先日の欧州選手権でのイタリアの化けは偽者だったかも、かい?

イタリアは2022年W杯出場権を逃したかもしれません。

W杯欧州予選グループCでスイスに首位を奪われて、激烈な「仁義なき戦い」が繰り広げられるに違いないプレーオフに回ったからです。

しかもそこでは強豪国のポルトガルと激突する可能性が高い。

プレーオフ決勝戦で敗れれば、イタリアは2018年に続いて2大会連続でワールドカップから締め出されることになります。

イタリアは2006年にW杯を制して以降、深刻な不振に陥り、2018年にはW杯ロシア大会への出場権さえ逃しました。

だが同じ年にロベルト・マンチーニ監督が満を持して就任。再生へ向けての治療が開始されました。

治療は成功してイタリアは回復。2021年7月には53年ぶりに欧州選手権を制しました。

イタリアの長い低迷の最大の原因は、違いを演出できるファンタジスタ(ファンタジーに富む創造的なフォーワード)がいないからだ、と筆者はずっと考えそう主張してきました。

だがマンチーニ監督は、ファンジスタが存在しないイタリア代表チームを率いて、見事に欧州選手権で優勝しました。

彼はそれによって、傑出した選手がいないイタリアチームも強いことを証明し、彼自身に付いて回っていた「国際試合に弱い監督」という汚名も晴らしました。

筆者も彼の手腕に魅了されました。

マンチーニ監督がいる限り、再生したイタリア代表チームの好調はしばらく持続する。欧州選手権に続くビッグイベント、2022W杯でも活躍し優勝さえ視野に入ったと考えました。

ところが早くも障害にぶつかりました。楽々と予選を突破をすると見られた戦いで引き分けを繰り返し、ついにはプレーオフに追い込まれたのです。

しかも運の悪いことにそこには、前回の欧州選手権を制したポルトガルも同グループにいます。順当に行けばイタリアとポルトガルは、一つの出場枠を巡って争います。

イタリアは欧州選手権で優勝した後、軽い燃え尽き症候群に陥っています。そのことが影響してCグループでスイスの後塵を拝したと見ることもできます。

プレーオフで強豪のポルトガルが立ちはだかるのは想定外ですが、障害を克服した暁にはイタリアは「逆境に強い伝統」を発揮してW杯で大暴れするかもしれません。

いや、きっと大暴れする、と言えば明らかなポジショントークですが、客観的に見てもその可能性は高そうです。

だが強いポルトガルには世界最強のプレーヤーのひとりであるロナウドがいます。ロナウドはひとりで試合をひっくり返す能力さえある怖い存在です。

イタリアと対峙するときのロナウドは、さらに怖さを増すことが予想されます。

それというのも彼は、3年間所属したイタリアのユヴェントスからお払い箱同然の扱いでトレードに出されました。アッレグリ新監督の意向でした。

過去の実績を頼りに自信過剰になったアッレグリ監督は、ロナウドはその他大勢のユヴェントス選手となんら変わるところはない。全て私の指示に従ってもらう、という趣旨の発言をしました。

「ユヴェントスを勝利に導くのは、一選手に過ぎないロナウドではなく優れた監督であるこの私だ」という思い上がりがぷんぷん匂う空気を察したロナウドは、静かにユヴェントスを去りました。

そうやって英国プレミアリーグに復帰したロナウドは、早速9月の月間MVPに選ばれるなど衰えない力を見せつけています。

一方、ロナウドのいないユヴェントスを率いるアッレグリ監督は絶不調。間もなく解任されそうな体たらくです。

ロナウドはアッレグリ監督への恨みつらみはほとんど口にしていません。だが、いつもよりも激しい闘志を燃やしてイタリア戦に臨みそうです。だから怖い。

それでもイタリアが、ロナウドのポルトガルを退けてW杯本戦に乗り込んんだ場合には、イタリアのほうこそ怖い存在になるでしょう。

そしてその後、W杯本戦をイタリアが「強いのか弱いのかよく分からない」じれったい調子で勝ち進むなら、イタリアの5度目のW杯制覇も夢ではなくなります。

イタリアはヨタヨタとよろめきながら勝ち進むときに真の強さを発揮します。

それが魅力の、実に不思議なチームなのです。

 

 

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イタリアは独裁者カダフィの亡霊を無視できない

2011年、アラブの春の騒乱の中で殺害されたリビアの独裁者ムアマー・カダフィ大佐の息子セイフイスラム氏が、12月の大統領選挙への立候補を表明しました。

セイフイスラム氏はカダフィ大佐の次男。かつては独裁者の父親の最も有力な後継者と見なされていました。

そして彼は父親から権力を移譲された暁には、欧米民主主義世界と親和的な立場を取るだろうとも期待されていました。

それというのも彼がロンドンの著名大学ISE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス )で学び、英語にも堪能だからです。

