返り血を浴びる覚悟でロシア経済を徹底的に叩けば第3次世界大戦は避けられる

ウクライナの首都キエフで、ロシア軍の爆撃に追われて地下壕に避難し震えている、多くの子供たちの姿が人々の涙を誘っています。

バイデン大統領は、エスカレートするロシア軍のウクライナへの蛮行を非難して、「ロシアへの経済制裁に代わる措置は第3次世界大戦だ。だがそれはありえない」と明言しました。

その言葉を後押しするように、EUを含むアメリカの同盟国は「ロシアの銀行をSWIFT(国際銀行間通信協会)から排除する」と発表しました。

公布された共同声明には、欧州委員会とフランス、ドイツ、イタリア、イギリス、カナダ、アメリカの首脳が署名しました。

ロシアへの厳しい経済制裁が発動される場合、国際決済システムSWIFTからロシアの金融機関を締め出せるかどうかが鍵とされてきました。

ロシアとの取引が多いドイツなどが強く反対していたからです。しかしロシアのウクライナ侵略はあまりにも重大だとして、ドイツも折れました。

SWIFTは国境を越えた決済、送金、資金の移動等が速やかにできる仕組みです。世界中の11000以上の銀行や金融機関が加盟しています。

SWIFTから締め出されることで、ロシア経済は大きな打撃を受けます。

また欧州委員会と前出の6ヶ国は、高額の投資をしたロシアの富裕層に与えられる、いわゆる「ゴールデンパスポート」も制限すると決めました。

それらの富裕層は、投資と引き換えに欧米諸国の国籍を取得し、欧米の金融機関を利用してプーチン政権を陰に陽に支援しているとされます。

ロシアがSWIFTから切り離されたのは大きな出来事です。

しかし、それだけでロシア経済が完全に麻痺して戦争遂行が不可能になるかどうかは不透明です。

SWIFTから排除されるのはロシアのすべての銀行ではありません。またSWIFT以外のルートでの取引方法もあります。

加えてロシアを支援する中国とその友好国が、SWIFTとは無関係な方式でロシアとの取引を維持して制裁の抜け道を作る可能性もあるでしょう。

「ロシアへの経済制裁に代わる措置は第3次世界大戦だ」というバイデン大統領の表現は、言い換えれば「ロシアへの経済制裁は第3次世界大戦に匹敵するものでなくては意味がない」ということです。

SWIFTにつづくロシアへの峻烈な経済攻撃が速やかに且つ連続して繰り出されるべきです。

第3次世界大戦の危険を避けるためには、第3次世界大戦に見合う規模での経済的犠牲さえ払う覚悟が必要です。

つまり大きな返り血を浴びる覚悟で、ロシア経済を徹底的に破壊すること。

しかも迅速に。

 

 

 

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プーチンにしてやられた民主主義世界の危うさ


ウクライナ危機に関しては、ここまであらゆる人の勝手気ままな分析や意見や感想や予測などを尻目に、プーチンとバイデン両大統領、ゼレンスキー大統領、そして英独仏の首脳など、当事者たちの動きや発言を逐一追いかけてきました。

ロシアがウクライナに攻撃をしかけたところで思ったことがあります。

つまりバイデン大統領は、諜報とロシアのクリミア併合などの直近の史実から、ロシアの軍事侵攻をほぼ正確に予測していながら何もしなかった、あるいは何もできなかった、ということです。

同時にプーチン大統領は丸ごと悪であり、性善説に基づく慈悲や惻隠の情や人間味などを、決して彼に期待してはならないということも明らかになりました。

バイデン大統領は、ロシアが「ウクライナに軍事侵攻はしない」と言い続けていたころから、逆に「ロシアはまもなく侵攻を開始する」と繰り返し言明してきました。

ウクライナ東部の親ロシア勢力が政府軍に攻撃されたというフェイクニュースをロシアがでっちあげて、そこにいる自国民を救済するためとか、親ロシア派の人々をウクライナの虐殺から守る、などの理由をこじつけてウクライナを侵略する、と言い張ったのです。

