ大統領の誕生に断固反対と広言し、その方向で激しく動いています。

そればかりではありません。人間的に清潔で政治的に公正な人物像が求められる大統領職には、ベルルスコーニさんはふさわしくない、と寛大で情け深くておおらかな、さすがのイタリア国民でさえ感じています。

大衆迎合主義のカタマリで、政治屋としての嗅覚がハゲタカ並みに鋭いベルルスコーニさんは、さっさとそのことに気づいたのです。

だから「自らのために」立候補を断念したのでしょう。

「自らのために」であることは、ドラギ首相が現職にとどまるべき、という言い分にもはっきりと表れています。

ドラギ首相は大統領に「祭り上げられる」可能性も高い。それを阻止するにはベルルスコーニ元首相自身が大統領を目指すことが最も確実です。

それをしないのは、ドラギ首相継続が今このときのイタリア共和国のためには最重要、という現実よりも、自身の野望つまり政治的に生き延びて政界に影響力を持ち続けることが何よりも大事、と暗に表明しているのも同然です。

ベルルスコーニさんはかつて、今は亡き母親に向かって「将来は必ずイタリア大統領になる」と約束したことがあるといいます。

利害と欲望にまみれた首相職よりも清浄な存在、と見なされることが多いイタリア大統領は、彼にとってもきっと憧れの的だったのでしょう。

筆者はベルルスコーニさんが人生の終末期に臨んで、「国と人民に本気で尽くしたい」と殊勝に考えるなら、許されてもいいのではないかと考えました。

許されて過去の過ちや醜聞や思い上がりをかなぐり捨て、真に人々に尽くして履歴の暗部を償うチャンスが与えられてもいいのではないか、とチラと思ったりもしたのです。

もはや80歳代も半ばになった彼の中には、そんな善良で真摯な、且つ強い願望が芽生えていても不思議ではないと思いました。

だがどうやらそれは、筆者の大甘な思い違いだったらしい。

閑話休題

1月23日現在大統領候補として名前が挙がっているのはベルルスコーニ氏のほかには:

ドラギ首相、アマート元首相、カシーニ元下院議長、ジェンティローニ元首相、マルタ・カルタビア法相など。

マルタ・カルタビア法相が大統領になればイタリア初の女性大統領になります。

ここまでの情勢では、ドラギ首相の横滑りの可能性が最も高い、と考えられています。

もしもドラギ首相が選出されて後任の首相が決まらない場合には、議会任期を待たずに前倒し総選挙の可能性があります。

その場合のイタリアの政情不安はまたもや大きなものになるでしょう。

混乱を避ける意味で、フォルツァ・イタリア所属の最年長閣僚、レナート・ブルネッタ行政相(71を)首班にして、連立を組む各政党の党首や幹部が来年6月の議会任期まで内閣入りして政権を維持する、という案もあります。

それらのアイデアは全て、イタリアのお家芸である政治混乱を避けるための、当の政治家らによる提案です。

 

 

 

 

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日伊さかな料理談義

【note:https://note.com/22192より転載】

「世界には3大料理がある。フランス料理、中華料理、そしてイタリア料理である。その3大料理の中で一番おいしいのは日本料理だ」
これは筆者がイタリアの友人たちを相手に良く口にするジョークです。半分は本気でもあるそのジョークのあとには、筆者はかならず少し大げさな次の一言もつけ加えます。

「日本人は魚のことを良く知っているが肉のことはほとんど知らない。逆にイタリア人は肉を誰よりも良く知っているが、魚については日本料理における肉料理程度にしか知らない。つまりゼロだ」

3大料理のジョークには笑っていた友人たちも、イタリア人は魚を知らない、と筆者が断言したとたんに口角沫を飛ばして反論を始めます。でも筆者は引き下がりません。

スパゲティなどのパスタ料理にからめた魚介類のおいしさは間違いなくイタメシが世界一であり、その種類は肉料理の豊富さにも匹敵します。

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しかしそれを別にすれば、イタリア料理における魚は肉に比べるとはるかに貧しい。料理法が単純なのでです。

この国の魚料理の基本は、大ざっぱに言って、フライかオーブン焼きかボイルと相場が決まっています。海際の地方に行くと目先を変えた魚料理に出会うこともあります。それでも基本的な作り方は前述の三つの域を出ませんから、やはりどうしても単調な味になります。

一度食べる分にはそれで構いません。素材は日本と同じように新鮮ですから味はとても豊かです。しかし二度三度とつづけて食べると飽きがきます。何しろもっとも活きのいい高級魚はボイルにする、というのがイタリア人の一般的な考え方です。

家庭料理、特に上流階級の伝統的な家庭レシピなどの場合はそうです。ボイルと言えば聞こえはいいが、要するに熱湯でゆでるだけの話です。刺身や煮物やたたきや天ぷらや汁物などにする発想がほとんどないのです。

