島々の死者たち

ギリシャのクレタ島に滞在した時の話です。

借りたアパートからビーチに向かう途中に墓地がありました。そこには大理石を用いた巨大な石棺型墓石が並んでいました。

墓石はどれもイタリアなどで見られる墓標の4~5倍の大きさがあります。筆者はそれを見たときすぐに日本の南の島々の異様に大きな墓を想いました。

先年、母を亡くした折に筆者は新聞に次のような内容の文章を寄稿しました。

生者と死者と


死者は生者の邪魔をしてはならない。僕は故郷の島に帰ってそこかしこに存在する巨大な墓を見るたびに良くそう思う。これは決して死者を冒涜したりばち当たりな慢心から言うのではない。生者の生きるスペースもないような狭い島の土地に大きな墓地があってはならない。  

島々の墓地の在り方は昔ならいざ知らず、現代の状況では言語道断である。巨大墓の奇怪さは時代錯誤である。時代は変わっていく。時代が変わるとは生者が変わっていくことである。生者が変われば死者の在り方も変わるのが摂理である。

僕は死んだら広いスペースなどいらない。生きている僕の息子や孫や甥っ子や姪っ子たちが使えばいい。日当りの良い場所もいらない。片隅に小さく住まわしてもらえれば十分。われわれの親たちもきっとそう思っている。

僕は最近母を亡くした。灰となった母の亡き骸の残滓は墓地に眠っている。しかしそれは母ではない。母はかけがえのない御霊となって僕の中にいるのである。霊魂が暗い墓の中にいると考えるのは死者への差別だ。母の御霊は墓にはいない。仏壇にもいない。

母の御霊は墓を飛び出し、現益施設に過ぎない仏壇も忌避し、母自身が生まれ育ちそして死んだ島さえも超越して、遍在する。

肉体を持たない母は完全に自由だ。自在な母は僕と共に、たとえば日本とイタリアの間に横たわる巨大空間さえも軽々と行き来しては笑っている。僕はそのことを実感することができる。

われわれが生きている限り御霊も生きている。そして自由に生きている御霊は間違っても生者の邪魔をしようとは考えていない。僕と共に生きている母もきっと生者に道を譲る。

母の教えを受けて、母と同じ気持ちを持つ僕も母と同じことをするであろう。僕は死者となったら生者に生きるスペースを譲る。人の見栄と欺瞞に過ぎない巨大墓などいらない。僕は生者の心の中だけで生きたいのである。



日本の南の島々の墓が巨大なのは、家族のみならず一族が共同で運営するからです。生者は供養を口実に大きな墓の敷地に集まって遊宴し、親睦を深めます。

そこは死者と生者の距離が近い「この世とあの世が混在する共同体」です。生者たちは死者をダシにして交歓し親しみあうのです。島々の古き良き伝統です。

ところが、従前の使命が希薄になった現代の墓を作る際も、人々は虚栄に満ちた大きな墓を演出したがります。筆者はそこに強い違和感を覚えます。

ギリシャ南端のクレタ島には、ギリシャの島々の街並みによくみられる白色のイメージがあまりありません。山の多い島の景色は乾いて赤茶けていて、むしろアフリカ的でさえあります。

