シチリア島に見るアラブ・イスラムの息吹

イタリアのシチリア島は1860年、ガリバルディ率いる千人隊によって統一イタリア王国に併合されるまでの2千年余り、列強に支配されました。

支配者の名を時系列に並べると紀元前のギリシャに始まり、ローマ帝国、ビザンツ、アラブ、ノルマン、フランス、スペイン等々です。

このうちアラブ支配期を除けば― ビザンツに少しの議論の余地があるかもしれませんが― 支配者は全てが欧州の強国や大国でした。

つまりシチリア島はれっきとしたヨーロッパですが、そこに侵入支配し、島を蹂躙したパワーもまたヨーロッパのそれだったのです。

そこに9世紀から11世紀にかけてアラブという異質な力が入り、島を統治しました。シチリア島最大の都市パレルモを筆頭に、同地には今でもその痕跡が残っています。

例えばアラブのモスク風の赤い丸屋根を持つ教会。シチリアに、そしてイタリア全土に“数え切れないほど”多くある「西洋風」の教会の中にあって、全く異質の雰囲気をかもし出しています。

そのひとつがサン・カタルド教会。3つの赤い丸屋根が放つイスラム風の情緒が鮮烈な印象を与える、アラブ・ノルマン様式の建築物の一つ。パレルモ市中心の広場に、バロック様式の美しいファサードを持つマルトラーナ教会と並んで建って、有名観光スポットの一つになっています。1160年頃に建設されました。

サン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会


サン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会の佇まいも琴線に触れます。こちらもモスク風の5つの赤い丸屋根を持っています。もともとは6世紀に作られた修道院。キリスト教の施設が、アラブ人によってモスクに作り変えられた往年の姿を偲んで、19世紀に再現されました。

観光客もあまり訪れないジーザ城のシンプルな佇まいも面白い。ムスリム排斥後のノルマン時代に建てられたアラブ・ノルマン建築の傑作です。外見もそうですが城の構造とコンセプトがすごい。暑いパレルモの風の動きを計算して、城中に涼しい風を呼び込む工夫が縦横に施(成)されています。

海風と山風の通り道を計算して建設場所が決められ、さらに風を取り込むために建築構造が考案されました。その上に噴水の水を建物内の壁に引き込んで循環させる仕組みが隠されています。いわば原始的なクーラーのコンセプトです。

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ジーザ城


クーラーのアイデアは、当時の進んだアラブの技術をノルマン人が取り込んだのではないかと思います。1787年にここを訪れたゲーテは、建物の美と機能に感嘆して、「北国には向かないかもしれないが南国の気候には最適の構造だ」という趣旨の文章を書き残しています。

アラブはスペインも支配しました。支配地域や権力の変遷はあったものの、紀元711年に始まり、1492年にナスル朝グラナダ王国が滅亡するまでの約800年間、アラブはイベリア半島を席巻しました。そこではアラブ支配の痕跡は珍しくありません。珍しいどころか、特に支配期間が長かったアンダルシア州などでは、むしろ普通の光景です。

アラブのシチリア支配はスペインより1世紀余り遅れました。紀元827年に始まり1061年までの200余年に過ぎません。従ってアラブの痕跡は。スペインのアンダルシアなどに比較するとはるかに薄い。しかし、数少ない彼らの足跡はやはり鮮やかです。

実をいうと、アラブ支配時代の「オリジナル」の建物や建造物は、シチリアにはほとんどありません。前述の2教会やジーザ城も、アラブの後にシチリアを制したノルマン王朝が、イスラム文明の優れたものを模造したり再建したり修復したために、今日にまで残る道筋ができたのです。

シチリア島を支配していた当時のアラブ世界は、数学や天文学や医学、薬学、化学、また灌漑技術などもヨーロッパより進んでいました。アラブ人は彼らの進んだ技術や学問や優れた建築・芸術様式などをシチリア島に持ち込みました。その中でも特に灌漑技術はシチリアの農業を飛躍的に発展させました。
 
島の名産物の代名詞であるオレンジやみかんなどの柑橘類もアラブ人がもたらしたものです。さらに彼らは、サトウキビ、綿花、ピスタキオ、メロン、薬草、ナツメヤシなども初めてシチリア島に導入しました。養蚕と桑の栽培も彼らが始めて、絹織物の生産が盛んになりました。

アイスクリームの原型とされるシャーベットもアラブ人がもたらした、という説さえあります。

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エトナ山


彼らは島にあるヨーロッパ最大の火山、標高約3330メートルのエトナ山頂の雪を利用して夏もシャーベットを作り、それはやがて発祥地がナポリともフィレンツェとも言われるアイスクリームへと形を変えていった、というものです。

シャーベットとアイスクリームは別物だと思いますが、夏の暑い盛りに冷たいものを食べたい、という人々の欲望に応えた技術の開発という意味では、アラブのかつての進んだ文明を思い起こすにふさわしいエピソードのようにも見えます。
 
アラブの優れた文物が、シチリアにもたらされた歴史をしっかりと認識している島の人々は、「アラブはシチリアの一部だよ」とまで断言して、アラブ・イスラム文化を讃えます。
 
欧州ではイスラム過激派のテロなどが頻発して人々を震撼させてきました。テロは目立たなくなりましたが、その芽が摘まれたわけではなく、欧州は依然としてひそかに厳戒態勢を敷いています。欧州のいわゆるイスラムフォビア(嫌悪)の感情は少しも弱まっていません。