最近は日本食の影響で、刺身やそれに近いマリネなどの鮮魚料理、またそれらにクリームやヨーグルトやマヨネーズなどを絡ませた珍奇な“造り”系料理も増えてはいます。だがそれらはいわば発展途上のレシピであって、名実ともにイタメシになっているとは言い難い。

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筆者は友人らと日伊双方の料理の素材や、調理法や、盛り付けや、味覚などにはじまる様々な要素をよく議論します。そのとき、魚に関してはたいてい筆者に言い負かされる友人らがくやしまぎれに悪態をつきます。

「そうは言っても日本料理における最高の魚料理はサシミというじゃないか。あれは生魚だ。生の魚肉を食べるのは魚を知らないからだ。」

それには筆者はこう反論します。

「日本料理に生魚は存在しない。イタリアのことは知らないが、日本では生魚を食べるのは猫と相場が決まっている。人間が食べるのはサシミだけだ。サシミは漢字で書くと刺身と表記する(筆者はここで実際に漢字を紙に書いて友人らに見せます)。刺身とは刺刀(さしがたな)で身を刺し通したものという意味だ。つまり“包丁(刺刀)で調理された魚”が刺身なのだ。ただの生魚とはわけが違う」

と煙(けむ)に巻いておいて、筆者はさらに言います。

「イタリア人が魚を知らないというのは調理法が単純で刺身やたたきを知らないというだけじゃないね。イタリア料理では魚の頭や皮を全て捨ててしまう。もったいないというよりも僕はあきれて悲しくなる。魚は頭と皮が一番おいしいんだ。特に煮付けなどにすれば最高だ。

たしかに魚の頭は食べづらいし、それを食べるときの人の姿もあまり美しいとは言えない。なにしろ脳ミソとか目玉をずるずるとすすって食べるからね。要するに君らが牛や豚の脳ミソを美味しいおいしい、といって食べまくるのと同じさ。

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あ、それからイタリア人は ― というか、西洋人は皆そうだが ― 魚も貝もイカもエビもタコも何もかもひっくるめて、よく“魚”という言い方をするだろう? これも僕に言わせると魚介類との付き合いが浅いことからくる乱暴な言葉だ。魚と貝はまるで違うものだ。イカやエビやタコもそうだ。なんでもかんでもひっくるめて“魚”と言ってしまうようじゃ料理法にもおのずと限界が出てくるというものさ」 

筆者は最後にたたみかけます。

「イタリアには釣り人口が少ない。せいぜい百万人から多く見つもっても2百万人と言われる。日本には逆に少なく見つもっても2千万人の釣り愛好家がいるとされる。この事実も両国民の魚への理解度を知る一つの指標になる。

なぜかというと、釣り愛好家というのは魚料理のグルメである場合が多い。彼らは「スポーツや趣味として釣りを楽しんでいます」という顔をしているが、実は釣った魚を食べたい一心で海や川に繰り出すのだ。釣った魚を自分でさばき、自分の好きなように料理をして食う。この行為によって彼らは魚に対する理解度を深め、理解度が深まるにつれて舌が肥えていく。つまり究極の魚料理のグルメになって行くんだ。

ところが話はそれだけでは済まない。一人ひとりがグルメである釣り師のまわりには、少なくとも 10人の「連れグルメ」の輪ができると考えられる。釣り人の家族はもちろん、友人知人や時には隣近所の人たちが、釣ってきた魚のおすそ分けにあずかって、釣り師と同じグルメになるという寸法さ。

これを単純に計算すると、それだけで日本には2億人の魚料理のグルメがいることになる。これは日本の人口より多い数字だよ。ところがイタリアはたったの1千万から2千万人。人口の1/6から1/3だ。これだけを見ても、魚や魚料理に対する日本人とイタリア人の理解度には、おのずと大差が出てくるというものだ」

友人たちは筆者のはったり交じりの論法にあきれて、皆一様に黙っています。釣りどころか、魚を食べるのも週に一度あるかないかという生活がほとんどである彼らにとっては、「魚料理は日本食が世界一」と思い込んでいる元“釣りキチ”の筆者の主張は、かなり不可解なものに映るようです。

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ジョコビッチをサノヴァビッチと呼びたくなるメランコリー

ワクチン未接種者のノバク・ジョコビッチ選手が全豪オープンテニス大会から締め出されました。

ジョコビッチ選手は反ワクチン論者。

そしてジョコビッチ選手がワクチン接種を拒否するのは個人の自由です。

民主主義社会では個人の自由は頑々として守られなければなりません。

同時に民主主義社会では、個人の自由を享受する市民は、その見返りに社会に対する義務を負います。

そして社会全体が一律にコロナパンデミックの危険にさらされている現下の状況では、自らと他者で構成される社会を集団免疫によって守るために、ワクチンを接種することが全ての市民の義務と考えられます。

従ってワクチンを拒絶するジョコビッチ選手は、その時点で反社会的存在です。たとえ自身はワクチン接種に反対でも、社会全体のためにワクチンを接種する、という市民の義務を怠っているからです。