その中にあって、白大理石を用いた石棺型墓石が並ぶ霊園は明るく、強い陽ざしをあびて全体がほぼ白一色に統一されています。

大きな墓石のひとつひとつは、島の遅い夏の、しかし肌を突き刺すような陽光を反射してさらに純白にかがやいています。

死の暗黒を必死に拒絶しているような異様な白さ、とでも形容したいところですが、実はそこにはそんな重い空気は一切漂っていません。

墓地はあっけらかんとして清廉、ひたすら軽く、埋葬地を抱いて広がる集落の向こうの、エーゲ海のように心はずむ光景にさえ見えました。

ギリシャと日本の南の島々の巨大墓には、死者への過剰な思い入れと生者の虚栄心が込められています。

そして死者への思い入れも生者の精神作用に他ならないことを考えれば、巨大墓はつまるところ「生者のための」施設なのです。

あらゆる葬送の儀式は死者のためにあるのではない。それは残された遺族をはじめとする生者のためにあります。

死者は自らの墓がいかなるものかを知らないし、知るよすがもありません。

墓も、葬儀も、また供養の行事も、死者をしのぶ口実で生者(遺族)が集い、お互いの絆を確かめ、親睦を図るための施設であり儀式です。

死者たちはそうやって生者のわれわれに生きる道筋を示唆します。

死者は生者の中で生きています。巨大墓地などを作って死者をたぶらかし、暗闇の中に閉じ込めてはなりません。

通常墓や仏壇でさえ死者を縛り、貶める「生者の都合」の所産です。

死者は生者と共に自由に生きるべきです。

それどころか生者の限界を超えてさらに自由な存在となって空を飛び、世界を巡り、「死者の生」を生きるべきなのです。

筆者の中の、筆者の母のように・・

 

 

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エーゲ海の光と風~渋谷君への手紙~

〖 渋谷君

エーゲ海でまた10日間遊んできました。

いつものように仕事と遊びを兼ねた旅ですが、遊びを含む仕事なんて結局遊びに過ぎない、と僕は喜びとともに思い、そう言いふらしています。

訪ねたのはロードス島とヒポクラテスのコス島。

連日飽食しました。食事が美味いんだ。特にナス料理。また子羊とヤギ料理も良かった。

コス島からトルコのボドルムにも渡ったよ。

トルコでは成獣とおぼしき羊の肉の料理を食べました。羊肉の臭みが見事に消されて、ほのかな「風味」にまで昇華していました。

羊もヤギも料理法によってはホントにおいしい、ということの見本のようでした。

エーゲ海は想像したよりも光が白くて、まぶしくて、魂を揺さぶられました。

日本の最南端あたりの島の、強烈な日差しにまみれて育った僕が、あ然とするほどの輝かしい陽光とはどんなものか君に想像できるかい?