それに対してプーチン大統領は、ウクライナには侵攻しないと宣言し、クレムリンを訪れた独仏などの首脳に対しても、「ウクライナに侵攻する気はない」と明確に告げました。

だがプーチン大統領は、その間もウクライナへの軍事作戦を周到に考え続けていたのです。狂言強盗も真っ青の役者ぶりでした。

さらにプーチン大統領は、冬季オリンピックにかこつけて中国の習近平国家主席と会談。

密約を交わしました。

つまり冬季オリンピックが終わるまではプーチン大統領はウクライナを攻撃しない。だが彼が攻撃を開始した暁には、中国はロシアへの支持を表明する、というもの。

そして中国は、プーチン大統領のウクライナ攻撃を積極的に支持する言葉こそ使わなかったものの、ロシア支持を鮮明に打ち出しました。

片やNATOリーダーのバイデン大統領は、ロシアが小規模の侵攻に留めるなら制裁しない、といつものボケ失言などもかまして顰蹙を買いました。

さらに「ウクライナにはアメリカ軍は介入しない」と、言わぬが花の真実を強調しまくるミスなども犯しました。

それはまるで、ロシアにどうぞ侵攻してください、とでも言わんばかりの稚拙な対応です。このあたりが失言王の老害大統領、と彼が陰口を叩かれるゆえんです。

そうではありますが、しかし、バイデン大統領の予言、つまり米諜報機関の情報はおどろくほど正確なものでした。

なにしろプーチン大統領は、バイデン大統領の予告をほぼ全面的になぞるような形でウクライナに侵攻したのですから。

プーチン大統領は、ロシアは最強の核兵器保有国のひとつ、とタブーのフレーズまで発して世界を恐喝しました。

だがそれでも、民主主義の良心とまともな思考力を持つNATO 諸国は、即座に反撃はできません。

たとえ言葉上とはいえ、NATO側も核を火遊びの対象にしてやり返せば、全面核戦争の悪夢が現実味を帯びかねないからです。

つまるところ自由主義陣営のNATOとバイデン大統領ができることは、やはりロシアへの経済制裁です。

だが経済制裁は、軍事介入に比べて効力が極めて小さい。それは歴史が繰り返し証明しています。

通りいっぺんの制裁ではダメなのです。

通り一遍の制裁とは、制裁相手のみが打撃を受ける制裁のことです。

そうではなく、制裁の効果が自国経済に跳ね返って、制裁をかける側も大きな打撃を受ける制裁こそが、真に強力な罰則です。

NATO側は、欧米全体と日本またそのほかの世界のすべての民主主義国家を巻き込んでの、そんな巨大な経済制裁をロシアに科すべきです。

ロシアは、中国を筆頭にする世界の独裁また強権主義陣営を相手に貿易を行うことで、民主主義陣営が科す経済制裁のダメージを最低限に抑えよう目論んでいます。

だが自由主義陣営が、真に自らの大きな損失と疲弊を覚悟でロシアを締め付ければ、戦争を仕掛けずにロシアを確実に損壊させることができるでしょう。

それは同時に、ウクライナ危機とロシアの行く末をじっくりと観察、分析している中国を叩くことでもあります。

ロシアがこのままウクライナの略奪に成功すれば、中国は足並みが乱れ勝ちな民主主義陣営が組しやすいと見て、たちまち台湾への侵攻を決意するかもしれません。

ロシアがウクライナ危機で全面勝利を収めれば、それはそっくりそのまま中国の勝利でもある可能性が高いのです。

その意味でも、中国の後ろ盾も得て猛り狂っているように見えるプーチン大統領の野望は、必ず粉砕されなければなりません。

だが悲しいことに、民主主義陣営の各国がそれぞれの大きな犠牲を受け入れて、そこまで深く結束することはあり得ないでしょう。

誰もが自国の利益に目が眩んでいます。

結局、アメリカが先導する民主主義陣営は、ウクライナがロシアに自在に蹂躙されるままに、哀れなウクライナを見捨てることでしょう。

ウクライナを見捨てることでNATO加盟国を守り、自由主義世界全体の経済権益も守るのです。

そうやって海千山千の逆賊プーチン大統領はますます強くなり、中国のラスボス習近平主席は、香港を破壊した勢いで台湾を踏みにじり、尖閣を掻っさらって沖縄を強奪し、さらに九州へと魔手を伸ばしていく可能性がないとは誰にも言えません。

NATO もその他の世界の自由主義勢力も、そして尖閣と沖縄と九州を含む日本国全体も、ロシアの蛮行を指をくわえて見過ごせば、取り返しのつかない事態が連鎖的に起きるかもしれないことを、明確に意識しつづけるべきです。

 

 

 

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ジョコビッチ神話のプッツン

反ワクチン主義者のノバク・ジョコビッチ選手が、オーストラリアオープンから締め出されて以来初めて、英BBCテレビの単独インタビューに応じました。

彼はそこで今後もワクチンを打つつもりはないと示唆し、そのために全仏オープンやウインブルドンなどの世界大会に出場できなくなっても構わない、とも明言しました。

なぜそこまで思いつめるのか、という質問には

「自分の体内に何を入れるかを自分で決めたいからだ。私は常に自分の体に合うことをしている。健康や栄養に気を遣うことでアスリートとしての能力を高めてきた」

という趣旨の説明を返しました。それはつまり、ワクチンは自分の体に合わないから接種しない、という主張にも聞こえます。

だが新型コロナワクチンは、これまでに世界中で100億回以上の接種が行われ、世界人口の約6割が接種を受けました。安全と効果については十分以上の知見があります。

普及している全てのワクチンはごくまれに重い事故が起きたり、それよりも多い頻度で軽い副反応が起きたりもします。

副作用や副反応のない薬というものは世の中には存在しません。コロナワクチンも同様です。

ワクチンの安全性はこれまでのところ驚異的とも呼べるほどに高く、重症化や死亡を防ぐ効力も強力であることが明確になっています。

それにもかかわらずにジョコビッチ選手がワクチンは自分の体に合わない、と主張するのは不合理を通り越してほとんど笑止です。

コロナウイルスも体に合わないものです。だからわれわれの体内に侵入してわれわれを苦しめ重症化させ、最悪の場合は死に至らしめます。

一方、ジョコビッチ選手が体に合わないと主張するワクチンは、われわれの体内に入ってウイルスからわれわれを守りわれわれを救います。

そしてジョコビッチ選手も、天才的なテニスプレイヤーとはいえ、われわれのうちの1人であることは疑いがありません。

ジョコビッチ選手は世界ランク1位の一流中の一流のプレイヤーです。だから彼が自分自身の体を気遣い、食事や栄養など体内に取り込むものに神経質になるのは理解できます。

そういう注意深い、克己心の強い選手だからこそ彼は世界一になった、という見方さえできます。

また、その信念に殉ずるためには、世界規模の大会に参加できなくても構わないという決意も、考え方によってはすばらしいものでしょう。

だが一方でその頑なな考えは、根拠のないデマや陰謀論に影響されて、ワクチン反対を叫ぶ過激派の人々のそれにも酷似しています。

ワクチン接種を拒否する個人の自由は飽くまでも保護されなければなりません。ですから百歩譲ってジョコビッチ選手が正しいとしましょう。

だがコロナパンデミックに支配された社会全体は自由を失っていて、社会全体の自由があってはじめて担保される個人の自由は、それに伴い消滅しています。

社会全体の自由を奪ったパンデミックは、集団免疫によって終息させることができます。そして集団免疫は、社会の構成員の全てがワクチンを接種することで獲得できます。

そうやってワクチンの接種は社会の構成員全員の義務になりました。ワクチン接種は個々人をウイルスから守るだけではなく社会全体を守り、従って社会全体の自由も奪回するのです。