そんな中で、アラブ・イスラムを自らの一部とまでとらえて賞賛するシチリアの人々の正直と、懐の深さが筆者は好きです。

彼らは歴史を直視することで「テロリストと一般のイスラム教徒を混同してはならない」という当たり前の原則をやすやすと実践し、泰然として揺るがないように筆者の目には映ります。

 

 

 

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極右政権が誕生しそうなイタリア~多様性がそれを懐柔して保守に変えるか

イタリアでは9月25日の投票に向けて激しい選挙戦が展開されています。

世論調査によれば、右派連合が過半数を制して政権樹立を目指す見込み。

右派連合は極右の「イタリアの同胞」と「同盟」、中道右派を自称する「フォルツァ・イタリア」の3党が中心。

このうちファシスト党の流れをくむ正真正銘の極右政党「イタリアの同胞」は、左派で政権与党の民主党をわずかながら抑えて、世論調査で支持率トップを維持しています。

それはつまり右派連合が勝った場合、イタリアの同胞のジョルジャ・メローニ 党首がイタリア初の女性宰相になることを意味します。

女性か否かはさておき、極右のイタリア首相の誕生は、EUを筆頭にする世界を震撼させそうです。ところが実際には、人々は成り行きを冷静に観察しているように見えます。

それはおそらく反EUを標榜してきたメローニ党首が、その矛先を収めてEUとの共存を示唆し、ウクライナ危機に関してはロシアを否定して、明確にウクライナ支持を表明していることにもよります。

その一方で彼女の盟友のサルビーニ同盟党首とフォルツァ・イタリア党首のベルルスコーニ元首相は、ロシアのプーチン大統領との友誼に引きずられて曖昧な態度でいます。

彼らのスタンスは、ウクライナ支持で結束しているEU各国の不信を招いています。おそらくその反動もあって、メローニ党首の立ち位置が好ましくさえ見えているのでしょう。

またイタリアはEUから巨額のコロナ復興支援金を受け取ることが決まっています。

メローニ首相が誕生した場合、彼女は復興支援金を滞りなく受け取るためにも、より一層反EUのスタンスを封じ込めて、EUと協力する道を選ぶことが確実と見られています。

EUをはじめとする世界の見方はおそらく半ば以上正鵠を射ています。

そのことは2018年、議会第1党になった極左の「五つ星運動」が反EUの看板を下ろして、割と「まともな」政権与党に変貌していった経緯からも読み取ることができます。

極右のイタリアの同胞もほぼ間違いなく同じ道をたどると考えられます。3党の連立政権であることもそれに資することでしょう。

が、同時に– 五つ星運動が極左の本性もさらけ出しにしたように–彼らが主張する反移民、排外差別主義者の正体もむき出しにするに違いありません。

政治的感覚の優れたメローニ党首は、自らが主導するファシストの流れを汲むイタリアの同胞を、かつてのムッソリーニ派につながるイメージから引き離す努力を続けてきました。

それはフランスの極右、国民連合のルペン党首が、反移民・排外差別主義的なこわ持ての主張を秘匿してソフト路線で選挙を戦う、いわゆる「脱悪魔化」と呼ばれる手法と同じです。

メローニ党首は極右と呼ばれることを嫌い、ファシストと親和的と見なされることを忌諱します。だが同時に彼女は、ファシズムと完全に手を切る、とは決して宣言しません。

なぜか。言うまでもなく彼女がいわゆるネオファシスト的な政治家だからです。

ネオファシストは、反移民、ナショナリズム、排外人種差別主義、白人至上主義、ナチズム、極右思想、反民主主義などを標榜します。

メロ-ニ党首は明らかにそれらに酷似した主義、思想をまとって政治活動をしています。このうち反移民の立場は進んで明らかにしますが、他の主義主張は時として秘匿したり曖昧にしたりします。

それは彼女が、ファシズムの過去の失態と国民のファシズムアレルギーを熟知しているからです。ネオファシスト的な色彩を秘匿し曖昧にすることが、いわゆる彼女の「脱悪魔化」なのです。

イタリアのファシストはファシストを知らなかったが、ジョルジャ・メローニ党首はファシストを知っています。これは大きな利点です。彼女が過去に鑑みて、ファシズム的な横暴を避けようとするかもしれないからです。

だが同時に、彼女がファシズムの失敗を研究し尽くした上で、より狡猾な方法でファシズムの悪を実践しようとするかもしれない、という懸念もむろんあります。

なにはともあれ、今このときのイタリアの世論は、右派連合の政権奪還を容認し、メローニ党首の首相就任を「受身」な形ながらも是認しているように見えます。

それはイタリア国民が2018年の総選挙で、極左の五つ星運動の躍進を容受したいきさつと同じです。

今この時のイタリア国民の大半は、バラマキに固執する左派の政策にうんざりしていて、そこに明確に反対する右派に期待を寄せていると考えられます。

実は右派もまたバラマキと変わらない政策綱領も発表しています。だがそれは左派の主張より目立たない形での提案なので、国民は大目に見ているというふうです。

ネオファシスト的体質の、将来のメローニ首相は、ファシストではなく“保守主義者”として自らをアピールしまた政策を推進しようとするでしょう。

ファシズムを容認するイタリア国民は皆無に等しい。だから将来のメローニ首相は、国民の気分に合わせるスタンスで政権を運営すると思います。

彼女を批判する場合の最も強い言葉は、例えば保守強硬派、強権主義、保守反動などとなり、ファシストという言葉は使われないし、使えなくなるに違いありません。

ファシズムという言葉がそれだけ侮辱的で危険なものだからです。そして、繰り返しになりますが、ファシスト色を帯びた彼女の正体は、彼女自身も認めることをためらう程の悪であるからです。