欧米のメディアは時として、独裁者の子弟やその対立者が欧米で学んだ場合、彼らが民主主義に洗脳されて帰国後に同地に善政や徳をもたらすと単純に考えることがあります。

例えば先年死去したジンバブエのムガベ大統領やシリアのアサド大統領夫妻などがその典型です。

だがムガベ大統領は英国から帰国後にジンバブエに圧政を敷きました。同じく英国で眼科を学んだアサド大統領は、シリアを牛耳って民衆を苦しめ殺害し続けています。

またアサド大統領の妻アスマ氏は、一時期は欧米メディアに「砂漠のバラ」「中東のダイアナ妃」などと持ち上げられましたが、後には夫に負けるとも劣らない民衆の敵であることが暴露されました。

欧米のメディアは、ロンドン大学の一角を成すISEに留学したセイフイスラム・カダフィ氏にも過剰な期待を寄せました。だが前述のように彼も民衆を弾圧する暴君であると明らかになりました。

セイフイスラム氏は、2011年のリビア内戦で父親が殺害されたことを受けて逃亡を余儀なくされました。

また同年には父親に寄り添って民衆を弾圧したことに対して、ICC(国際刑事裁判所)が「リビア国民への人道に対する罪」で彼に逮捕状を出しました。

逃亡したセイフイスラム氏は、砂漠で反政府軍につかまり裁判で死刑を宣告されました。しかし2017年には釈放されました。理由は判然としません。

セイフイスラム氏以外のカダフィ大佐の家族も殺害されたり国外に逃亡したりしましたが、その際彼の妻と息子らは国庫から莫大な富を盗み出したと見られています。

その富は、カダフィ大佐が40年以上に渡ってリビアの石油を売っては着服し続けた莫大な資金と重なって、さらに膨らんで天文学的な数字になるとされます。

だがカダフィ政権が崩壊して後のこれまでの10年間で、秘匿された金がリビア国民に返還されたことは一切ありません。

セイフイスラム氏は、政治的な動きが特徴的な存在で、家族とは別行動を取っています。だが、何らかの方法でリビアから盗み出された金を流用しているとも信じられています。

彼は自国民を虐殺しリビア国民の財産も盗んだ無頼漢ですが、10年の逃亡生活を経てあたかも何事もなかったかのように表舞台に登場しました。

リビアは2011年以来、ほぼ常に内戦状態にあります。独裁者のカダフィはいなくなったものの混乱が続いて、独裁にも劣らない非道な政治がまかり通っているのです。

セイフイスラム・カダフィ氏はその混乱に乗じて大統領選挙に立候補しました。もしも彼が当選するようなことがあれば、リビアの民衆は2重3重にカダフィ一族の横暴にさらされることになるでしょう。

リビアの政治状況はここイタリアに影響をもたらします。リビアがかつてイタリアの植民地だったからです。イタリアには同国への負い目があります。

イタリアはドイツと同じように過去を清算し、謝罪し、リビアとも良好な関係を築いています。日本のように歴史修正主義者らが過去を否定しようと騒ぐこともありません。

だがリビアは近年、地中海を介してヨーロッパに渡ろうとするアフリカや中東などの難民・移民の中継地となっています。リビアと親しいイタリアが目と鼻の先にあるからです。

イタリアはリビアと連携して不法な難民・移民の流入を阻止しようと努めていますが、リビアの政治状況が不安定なために中々思い通りには進みません。

世界はトランプ米大統領の登場やBrexit、また欧州大陸に台頭する極右など、風雲急を告げる状況が続いています。

そこにコロナパンデミックが起きて、国際社会はますます分断され混迷の度を深めて憎悪と不信と不安がうずまいています。

消息不明の闇の中からふいに姿をあらわして、リビアの大統領選挙に立候補したセイフイスラム氏は、混乱する世界のもうひとつの象徴に見えて不気味でさえあります。

同時にイタリアにとっては彼は、隣国でかつての植民地であるリビアが、一体どこに向かうのかを示唆しあまつさえイタリアの国益にも大きく影響しかねない、極めて現実的な存在なのです。

 

 

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ワクチン過激派に変貌したオーストリアの真向勝負

11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしたオーストリアは、22日からは対象を拡大して全国民の移動を禁止する完全ロックダウンに入る、と発表しました。