社会に抱かれて個人の自由を享受しながら、その社会がコロナによって自由を奪われている危機的状況下で、個人の自由のみを主張するのは狂気の沙汰です。

社会全体の自由がないところには個人の自由など存在しません。

社会全体の自由が存在しないところとは、ナチズムやファシズムや軍国主義下の世界であり、独裁者や独裁政党が君臨する社会のことであり、今われわれが体験しているコロナに抑圧支配されている社会です。

ワクチン接種は、社会全体の失われた自由を取り返すために、先に触れたように誰もが受けるべき義務と化していると考えられます。

ジョコビッチ選手は自由な社会に存在することで彼個人の自由のみならず、通常よりも多くの経済的、文化的、人間的な恩恵を受けてきました。なぜなら彼は有名人だからです。

それでいながら彼は、受けた恩恵への見返りである社会への責任と義務を履行することなく、利己主義に基づいた個人の自由ばかりを言い立てています。

それは実は、少数ですが世界中に存在する、ワクチン接種を断固として拒否する過激派の人々とそっくり同じ態度です。

反ワクチン過激派の人々の見解はほぼ常に狂信的な動機に基づいています。それは彼らの宗教にも似たカルトなのです。

彼らと同じ根拠を持つジョコビッチ選手の反ワクチン主義は、今後も矯正が不可能であることを示唆しているように思います。

従って彼がテニスの世界大会から締め出されるのは、やはりどうしても仕方がないこと、と見えてしまいます。




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ウソつきはドラマの始まりDA

NHKドラマ『70才、初めて産みますセブンティウイザン』は、面白さと違和感がないまぜになった不思議なドラマでした。

高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

従ってそのドラマは質の良い番組の一つと筆者は見なしています。

だが、ドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの根本的な疑問を抱き続けました。

つまりほぼ70歳の男女が、普通に交接して女性が妊娠することがあり得るのかどうか、という点です。

あり得ない、というのが答えではないでしょうか。

ここからは高齢者の性愛について書きます。ですのでそういう題材を不快に思う人は、先に進まないことをおすすめします。


『70才、初めて産みますセブンティウイザン』では、小日向文世と竹下景子が演じる夫婦が、実際に性交して妻が自然妊娠します。

ほぼ70歳の男女が肉体的に交合するのは、もちろん大いにあり得ることでしょう。しかし女性が妊娠するのはほぼ不可能なのではないか。

世界には超高齢出産の例があります。

まず体外受精による妊娠のギネス記録は66歳のスペイン女性。ギネスには載っていない世界記録は73歳または74歳とされるインド人の女性です。

ちなみに日本での最高齢は60歳女性。最近では自民党の野田聖子議員が、51歳で卵子提供を受けて出産したことが話題になりました。

それらは全て体外受精による妊娠、出産記録です。

男女の通常の性行為による妊娠、出産ではありません。

通常交渉による自然妊娠・出産では、ギネス記録が米人女性の57歳。ギネスに載っていない世界記録としては 59歳のイギリス人女性の例が知られています。

つまり女性は60歳くらいまでは普通に性交をして妊娠する可能性がある、ということです。

そうでない場合は性器と性器の交接ではなく、体外受精による妊娠だけがあり得ます。

ところがドラマの主人公の夫婦は、2人ともほぼ70歳なのに通常に性交して、その結果妻が妊娠します。

体外受精ではないのです。

それは奇跡という名の嘘です。

ドラマに嘘は付き物です。しかし、その嘘は大き過ぎて筆者はなかなか溜飲を下げることができませんでした。

そのことにも関連しますが、高齢の男女があたかも若者のように何も問題なくセックスをする、という設定にも違和感を持ちました。

江戸の名奉行大岡越前は、不貞をはたらいた男女の取調べの際、女(年上らしい)が自分を誘った、との男の釈明に納得ができませんでした。

そこで彼は自らの母に「女はいつまで性欲があるのか」と訊きます。すると母親は黙って火鉢の灰をかき回して、「灰になるまで。即ち死ぬまで」と無言で告げました。

母親は江戸時代の女性ですから、男女の秘め事を言葉にして語るのをはばかったのです。

ここイタリアでは2015年、84歳の女性が88歳の夫が十分に性交してくれない。セックスの回数が少なすぎる。だから離婚したい、と表明して世間を騒がせました。

両方のエピソードはたまたま女性が主人公ですが、男性もきっと同じようなものでしょう。

人間は死ぬまでセックスをするのです。

だがそれは年齢が進むに連れて丸みを帯びていきます。性器と性器の結合よりも、コミュニケーションを希求する触れ合いのセックスへと移行します。

いわば男女が互いに「生きている」ことを確認する行為になります。

仕方なくそうなるのです。なぜなら年齢とともに男性は勃起不全やそれに近い足かせ、女性はホルモン障害によって膣に潤いがなくなり、性交痛とさえ呼ばれる困難を抱えたりするからです。