砂浜に横たわって真っ青な空を見上げていると白い線が一閃して、良く見るとそれが強い風に乗って遊ぶカモメ、というような美しい体験を次々にしたよ。

エーゲ海を吹き渡る風は豆台風並みに強いから、カモメの飛翔速度が電光石火、一閃する矢のごとし、というふうになるんだ。

また空気が乾いて透明だから、高速滑翔するカモメの白が単なる白じゃなく、鮮烈に輝く白光というふうに見えるんだね。

コス島では面白い場所を発見。

なんと断崖絶壁が海に落ち込むちょうど真下に温泉が湧いているんだ。

熱い湯に浸かっては、冷水代わりに澄んだ青い海に飛び込む、ということをくり返して遊びました。

僕はこの間、温泉にはあまり興味がないと君に言ったが、それは温泉に入ることに興味がないという意味ではないんだ。

温泉旅館とか、ホテルとか、温泉に付随する日本の施設があまり好きではないということなんです。

サービスがどうも押し付けがましいし、客のことを考えている振りをして自分達の都合ばかり考えているように感じる。

例えば食事時間の融通がきかないとか、食事をしているそばからすぐに布団を敷いていってさっさと仕事を終わりたがるとか・・なんだかしっくりこない。

しっくりこないと言えば、食事もやたらと量が多過ぎて、せっかくのおいしい料理もうまさが半減してしまうように感じたりもするんだ。

でも僕も日本人だから温泉に浸かることそのものは大好きだよ。この辺がイタリア人の僕の妻とは違う。

妻は西洋人の常で、「湯に浸かって体を温める」ことの良さや幸福を子供の頃から教えられているわけじゃない。だから、温泉には執着しない。熱い湯も好きじゃない。

温泉は飽くまでも医療セラピーとして入るんだ。

またキリスト教徒の本性で、素っ裸で他人とともに湯に浸かることにも明らかに抵抗感があるようです。

この間NHKが、外国の温泉に浸かる外国人の男を、日本風に素っ裸にして撮影していて、実に見苦しかった。

外国人が全裸で温泉に浸かることはありえない。プールの感覚だから、屋内外を問わずに男も女も必ず水着を着るのが常識です。

ディレクターが、あるいはそういう西洋社会の習慣やメンタリティーにうとかったのでしょう。

日本風を押し通して湯船の縁に裸の男を座らせて撮影してしまい、不自然さが全面に出て実に居心地の悪いえげつない絵になっていました。

でも恐らく、番組を作っているスタッフ同様に視聴者もそのことには気づいていない。怖い話だと僕は思ってしまうんだ。

なぜって、国際的な誤解というのはそういうささいなところから始まって、大きく深くなって行ったりする。

誤解をなくすつもりで制作した番組が、逆効果になってしまうことも多々あります。

だから社会的に強烈な影響力を持つテレビに関わっている僕のようなテレビ屋は、日々もっともっと勉強を続けていかなければならない。。

お、おふざけが好きな僕にしては、ちょっとマジ過ぎるメールになってしまいました。

ギリシャにいても、結局どこかで日本を考えていたりするのが僕の癖です。

今回もギリシャではいろいろなことを見て、いろいろなことを考えさせられました。

地中海巡りは仕事半分、休暇半分のつもりの旅行ですが、これまでのところは8~9割が仕事になってしまっています。

もう少し自由な時間を広げて、最終的には「リサーチ休暇」のようにするのが夢です。

何はともあれ、地中海世界は面白い。今後は何年もかけてどんどん地中海を見て回るつもりでいます。

                            それでは 〗

 

 

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プーチン暗殺、またクーデター論のケセラセラ

ロシアのウクライナ侵攻からほぼ80日が経った5月14日、ウクライナの諜報機関のボス、キリロ・ブダノフ准将が、ロシアでプーチン大統領を引きずりおろすクーデターが進行している、と英スカイニュースで公言しました。

だがその後は何事もなく時間が過ぎました。真相は闇の中ですが、ロシアの反プーチン勢力がクーデターを繰り返し画策していても不思議ではありません。

プーチン大統領の暗殺を目指して動くスパイや、特務機関の存在もしきりに取りざたされています。

そうした権謀術数は、しかし、今のところは成功の確率は非常に低い。限りなくゼロに近いと言っても構わないのではないでしょうか。

そうはいうものの、劇画やスパイ映画じみたそれらの計画が存在しないと考えるのは、プーチン大統領の暗殺が明日にでも成就する、と主張するのと同じ程度に荒唐無稽です。

前出のブダノフ准将は、公表されていないが3月にプーチン暗殺未遂事件が確かにあった、とも明言しています。

またブダノフ准将は、プーチン大統領がいくつかの病気に罹っていて、精神的にも肉体的にも追い詰められているとも断言。

イギリスのタイムズ紙も、プーチン大統領が「血液のがん」に侵されていると報告し、アメリカのメディアも同様に彼の健康状態が良くない、と伝えています。

また別の英紙によると、プーチン大統領は暗殺を恐れて疑心暗鬼になっている。食事や飲み物は毒見担当のスタッフが味見をした後でなければ口にしない、というのです。

クレムリン内ではかつてなくプーチン大統領の求心力が低下しているとされます。

だが、権力争いは活発化していません。なぜならプーチン時代の終わりを誰もが予感しているからです。

いま無理して争わなくてもプーチン大統領は間もまく失墜するか死亡する、と彼に続こうとする権力の亡者たちは踏んでいるようです。

巷に流れている情報がどこまで真実なのかはいまのところ誰にも分かりません。

ウクライナやアメリカの諜報機関も、ロシアのそれと同じくらいにフェイクニュースを発信して、情報のかく乱を目指しているからです。

一方では猫も杓子も希望的観測も、ひたすらプーチン大統領の失脚を待ちわびています。

そして先行きがまったく見えないまま、世界は徐々に戦争報道に飽きつつあります。人の集中力は長くは続かないのです。

プーチン大統領はその時をじっと待っているとも目されています。

世界の関心が薄れたとき、間隙を縫ってプーチン大統領の決定的な攻勢が始まる、という考え方もあります。

どこまで行っても一筋縄ではいかないのがプーチン大統領という魔物。

世界の多くが彼の転落を待ちわびていますが、楽観論に反して時間が彼に味方をし、大逆転劇が起きる可能性は五分五分というふうに見えます。

 

 