そしてその躊躇する心理が、彼女のファシズム的な体質を矯正し、政策をより中道寄りに引き戻して危険を回避する効果があると考えられます。

その傾向はイタリアではより一層鮮明になります。

政治勢力が四分五裂して存在するイタリアでは、極論者や過激派が生まれやすい。

ところがそれらの極論者や過激派は、多くの対抗勢力を取り込もうとして、より過激に走るのではなくより穏健になる傾向が強い。

そこには自由都市国家が乱立して覇を競ったイタリアの歴史が大きく関わっています。分裂国家イタリアの強さの核心は多様性なのです。

イタリア共和国には、都市国家群の多様性が今も息づいています。そのため極論者も過激思想家も跋扈しますが、彼らも心底では多様性を重んじるため、先鋭よりも穏便に傾斜します。

いわば政治的に過激な将来のメローニ首相も、必ずそういう道を辿るでしょう。それでなければ彼女の政権は、半年も経たないうちに崩壊する可能性が高い。それがイタリアの政治です。

極右体質のメローニ政権が船出する場合の危険と憂鬱は、彼女自身が極右に偏り過ぎることではなく、極右政権を支持する「極右体質の国民」が驕って声を荒げ、暴力的になり民主主義さえ否定しようと動くことです。

右派が政権を奪取すると、小さな地方都市においてさえ暴力の臭いが増して人心が荒む状況になります。それは筆者の住む北イタリアの村でさえ同じです。

信じられない、と思うならばアメリカに目を向ければ良い。

ファシスト気質のトランプ前大統領が権力を握っていた間、アメリカでは暴力的な風潮が強まり人心が荒みました。

右翼の、特に極右のいかんともしがたい不徳は、昔も今もそしてこれからも、言わずと知れた彼らの暴力体質なのです。

それは極左と呼ばれるも勢力も同じであることは言うまでもありません。

 

 

 

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燃える欧州、渇くイタリア

欧州はことしは6月から熱波に見舞われました。

フランスでは6月18日に同時期としては過去最高の42,9度を記録。スペインでも記録的な猛暑が続きました。

フランス、スペイン、ポルトガルではその後も熱波が猛威を振るい火事が相次ぎましだ。

それは昨年のイタリア南部の状況によく似ていました。

イタリアでは昨年熱波で気温が上がりシチリア島ではヨーロッパで過去最高となる48、8℃が観測されました。

それに合わせて山火事も頻発しました。

ことしのイタリアは北部で干ばつが起きた。

冬の間もその後もほとんど雨が降らず川や湖が干上がって農業用水が確保できなくなりました。

大河ポーでさえそこかしこが枯渇し、そこを灌漑のよすがにする広大な農業地帯の作物が枯れ果てました。

イタリア以外の欧州の国々の多くも同じような被害を被っています

そんな中、さらなる驚きがやってきました。

北国のイギリスで7月、気温がついに40℃を超えたのです。

それは昨年イタリア南部で、気温が48、8℃という欧州記録を観測した時と同じくらいの大きなニュースになりました。

北イタリアの干ばつは、8月の雨で一部解消されました。だがそれは各地で集中豪雨となり、それ自体が被害をもたらす結果となりました。まさに異常気象です。

世界の気温は産業革命を機に約1、1度上昇してきました。

増加幅は年々大きくなって、1970年から現在までの気温は過去2000年間でも例のない異様な速度で上がっているとされます

COP(気候変動枠組条約締約国会議) では、今後の世界の気温上昇を、1、5度までに抑える目標が立てられました。だが、各国の欲と思惑と術数が複雑にからんで達成は難しそうです。

パリ協定を離脱した政治的放火魔トランプ前大統領や独裁者のプーチン大統領、ラスボス習近平主席また彼らに追随する世界中の多くの唯我独尊フィクサーが幅を利かせる限り、地球はますます熱を帯びて耐えがたくなっていくのではないでしょうか。