そのため彼らの情交は、愛の言葉に始まり、唇や手足や胸や背中に触れ合って相手をいつくしむ、というふうに変化するとされます。

むろん高齢になっても男性機能が衰えず、女性も潤いを保つケースもまた多いことでしょう。ドラマの夫婦もそういうカップルのようです。

妻は通常性交で妊娠しますからまだ閉経していない。従ってホルモンのバランスも良好で膣も十分に濡れる、と理屈は通っています。

一方「普通に」身体機能が衰えていく高齢者のセックスでは、体のあらゆる部分が性器だとされます。

それは男女が全身を触れ合う「豊かな癒し合い」という意味に違いありません。

同時にそれはもしかすると、若者のセックスよりもめくるめくような喜びを伴なうものであるのかもしれません。

なにしろ体全体が性器だというのですから。

『70才、初めて産みますセブンティウイザン』の夫婦のセックスは、癒し合いではなく性器と性器の交接です。そうやって妻はめでたく妊娠するのです。

再び言います。人は死ぬまでセックスをする生き物です。従ってドラマの夫婦の性交は当たり前です。

ドラマはその当たり前を、当たり前と割り切って、一切の説明を省いて進行します。

そして進行する先の内容は十分に納得できます。

面白くさえあります。

それでも筆者は70歳の女性の自然妊娠という設定を最後まで消化できませんでした。

それを引き起こした老夫婦の、「普通の性交」にもかすかな引っかかりを覚え続けました。

高齢の男女は、誰もが肉体的に大なり小なりの問題を抱えています。性的にもむろんそうです。それについては先に触れました。

そしてドラマの趣旨は実はそこにはありません。老夫婦の性愛のハードルを越えた先にある「人間模様」が主題です。

それは既述のように面白い。

だが、しつこいようですが、70歳にもなる男女が、夫はどうやら普通に勃起し、(閉経していない!)妻は濡れて、問題なく交わって妊娠のおまけまで付いた、という部分がどうしても苦しい。

ドラマの夫婦ほど高齢ではないものの、もはやまったく若くもない筆者は、ハードルの部分も気になって仕方がありませんでした。

そんなわけで、残念ながら完全無欠に「お話」の全てを楽しむことはできませんでした。

 

 

 

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ドラマと実録のハザマに遊ぶ

コロナ禍が拡大して以来、仕事と仕事の残滓と、仕事まがいの状況や思案に追われて日々を過ごしています。

日英伊の報道や報道ドキュメント(ニュースより長いがドキュメンタリーよりは短い時事や時事問題報告)をTV画面で追いかけ、日英伊語の新聞や雑誌記事を読み、ネットで同様の行為を毎日欠かさずにやっています。

その合間に読書をしテレビドラマを見て菜園を耕します。食料を中心とする買い物にも出かけます。

秋から冬の間は菜園での仕事はほとんどありませんが、他の事案は春夏秋冬ほぼ同じように存在します。

春から秋には旅に出ることも多い。

それらは全て好きなことです。食料の買い出しさえ楽しみます。それは趣味の料理につながっているからです。

あ、そうでした。料理もよくします。

趣味であり仕事(自分と家族への義務という意味)であり、そしてやはり好きなことです。

「仕事と仕事の残滓と仕事まがいの状況や思い込み」とは、TVドキュメンタリー監督である筆者の生活の変化のこと。

筆者は近年TV関連の仕事を減らし続けてきて、それは新型コロナパンデミックで加速し、映像ではなく紙媒体やWEBに文章を書くジャーナリストまがいのもの書きになりました。

一連の行為は仕事のみならず自らの知識欲のためにもやっています。

実は筆者はドラマが好きです。

日本の大学を卒業してロンドンの映画学校に進学したのも、映画、ドラマ、つまりフィクションが好きだったからです。

筆者はフィクションである映画制作を目指し、シナリオや小説も書きました。

だが学校を終えて仕事を始めると、ドキュメンタリーに魅かれてその道のプロになりました。

テレビの仕事をしつつ、新聞雑誌にも雑文をけっこう書きました。

それらの仕事はいま思えばフイィクション作りから遠ざかるプロセスでもありました。

劇場映画ではなくTVドキュメンタリーの監督となり、同じくフィクションである小説は書かず、エッセイやコラムや紀行文などの雑文を書きました。

「書きました」とはプロとして-つまり原稿料をもらって-書いた、という意味です。

プロではないものの、それでも、前述のように小説も書きました。短い作品が小説新潮の月間新人賞の佳作に選ばれたこともあります。文芸誌に掲載された作品もあります。

だがそれだけです。プロとしては、後は鳴かず飛ばずでした。

筆者は、書き、制作し、読み、見るの全てにおいて、どちらかといえば実録よりも虚構が好きです。

虚構はプロとして書いたり制作しなかったから苦しくなく、だからより好きなのだろうと思います。

筆者は読書にもかなりの時間を割きます。

日常の中での読書は、食べ、眠り、活動することと同じ命の一部です。生きがいでもあり存在証明でもあります。

それに比較するとテレビを観る行為はよっぽど重要度が落ちます。だが、それでも結構見ます。

ドラマは有料の衛星日本語放送で観るのがほとんどです。

ロックダウンや準ロックダウンで自宅待機が多い2020年以降は、普通よりも多くのテレビドラマを観ました。NHKがほとんどですが、ロンドンを拠点にする有料放送は民放のドラマも流しますす。

民放の番組は日本より数ヶ月遅れで電波に乗ることが多い。放送局がNHK系列だからなのでしょう。

パンデミック勃発から今日まで見たドラマの中で最も強く印象に残っているのは、三田佳子が主演したNHKの「すぐ死ぬんだから」です。

信頼しきっていた夫に裏切られた妻が、「死後離婚」という珍しい戦いを繰り広げます。彼女が執念深い行動に出るのは、夫が遺言書で裏切りの全てを明らかにしたからです。

夫は死んだ後に妻をいたぶる仕打ちをしました。だから彼女の偏執的な動きにも、おそらく多くの視聴者が感情移入できる。そういう仕組みになっています。

斬新な視点と目覚しいストーリー展開が見る者をひきつけてやみません。

三田佳子の演技は達者を通り越して秀逸でした。ちょっとした仕草や表情が状況を雄弁に物語る、まさに名優の演技の極みです。

そこに小松政夫のペーソスあふれる芝居と余貴美子の説得力あふれる所作言い回しが絡みます。

そればかりではありません。いわくいいがたい安藤玉恵の怪演や、松下由樹、村杉蝉之介、田中哲司ほかの達者な役者たちの面白いやり取りが加わります。

ほかにも長い感想や鑑賞記を書く材料に事欠かない優れたドラマや面白い番組がありました。

むろん首をかしげる出来の作品もありました。それらについて既に少し書きました。

次は『70才、初めて産みましたセブンティウイザン。』という物語について書きます。

ドラマに関してはいったんそこで筆をおくつもりでいます。

 