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美しく老いる肉体の真実

先日、イーロン・マスク氏の74歳になる母親のマイエ・マスクさんが、スポーツ誌の水着モデルになって話題を呼びました。

水着姿の彼女は美しく「セクシー」だ、という意見やコメントや批評が躍りました。

筆者はそこに違和感を持ちました。

マイエ・マスクさんは外見的には高齢の普通の女性です。

彼女が最高齢の水着モデルとして雑誌に採用されたのは、なにかと物議をかもすイーロン・マスク氏という億万長者の息子がいるからにほかなりません。

イーロン・マスク氏の強い話題性に乗っかって一儲けしようとする魂胆が、母親を雑誌の水着モデルに仕立て上げたのです。

よくある話であり、ありふれた手法です。

ふつうなら黙って見過ごすところですが、いま触れたように彼女の水着姿を「セクシー」だと言い張る声に強いひっかかりを覚えました。

水着姿のマイエ・マスクさんは、かわいく元気そうな女性ですが、断じてセクシーではありません。

老いてセクシーというのは、自然の摂理に反する空しいコンセプトです。

そしてもしもある個人が、高齢になってもセクシーであろうと足掻くのは悲しい生き方です。

セクシーとは性的な輝きのことです。

ところが閉経し膣に潤いがなくなった女性は、性においては輝きではなく性交痛に見舞われます。それは性交をするな、という自然の通達です。

高齢になって性交し妊娠するのは、母体にとって危険です。出産はもっと危険です。

だが自然はそれ以上の周到さで、高齢女性の性交を戒めています。

つまり女性が高齢で生む子供は、障害や弱さや死にまとわれる可能性が高い。それは種の保存、継続にとっての最大の危機です。だから膣を乾かせます。

膣に潤いがなくなるのは年齢のせいではない。自然がそう命令するのです。

むろん自然は男性の側にも同様の警告をします。だから男は年を取ると勃起不全になり性的攻撃性が減退します。それもまた自然の差し金です。

性交をしない、つまり性交ができない肉体はセクシーではありえません。美しくはあり得ても、それはセクシーではないのです。女もむろん男も。

年齢を重ねると女も男も肉体がひからび、くすんでいきます。自然現象です。

自然現象ですが、人間はまた自然現象に逆らうこともできる存在です。意志があり心があるからです。

ひからび、くすんでいく自然現象に立ち向かって、肉体を磨く人の行為は尊い。意志が、心がそれをやらせます。

肉体を磨く行為は、肉体を着飾る意思ももたらします。高齢になっても若やいだ、色鮮やかな装いをして颯爽と生きる人の姿は美しい。

ところで

肉体を磨くことに関しても衣装に関しても、特に女性の場合は日本人よりも西洋の女性のほうがより積極的であるように見えます。

多くの場合日本人は、年齢を意識してより落ちついたデザインや色彩の衣装を身にまといます。そこにはノーブルな大人の美があります。

だが、ただでもかわいてくすんでいく肉体を、より暗い地味な衣装でくるんでさらに老いを強調するのは理に合わない、という考え方もあります。

寂しい外見の肉体だからこそ、華やいだ衣装で包んで楽しく盛り上げるべき、という主張です。

明るい衣装が肉体の美を強調することになるかどうかはさておき、見た目が楽しくのびやかになるのは間違いありません。

年齢に縛られて、年相応にとか、年だから、などの言葉を金科玉条にする生き方はつまらない。

だが同時に、年齢に逆らって、望むべくもないセクシーさを追求するのは、悲しくもわびしい生き方です。

老いた肉体をセクシーにしようとすると無理がきます。苦しくなります。

老体の美は、セクシー以外の何かなのです。

何かの最たるものは心です。ひどく陳腐ですが、結局そこに尽きます。

老いを、つまりセクシーではない時間を受け入れて、心を主体にした肉体の健全と平穏を追求することが、つまり美しく老いるということではないでしょうか。

60歳代という老人の入り口に立っている筆者は、既に老人の域にいるマイエ・マスクさんのことが他人事には見えません。

幸い、彼女を「セクシー」だとはやし立てているのは、金儲けとゴマすりが得意な周辺の人々であって、彼女自身はそうでもないらしいのが救いです。

それというのも彼女はこう言っています:

「もしも私が雑誌の水着モデルになれると思ったら、頭のおかしい女性として無視されていたことでしょう」

と。

つまりマイエ・マスクさんは、自身の姿を客観視することができる健全な精神の持ち主なのです。

彼女のその健全な精神が、自身を水着モデルに仕立て上げたのは、成功あるいは金儲けを追い求める世間だったのだ、と主張しています。





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日本共和国はあり得るか

イタリアは昨日、共和国記念日で祝日でした。

第2次大戦後の1946年6月2日、イタリアでは国民投票により王国が否定されて、現在の「イタリア共和国」が誕生しました。イタリアが真に近代国家に生まれ変わった日です。