新型コロナワクチンが出回った当初は、ワクチン接種を拒否することは個人の自由として認められていました。

個人の自由が、社会全体の自由の足かせとなることが十分には理解されていなかったからです。

だが個人の自由を盾にワクチン接種を拒む市民の存在は、パンデミックの終息を遅らせ、最悪の場合は終息を不可能にするかもしれない、という懸念さえ生まれました。

その時点でワクチン接種は、個人の自由から市民の義務になった、と言うことができます。

個人の自由は社会全体の自由があってはじめて担保されます。また個人の自由を保障する多くの民主主義国家の憲法も、社会全体の安寧によってのみ全幅の効力を発揮します。

ワクチン接種を拒否できる個人の自由は、パンデミックによる社会全体の危機が執拗に続く現在は容認できません。

個人の自由を保障する社会の平安と自由が危機に瀕しているときに、個人の自由のみを頑迷に主張するのは理にかないません。

コロナパンデミックが人々を抑圧し社会全体のストレスが日々高まっていく中で、誰もが自由を求めて葛藤しています。

ワクチンを接種した者も、それを拒絶する者も。

ワクチンを接種した人々が希求する自由は、ワクチンを拒絶する者も分けへだてなく抱擁します。パンデミックを打ち破って社会全体で共に自由を勝ち取ろうという哲学だからです。

一方で反ワクチン派の人々が焦がれる自由は、ワクチン接種そのものを拒否する自由、という彼ら自身の我欲のみに立脚した逃げ水です。

そして彼らが言い張る自由は、社会全体が継続して不自由を蒙る、という大きな害悪をもたらす可能性を秘めています。

だからこそワクチン拒否派の市民は糾弾されなければならないのです。

ここまでが全ての市民に当てはまる一般的な状況です。

ノバク・ジョコビッチ選手は世界ナンバーワンのテニスプレーヤーです。彼は好むと好まざるに関わらず世界的に大きな影響力を持ちます。

また世界に名を知られている彼は、テニスの試合ほかの社会活動を行うことによって、グローバル共同体から経済的、文化的、人間的に巨大な恩恵を受けています。

そして彼に恩恵をもたらす社会活動には既述のように責任が伴います。

その責任とはこの場合、ワクチンを接種する義務のことにほかなりません。

だが彼はそれを拒否しています。拒否するのみではなく、多くの嘘をついています。

彼はオーストラリアに入国するためにコロナ感染履歴を詐称しました。

またコロナに感染していながらそれを隠して旅行をし、隔離生活をしなければならない時期に外出をして、子供たちを含む他者と濃厚な接触を続けました。

そのことを問われるとジョコビッチ選手は、自らの感染の事実を知らなかった、と開いた口がふさがらない類の詭弁を弄しました。

彼はそこでは嘘に加えて隔離拒否という2つの大きな罪を犯しています。

そればかりではありません。

彼はオーストラリア入国が決まるまでは、ワクチンを接種したかどうかを意図的にぼかして、どちらとも取れる発言に終始していました。

ところがトーナメントに出場できると決まったとたんに、手のひらを返して「ワクチンは接種していない」と明言しました。

つまり彼は意図的に接種の有無を曖昧にしていましたが、状況が都合よく展開するや否や、未接種の事実を明らかにしたのです。そのことも糾弾に値する卑劣な行為です。

なぜなら彼はそうすることで、反社会的な勢力である世界中のワクチン拒絶派の人々に得意気にエールを送ったからです。

ジョコビッチ選手は結局、オーストラリア当局の毅然とした対応に遭って、全豪オープンへの出場を拒まれました。

それに続いて5月の全仏オープンと8月の全米オープンへの出場も拒否される可能性が高くなりました。

彼はテニス選手としてのキャリアを大きく傷つけられました。だが彼の最大の傷みは、自らの人間性を世界の多くの人々に否定された事実でしょう。

彼に残されている再生への唯一の道筋は、一連の不祥事への真摯な謝罪とワクチン接種ではないでしょうか。

しかも後者を実行する際には彼は、世界中にいる反ワクチン派の人々に改心を呼びかけることが望ましい、と考えます。

もっともジョコビッチ選手の反ワクチン論は宗教の域にまで達している様子ですから、他者への呼びかけどころか、彼自身が転向する可能性も残念ながら低いかもしれませんが。

 

 

 

 

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笑劇「ベルルスコーニ大統領」というアンビリーバボー!