 

 

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どうやらパンデミックの先が見えてきたようだ

2022年2月11日、イタリアは屋外でのマスク着用義務を撤廃しました。

それを皮切りにイタリアはコロナ関連の厳しい規制を徐々に解き始めます。

クラブをはじめとする夜の歓楽施設も営業を開始。サッカースタジアムも規制緩和を拡大して、ことし末までには収容人員を100%にします。

そしてなによりも、3月31日で期限が切れる国家緊急事態宣言をもはや延長しない、としました。

北欧では規制の全撤廃に動く国が相次いでいます。だが、イタリアは規制解除や緩和には慎重です。

本来なら北欧の国々が細心で、ラテン気性のイタリアがさっさと規制撤廃に動きそうなものです。

普段はノーテンキなイタリアが思慮深いのは、パンデミックの初期に、世界に先んじて医療崩壊に始まるコロナ地獄を味わった苦い経験を忘れていないからです。

イタリアはパンデミックに於いては常に規制を迅速にしかも厳しくし、逆に規制の解除には用心深く、且つ緩和のスピードをゆるやかに保ってきました。

そのイタリアが、コロナパンデミックをインフルエンザなどと同じく流行が一定期間で繰り返される「エンデミック」として扱い始めました。

それは喜ばしい兆候です。なぜならイタリアは北欧などの動きを見つめつつ、慎重の上にも慎重を期して、ようやくパンデミックの収束を視野に入れ始めたことを意味するからです。

規制解除の動きに関しては、我がままで気ままな国民が多いイタリアが、生真面目な国民性が特徴の北欧各国よりも自重的である方がより信頼できると思います。

イタリアはブースター接種も進み、感染者数は欧州各国並みに多いものの、重症化率も低い。

コロナに関する限り臆病過ぎるほど臆病なイタリアが、北欧の国々を追いかける形で「コロナはもはや社会の脅威ではない」と見なし始めたのは、真実そう見なしてもよいということです。

ひたすら感染者数を重視して規制を続ける日本から見ていると、あるいは分かりづらいかもしれませんが、それがコロナパンデミックの真の顔です。安心してもいいと思います。

パンデミックが終息した場合の最も喜ばしいプレゼントは、社会の分断が終わるかもしれない点です。

ワクチンを拒否する人々の大多数は、接種に慎重な人々と健康上の理由で接種できない人々です。

また頑なにワクチンを否定するいわゆる過激派NoVaxの人々も、彼らなりの思惑で自らの健康を気遣っている側面もあります。

それは間違った情報に基づいている場合が多い。だが、われわれは誰もが間違いを犯します。

コロナパンデミックが収まった暁には、間違いを犯すことが本性のわれわれ全員は、必ず間違いを許し合い抱擁し合うことができるでしょう。

そうなるように努力するべき、と考えます。

 

 

 

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ドラマチックにダサいドラマもある

先のエントリーでNHKのドラマが無条件にすばらしいと誤解されかねない書き方をしたように思います。

そこでつまらないドラマについてももう少し明確に書いておくことにしました。

前項でも少し触れたようにNHKのドラマにも無論たいくつなものはあります。

実際に言及したものの中では 『子連れ信兵衛 』『ノースライト』『岸辺露伴は動かないⅡ』などが期待はずれでした。

また『正義の天秤』では、人間性とプロ意識が葛藤する場面で、主人公が弁護士バッジを外したり付けたりするアクションで問題を解決するシーンに、‘噴飯もの’と形容したいほどの強い違和感を抱きました。

それは最も重要に見えたエピソードの中での出来事だったため、それ以外の面白いストーリーの価値まで全て吹き飛んだような気分になりました。

また『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』は、超高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

しかし筆者はそのドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの致命的且つ根本的な疑問を持ち続けました。それについては長くなるので次の機会に回すことにします。

山本周五郎原作の 『子連れ信兵衛 』は、周五郎作品に時々見られる軽易な劇展開を真似たようなシーンが多々ありました。   

人物像も皮相で説得力がなかった。なによりもドラマの展延が偶然や都合のよいハプニングまた予定調和的なシーンに満ちていて、なかなか感情移入ができませんでした。

山本周五郎の作品は周知のように優れた内容のものが多い。だが、中にはおどろくほど安手の設定や人間描写に頼るドラマもまた少なくありません。それは多作が原因です。

多作は才能です。周五郎を含めた人気作家のほぼ誰もが多作であるのは、彼らの作品が読者に好まれて需要が高いからにほかなりません。

そして彼らはしっかりとその需要に応えます。才能がそれを可能にするのです。

だがおびただしい作品群の中には安直な作品もあります。それは善人や徳人や利他主義者などが登場する小説である場合が多い。

それらの話は、勧善懲悪を愛する読者の心を和ませて彼らの共感を得ます。徹底した善人という単純さが眉唾なのですが、一方では周五郎の深い悪人描写にも魅せられている読者は、気づかずに心を打たれます。

小説の場合には、絵的な要素を読者が想像力で自在に補う分、全き善人という少々軽薄な設定も受け入れやすい。だが、映像では人物が目の前で躍動する分、緻密に場面を展開させないと胡乱な印象が強くなります。

それをリアリティあふれる映像ドラマにするためには、演出家の力量もさることながら、小説を映像に切り換える道筋を示す脚本がものを言います。

さらに多くの場合は、リアリティを深く追求すればするほど制作費が嵩む、などのシビアな問題も生まれて決して容易ではありません。

それは2022年2月現在、ロンドン発の日本語放送で流れている「だれかに話したくなる  山本周五郎日替わりドラマ2 」でも起きていることです。

今このとき進行しているドラマでつまらないものをもう一本指摘しておきます。

「歩くひと」です。

NHKの説明では「ちょっと歩いてくるよ」と妻に言い残して散歩に出た主人公が、日本各地の美しい風景の中に迷い込み、触れ、楽しみ、そしてひたすら歩く話、だそうです。

そして“これまでにない、ファンタジックな異色の紀行ドラマ”がキャッチコピーです。

だが筆者に言わせればそんな大層な話ではありません。

紀行ドキュメンタリーではNHKはよくリポーターを立てます。リポーターは有名な芸能人だったりアナウンサーだったりしますが、要するに出演者の目線や体験を通して旅を味わう、とう趣旨です。