世界の主な民主主義国は、日本とイギリスを除いて共和国体制を取っています。筆者は民主主義国には共和国体制が最もふさわしいと考えています。

共和国制は民主主義と同様にベストの体制ではありません。あくまでもベターな仕組みです。しかし再び民主主義と同じように、われわれは今のところ共和制を凌駕する体制を知りません。

ベストを知らない以上、ベターが即ちベストです。

先年、筆者は熱烈な天皇制支持者で皇室尊崇派の読者から「あなたは天皇制をどう見ているのか」という質問を受けました。その問いに筆者は次のような趣旨の返事をしました。

天皇制については私は懐疑的です。先の大戦の如く、制度を利用して、国を誤らせる輩が跋扈する可能性が決してなくならないからです。

しかし「天皇制」と「天皇家」は別物です。天皇制を悪用して私利私欲を満たす連中は天皇家のあずかり知らないことです。

天皇家とその家族は善なる存在ですが、天皇制はできればないほうが良いと考えます。しかし、(天皇制を悪用する)過去の亡霊が完全に払拭されるならば、もちろん今のままの形でも構わない、とも思います。


筆者は今のところ、信条として「共和国主義が最善の政治体制」だと考えています。「共和主義者」には独裁者や共産党独裁体制の首魁などもいます。筆者はそれらを認めません。あくまでも民主的な「共和国主義」が理想です。

それはここイタリア、またフランスの共和制のことであり、ドイツ連邦やアメリカ合衆国などの制度のことです。それらは「全ての人間は平等に造られている」 という不磨の大典的思想、あるいは人間存在の真理の上に造られています。

民主主義を標榜するするそれらの共和国では、主権は国民にあり、その国民によって選ばれた代表によって行使される政治制度が死守されています。多くの場合、大統領は元首も兼ねます。

筆者は国家元首を含むあらゆる公職は、主権を有する国民の選挙によって選ばれ決定されるべき、と考えます。つまり国のあらゆる権力や制度は米独仏伊などのように国民の選挙によって造られるべき、という立場です。

世界には共和国と称し且つ民主主義を標榜しながら、実態は独裁主義にほかならない国々、例えば中華人民共和国、朝鮮民主主義人民共和国なども存在します。

共和国と民主国家は同じ概念ではありません。そこを踏まえた上で、筆者は「共和国」を飽くまでも「民主主義体制の共和国」という意味で論じています。

筆者が読者への便りに「天皇制はできればないほうが良い」と言いつつ「今のままの形でも構わない」と優柔不断な物言いをしたのは、実は筆者が天皇制に関しては、自身がもっとも嫌いな「大勢順応・迎合主義」を信条としているからです。

大勢順応・迎合主義とは、何事につけ主体的な意見を持たず、「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回って、これに付き従う態度でありそういう動きをする者のことです。

ではここではそれはどういう意味かと言いますと、共和国(制)主義を信奉しながらも、日本国民の大勢が現状のように天皇制を支持していくなら、筆者は躊躇することなくそれに従うということです。

共和国(制)主義を支持するのですから、君主を否定することになり、従って天皇制には反対ということになります。それはそうなのですが、筆者が天皇制を支持しないのは天皇家への反感が理由ではありません。

読者への返信で示したように、天皇制を利用して国家を悪の方向に導く政治家が必ずいて、天皇制が存続する限りその可能性をゼロにすることは決しできません。だから天皇制には懐疑的なのです。

しかしながら、繰り返しになりますが、日本国民の大多数が天皇制を良しとしているのですから、筆者もそれで良しとするのです。天皇家を存続させながら天皇制をなくす方法があれば、あるいはそれが適切かもしれません。

とはいうもののそのことに関しては、筆者は飽くまでも大勢に従う気分が濃厚なのです。そこには日本国民が、今さらまさか昔の過ちを忘れて、天皇制を歪曲濫用する輩に惑わされることはないだろう、という絶対の信頼があります。

 

 

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