1月24日から始まるイタリア大統領選で、フォルツァイタリア、同盟、イタリアの同胞から成る中道右派連合は、 フォルツァイタリア党首のベルルスコーニ元首相を支持すると発表しました。

ベルルスコーニ元首相は85歳。2011年に首相の座を追われ、2013年に脱税事件で禁錮4年(恩赦法で減刑)の判決を受けて公職追放されました。

2019年には欧州議会議員に当選しましたが、bungabunga乱交パーティーを始め依然としてさまざまな訴訟案件を抱えています。印象としては、灰色どころか真黒な人品の政治家です。

一政党のボスだったり、イタリア一国の首相だったりの役割ぐらいなら、人柄が少々猥雑でも務まる場合が多い。

政界の魑魅魍魎に対抗し、世界中のタフな政治家や指導者と丁々発止に渡り合うためには、むしろ磊落で粗放な神経の持ち主が適任だったりもします。

首相時代のベルルスコーニ氏がまさにその最たる例です。

だが、イタリア大統領は少し違います。

自己主張の強い身勝手な政治家や政治勢力をまとめ、仲介し、共存させていく力量が求められます。対立ではなく協調と平和をもたらす人物でなくてはならないのです。

そのためには人格が高潔で政治的に公正、且つ生き方が身奇麗なベテラン政治家、という理想像が求められます。

少し立派過ぎる人物像に見えるかもしれませんが、歴代のイタリア大統領には、多かれ少なかれそうしたキャラクターの政治家が選出されています。

むろん彼らとて政治家です。嘘とハッタリと権謀術数には事欠きません。

だだベテランの域に入って大統領に選ばれるとき、それらの政治家は英語でいういわゆるステーツマン然とした雰囲気を湛えていて、大統領になった後も実際にそう行動しました。

それは肩書きが人を作る、という真実の反映かもしれません。だがそれ以前に、彼らにはそうした資質が既に備わっていた、と考えるのが公平な見方でしょう。

例えば現職のマタレッラ大統領は、強固な反マフィアの闘志、という彼の魂の上にリベラルな哲学を纏って、よく政党間の審判の役割を果たしました。

マフィアの拠点であるシチリア島に生まれたマタレッラ大統領は、シチリア州知事だった兄をマフィアの刺客に暗殺されました。彼はその現場に居合わせました。彼の反マフィア魂はそこで揺るぎないものになりました。

また彼の前任のナポりターノ大統領は、筋金入りの共産主義者、というぶれない鎧をまとった愛国者であり、国父とも慕われた誠実な国家元首でした。

彼は2013年、総選挙の後に混乱が続いて無政府状態にまで至った国政を見かねて、史上初の2期目の大統領を務める決意をしました。そのとき彼は間もなく88歳になろうとしていました。

議会各派からの強い要望を受けて立候補を表明する際、彼は「私には国に対する責任がある」と老齢を押して出馬する心境をつぶやきました。その言葉は多くの国民を感動させました

ベルルスコーニ元首相は、4期9年余に渡って首相を務めた大政治家です。だが彼には大統領に求められる「清廉」のイメージが皆無です。

清廉どころか、冒頭で触れたように少女買春疑惑に始まる性的スキャンダルや汚職、賄賂、またマフィアとの癒着疑惑などの黒い噂にまみれ、実際に多くの訴訟事案を抱えています。

その上2013年には脱税で実刑判決さえ受けています。彼は公職追放処分も受けましたが、しぶとく生き残りました。そして2019年、欧州議会議員に選出されて政界復帰を果たしました。

それに続いて彼は、今回の大統領選では、右派連合が推す大統領候補にさえなろうとしているのです。

しかしベルルスコーニ元首相の醜聞まみれの過去を見れば、彼はイタリア大統領には最もふさわしくない男、と筆者の目には映ります。

彼を支持するメローニ「イタリアの同胞」党首とサルビーニ「同盟」党首は、どちらも首相職への野心を秘めた政治家です。

彼らが首相になるためには、求心力が高いドラギ首相を退陣させなければなりません。そこで彼らはドラギ首相を大統領候補として推進するのではないか、と見られていました。

しかし2人はベルルスコーニ元首相を支持すると決めました。それは見方を変えれば、ドラギ首相が政権を維持することを容認する、という意味でもあります。

「イタリアの同胞」と「同盟」は、世論調査で1位と2位の支持率を誇っています。党首の彼らが首相職に意欲を燃やしても少しも不思議ではないのです。

だが彼らは今回はドラギ内閣の存続を認めて、議会任期が切れる2023年の6月以降に、政権奪取と首相就任を模索しようと決めたようです。

彼らの利害は、今このときのイタリアの国益にも合致します。

それというのも、コロナ禍で痛めつけられたイタリアの経済社会を救い、同時にお家芸の政治混乱を避けるためには、求心力が強いドラギ首相が政権を担い続けるのが相応しい、と誰の目にも映るからです。