オーストリア政府は、およそ200万人のワクチン拒否者の国民をロックダウンするだけでは感染爆発を抑えられない、と判断したのです。

また来年2月からは12歳以上の住民全員へのワクチン接種を義務づける方針も発表しました。

実行されれば、欧州では初めての措置となります。

欧州を襲っている第4波は、東欧各国と隣接するオーストリア、またドイツ等を大きく巻き込んで急拡大しています。

中でも人口が900万人に満たない小国オーストリアは、1日当たりの感染者数が1万人を超えて、医療危機を含む深刻な事態に陥っています。

そこで反ワクチン人口のロックダウンを断行し、それだけでは飽き足らずに完全ロックダウンに踏み切り、果てはワクチン接種の義務化さえ強行する計画です。

イタリアのお株を奪う「初物づくし」の厳格なコロナ感染防止施策のオンパレードです。

2020年、コロナの感染爆発と医療崩壊に見舞われたイタリアは、世界初の全土ロックダウンを敢行しました。前代未聞のアクションでした。

イタリアはその後も世界初や欧州初という枕詞がつくコロナ対策を次々に打ち出しました。ワクチンの接種率も欧州のトップクラスです。

おかげでイタリアの感染拡大は比較的に小規模で推移してきました。

しかし隣国のオーストリアは、これまでのワクチン接種率が65%に留まり、急激な感染拡大に襲われています。

オーストリアはそれを踏まえて過激な措置を連発しているのです。

ところがオーストリアの苦境は、その北隣の大国ドイツにも伝播しつつあります。

そればかりではありません。

過酷な全土ロックダウン以降も厳格なコロナ対策を取り続けて、困苦をなんとかしのいできた南隣の大国、ここイタリアにも波及しようとしています。

イタリアを含む欧州各国は、今このときに厳格なコロナ対策を導入して感染を減らし、少しでも平穏なクリスマスを迎えたいと画策しています。

平穏なクリスマスは、旺盛なクリスマス商戦と経済興隆を呼び込みます。

その意味でも万難を排して感染拡大を阻止したいのです。

しかしその思惑は、ワクチンを無体に拒み続ける人々の存在によって阻害される可能性が高い。

そこで各国政府は、国民の分断をさらに深めかねないことを承知で、反ワクチン人口の封鎖やワクチン接種を義務化して危機を乗り切ろうとしています。

それが功を奏するかどうかは、ワクチン接種をためらう人々のうちの一定数が翻意して、接種会場に向かうか否かにかかっています。

ワクチンの接種を義務化しても、彼らの家に押しかけたり引きずり回したりして注射を打つわけにはいきません。

中国や北朝鮮などに始まる、世界のならず者国家なら朝飯前でしょうが。

結局、彼らを説得する以外には道はないように見えます。

それでも敢えて反ワクチン派の住民をターゲットに厳しい措置を取らなければならないところに、コロナ対策の険しさがあります。

オーストリアは欧州各国に先駆けて敢えて過酷な選択をしました。筆者はその決断を支持し施策の成功を腹から祈ります。

 

 

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反ワクチン論者は自らを「自らの自由意志」で自由にロックダウンすれば良い

オーストリアはコロナ感染急拡大を受けて、2021年11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしています。

事実上国民の4分の一強が対象となります。オーストリアではワクチン接種対象の国民のほぼ3分の一が接種を拒否しています。

言葉を変えれば、反ワクチン派の住民を外出禁止措置にした時点で、同国のワクチン接種率は65%程度。EU加盟国内では最低水準の接種率です。

ロックダウンによって彼らは仕事や食料品の買出し以外には外出できません。警察は抜き打ち検査で違反者を洗い出します。

違反すると最高1450ユーロ(19万円弱)の罰金を科される可能性があります。

オーストリアの隣国、ここイタリアのコロナ感染者もじわじわと増えて、11月17日の感染者数は1万人を超えました。ことし5月以来となる高水準です。

ドイツの1日あたり5万人超よりは状況はましですが、感染は拡大の一途をたどっています。

感染した者の多くがワクチン未接種者です。

また集中治療室に運ばれた患者のおよそ8割もワクチンを接種していない者です。

ワクチン拒否者は自主ロックダウンに入るべきでしょうが、そんな良識を彼らに求めても恐らく無理でしょう。

ですのでイタリアもオーストリアに倣って、彼らへの封鎖を強制するべき時期に来ているのかもしれません。

欧州では感染対策の厳しい措置は、これまでほとんどの場合はイタリアが先鞭をつけてきました。

2020年2月、イタリアは孤立無援のままコロナ地獄に陥りました。そこには見習うべき規範が何もありませんでした。

イタリアは暗中模索で世界初の全土ロックダウンを敢行しました。

イタリアはその後も医療従事者へのワクチン接種義務、娯楽施設でのグリーンパス提示義務、全労働者へのグリーンパスの提示義務など、世界初や欧州初という枕詞がつく過酷な施策を次々に導入しました。

それは割合にうまく運んで、ロックダウンを含むいくつかの施策は、欧州ほか世界の国々にも模倣されました。

現在の感染拡大は欧州では第4波に当たります。その兆しが見えるとすぐに、イタリアではワクチン接種の義務化や、ワクチン未接種者へのロックダウンを敢行するべきという声も起こりました。