「歩くひと」では、井浦新演じる主人公が日本中を歩く。えんえんと歩く。歩く間に確かに美しい光景も出現します。

だが、「だからなに?」というのが正直な筆者の思いです。退屈極まりないのです。

筆者はこの番組のことを知らず、従ってそれを見る気もなくテレビをONにしました。すると見覚えのある顔の男が、酒でも飲んだのか路上で寝入る場面にでくわしました。

それが主人公の井浦新なのですが、筆者はそこでは彼の名前も知らないまま思わず引き込まれました。

それというのも井浦が出演するもうひとつのNHKドラマ、『路〜台湾エクスプレス〜』 の続編がちょうどこの時期オンエアになっていて、彼の顔に馴染みがあったのです。

『路〜台湾エクスプレス〜』でも、井浦が演じる安西という男が酒を飲んで荒れる印象深いシーンがあります。筆者は突然目に入った「歩くひと」の一場面と『路〜台湾エクスプレス〜』を完全に混同してしまいました。

『路〜台湾エクスプレス〜』が放送されているのだと思いました。展開を期待して見入りました。だが男は森や畑中や集落の中を延々と歩き続けるだけです。

番組が『路〜台湾エクスプレス〜』ではないと気づいたときには、筆者はもうすでに長い時間を見てしまっていました。退屈さに苛立ちつつも、我慢して見続けた自分がうらめしくなりました。

この記事を書こうと思いついて念のために調べました。日本語放送の番組表なども検分しました。そうやって筆者は初めて井浦新という俳優の名を知り、「歩くひと」という新番組の存在も知りました。

NHKは筆者の専門でもあるドキュメンターリー部門で、「世界ふれあい街歩き」という斬新な趣向の番組を発明し、今も制作し続けています。

カメラがぶれないステディカムや最新の小型カメラを駆使して撮影をしています。その番組が登場した時、筆者は「なんという手抜き番組だ!」と腹から驚きました。

世界中の観光地などを、観光客があまり歩かないような地域も含めてカメラマンひとりがえんえんと撮影し続けるのです。ディレクターである筆者にはあきれた安直番組と見えました。

ところが筆者は次第にその番組にはまっていきました。

今では訪ねたことのない街や国をそこで見るのが楽しみになっています。また愉快なのは、既に知っている国や街の景色にも改めて引き込まれて見入ることです。

前述のように観光客があまり行かず、紀行番組などもほとんど描写しないありふれた場所などを、丹念に見せていく手法が斬新だからです。

「歩くひと」にももしかするとそんな新しい要素があるのかもしれません。

だが筆者がそれを好きになることはなさそうです。歩く主人公は筆者が大嫌いな紀行物のリポーターにしか見えないからです。

また景観をなめ続けるカメラワークにもほとんど新しさを感じないからです。

ひたすら歩くだけの人物はさっさと取り除いて、景色をもっと良く見せてくれ、と思いつつテレビのスイッチを切りました。

おそらく、少なくない割合の視聴者が自分と同じことを感じている、と筆者はかなりの自信を持って言えます。

今後番組の評判が高まって、シリーズが制作され続ければ、視聴者としては大いなる日和見主義者である筆者は、あるいは改めてのぞいてみるかもしれません。

が、今のままではまったく見る気がしない。時間のムダ、と強く感じます。

 

 

 

 

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コロナ自粛中はドラマ三昧で逆風満帆

テレビ屋の筆者は番組を作るだけではなく、元々「番組を見る」のが大好きな人間です。

自分の専門であるドキュメンタリーや報道番組はいうまでもなく、ドラマやバラエティーも好みです。

ドキュメンタリーや報道番組は、イタリア語のみならず衛星放送で英語と日本語の作品もよく見ます。

しかし、ドラマは最近は日本語のそれしか見ていません。

理由は日本のそれが面白く、日伊英の3語での報道番組やドキュメンタリーに費やす時間を除けば、日本のドラマを見る時間ぐらいしか残っていない、ということもあります。

スポーツ番組、特にサッカー中継にも興味があるのでいよいよ時間がありません。バラエティー番組に至っては、ここ数年は全く目にしていません。

ドラマは以前からよく見ていますが、コロナ禍で外出がままならなくなった2020年の初め以降は、ますますよく見るようになりました。

ロンドンを拠点にする日本語の衛星ペイテレビがNHK系列なので、NHKのドラマが圧倒的に多いのですが、民放のそれも少しは流れます。

民放のドラマにもむろん面白いものがあります。が、筆者は昔からNHKの質の高いドラマが好きですから、ペイテレビの現況は好ましい。

コロナ禍中に多くの面白いドラマを見ました。またコロナが猛威を振るう直前まで流れたドラマにも非常に面白いものがありました。

思いつくままにここに記すと:

『ジコチョー』  『盤上の向日葵』 『サギデカ』 『ミストレス~女たちの秘密~』 

などがコロナ禍の直前の作品。

コロナパンデミック真っ盛りの2020年には:

『すぐ死ぬんだから』 『一億円のさようなら』 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 『路(ルウ)~台湾エクスプレス〜』 『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』 『岸辺露伴は動かない』『いいね!光源氏くん 』など。

また翌2021年になると:

『半径5メートル』 『ノースライト』 『ここは今から倫理です。』 『岸辺露伴は動かないⅡ』などが記憶に残りました。

これらのほとんどは面白いドラマでしたが、あえて3本を選べと言われたら、三田佳子が主演した『すぐ死ぬんだから』 『ミストレス~女たちの秘密~』 『岸辺露伴は動かない』を挙げます。