しかし、ベルルスコーニ元首相が幅広い支持を集めるかどうかは不透明です。

状況によっては、ベルルスコーニ元首相を含む全ての候補者が消去法で姿を消して、結局ドラギ首相が大統領に祭り上げられる事態になるかもしれません。

そうなった場合には総選挙になる可能性も高い。

総選挙になれば、政権樹立を巡って熾烈な政治闘争が勃発し、イタリアはカオスと我欲と権謀術策が炸裂する、お決まりの政治不安に陥るでしょう。

そうなった暁には、選出されたばかりの「ドラギ大統領」が、非常時大権を駆使して政治危機の解消に奔走するという、バカバカしくも悲しいイタリア歌劇ならぬ、「イタリア過激政治コメディー」が見られるに違いありません。

そうならないことを祈りつつ、筆者は一点考えていることがあります。

つまり、ベルルスコーニ元首相が奇跡的に大統領に選出されて、これまでの我欲を捨て目覚ましい大統領に変身してはくれまいか、という個人的なかすかな希望です。

筆者はここまで批判的に述べてきたように、政治的にも信条的にもベルルスコーニ元首相を支持しません。

だが彼は悪徳に支配されつつも憎めないキャラクターの男です。だからいまだに国民の一部に熱愛されています。

人間的に面白い存在なのです。

筆者も彼に対して湧く淡い親しみの感情を捨てきれません。

我ながら不思議なもの思いについては以前ここにも書きました。その機微は今も同じです。

人は悪行や失策や罪悪や犯罪を忘れてはなりません。

だがそれらを犯した者はいつかは許されるべきです。なぜなら人は間違いを犯す存在だからです。

その意味でベルルスコーニ元首相も許されて、過去の過ちや醜聞や思い上がりをかなぐり捨て、真に人々に尽くし、且つ履歴を償うチャンスが与えられてもいいのではないか、とも考えるのです。

言うまでもなく、もはや80歳代も半ばになった彼の中に、そんなふうに善良で真摯で且つ強い願いが芽生えているならば、の話ですが。

 

 

 

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イタリアの「や、コンニチワ、またですね」」の政治危機が見える

マタレッラ大統領の任期が2月で終えるのを受けて、イタリア大統領選の投票が1月24日から始まります。

国家元首であるイタリア大統領は、上下両院議員と終身議員および地域代表者の投票によって選出されます。

投票は一日に2回づつ実施されます。3回目までの投票では3分の2以上の賛成が必要で、4回目以降は単純過半数を得た者が当選となります。

言うまでもなく1回目の投票で大統領が決まることもあります。しかし初回投票で結果が出るのは極めて珍しく、複数回投票になるのが普通です。

最多は23回目の投票まで行ったこともあります。むろんそうなれば何日も時間がかかります。

冒頭で「投票が1月24日から始まる」と不思議な言い方をしたのは、投票が何度も行われていつ終わるか分からない可能性があるからです。

イタリア共和国大統領は、普段は象徴的な存在で実権はほとんどありません。ところが政治危機のような非常時には議会を解散し、組閣要請を出し、総選挙を実施し、軍隊を指揮するなどの「非常時大権」を有します。

大権ですからそれらの行使には議会や内閣の承認は必要ありません。いわば国家の全権が大統領に集中する事態になります。

たとえば2018年の総選挙後にも大統領は「非常時大権」を行使しました。

政権合意を目指して政党間の調整役を務めると同時に、首班を指名して組閣要請を出しました。その時に誕生したのが第1次コンテ内閣です。

コンテ首相は当時、連立政権を組む五つ星運動と同盟の合意で首相候補となり、マタレッラ大統領が承認しました。

コンテ首相は以後、2021年1月に辞任するまで、世界最悪のコロナ地獄に陥ったイタリアを率いて指導力を発揮しました。

だが連立を組む小政党の反逆に遭って退陣しました。

その後はふたたびマタレッラ大統領が「非常時大権」を駆使して活躍。ほぼ全ての政党が参加する大連立のドラギ内閣が発足しました。

イタリア共和国は政治危機の中で大統領が議会と対峙したり、上下両院が全く同じ権限を持つなど、混乱を引き起こす原因にもなる政治システムを採用しています。

一見不可解な仕組みになっているのは、ムッソリーニとファシスト党に多大な権力が集中した過去の苦い体験を踏まえて、権力が一箇所に集中するのを防ごうとしているからです。

憲法によっていわゆる「対抗権力のバランス」が重視されているのです。

政治不安が訪れる際には大統領は、対立する政党や勢力の審判的な役割とともに、既述のように閣僚や首相の任命権を基に強い権限を発揮して、政治不安の解消に乗り出します。

政党また集団勢力は、大統領の権限に従って動くことが多いため、政治危機が収まることがしばしば見られます。

1月24日の選挙は、イタリアの政局が安定している中で行われる。極めて珍しいケースです。

政局が安定しているのは、ドラギ首相の求心力が強いからです。

ところがそのドラギ首相を降板させて大統領に推そうとする者がいます。

彼が大統領になれば、首相の座が空きます。そこを狙う政治家や政治勢力が多々あるのです。

それが連立政権内にいる五つ星運動の一部であり、連立の外にいて世論調査上は国民の支持を最も多く集めている、極右政党のイタリアの同胞です。

統計ではイタリアの同胞に先を越されたものの、2番目の人気を維持している同盟のサルビーニ党首も首相職への執着が強い。

彼は常にその情動を隠さずに来ましたが、ここにきて世論調査で友党のイタリアの同胞に先行されたために、ドラギ首相を大統領に推す論を引っ込めて、あいまいな発言に終始するようになりました。