だが、それらは実現されずに来ました。ここまでに繰り出された厳格な施策が功を奏して、感染拡大が比較的ゆるやかだったからです。

その一方で、ドイツやオーストリアまた東欧諸国では感染が急拡大しました。原因はワクチン接種率の低さだと見られています。

そして先日、冒頭で触れたように、オーストリアがついにワクチン拒否者にロックダウンを強制することになりました。

ドイツも東欧各国もオーストリアに続く可能性があります。

イタリアもクリスマスを前に反ワクチン人口に外出規制をかけるかもしれません。

ワクチン接種が自発的な選択で成されなければならないのは、民主主義世界では自明のことです。

誰も個人の自由や権利を冒すことはできないし冒してもなりません。

それでもワクチン拒否を押し通す人々のせいで感染拡大が続くならば、政府は国民の健康を守るためにそれらの人々に外出禁止などの強い枷を掛けるでしょう。

緊急事態ですからその措置は許されるべき、と筆者も考えます。

個人の自由を盾にワクチンの接種を拒絶している人々は、イタリア政府に強制される前に、自らの「自由意志」でロックダウンを導入してはどうでしょうか。

そうしなければ感染拡大が繰り返され、社会全体の行動の自由が引き続き制限される可能性が高くなります。

「自らの自由は守るが他者全体の自由はどうにでもなれ」という態度では、他者の世論全体にはなかなか理解されません。

反ワクチン派の人々はそろそろそのことに気づくべきです。

 

 

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温暖化の恩恵は悪魔の囁きか

地球全体の気温上昇を1.5℃までに抑えようとするCOP26は紛糾し、会議期間が一日延長されたにもかかわらず、またもや問題を先送りにする採択をしてお茶を濁しました。

誰もが問題の核心を知っていて、誰もがエゴむき出しにして自らの犠牲を逃れようとしています。

地球を健康体に戻そうとする試みは相変わらず困難を極めています。

太平洋の島国をはじめとする被害国を除いて、CO2大量排出国のほとんどが、問題を真に自らの痛みとして捉えられないことが混乱の原因です。

地球規模で破滅をもたらすかもしれないと恐れられる温暖化と、それによる気候変動は、ことし夏のイタリアに48,8℃という欧州記録の異常気温をもたらしました。

欧州ではその1ヶ月前の7月、ドイツ、ベルギー、オーストリアなどを豪雨が襲って河川が氾濫し、多数の人命を含む大きな被害が出ました。

温暖化は単に気温を上昇させるだけではなく、異様な酷暑、豪雪、山火事、巨大台風、海面上昇などの異常気象をもたらすとされています。

異常気象は高温と冷温が交互にやって来るような印象もあって、特に冷温やドカ雪が降ったりすると、熱をもたらすという温暖化は実は嘘ではないか、という誤解を与えたりもします。

トランプ前大統領に代表されるポピュリストらは、そのことを利用して温暖化理論はまやかし、と叫んで世界をさらに混乱に陥れたりします。

筆者の小さな菜園の野菜たちにも一見混乱がもたらされます。温暖化によって野菜の成長が極端に早まり、あっという間に花が咲いて結実します。それは植物の早い死滅を意味します。

ところが一方で、気候がいつまで経っても温暖なために、夏の終わりには命を終える野菜たちが長く生き続ける、という一見矛盾した現象も起きるのです。

筆者の菜園ではほぼ毎年それに近い変化が起きています。しかし自然の変化は異様なものではなく、人間だけが不審がる「自然の常態」、というのがほとんどだと思います。

そうはいうものの、近年はそれが普通の域をはるかに超えて、実際に「異変」になっていると感じられることが多い。つまりそれが温暖化の影響ということなのでしょう。

異様さは近年はますます目立つようになっています。例えば筆者の菜園では2016年も野菜が極端に長命でした。その年は12月近くなっても多くの野菜が枯れなかったのです。

だが長命だったのはほとんどが夏の葉野菜でした。実が生る果采類は、夏の終わりから秋の初めには普通に命を終えました。

ところがことしはまた状況が違います。菜園の果菜類が長命で、9月にはほとんどが枯れるピーマンとナスが、11月になっても実を付け続けているのです。

トマトも未だ完全には枯れず、わずかですが実を付けている茎があります。

鮮やかな朱色が好きで、ほぼ観賞用だけのつもりで毎年作る唐辛子も健在です。

唐辛子はもう少し菜園に置いて楽しもうとさえ考えましたが、料理用に欲しいという家族のリクエストに応えて収穫しました。

ピーマンとナスはまだ育ちそうなので様子見も兼ねていくつか残しました。

夏野菜のほかには、冬用に白菜とラデッキオ(菊苦菜)と大根が成長中。

夏の初め、チンゲンザイが異様な勢いで伸び盛り、収穫する暇もないままとうが立ち結実して、そのこぼれ種が再び発芽しました。

またサントー白菜も、チンゲンサイ同様に早く育ち過ぎて倒れました。ところが枯れたと見えた太い茎のそこかしこから再び芽が出て育ち、今度はそこそこに収穫することができました。