異常気象が続けばそれが当たり前になってもはや異常とは呼べません

年々時節が乱れ気象が迷走するの見て、筆者は大分前から異常が通常になった、と考えそう主張してきました。

おかしな気候ばかりを目の当たりにすると、異常気象という言葉はもはや正しくないようにさえ感じるます

われわれはもしかすると異常が通常になって、通常が異常になる過程を生きているのかもしれない、といぶかったりもします

だがさらによく考えてみると、気象の異常とは支離滅裂ということですから、やはりそれを尋常とは規定できないでしょう。

異常気象はどこまで行っても異常気象なのです

ただわれわれ人間も動物も植物も、要するに自然の全てが、きっと異常気象に順応していきます。

むろんある程度の犠牲や、混乱や、痛みはあるでしょう

でも異常気象に慣れてなんとか生き延びるのです。

歴史はいつもそうやって作られてきました。人も自然も世界も、しぶとい。幸いなことに・・

・・という見方が正しかった、と将来われわれが確認できるようなら万々歳です。

しかし、そうはならない最悪の事態がやって来る可能性も高い。

だからやっぱり今の異常を正常に戻す努力を懸命にしたほうがいいと考えます





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ウイルスは異端児を嫌う

2021年4月、イタリアの離島で32年間独り暮らしをしていた男が島から転出する、というニュースが注目を集めました。

その男とは当時81歳のマウロ・モランディさん。1989年、イタリアの島嶼州サルデーニャのブデッリ島に移り住みました。

以来、島のたった1人の住人として生きてきましたが、島を管轄するマッダレーナ諸島国立公園の要請で離島することになりました。

孤独な男のエピソードは国内のみならず世界の関心を呼び、英国のBBCなどは“イタリアのロビンクルーソー”として彼のこれまでの生き様を詳しく伝えたりしました。

モランディさんは人間が嫌いで自然が好き。それが嵩じて、文明から離れて南太平洋のポリネシアの孤島に移り住もうと考えました。

彼は友人とともに航海に出て、サルデーニャ島の北東部にあるマッダレーナ諸島に着きました。そこで働いてポリネシアまで航海を続けるための資金を作ると決めたのでした。

ところがブデッリ島を訪ねた際、島の管理人が退職することを知って、そこに移り住むことを決意。以来32年が過ぎました。

モランディさんはインタビューに答えて、32年間健康で風邪一つひかなかったと強調しました。

筆者はその言葉に強い印象を受けました。

人間は孤独なら風邪をひかない、という真実を確認できたと思ったのです。

コロナパンデミックが起きて以来、筆者はインフルエンザにもかからず風邪もひかなくなりました。

同居している妻以外の人間とは全くと言っていいほど接触しなかったからです。

筆者は風邪やインフルエンザに愛されていて、それらの流行期にはほぼ必ず罹患します。特にインフルエンザには弱く、しかもかかると高熱が出ます。

若いころに横隔膜を傷めていて、それが原因で高熱が出る、と医者には診断されました。

医者は、毎年インフルエンザワクチンを打つように、と筆者に勧めました。

筆者は懐疑的でした。ワクチンは自然に逆らっているようで危険ではないか、と思い医者にそう伝えました。

彼は即座に言いました:

あなたの場合、インフルエンザにかかる度に高熱を出して寝込むことの方がワクチンよりずっと危険だ。

目からうろこが落ちました。ワクチンへの筆者の信頼はそこから始まりました。20年以上前の話です。

以来、毎年冬の始めにインフルエンザワクチンを打ちます。それでもインフルエンザにかかることがあります。しかし、以前のように高熱が出ることはなくなりました。

ワクチンを打っていてもインフルエンザにかかるのは、外に出て他者と接触するからです。あるいは自家に人が訪ねてくるからです。

その証拠に同居人以外にはほとんど会わなかった2020年~2021年の間、前述のように筆者は全く風邪をひかずインフルエンザにもかかりませんでした。

独り孤島に生きていたマウロ・モランディさんは、風邪をひきたくてもインフルエンザにかかりたくても、ウイルスを運び来る他者がいないため罹患することはなかったのです。

筆者はコロナ感染を避けるために人との接触を絶っていた頃の自分の暮らしを振り返って、“人は孤独ならインフルエンザはおろか風邪さえひかない”としみじみ思うのです。

2020年以降はインフルエンザワクチンと並行してコロナワクチンも接種しています。

コロナワクチンを3回接種し4回目を待っていることし(2022年)の春からは、ほぼ普通に外出をし人とも当たり前に会っています。

これまでのところ、コロナはおろかインフルエンザにもかかっていません。だが人との接触が増えた今は、むろん先のことはわかりません。

 

 

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8月15日の兵士葬送曲

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいます。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、少し危険な精神作用です。

多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響です。

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。

そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる人とか、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する人などが主体です。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々です。それは往々にして被害者意識につながります。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張します:

兵士は命令で泣く泣く出征していった。彼らは普通の優しい父や兄だった。ウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落しています。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由です。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が例えば島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」です。

「東京だョおっ母さん」では亡くなった兵士の兄は

♫優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられます。

だが優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶だったのです。彼らは戦場で壊れて悪魔になりました。

歌にはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちています。

戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。同時に彼は凶暴な兵士でもあったのです。

自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと誤解されます。

兵士ではない時の、人間としての彼らの多くははもちろんそうでしょう。だが一旦兵士となって戦場を駆けるときは彼らは非情な殺人者になります。

敵の兵士も味方の兵士も、自分の家族の一員である兵士も、自分の友人の兵士も、文字通り兵士全員が殺人者なのです。

兵士は戦争で人を殺すために存在します。彼らが殺すのは、殺さなければ殺されるからです。

だからと言って、人を殺す兵士の悪のレゾンデートルが消えてなくなるわけではありません。

兵士は人殺しである。このことは何をおいても頑々として認識されなければなりません。

そのことが認識されたあとに、「殺戮を生業にする兵士を殺戮に向かわせるのが国家権力」という真実中の真実が立ち現れます。

真の悪は、言うまでもなく戦争を始める国家権力です。

その国家権力の内訳は、先の大戦までは天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関でした。つまり兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構です。

敗戦によってそれらの事実が白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰しました。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れました。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦をとことんまで総括するのを怠ったことです。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生しました。

歴史修正主義者は兵士を礼賛します。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称えます。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいません。

過去の大戦を徹底総括しないことの大きなツケが、その危険極まりない国民意識です。

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イタリア・シエナの広場を疾駆する美しき裸馬たち 

コロナ禍で中止されていたイタリア・シエナのパリオが復活しました。

シエナはフィレンツェから70キロほど南にある中世の美しい街。パリオは街の中心の広場で開催される伝統競馬です。

街を構成する「コントラーダ」と呼ばれる17の町内会のうち、くじ引きで選ばれた10の町内会の馬が競い合います。

パリオは毎年7月と8月の2回行われます。8月16日が今年2度目のパリオの日でしたが、悪天候のために一日順延されました。

パリオはずっと存続の危機にさらされてきました。動物愛護者や緑の党などの支持者が、競走馬の扱いを動物虐待と見なして祭りの廃止を主張するのです。

そこにコロナパンデミックがやって来て2年間中止されました。多くの人が祭りの行く末を憂慮しましたが、ことし7月に祭りが再開されました。

パリオは街の中心にある石畳のカンポ広場を馬場にして、10頭の裸馬が全速力で駆け抜けるすさまじい競技です。

なぜすさまじいのかというと、レースが行なわれるカンポ広場が本来競馬などとはまったく関係のない、人間が人間のためだけに創造した、都市空間の最高傑作と言っても良い場所だからです。