そうはいうものの、彼が首相職に強い野心を持っているのは周知の事実です。

五つ星運動のディマイオ氏、イタリアの同胞のメローニ氏、そしていま触れた同盟のサルビーニ氏。この3者がドラギ首相を大統領に祭り上げて自らが首相になるリビドーを隠しています。

だが3者は右と左のポピュリストです。五つ星運動が極左のポピュリスト。イタリアの同胞と同盟は大衆迎合的な極右勢力です。

尋常な右と左の政党であり主張であれば問題ありませんが、「極」という枕詞が付く政党の指導者である彼らが首相になれば、イタリアの迷走は目も当てられないものになるでしょう。

今のイタリアに最も望まれるのは、ドラギ首相がしばらく政権を担うことです。それはマタレッラ大統領の再選によって支えられればもっと良い。

だがマタレッラ大統領は今のところは続投を否定しています。

大統領候補には、ドラギ首相のほかにベルルスコーニ元首相やアマート元首相、またマルタ・カルタビア法相の名などが取りざたされています。

カルタビア法相が選出されれば、イタリア初の女性大統領となります。

大統領には、最低でも清潔感のある個性が求められます。その意味では、いま名を挙げた候補者のうち、多くの醜聞にまみれたベルルスコーニ元首相は論外でしょう。

彼以外のベテランが国家元首の大統領職に就き、各方面からの支持を集めるドラギ首相が、コロナで痛めつけられているイタリア共和国の政治経済の舵をもうしばらく取ることが理想です。

だが言うまでもなく、魑魅魍魎が跋扈する政界では、この先何が起こるかむろん全く分かりません。

 

 

 

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マクロンよ、もっとさらに吼えよ!

フランスのマクロン大統領が、国内にいる500万人余りの反ワクチン派の市民に向かって、「くそくらえ」という強い言葉を使って怒りを投げつけました。

大統領にもあるまじき言葉遣い、として驚く人、呆れる人、怒る人、批判する人が続出しました。

同時に拍手喝采する人、も多くいました。申し訳ないが筆者もそのうちのひとりです。

笑ったのは、普段は政敵や反対者や弱者を口汚くののしるのが得意な極右の政治家が、「大統領はそんなことを言うべきではない」と善人面で発言したことです。

さらに「下卑た表現をする彼は職責に値しない」 とまるで自身が聖人でもあるかのように続けました。恥知らずなコメントです。

「くそくらえ」という言葉は自分が言う分には構わないが、マクロン大統領が言ってはならない、ということらしい。

フランス大統領ともあろう者が、公の場で「くそくらえ」などという表現をするのはむろん好ましくはありません。

言葉使いに細心の注意を払うのも、一国のリーダーたる者の心得です。

だが、彼は敢えて強い言葉を使って注意を喚起しようとした、とも取れます。

コロナパンデミックで危機に陥っている世の中が、ワクチンの接種を拒む愚者の群れに圧されて、さらに崖っぷちに追い込まれている。

マクロン大統領はそのことを踏まえて、反ワクチン派の国民に心を入れ替えて接種しろ、と忠告しただけかもしれません。

だが一方では、もっと違う意味も込めたのかもしれない。

反ワクチン族は欧米の極右勢力と親和的であることが明らかになっています。

つまりトランプ主義者やフランスの国民連合やドイツのための選択肢、ここイタリアの同盟とイタリアの同胞などが彼らの味方です。

それらの政治勢力は、将来政権を担うようなことがあれば、ファシズムやナチズムに走りかねない危険を秘めています。

トランプ政権を見れば明らかです。選挙に負けたトランプさんの支持者が、民主主義の牙城であるキャピトルヒルに乱入した事件などは、その危険の顕現です。

マクロン大統領は、退陣したメルケル首相やバイデン大統領またここイタリアのドラギ首相などとともに、それらの右派勢力に対抗するグローバルな力です。

「くそくらえ」などという言葉を安易に口に出す軽さは少しいただけないかもしれませんが、フランスがマリー・ルペン氏やエリック・ゼムール氏 に率いられる悪夢を阻止するためには、ぜひとも必要な人材です。

彼はまた、足元がおぼつかないバイデン大統領に代わって、トランプさんがアメリカを再び支配するかもしれない阿鼻叫喚の暁には、彼に対抗できるほどんど唯一の担保でもあります。

なにしろメルケルさんがいなくなったドイツの舵を取るショルツ首相が、どれほどの力のある政治家かどうかまだ全く分からないのですから。

「くそくらえ」という言葉が、マクロン大統領のエリート意識、あるいは体制側の思い上がりから出た不用意な失言ではなく、反ワクチン族への明確な対抗意識に基づく確信犯的な発言だと信じたい。