両野菜ともに一度枯れたものが夏の間に再生して、収穫できるまでに育ったのです。いわば二期作です。

二期作は温暖な地方で行われる農業。筆者の菜園で起きたことも、やはり温暖化と関係しているのではないかと思います。少なくとも空気が寒冷ならあり得ない現象です。

チンゲンサイとサントー白菜が異常生育をして、収穫前に結実したのは温暖化の負の影響ですが、それらが再発芽したり11月まで夏果菜類が収穫できるのは逆に好影響と言えるのではないでしょうか。

もっともそうやって喜ばせておいて、最後には大きなドンデン返しがありそうにも見えるのが、不気味でないこともないのですが。。

 

 

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菜園のまろうど

2021年11月6日土曜日、秋晴れの筆者の菜園に一羽の雉が舞い降りました。

菜園には多くの鳥がやって来ますが、場違いな巨大な雉の姿は圧巻です。

呆然と、しかしワクワクしながらスマホを向けて訪問者の一挙手一投足を追いかけました。

雉は冬枯れの、だがまだ緑も見える、コの字形の菜園の中を行きつ戻りつして動き回ります。

日差しが強くて筆者はしばしば珍客の姿を見失いました。

鳥はまるで勝手知ったるかのように菜園を縦横に動き回り、野菜の枯れ色に擬態したり、隠れたり、紛れ込んだりして筆者の目をくらましたのです。

菜園は中世風の高い壁を隔てて隣の広いぶどう園とつながっています。

ぶどう園は有機栽培です。有機栽培なので昆虫などの生き物が増え、それを狙う動物も目立つようになりました。

そこにも多くの鳥がやって来ます。それを追うらしい鷹も上空を舞います。夕刻と早朝には小型のフクロウの姿も目撃できます。

ぶどう園にはネズミなどの小動物も生息していると容易に想像できます。

ぶどう園の隣の筆者の菜園にも多くの命が湧きます。菜園も有機栽培なので虫も雑草も思いきりはびこっています。

ヘビもハリネズミもいます。石壁の隙間や2箇所の腐葉土場の周囲、また夏は野菜とともに生い茂る雑草の中に紛れ込んでいたりします。

ヘビは毒ヘビのVipera(鎖蛇)ではないことが分かっているので放っておきますが、出遭うのはあまりうれしくありません。

向こうもそれは同じらしい。ここ数年は姿を見ませんが、脱皮した残りの皮が壁や野菜の茎などにひっかかっていて、ギョッとさせられます。

ヘビは筆者と遭遇する一匹か、命をつないだ固体が、今日もその辺に隠れているに違いありません。

雉は菜園を行き来しつつ、しきりに腐葉土周りにも立ち止まりました。腐葉土の中にはカブトムシの幼虫に似た巨大なジムシが多く湧いています。それを食べるのかもしれません。

雉にとっては隣接する広いぶどう園と筆者の菜園は、きっとひとつながりの餌場なのでしょう。ぶどう園に寄ったついでに菜園も覗いてみた、というところでしょうか。

あるいはこうも考えられます。

イタリアはいま狩猟の季節の真っ盛りです。住宅地に近い山野や畑でも狩が行われていて、パンパンという銃声が絶えません。

雉はもしかすると銃弾を避けて飛来したのかもしれません。それならずっと筆者の菜園で遊べばいいのですが、鳥は筆者の気持ちも状況も分からないでしょう。

でも実は分かっていて、明日も明後日もずっと訪ねてきてくれるのなら、菜園での筆者の楽しみがまたひとつ増えるのですが。。

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ミニトランプ・ボルソナロの喜悦

ブラジルのミニ・トランプ、ボルソナロ大統領がイタリアを訪問して、大方は総スカンを食らいましたが一部では大歓迎されました。

ボルソナロ大統領は、ローマで開催されたG20サミット出席を口実にイタリアを訪れました。彼はサミットでも各国首脳に冷ややかに扱われました。

サミットに出席した各首脳のうちで唯一、新型コロナワクチンを接種していなかったトンデモ男が、ボルソナロ大統領です。

表向きはそのことが冷遇の原因のようですが、米トランプ氏並みの嘘や放言また傲岸な態度への反発もあったと見られます。

また新型コロナを軽視し続けて、ブラジルがアメリカに次いで多い60万人を超える死者を出している事実への、非難の空気も濃かったとされます。

イタリアの国民の一部はしかし、ボルソナロ大統領を歓迎しました。政治家で彼を暖かく迎えたのはイタリアのミニ・トランプ、サルヴィーニ「同盟」党首とその他の右翼の面々。

またベニスに近いアングイラーラでは、ボルソナロ大統領はほとんど熱狂的とも言える持て成しを受けました。彼の先祖はその町からブラジルに移住したイタリア人なのです。

そこで極右政党「同盟」所属の女性市長が、ボルソナロ大統領に名誉市民の称号を与えました。彼はその授与式典に同地を訪れて大いに歓待されたのです。

世界中から冷たい視線を注がれることも少なくないボルソナロ大統領は、実のところは、イタリアの小さな町での栄誉に気を良くして欧州にやって来たのではないか、とさえ筆者は疑います。