『すぐ死ぬんだから』は死後離婚という面白いテーマもさることながら、三田佳子の演技がとてもすばらしかった。

共演した小松政夫が亡くなってしまったことも合わせて印象に残ります。

『ミストレス~女たちの秘密~』は、英国BBCの古いドラマの日本語リメイク版。BBCはNHK同様ドラマ制作にも優れています。この日本版も非常によくできていました。

『岸辺露伴は動かない』の3シリーズも目覚しい番組でした。ただ次に出た3本はがくんと質が落ちました。最初の3本の出来が良すぎたために印象が薄れたのかもしれません。

ところで『岸辺露伴は動かない』のうちの‘’富豪村‘’のエピソードでは、マナーがテーマになっていて、ドラマの中で「マナー違反を指摘する事こそ、最大のマナー違反だ」と言うセリフがあります。

それを見て少し驚きました。それというのも実は筆者は、2008年に全く同じことを新聞のコラムに書きました

ある有名人が、そばをすする音がいや、という理由で婚約を解消した実話に関連して「スパゲティのすすり方」という題でマナーについて書いたのです。

そのコラムの内容は2020年9月、ここでも再び書きました。ドラマの中で指摘された内容も言葉も酷似しているので、念のために言及しておくことにしました。

つまり筆者のコラムは筆者のオリジナルであって、ドラマとは全く関係がない。偶然に同じ内容になったのでしょうが、最初にその説を唱えたのは筆者です。

‘’富豪村‘’は2010年の作で筆者のコラムは前述のように2008年。筆者はコピーすることはできません。

まさかとは思いますが、何かの拍子に筆者がドラマの台詞をパクったかのようなツッコミなどがあったら困るので、一応触れておくことにしました。

閑話休題

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』も良かった。

筆者は大河ドラマは出だしの数週間で見るのを止めることが多いのですが、『麒麟がくる』はコロナ巣ごもり需要とは関係なく最後まで面白く見ました。

一方、山本周五郎「人情裏長屋」 が原作の 『子連れ信兵衛 』は駄作でした。それでも時々見てしまったのは、原作を良く知っているからです。

都合のいい設定や偶然が多く、とてもNHKのドラマとは思えないほどの出来の悪さでした。原作に劣る作品としては『ノースライト』も同じ。

昨年放送のドラマでは『カンパニー〜逆転のスワン〜』も愉快でした。また『ここは今から倫理です。』 にはいろいろと考えさせられました。

ほかには 『正義の天秤』『山女日記3 』『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』などが印象に残りました。『正義の天秤』には致命的とさえ言える安直なシーンもありましたが、全体的に悪くない印象でした。

2022年1月現在、進行しているドラマでもっとも興味深いのは「恋せぬふたり」。他者に恋愛感情も性的欲求も抱かない「アロマンティック・アセクシュアル」の男女を描いています。

2人の在り方は不思議ですが違和感なく受け入れられます。受け入れられないのは、2人の周りの「普通の」人々の反応です。

性的マイノリティーの人々の新鮮な生き様と、それを理解できない人々の、ある意味で「ありふれた」ドタバタがとても面白いと感じます

 

 

 

 

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イタリアの紅白歌合戦「サンレモ音楽祭」の陳腐な凄さ

筆者が勝手にイタリアの紅白歌合戦と呼んでいるサンレモ音楽祭が昨日(2月6日)閉幕しました。サンレモ音楽祭はほぼ毎年2月に開催されます。

紅白歌合戦とサンレモ音楽祭には多くの共通点があります。両者ともに公共放送が力を入れる歌番組で、ほぼ70年の歴史を誇る超長寿番組です。

どちらも1951年のスタート(NHKは1945年開始という説も成り立つ)。当初はNHK、RAI共にラジオでの放送でしたが、NHKは1953年から又RAIは1955年からテレビ番組となりました。

国民的番組の両者は、近年はマンネリ化が進んで視聴率も下がり気味ですが、依然として通常番組を凌ぐ人気を維持。また付記すると、最近のRAIの番組の視聴率はNHKのそれよりもずっと高い傾向にあります。

両者ともにほとんど毎年番組の改革を試みて、たいてい不調に終わりますが、不調に終わるそのこと自体が話題になってまた寿命が延びる、というような稀有な現象も起こります。

その稀有な現象自体が実は両番組の存在の大きさを如実に示しています。

紅白歌合戦とサンレモ音楽祭は、また、似て非なるものの典型でもあります。実のところ両陣営は、相似よりも差異のほうがはるかに大きい。

紅白歌合戦は既存の歌を提供する番組。一方サンレモ音楽祭は新曲を提供します。あるいは前者は歌を消費しますが後者は歌を創造する。サンレモ音楽祭は音楽コンテストだからです。

紅白歌合戦がほぼ100%日本国内のイベントであるのに対して、サンレモ音楽祭は国際的な広がりも持ちます。つまり、そこでの優勝曲はグラミー賞受賞のほか、しばしば国際的なヒット曲にもなってきました。

古い名前ですが、例えばジリオラ・チンクエッティの音楽祭での優勝曲は国際的にもヒットしましたし、割と新しい歌手ではアンドレア・ボッチェッリなどの歌もあります。個人的には1991年の大賞歌手リカルド・コッチャンテなども面白いと思います。

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またサンレモ音楽祭は、欧州全体を股にかけたヨーロッパ最大の音楽番組「ユーロ・ビジョン・ソング・コンテスト」のモデルになるなど、特に欧州での知名度が高い。同時に世界的にも名を知られています。

周知のように紅白歌合戦は大晦日の一回のみの放送ですが、サンレモ音楽祭は5日間にも渡って放送されます。しかも一回の放送が4時間も続きます。つまり紅白歌合戦が5日連続で電波に乗るようなものです。