もし彼がそれを確信犯的に公言したのであれば、それは反ワクチン頑民への単なる警告ではなく、ことし4月の仏大統領選を見据えての、極右候補への宣戦布告、と取れなくもないのです。

ほんの少し深読みをすれば、の話ですが。

 

 

 

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イタリア、50歳以上のワクチン義務化は必然の道程

イタリア政府は1月5日、新型コロナウイルスの感染急拡大を受け、50歳以上を対象に新型コロナウイルスのワクチン接種を義務付けると発表しました。

2月15日から適用します。

イタリアでも感染力の強いオミクロン型が」猛威を振るっていて新規感染者数は過去最多を連日更新しています。

1月6日の新規感染者数も21万9千441人とやはり過去最多を更新しました。

イタリアではワクチン接種人口の80%以上がすでに必要回数を接種しています。だが、接種を拒否する者も相当数存在し、接種率は頭打ち状態です。

イタリア政府は既に、医療従事者や教師また警察官や兵士などに接種を義務づけています。

また2月からは接種を証明する「グリーンパス」の有効期限も9カ月から6カ月に短縮します。次々と厳しい対策を打ち出しているのです。

イタリアはパンデミックが世界を席巻した当初、手本にするものが皆無の絶望的な状況の中で、医療崩壊にまで陥る地獄を味わいました。

恐怖が国中を支配しました。

イタリアは当時、世界初の、前代未聞の全土ロックダウンを導入してなんとか危機を乗り切りました。

地獄の教訓が身にしみているイタリアは、その後も世界初や欧州初という枕詞が付く施策を次々に打ち出してパンミックと対峙しています。

イタリア政府が過酷な対策を取り続けるのは、いま触れたように恐怖の記憶が肺腑に染み入っているからです。

だがそれだけではありません。

厳しい対策を取らなければ、規則や法やお上の縛りが大嫌いな自由奔放な国民は、コロナの予防策などそっちのけで勝手気ままに振舞う可能性が高い。

もしもパンデミックの初期に手痛い打撃を経験していなかったなら、イタリアは今頃は、欧州どころか世界でも感染予防策がうまく作動しない最悪の社会だったかもしれません。

イタリアが2020年の3月~5月に、世界最悪のコロナ地獄に陥ったのは、誤解を恐れずに言えば「不幸中の幸い」ともいうべき僥倖だったのです。

イタリア共和国の最大の美点は多様性です。多様性は平時には独創性とほぼ同義語であり、カラフルな行動様式や思考様式や文化の源となります。

だがパンデミックのような非常時には、人々が自己主張を繰り返してまとまりがなくなり、分断とカオスと利己主義が渦巻いて危機が深まることがあります。

今がまさにそんな危険な時間です。

その象徴が反ワクチン過激派のNoVaxと、彼らに追随する接種拒否の愚民の存在です。

イタリアには、ワクチンの影も形もなかった2020年、絶望の中で死んでいった多くのコロナ犠牲者と、彼らに寄り添い命を落としたおびただしい数の医療従事者がいます。

またワクチンが存在する現在は、健康上の理由からワクチンを打ちたくても叶わない不運な人々がいます。

「個人の自由」を言い訳にワクチンの接種を拒む住民は、それらの不幸な人々を侮辱し唾を吐きかけているのも同然です。

その上彼らは、コロナに感染して病院に運び込まれ、集中医療室はいうまでもなく一般病棟の多くまで占拠しています。挙句には自らを治療する医師や看護師に罵詈雑言を浴びせる始末です。

彼らは他国の同種の人々よりも、「イタリアらしく」自己主張が強い分、危機を深刻化させています。

イタリア政府はついにそれらの危険分子の退治に乗り出しました。

それがワクチン接種の義務化です。

50歳以上の市民に接種を義務化したのは快挙ですが、それだけではおそらく十分ではありません。年齢に関係なくワクチン接種を義務化するのがイタリア政府の最終的な狙いでしょう。

だがその政策は、千姿万態、支離滅裂な主張が交錯するイタリア政界によって阻止され、混乱し、紛糾して中々実現しないと思います。

イタリア以外の多くの国、特に欧州内の国々がワクチン接種を義務化しない限り、イタリアの完全義務化は成就しないに違いありません。

幸いギリシャは60歳以上の市民にワクチン接種を義務化しました。また、オーストリアやドイツは、2月以降に一般国民に義務化していく予定です。

感染拡大が続けばその他の国々もワクチン接種の義務化に踏み切るでしょう。

イタリアは今後も他国の動きを監視しつつ他国よりも強い規制策を導入し、且つ究極には-繰り返しになりますが-ワクチン接種の完全義務化を模索するのではないか。

イタリア共和国の最大の強みである多様性は、社会全体の健勝とゆとりと平穏によってのみ担保されます。

コロナパンデミックの危機の中では、反ワクチン人種のジコチューな自由は許されるべきではありません。

50歳以上の市民へのワクチン接種の義務化は、イタリアの多様性への抑圧ではなく、多様性を死守するための、必要不可欠な施策の第一歩です。

 