イタリアは痩せても枯れてもG7の一角を成す世界の民主主義大国です。そこで歓迎を受けることは、何かと非難されることが多い彼にとってはこの上もなく有難い利得に違いありません。

新型コロナウイルス感染拡大が続く中、ブラジル国内でのボルソナロ氏の支持率は大きく低迷しています。今のままでは来年の大統領選挙での敗北も確実視されているほどです。

青息吐息の大統領は、たとえわずかでも失地回復に資する可能性があるなら、と考えてイタリアに乗り込んだ可能性は否定できません。

名誉市民の称号獲得、という象徴的な意味合い以外にも イタリアを訪れるメリットはあります。同国の右派勢力と親交を深め、あまつさえ提携までも模索することです。

先に述べたサルヴィーニ氏に始まるイタリアの極右勢力は彼とは親和関係にあります。しかもイタリアの極右は右派全体の核となって勢力を広げています。

極右を熱狂的に支持する国民は少数派ですが、近年は彼らと保守層およびコロナワクチン懐疑派の人々との接点が増えてきました。

そこにトランプ大統領の登場によって勢いを得た、アメリカと欧州の「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」らが交会しました。

2018年、イタリアでは極右政党が政権入りを果たしました。それと前後して英国ではBrexitが完成し、フランスでは極右の候補者が大統領選の決選投票まで進みました。ドイツにおいてさえ極右勢力は台頭しました。

そうした世界政治の流れは今日現在も続き、トランプ主義者と極右、またそれに親和的な右派の勢いは、多くの国でリベラル派と拮抗または凌駕さえするモメンタムであり続けています。

その勢力はボルソナロ大統領とも親和的です。同時にそれは民主主義と対立するという意味で、世界のならず者国家、つまり中露北朝鮮などとも並列して捉えられるべき政治力学です。

ボルソナロ大統領を歓迎した、極右が主体のイタリアの右派勢力は、次の選挙で政権を握る可能性もあります。フランスでも反移民の政情などが手伝って、極右の勢いはとどまるところを知りません。

加えて英国のBrexit系勢力も健在です。それどころか、バイデン大統領が圧倒的な支持を集めない限り、2024年の米大統領選ではトランプ前大統領の復活当選の目もあります。

トランプ主義の台頭で分断された世界は、コロナパンデミックによってさらに対立を深め、分断され、懐疑主義が横行しました。

世界はボルソナロ的勢力、あるいはトランプ主義者のさらなる跳梁によって、ますます分断化されて憎しみの多い不安定な状況に陥りかねません。

コロナ渦中にもかかわらず且つワクチン接種さえ受けていないブラジルの“仁義なき戦い”大統領が、イタリアの小さな町アングイラーラで満面の笑みを浮かべる姿を、筆者は複雑な思いで眺めていました。

 

 

 

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十字架に祈る盆の清廉

10月末から11月初めにかけてのイタリアの祝祭の日々が、2021年のコロナ禍中でもめぐってきました。

10月31日はハロウィン。ケルト族発祥のその祭りを最近、遅ればせながらイタリアでも祝う人が多くなりました。

翌11月1日はカトリック教会の祝日の一つ「諸聖人の日」。日本では万聖節(ばんせいせつ)」とも呼ばれるイタリアの旗日です。

続く11月2日は「万霊節」 。一般に「死者の日」と呼ばれます。

「死者の日」..日本語ではちょっとひっかかる響きの言葉ですが、その意味は「亡くなった人をしのび霊魂を慰める日」ということです。日本の盆や彼岸に当たります。

カトリックの教えでは、人間は死後、煉獄の火で責められて罪を浄化され、天国に昇ります。その際に親類縁者が教会のミサなどで祈りを捧げれば、煉獄の責め苦の期間が短くなる、とされます。

それは仏教のいわゆる中陰で、死者が良い世界に転生できるように生者が真摯な祈りを捧げる行事、つまり法要によく似ています。

万霊節には死者の魂が地上に戻り、家を訪ねるという考えもあります。イタリアでは帰ってくる死者のために夜通し明かりを灯し薪を焚く風習さえあります。

また死者のためにテーブルを1人分空けて、そこに無人の椅子を置く家庭もあります。食事も準備します。むろん死者と生者が共に食べるのが目的です。

イタリア各地にはこの日のために作るスイーツもあります。甘い菓子には「死の苦味」を消す、という人々の思いが込められています。

それらの習慣から見ても、カトリック教徒の各家庭の表現法と人々の心の中にある「死者の日」は、日本の盆によく似ていると感じます。

10月31日から11月2日までの3日間、という時間も偶然ながら盆に似ています。盆は元々は20日以上に渡って続くものですが、周知のように昨今は迎え火から送り火までの3日間が一般的です。