カ ンポ広場は、イタリアでも1、2を争う美観を持つとたたえられています。1000年近い歴史を持つその広場は、都市国家として繁栄したシエナの歴史と文化の 象徴として、常にもてはやされてきました。シエナが独立国家としての使命を終えて以降は、イタリア共和国を代表する文化遺産の一つとしてますます高い評価 を受けるようになりました。

パ リオで走る10頭の荒馬は、カンポ広場の平穏と洗練を蹂躙しようとでもするかのように狂奔すます。狂奔して広場の急カーブを曲がり 切れずに壁に激突したり、狭いコースからはじき出されて広場の石柱に叩きつけられたり、混雑の中でぶつかり合って転倒したりします。負傷したり時には死ぬ馬も出ます。

カンポ広場を3周するパリオの所要時間は、1分10秒からせいぜい1分20秒程度。熾烈で劇的でエキサイティングな勝負が展開されます。しかし、それにも増して激烈なのが、このイベントにかけるシエナの人々の情熱とエネルギーです。それぞれが4日間つづく7月と8月のパリオの期間中、人々は文字通り寝食を忘れて祭りに没頭します。

シエナで広場を疾駆する現在の形のパリオが始まったのは1644年です。しかしその起源はもっと古く、牛を使ったパリオや直線コースの道路を走るパリオなどが、13世紀の半ば頃から行なわれていたとされます。もっと古いという説もあります。

パリオでは優勝することだけが名誉です。2位以下は全く何の意味も持たず一様に「敗退」として片づけられます。従ってパリオに出場する10の町内会「コントラーダ」は、ひたすら優勝を目指して戦う・・・と言いたいところですが、実は違います。

それぞれの町内会「コントラーダ」にはかならず天敵とも言うべき相手があって、各「コントラーダ」はその天敵の勝ちをはばむために、自らが優勝するのに使うエネルギー以上のものを注ぎこみます。

天敵のコントラーダ同志の争いや憎しみ合いや駆け引きの様子は、部外者にはほとんど理解ができないほどに直截で露骨で、かつ真摯そのものです。天敵同志のこの徹底した憎しみ合いが、シエナのパリオを面白くする最も大きな要因になっています。

パリ オの期間中のシエナは、敵対するコントラーダ同志の誹謗中傷合戦はもとより、殴り合いのケンカまで起こります。毎年7月と8月の2回、それぞれ4日間に渡って人々はお互いにそうすることを許し合っています。そこで日頃の欲求不満や怒りを爆発させるからなのでしょう、シエナはイタリアで最も犯罪の少ない街とさえ言われています。

長い歴史を持つパリオは、2011年7月のパリオに出走した馬の1頭が、広場の壁に激突して死んで以来、恒常的に存続の危機にさらされています。動物愛護者や緑の党の支持者などが、馬の虐待だと決めつけて祭りの廃止を叫ぶのです。実 はそのこと自体は目新しいものではなく、パリオを動物虐待だとして糾弾する人々はかなり以前からいました。

2011年の場合は事情が違いました。当時ベルルスコーニ内閣の観光大臣だったミケーラ・ブランビッラ女史が、声を張り上げて反パリオ運動を主導したのです。動物愛護家で菜食主義者の大臣は、かねてからシエナのパリオを敵視してきました。事故を機に彼女はパリオの廃止を強く主張し、その流れは今も続いています。

筆者はかつてこのパリオを題材に一時間半に及ぶ長丁場のドキュメンタリーを制作しました。6~7年にも渡るリサーチ準備期間と、半年近い撮影期間を費やしました。NHKで放送された番組は幸いうまく行って高い評価もいただきました。筆者は今もパリオに関心を持ち続け、番組終了後の通例で、撮影をはじめとする全ての制作期間中に出会ったシエナの人々とも連絡を取り合います。

その経験から言いたいことがあります。

パリオで出走馬が負傷したり、時には死んだりする事故が起こるのは事実です。しかしシエナの人々を動物虐待者と呼ぶのは当たらないのではないかと思います。なぜなら馬のケガや死を誰よりも悼(いた)んで泣くのは、まさにシエナの民衆にほかならないからです。街の人々は馬を深く愛し、親しみ、苦楽を共にして何世紀にも渡って祭りを盛り上げてきました。

彼らは馬を守る努力も絶えず続けています。石畳の広場という危険な馬場に適合した馬だけを選出し、獣医の厳しい監査を導入し、馬場の急カーブにマットレスを敷き詰め、最終的には激しい走りをするサラブレッドをパリオの出走馬から外すなど、など。それでも残念ながら事故は絶えません。

しかし、だからと言って歴史遺産以外のなにものでもない伝統の祭りを、馬の事故死という表面事象だけを見て葬り去ろうするのは、あまりにも独善的に過ぎるのではないでしょうか。今日も世界中の競馬場で馬はケガをし、死ぬこともあります。それも全て動物虐待なのでしょうか?

