「ちむどんどん」にドン引きした訳を語ろう

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」が終了しまた。大団円と形容しても良いフィナーレも相変わらず微妙でした。

だが、時間を一気に40年も飛ばした後で元に戻して終わる正真正銘の最後は、フィクション(ドラマ)の基本である時間経過の魔法を上手く使っていると感じました。

その一手だけでも、6ヶ月に渡った消化不良の一部がきれいさっぱり無くなった気がしました。

結局、この長丁場のドラマの最大の欠陥は、これでもかとばかりに愚劣なエピソードを重ねた“にーにー”の存在だったことが明白になりました。

多くの視聴者は、主人公の暢子のキャラクターにも好感を抱かなかったようです。それが嵩じて役者自体の評判も悪くなっている風潮もあるらしい。

主人公の暢子は料理にひたむきに取り組む一本気な女性として描かれます。彼女は料理に没頭するあまり、人情の機微に疎いKY(死語?)な女性であり続けます。

終盤では妹とその恋の相手が、衆目集まる前で感動の抱擁に至る直前、無謀にも2人の間に割って入って、恋人を押し退け妹を思い切り抱きしめることまでします。

多くの視聴者が「は?」と首を傾げたに違いない演技は、役者ではなく演出のキテレツな感性が生み出したタワケです。

演出は“暢子の愛すべきキャラクター”の一環としてそのシーンを描いている節があります。だが、そこだけに限らず、笑いを目指しているらしいエピソードの全てが空回りしていました。

演出家にはユーモアのセンスがない。鈍感な暢子という視聴者の評判があるようですが、そうではなくて演出が鈍感なのです。

断っておきたいが、筆者は監督が誰なのか知りません。エンドクレジットも見ていません。彼(彼女)は明らかに能力のある演出家です。全体の差配力も高い。何よりもNHKが演出を任せた監督です。実力がない訳がない。

筆者はドラマの演出も少し手がけた者として「ちむどんどん」を批判的に見ていて、脚色の不手際を指摘しつづけています。しかしそれはいわば細部の重大な欠点についてのもので、演出家の存在の全体を批判したいのではありません。

完璧な演出家も完璧な演出もこの世には存在しません。それは「ちむどんどん」の場合も同じです。筆者は「ちむどんどん」の実力ある演出家の失点を敢えてあげつらって、ドラマの出来具合を検討してみたいだけです。

主人公の暢子のエピソードも人物像も、にーにーのそれも、つまるところ、前述のように演出家のユーモアのセンスの無さが生み出す齟齬、と筆者の目には映ります。

すべりまくるシーンのほとんどは、明らかに笑いを誘う目的で描かれています。だが一切うまく機能していません。

暢子の故郷である沖縄山原(やんばる)、東京、横浜市鶴見のシーンは割合に巧く描かれていると思います。だがしつこいようですが、主人公の暢子とその兄のにーにーの人物像とエピソードが辛い。

それはどちらも細部です。しかし、物語の中核あたりにちりばめられた大きな細部であるため、結局ドラマ全体に深い影を落としてしまいました。

視聴者の眉をひそめさせ、考えさせる優れたドラマの制作は難しい。多くのドラマがそこを目指して失敗します。

そして視聴者を笑わせるドラマを作るのは、もっとさらに至難です。

さらに言えば、視聴者を笑わせ同時に考えさせるドラマは、天才だけが踏み込める領域です。例えばチャップリンのように。

「ちむどんどん」は全体としては一定の水準を保つドラマながら、制作が非常に困難な笑いのシーンのほぼ全てでコケた、というのが筆者の評価です。

長帳場の朝ドラですから、資金力と能力のあるNHKとはいえ、安手のシーンや展開が頻繁に見られるのは仕方がありません。

それらの瑕疵は、終わりが良ければ全て良し、という雰囲気で仕舞いになるのが普通です。「ちむどんどん」もそうだと言いたいが、やはり少し厳しい。

最終回の前日、重要キャラクターのひとりである歌子が昏睡(危篤?)状態になり、暢子に率いられた兄妹が、他人も巻き込んで海に向かって助けを求めて叫ぶシーンが放送されました。

それは「理解不能だ」「もはやカルトだ」などとネット民の大ブーイングを呼んだようです。だがネット民ではなくても、恐らく多くの視聴者が展開の唐突と場面の意味不明に驚いたのではないでしょうか。

何の説明も無く挿入された物語を筆者は次のように解釈しました。

あれはいわゆる「魂(たま)呼び」あるいは「魂呼ばい」の儀式です。死にかけている人の名を呼んで、肉体から去ろうとする魂を呼び戻し生き返らせようとする古俗の名残です。

今のように科学が進んでいない時代の人々は、愛する者の死の合理的な意味が良くわからない分、恐らくわれわれよりもさらに強く死を恐れた。同時に奇跡も信じました。

恐れと祈りに満ちた強い純真な気持ちが、 魂(たま)呼びという悲痛な儀式を生みました。そのやり方は地方によって違います。

井戸の底に向かって呼びかけたり、西に向かって叫んだり、屋根の上で号泣したりもします。井戸は黄泉の国につながっています。西方浄土は文字通り西にあります。屋根に上れば西方への視界も開けます。

時代劇などで、人々が井戸の底に向かって死者や危篤者の名を呼ぶシーンを見たことがある読者も多いのではないでしょうか。井戸はあの世につながっているばかりではなく、底にある水が末期の水にも連動しています。

沖縄の民間信仰では死後の理想郷は海のかなたにあります。いわゆるニライカナイです。儀来河内とも彼岸浄土とも書きます。それは神話の「根の国」と同一のものであり、ニライは「根の方」という意味です。

そこで沖縄の兄妹は、必死に海に向かって助けを求めて叫ぶのです。しかし呼ばれたのは病人の歌子の名前ではなく、死んだ父親の魂です。

筆者が知る限り沖縄には魂呼びの風習はありません。だから危篤の歌子の名前ではなく、ニライカナイにいる亡き父の魂に呼びかけて助けを求めた、と解釈しました。

だが兄妹が突然海に向かって叫ぶ場面の真の意味を、いったい何人の視聴者が理解していたのでしょう?極めて少数ではないか。もしかするとほぼゼロだったかもしれません。

ニライカナイという概念を知っている沖縄の視聴者でさえ首を傾げた可能性が高い。それほど唐突な印象のエピソードでした。

そんな具合にすっきりしないまま、ドラマは翌日の最終回を迎えて、歌子は元気に年齢を重ねて40年が過ぎた、という展開になります。

中途半端や荒唐無稽や独りよがりの多いドラマでしたが、ニライカナイの概念と魂呼びの風習に掛けたらしい挿話を、突然ドラマの終わりに置いた意図も不明です。

あのシーンはもっと早い段階で展開させたほうが、珍妙さが無くなって深みのあるストーリーになったと思います。

返す返すも残念な仕上がりでした。

 

 

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なかそね則のイタリア通信

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