3つの祭礼のうちハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないため教会はこれを認知しません。しかし、一部のキリスト教徒の心の中では、彼らの信教と不可分の行事になっていると考えられます。

人々は各家庭で死者をもてなすばかりではなく、教会に集まって厳かに祈り、墓地に足を運んでそれぞれの大切な亡き人をしのびます。

ところで11月1日の「諸聖人の日」は、カトリックでは文字通り全ての聖人を称え祈る日ですが、プロテスタントでは聖人ではなく「亡くなった全ての信徒」を称えて祈る日のことです。

プロテスタントでは周知のように聖人や聖母や聖女を認めず、「聖なるものは神のみ」と考えます。聖母マリアでさえプロテスタントは懐疑的に見ます。処女懐胎を信じないからです。

聖人を認めないプロテスタントはまた、聖人のいる教会を通して神に祈ることをせず、神と直接に対話をします。権威主義的ではないのがプロテスタント、と筆者には感じられます。

一方カトリックは教会を通して、つまり神父や聖人などの聖職者を介して神と対話をします。そこに教会や聖人や聖職者全般の権威が生まれます。

カトリック教会はこの権威を守るために古来、さまざまな工作や策謀や知恵をめぐらしました。それは宗教改革を呼びプロテスタントが誕生し、両者の対立も顕在化していきました。

ところが「死者の日」には、既述のようにカトリックの信者は教会で祈るばかりではなく、墓地にも詣でます。

あらゆる宗教儀式が教会と聖職者を介して行われるのがカトリック教ですが、この日ばかりは人々は墓地に出向いて直接に霊魂と向かい合うのです。

カトリックは慈悲深い宗教です。懐も深く、寛容と博愛主義にも富んでいます。プロテスタントもそうです。

キリスト教徒ではない筆者は、両教義を等しく尊崇しつつも、11月1日の「諸聖人の日」には、聖人よりも一般信徒を第一義に考えるプロテスタントにより共感を覚えます。

また、教会の権威によるのではなく、自らの意思と責任で神と直接に対話をする、という教義にも魅力を感じます。

それでは筆者は反カトリックの男なのかといいますと、断じてそうではありません。

筆者は全員がカトリック信者である家族と共に生き、カトリックとプロテスタントがそろって崇めるイエス・キリストを敬慕する、自称「仏教系無心論者」です。

「仏教系無心論者」である筆者は、教会で祈る時などにはキリスト教徒のように胸で十字を切ることはしません。胸中で日本風に合掌します。実際に手を合わせる時もあります。

例えば筆者は2018年、亡くなった義母を偲んで万霊節に墓参りをした際は、十字架に守られた墓標の前に花を供え、カトリック教徒の妻が胸の前で十字を切って祈りを捧げる脇で、日本風に合掌しました。

そのことにはなんの違和感もありませんでした。義母はカトリック教徒ですが、墓参のあいだ筆者はずっと「義母の新盆」ということを意識していました。

死して墓場の一角に埋葬された義母は、十字架に守られつつ筆者を介して、仏教思念に触れ盆の徳にも抱かれている、と素直に思いました。

何らの引っかかりもなく筆者がそう感じるのは、恐らく筆者が前述のように自称「仏教系の無心論者」だからです。

筆者は宗教のあらゆる儀式やしきたりや法則には興味がありません。心だけを重要と考えます。

心には仏教もキリスト教もイスラム教もアニミズムも神道も何もありません。すなわち心は汎なるものであり、各宗教がそれぞれの施設と教義と準則で縛ることのできないものです。

死者となった義母を思う筆者の心も汎なるものです。カトリックも仏教も等しく彼女を抱擁する、と筆者は信じます。その信じる心はイエス・キリストにも仏陀にも必ず受け入れられる、と思うのです。

カトリックの宗徒は、あるいは義母が盆の徳で洗われることを認めないかもしれません。いや恐らく認めないでしょう。

仏教系無心論者の筆者は、何の問題もなく義母が仏教に抱かれ、イエス・キリストに赦され、イスラム教に受容され、神道にも愛される、と考えます。

それを「精神の欠けた無節操な不信心者の考え」と捉える者は、自身の信教だけが正義だというドグマに縛られている、例えば窮屈な 一神教の信者、というふうに見えなくもありません。

 

 

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白鵬は文明を忘れて早く日本人になったほうが良い

おどろき

NHKスペシャル「横綱 白鵬 “孤独”の14年」というドキュメンタリー番組を見ました。不可解な部分と妙に納得できる部分が交錯して、いかにも「異様な横綱」に相応しい内容だと感じました。