最後に不思議なことに、ブランビッラ元大臣を含むパリオの動物虐待を指摘する人々は、馬に乗る騎手の命の危険性については一切言及しません。また筆者が知る限り、元大臣を含む多くの反パリオ活動家の皆さんは、パリオ開催中のシエナの街に入ったことがない。つまり彼らは、パリオについては、馬の事故死以外は何も知らないように見えます。

そのことに違和感を覚えるのは筆者だけでしょうか?

 

 

 

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子ヤギ食らいという自罪を見つめて生きる~殺すことしかできない私からの手紙

輿子田さん

ことしの復活祭で子ヤギ肉を食べたあと、先日のギリシャ旅でも子ヤギ&子羊肉(以後子ヤギに統一)を食べる罪を犯しました。あなたに責められても仕方がないと思います。

ただし私があなたの批判を甘んじて受けるのは、あなたが考えるような意味ではありません。私は子ヤギという愛くるしい動物の肉を食らった自分を悪とは考えません。

その行為によって、感じやすいやさしい心を持ったあなたの情意を傷つけたことを、心苦しく思うだけです。

私たちが食べる肉とは動物の死骸のことです。野菜とは植物の亡き骸です。果物は植物の体の一部を切断したいわば肉片のようなものです。

私たち人間はあらゆる生物を殺して、それを食べて生きています。菜食主義者のあなたは動物を殺してはいませんが、植物は殺しています。

動物は赤い熱い血を持ち、動き、殺されまいとして逃げ、殺される瞬間には悲痛な泣き声をあげます。だから私たちは彼らを殺すことが辛く、怖い。

植物は血液を持たず、動かず、殺されても泣かず、私たちのなすがままにされて黙って運命を受け入れています。

彼らは傷つけられても殺されても痛みを覚えない。なぜなら血も流れず、逃げもせず、悲鳴も上げないから。だから私たちは彼らを殺しても、殺したという実感がない。

でも、私たちのその思い込みは本当に正しいのでしょうか?

私たち動物も植物も、炭素を主体にした化合物 、つまり有機化合物と水を基礎にして存在する生命形態です。

動物と植物の命の根源や発祥は共通なのです。だから私たち動物は植物と同じ「生物」と呼ばれ、そう規定されます。

同時に動物と植物の間には、前述の違いを含む多くの見た目と機能の違いがあります。私たちは、動物が持つ痛みや苦しみや恐怖への感覚が植物にはないと考えています。

しかし、その証拠はありません。私たちは、植物が私たちに知覚できる形での痛みや苦しみや恐怖の表出をしないので、今のところはそれは存在しない、と勝手に思い込んでいるだけです。

だがもしかすると、植物も私たちが知らない血を流し(樹液が彼らの血にあたるのかもしれません)、私たちが気づかない痛みの表現を持ち、私たちが知覚できない悲鳴を上げているのかもしれません。

私たち人間は膨大な事物や事案についてよくわかっていません。人間は知恵も知識もありますが、同時に知恵にも知識にも限界があります。

そしてその限界、あるいは無知の領域は、私たちが知るほどに広がっていきます。つまり私たちの「知の輪」が広がるごとに円周まわりの未知の領域も広がります。

知るとは言葉を替えれば、無知の世界の拡大でもあるのです。

そんな小さな私たちは、決して傲慢になってはならない。植物には動物にある感覚はない、と断定してはならない。私たちは無知ゆえに彼らの感覚が理解できないだけかもしれないのですから。

そのことが今後、私たちの知の進化によって解明できても、しかし、私たちは私たち以外の生命を殺すことを止めることはできません。

なぜなら私たち人間は、自らの体内で生きる糧を生み出す植物とは違い、私たち以外の生物を殺して食べることでしか生命を維持できません。

人が生きるとは殺すことなのです。

だから私は子ヤギを食べることを悪とは考えません。強いて言うならばそれは殺すことしかできない「人間の業」です。子ヤギを食らうのも野菜サラダを食べるのも同じ業なのです。

それでも私は子ヤギを憐れむあなたの優しい心を責めたりはしません。その優しさは、私たち人間の持つ残虐性を思い起こさせる、大切な心の装置なのですから。

殺すことしかできない私は、子ヤギ食らいという自罪を畏れつつ、これからもいただく命にひたすら感謝しつつ生きて行きます。

 

 

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エーゲ海の島ヤギ料理~ナクソス・パロス・ミコノス編 

2022年6月のギリシャ旅行でもヤギ・羊肉料理の食べ歩きました。

一週間づつ滞在したパロス島とナクソス島では、いかにもギリシャの島々らしい美味しいヤギ・羊肉料理に出会いました。

また乗り換え地として旅の終わりに短く滞在したミコノス島では、あっと驚く子羊のモツ料理にも遭遇しました。

子羊の内臓を腸に詰め込んで炭火でじっくりと炙り焼いたもので、レシピも味も強烈な印象を筆者に与えました。

ミコノス島で出会った激うまレシピを別にすれば、今回旅ではナクソス島のレストランの子羊の丸焼きがベストの味でした。

そのレストランは滞在した家とビーチの間にありました。歩いて1分もかかりません。なにしろ家からビーチまではほんの50~60メートルしかなかったのです。

地元の食材を使ったバラエティに富む料理を提供する店でした。

キクラデス諸島で最も大きいナクソス島は、食料の自給自足ができるほどに豊穣な島です。畜産も盛んで耕作地も山も多い。

店では毎日島産の子豚の丸焼きを提供し、週末には子羊の丸焼きを目玉にしていました。豚の丸焼きは絶妙の味がし、子羊のそれは食べ歩いた限りの島の全店の味を圧倒していました。