好きな人にはたまらないでしょうが、筆者などはサンレモ音楽祭のこの放送時間の膨大にウンザリするほうです。しかも番組は毎晩夜中過ぎまで続きます。宵っ張りの多いイタリアではそれでも問題になりません。

筆者は紅白歌合戦とサンレモ音楽祭の根強い人気とスタッフの努力に敬意を表しています。が、紅白歌合戦は日本との時差をものともせずに衛星生中継で毎年見ているものの、サンレモ音楽祭はそれほどでもありません。

その大きな理由は、毎日ほぼ4時間に渡って5日間も放送される時間の長さに溜息が出るからです。しかも翌日にまで及ぶ放送時間帯に対する疲労感も決して小さくありません。

もう一つ筆者にとっては重大な理由があります。そこで披露される歌の単調さです。カンツォーネはいわば日本の演歌です。どれこれも似通っています。そこが時には恐ろしく退屈です。

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もちろんいい歌もあります。優勝曲はさすがにどれもこれも面白いと考えて良い。ところがそこに至るまでの選考過程が長すぎると感じるのです。

演歌は陳腐なメロディーに陳腐な歌詞が乗って、陳腐な歌い方の歌手が陳腐に歌うところに、救いようのない退屈が作り出される場合も多い。カンツォーネも同じです。

誤解のないように言っておきますが、筆者は演歌もカンツォーネも好きです。いや、良い演歌や良いカンツォーネが好きです。ロックもジャズもポップスも同様です。あらゆるジャンルの歌が好きなのです。

しかし、つまらないものはすべてのジャンルを超えて、あるいはすべてのジャンルにまたがってつまらない。優れた歌は毎日毎日その辺に転がっているものではありません。99%の陳腐があって1%の面白い曲があります。

サンレモ音楽祭も例外ではありません。毎日4時間X5日間、20時間にも渡って放送される番組のうちの大半が歌で埋まります。だがその90%以上は似たような歌がえんえんと続く印象で、筆者にはほとんど苦痛です。

それでもサンレモ音楽祭はりっぱに生き延びています。批判や罵倒を受けながらも多くの視聴者の支持を得ている。それは凄いことです。筆者は一視聴者としては熱心な支持者ではありませんが、同じテレビ屋としてサンレモ音楽祭の制作スタッフを尊敬します。

創作とは何はともあれ、「作るが勝ち」の世界です。番組のアイデアや企画は、制作に入る前の段階で消えて行き、実際には作られないケースが圧倒的に多いからです。一度形になった番組は、制作者にとってはそれだけで成功なのです。

そのうえでもしも番組が長く続くなら、スタッフにとってはさらなる勝利です。なぜなら番組が続くとは、視聴率的な成功にほかならないからです。サンレモ音楽祭も紅白歌合戦も、その意味では連戦連勝のとてつもない番組なのです。

 

 

 

 

 

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コロナはもはやインフルってホント?

欧州ではコロナ規制を撤廃したり大幅に緩和する国が相次いでいます。

2月1日にはデンマークが欧州で初めてコロナ規制をほぼ全面撤廃しました。

続いてノルウェーも撤廃を決めました。1月26日から厳格な規制を緩めているオランダもさらに束縛を緩和する方針。

そのほかアイルランド、スウェーデン、英国なども同じ方向に舵を切っています。

少し意外なのは、1日あたりの感染者数が一時50万人を超え現在も数十万人程度の数字が続くフランスが、屋外でのマスク着用義務をなくすなどの制限緩和に動き出したこと。

ただしフランスは一方では、偽のワクチン接種証明を提示した場合、30日以内にワクチンを接種しなければ4万5千ユーロもの罰金と禁錮3年の刑を科すなど、規制を強化している部分もあります。

ここイタリアでも、スペランツァ保健相が、コロナとの闘いは希望の持てる新しいフェーズに入った、と言明しました。

イタリアでは.ワクチン接種年齢の国民の91%が接種。

88%が2回接種。

3回目の接種もおよそ3500万人が済ませています。

集中医療室のコロナ患者占拠率は14,8% 。一般病棟のそれも29,5%に下がりました。

だがイタリアは、おそらく他の欧州諸国、特に北欧の国々とは違って、規制緩和を急ぐことはないと思います。

イタリアは-繰り返し言い続けていることですが-コロナパンデミックの初めに世界に先駆けて医療崩壊を含む地獄を味わいました。

その記憶があるために、ほぼ常に規制緩和をどこよりもゆるやかに且つ小規模で行ってきました。その一方で、規制の強化や延長はどこよりも早くしかも大規模に実施する傾向があります。

それはとても良いことだと思います。

法律や規則や国の縛りが大嫌いなイタリア国民は、少し手綱をゆるめるとすぐに好き勝手に動き出します。

コロナ渦では国民全てのために、そしてお互いのために、不自由でも規制は強めのほうがいい。

平時には断じて譲れない個人の自由の概念を持ち出して、ワクチン接種拒否は個人の自由、などと叫ぶのはやはり控えたほうが賢明でしょう。

それにしても、感染者数がなかなか減らない中で欧州各国が大幅な規制緩和に乗り出すのは、頼もしくもあり違和感もある不思議な気分です。

だが科学の浸透が深い欧州の、しかも北欧の国々が先陣を切って動き出したのですから、それなりの根拠があってのことに違いない。

パンデミックの初期、イギリスのジョンソン首相は国民をできるだけ多く感染させてすばやく集団免疫を獲得するべき、と考えそう動こうとしました。

周知のようにそれは国民の総スカンを食らってポシャり、しかも後遺症で欧州最大のコロナ犠牲者を出す結果になりました。

今回の規制緩和の流れもイギリスが先導した、と言っても構わないでしょう。

ミニトランプのジョンソン首相が、経済回復を急ぐあまり「またもや」勇み足をしたのではないことを祈ろうと思います。

前回はスウェーデンだけが追随して失敗しました。今回は多くの国が倣っているから大丈夫なのでしょうが。。

 

 

 

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