 

 

 

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紅白を見、ザンポーネを食べ、反ワクチン頑民を忌む年末年始

イタリアでは反ワクチン過激派、NoVax(ノーワックス)のキツネ憑きの皆さんが騒ぎ続けています。

またこの期に及んでも、ワクチン懐疑論から抜け出せない愚者の群れも数が減る様子がありません。

自らの行為が社会全体を危機に陥れていることに気づかないか、気づかない振りをしているそれら「こけの一念人士」への嫌悪感を募らせて、腹を立てても空しいばかりです。

それなので、もはや反社会的勢力とさえ形容される頑民の退治は国家権力に任せておいて、筆者は年末から年始にかけて何も考えずにのんびりと時間を過ごしました。

クリスマスは少し繰り上げて、息子2人とその家族またパートナーらを迎えて祝いました。今回は筆者は刺身を用意しただけで、メインの料理のあれこれはワイフが担当しました。

その後の年末と年始には、筆者の要望にこたえてザンポーネがふんだんに食卓に並びました。ザンポーネは、中味を刳りぬいた豚足に、味付けをした豚肉のミンチを詰めたソーセージ。

なぜか日本では不味いという評判があるようです。だが、不味いものを食の国イタリアのグルメな国民が有難がって食べるはずがありません。

少し立ち止まって頭をひねってみれば、文字通り立ち所に分かるはずのコンセプトではないでしょうか。

不味いと言い出した日本人の感覚がおかしいのです。あるいは豚足の見た目に意識を引きずられたのでしょうか。

ザンポーネはきわめて美味なイタメシのひとつです。

ただザンポーネは脂っこくカロリーも高い食べ物。主に寒い北イタリアで、冬に食べられるのもそれが理由です。

健康志向が強い時代にはウケない場合もあるかもしれません。

しかしそんなことを気にして敬遠するのは馬鹿げています。ザンポーネは毎日食べるものではありません。たまに食べてその濃厚な味と内容と食感とを楽しまないのは損です。

閑話休題

のんびり食を楽しむついでに、大晦日にはNHK紅白歌合戦も見ました。

いつものように録画をしながら、従って見逃すことがないため安心して、そこかしこでテレビの前を離れて雑事をこなしながら、です。

最終的には、全体の3分の2ほどを録画で見る結果になりました。その際には歌以外の場面をひんぱんに早送りしながら楽しみました。

日本の今の音楽シーンをほとんど知らない筆者は、大晦日の紅白歌合戦を介して今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多い。

といいますか、最近はそれが楽しみで長丁場の紅白を見る、と言っても過言ではありません。

ことしも「ほう」とうなる歌手と歌に出会いました。列挙すると:

ミレイ:Fly High   あいみょん:愛を知るまでは  Yoasobi:群青 の3アーチストが素晴らしかった。 

また藤井風も良かったが、2曲歌ったうちの2曲目が少し雰囲気を壊したと感じました。だが彼も優れたミュージシャンであることには変わりありません。

新しい才能との出会いはいつもながら楽しい。だが、数少ないそれらのアーチストを知るために、4時間以上もテレビの前に「座らされる」のは苦痛です。

紅白はやはり、がらりと趣向を変えて尺を短くし、過去にとらわれない全く新しい歌番組として出直すほうがいい、と思います。

筆者は以前からそう強く感じ主張していますが、ことしもやはりその思いを強くしました。

多様性が力を持つ時代に、国民誰もが一緒に楽しめる歌番組などあるはずがありません。

NHKは幻想を捨てて、たとえば若者向けの新しい歌と、中高年者向けの演歌&歌謡曲とを分けるなど、構成を立て直すべきです。

歌が好きな若者は、新しい歌に続いて、演歌&歌謡曲も必ず自主的に見、聞くでしょう。

一方では歌が好きな中高年も、演歌&歌謡曲に加えて、新しい歌も自主的に見、聞くに違いない。

だがいうまでもなく、演歌&歌謡曲が苦手な若者も新しい歌が嫌いな中高年もいます。

それらの視聴者は、それぞれが好きではないジャンルの楽曲が流れる間は顔を背けるでしょう。

それでいいのです。

なぜなら顔を背ける人々は、中途半端な中身の番組をむりやり長時間見せられて、テレビの前から逃げてしまう人々よりも、おそらく数が少ないと考えられるからです。

再びなぜなら、テレビの前に座って紅白にチャンネルを合わせた人々は、多くが紅白好きだからです。

つまり、逃げる人々は、紅白が始まる以前にすでに逃げているのであって、そこには座っていない、と思うのです。

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