ヤギ・羊肉膳は、焼くよりも煮物の方が味に深みがありバラエティにも富む、というのが筆者の意見です。そして煮物は各店の秘伝のタレやスープで煮込まれるのが普通です。

タレやスープの味の違いの分だけ煮込みの数がある。つまり無限ということです。

一方、肉を焼く場合には味付けは塩と胡椒が基本です。下味を付けたりバターやタレを塗りこむ手法もありますが、そのやり方では素材の純度が殺がれて目覚しい味にはならないようです。

少なくとも筆者が食べた焼きレシピの最上のものは、これまでは全て塩焼きばかりです。胡椒にバラエティがありハーブなども使いますが、基本は飽くまでも塩味です。

頻繁に通ったナクソス島の近場の店は、客からよく見える店内の一角に丸焼き用の釜をおいて、シェフが客の視線を受けながら調理をします。見た目にも食欲をそそる演出で繁盛していました。

パフォーマンスで客を楽しませる店は、見せ物にエネルギーを費やす分調理の力が削がれて味が落ちたりします。

しかしその店には失策がありません。無口で無骨な料理人は、人目などどこ吹く風というふうで肉焼きに集中していました。子豚の丸焼きも子羊肉と同じ手法で調理していてそちらの味も秀逸でした。

ナクソス島では子羊肉の煮物も食べました。ハズレはひとつもないが、家の隣の店の丸焼きにかなう味はありませんでした。同店は独自のソース煮も提供していましたが、それも美味かった。

片やパロス島では、焼きレシピには一度も行き合いませんでした。島内産のヤギ・子羊肉が豊富なナクソス島とは違って、丸焼きにする素材が少ないということもあるのかもしれません。

パロス島で印象深かったレシピは3点。

ひとつは漁港脇の店で食べた子羊肉のレモンソース煮込み。これは3年前にクレタ島で食べた子ヤギの煮込みによく似ていました。

味はきわめて良かったのですが、クレタ島の子ヤギのレモンソース煮込みは、これまでに筆者が食べた中では1、2を争う味の一品です。さすがにそれには及びませんでした。

肉の味もやや劣りましたが、それを乗せているパスタがいけなかった。イタリア以外の国でよく見る茹で過ぎのたるいパスタで、筆者は一口食べて文字通り匙を投げました。

ギリシャはイタリアのいわば隣国でパスタ人気も高いのですが、味は最悪の部類に入ります。もっと不運だったのは、パスタの味が肉と全く調和していなかったことです。

肉とパスタがかみ合っていないのは、料理人が自分で食べてみればすぐに気がつくはずなのになぜ?といぶかるほど杜撰でした。肉の味が悪くなかっただけにますます不思議に感じました。

それに比べてクレタ島のレモンソース煮込みには、白飯が添えられていてヤギ肉との相性が抜群に良かったのです。

2つ目は、うっそうと茂る木々が濃い影を作っている海際の食堂のエピソード。影が一段と濃い大木の下のテーブル席に座りました。するとすぐに年寄りの女性ウエイターが構ってくれました。

メニューに目を通しながら、潮気が皺に染み込んだような味わい深い顔のおばばウエイターとよもやま話をしました。店の雰囲気の良さをほめ名物料理を聞いたりしました。

テーブルから見える厨房で老人が炭火の世話をしていました。おばばウエイターにあの人がシェフかと聞くと、私がシェフで彼は私の夫、調理のアシスタント、と笑いました。つまりおばばはオーナーシェフだったのです。

オーナーシェフと敢えて言えば、瀟洒な店を想像されそうですが、大木も茂る広い庭付きの民家をレストランに改造した、という印象の店で、むしろ素朴でアットホームな雰囲気が強い。

筆者は店と主人への敬意、また親しみを込めて、オーナーシェフをおばばシェフと呼ぶことに決めました。

「厨房に入っていなくてもいいのか」と給仕をするおばばシェフに聞くと、一緒に来なさいと店の中に誘われました。

追いて行くと、厨房の前のガラス棚の中に既に調理された膳部と仕込みの終わった食材が整然と並べられていました。しっかり準備をしておいて、できる限り客との接触も楽しむのだ、とおばばシェフは流暢な英語で話しました。

シェフの得意料理だというムサカと肉団子、天ぷら風の揚げ物の3品に加えて、僕の目指す子羊の煮込みも頼みまし。

壷風の食器で供された子羊の煮込みは上等の味でした。先に頼んだ既述の3品も、おばばシェフ独自の工夫がてんこ盛りになっていて非常に美味でした。

3つ目はおばばの店の翌日。島では最も山深いレストランに向かった。そこでの興味はひたすら子羊料理でした。山深い店には美味いヤギ・羊肉料理がある。これまでの経験がそう教えていました。

山の集落の入り口付近に子羊膳を提供している店がありました。早速頼みました。子羊のトマトソース煮込みに焼きジャガイモが添えられた一品が出てきました。

ここに書くくらいですから味が良かったのは言うまでもありません。だが正直に言えば強烈に印象に残るほどのものではなく、普通以上に美味しい、というふうでした。

こうして見ると、今回旅ではミコノス島で出会った子羊モツの炙り焼きがやはり圧巻でした。その次に印象に残ったのが、ナクソス島の海際の、家から歩いてすぐの店の子羊の丸焼きです。

旅ごとにまとめる、筆者の独断と偏見によるヤギ・羊肉レシピのランク付けの1位と2位が、ソース煮込みではなく、モツ焼きと子羊の丸焼きという「焼きレシピ」に収まったのは珍しい結果でした。

 

 

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斧で指を切断したイタリア人学者の武士道

2020年、イタリアが世界に先駆けてコロナ地獄にさいなまれ医療崩壊に陥った時、医師不足を補うために300人の定年退職医師の現場復帰を求めたところ、たちどころに8000人もの老医師の応募がありました。

彼らベテランの医師たちは、コロナが主に高齢者を攻撃して死に至らしめることを熟知しながら、年金生活者の平穏な暮らしを捨てて危険な医療の現場に敢然と飛び込もうとしたのです。

老医師らの使命感と勇気は目覚ましいものでしたが、当時は実は一般のイタリア国民も、先行きの見えないコロナパンデミックの恐怖の底で、彼らなりの勇気をふるって必死にコロナと向かい合っていました。

普段はひどく軽薄で騒々しい印象がなくもないイタリア国民の、ストイックなまでに静かで勇猛果敢なウイルスとの戦いぶりは、筆者を感動させました。

彼らの芯の強さと、恐れを知らないのではないかとさえ見えた肝のすわった態度はまた、作家のダーチャ・マライーニとその父フォスコのエピソードを筆者に思い起こさせました。

ノーベル文学賞候補にも挙げられる有力作家のダーチャ・マライーニは、アイヌ文化の研究家だった父親に連れられて2歳から9歳までを日本で過ごしました。

第2次大戦末期の1943年、ドイツと反目していたイタリアは連合国と休戦し、日独伊3国同盟の枠組を離れて日本の「友邦」から「敵国」になりました。

ヒトラーはイタリア北部に傀儡政権サロー共和国を樹立。日本にいるイタリア人はそのナチス・ファシズム国家への忠誠を誓うように求められますが、ダーチャの両親はこれを拒否しました。

その結果、一家は名古屋の収容所に入れられます。

家族は敵性国家の国民として収容所で虐待されました。

食事もろくに与えられないような扱いに怒りを募らせたダーチャの父フォスコは、待遇の改善を要求して抗議のために斧で自らの左小指を切断します。

フォスコ・マライーニの勇猛な行動に震え上がった収容所の監視役の特高は、ヤギを調達して父親に与えました。

フオスコ・マライーニはその乳を搾ってダーチャと兄弟に与えて飢えをしのぎました。

そのエピソードはダーチャの両親やダーチャ自身によってもあちこちで語られ書かれていますが、筆者は10年以上前に作家と会う機会があって、彼女自身の口からも直に聞くことができました。

父親の豪胆な行動は、日本国家と家族を現場で虐待する看守らへの怒り、と同時に家族を守ろうとするひとりの父親の強い意志から出ているのは言うまでもありません。

彼はその行為をいわば切腹のような武士の自傷行為に見立てたのです。

指を切る日本の風習は、武家社会で誓文に血判をする時などに見られたものです。

江戸時代には遊女がそれを真似する陋習が生まれ、それをさらにヤクザが真似しやがて曲解して、いわゆる「指詰め」の蛮習へと発展します。

フォスコ・マライーニの記憶の中には、武士の自傷行為は潔癖と勇猛の徴として刻まれていました。彼は武士に倣って激烈な動きで異議申し立てをしたのです。

収容所で一家を監視していたのは既述の特高です。彼らの多くは野卑で小心で品性下劣でした。旧日本軍の中核を成していた百姓兵士と同列の軍国の走狗です。

今で言えば、正体を隠したままネット上で言葉の暴力を振るうネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者や、彼らに親和的な政治家、似非文化人、芸能人等々のようなものでしょうか。

収容所では侍の精神は日本人ではなく、フオスコ・マライーニの中にこそ潜んでいました。

フォスコ・マライーニの壮烈なアクションは、コロナパンデミックの最中に死地に赴こうとした8000人のイタリア人老医師の勇気に通底しています。

8000人の年老いた医師の魂の中には、カトリックの教義の刷り込みがあります。片やフォスコ・マライーニの魂には、最善の形での武士の精神の刷り込みが見られます。

そしてそれらの突出した強さは-繰り返しになりますが-コロナ地獄の中では一般の人々によってもごく普通に顕現されていました。

善男善女によるボランティアという形での献身と犠牲の尊い働きがそれです。

死と隣り合わせの医療現場に突き進んだ退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎません。

当時は多くのイタリア国民が、厳しく苦しいロックダウン生活の中で、救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍しました。

イタリア最大の産業はボランティアです。

イタリア国民はボランティア活動に熱心です。彼らは誰もがせっせと社会奉仕活動にいそしみます。

善良なそれらの人々の無償行為を賃金に換算すれば、莫大な額になります。まさにイタリア最大の産業です。

無償行為の背景には、自己犠牲と社会奉仕と寛容を説くカトリックの強い影響があります。

カトリックの教義は、死の危険を顧みずにボランティアを申し出た老医師らの自己犠牲の精神と、ボランティアにいそしむ一般国民の純朴な精神の核になっています。

それはさらに、学者であるフォスコ・マライーニが、家族のためにささげた自己犠牲、つまり斧で自分の指を切断するという果断な行為にもつながっています。

武士道は筋肉を鍛え上げたサムライの険しい肉体だけに宿るのではありません。

自己犠牲を恐れないか弱い女性や善良な男たち、また年老いた医師たちの中にもある気高く尊い精神なのです。

 

 

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