2007年に22歳の若さで横綱になった白鵬は、心技体の充溢したような強い美しい相撲で勝ち続けました。

途方もない力量を持つ白鵬の相撲が乱れ出したのは30歳を過ぎた頃からだ、とNHKスペシャルのナレーションは説明しました。

加齢による力の衰えと、“日本人に愛されていない”という悩みが彼の相撲の劣化を招いた、というのです。

加齢は分かりますが、白鵬には「日本人に愛されていないという悩みがあった」という分析は、新鮮過ぎて少しめまいがしたほどでした。

筆者は引退前5~6年間の白鵬の動きにずっと違和感を抱いてきました。それは30歳を過ぎてから白鵬の相撲が乱れ始めた、という番組の見方とほぼ一致しています。

だが筆者は白鵬の変化を、彼の思い上がりがもたらしたものと考えてきました。一方NHKスペシャルは、彼の力の衰えと日本人に愛されたいといういわば「コンプレックス」が乱れの原因と主張するのです。

大横綱の光と影

白鵬は2020年にコロナパンデミックが起きる前までは、荒っぽい取り口も多いものの常に力強い相撲を取っていると筆者は感じていました。

今の時代、アスリートの力の衰えをは30歳で見出すのは中々むつかしい。20歳代後半から30歳前後がプロ選手の最盛期というイメージさえあります。

一方で取り組み前や取り組み後の彼の所作は見苦しかった。鼻や口を歪めてしきりに示威行為を繰り返し、仕切り時間一杯になるとタオルを放り投げたりします。

取り組みで相手を倒すとダメ押し気味に殴る仕草をする。ガッツポーズは当たり前で腕を振り肩をいからせてドヤ顔を作る。威嚇する。

仕上げには賞金をわしづかみにして拝跪し、それだけでは飽き足らずに振り回し振りかぶる。日本人には中々真似のできないそれらの動きは品下って見えました。

見苦しい所作は、時間が経つにつれて増えていきました。だが20歳代までの白鵬は、冒頭で触れたように心技体の充実した模範的な横綱に見えていました。

事実、横綱になって3年後の2010年には、彼の優勝を祝して館内に自然に白鵬コールが起こるほどに彼は尊敬され愛され賞賛されていました。後に目立つようになる醜い所作も当時はほとんど見られませんでした。

功績

彼は優勝を重ね、全勝優勝の回数を増やし、双葉山に次ぐ連勝記録を打ち立て、北の湖、千代の富士の優勝回数を上回る記録を作りました。そしてついには大鵬の優勝回数を超えてさらに大きく引き離しました。

次々に記録を破り大記録を打ちたてながら、彼は相撲協会を襲った不祥事にも見事に対応しました。賭博事件と八百長問題で存続さえ危ぶまれた相撲協会をほぼひとりで支えました。

名実ともに大横綱の歩みを続けるように見えた白鵬はしかし、日馬富士、鶴竜、稀勢の里の3横綱の台頭そして引退を見届けながら徐々に荒れた相撲を取るようになりました。同時に取り組み前後の所作も格段に見苦しくなって行きます。

筆者は彼の取り口ではなく、土俵上の彼の行儀の悪さを基に、白鵬は横綱としての品格に欠けると判断し、そう発言してきました。

白鵬が次第に品下っていったのは、彼の思い上がりがなせる技で、誰かが正せば直ると筆者は信じていました。しかし一向に矯正されませんでした。そして彼はついに、筆者に言わせれば「晩節を汚したまま」引退しました。

だがNHKスペシャルは、白鵬の所作ではなく「取り口」が乱れたのだと力説しました。それは横綱審議委員会と同じ見方です。

つまりどっしりと受けてたつ「横綱相撲」ではなく、張り手やかち上げを多用する立会いが醜い、とNHKスペシャルも横綱審議委員会も主張するのです。

それは筆者の意見とは異なります。筆者は以前にブログで次のように書きました

強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。
だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。
白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。
あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。
白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。
白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。
それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。
要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。
張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。
対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは白鵬の品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。
もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。

晩節を汚した立ち合い

そんな具合に筆者は横審ともNスペともちょっと違う意見を持っています。だが、自分の見解が果たして妥当なものであるかどうかの確信はありません。それというのも白鵬は、彼の最後の土俵となったことしの名古屋場所で、またしても驚きの動きをしたからです。

全勝で迎えた7月場所の14日目、白鵬は時間いっぱいの仕切りで、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いの構えに入りました。館内がどよめき対戦相手の正代は面食らって立ちすくみました。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と評価した立ち合いです。正代は訳がわからないままに立ち、白鵬は例によって張り手を交えた戦法でショックから立ち直れない正代を下しました。

異様な相撲はそこでは終りませんでした。白鵬は翌日の千秋楽でも大関の照ノ富士を相手に、殴打あるいは鉄拳にさえ見える張り手を何発も繰り出して、相手の意表をつき小手投げで勝ちました。45回目のしかも全勝での優勝の瞬間でした。

白鵬は正代との一戦を「散々考え抜いた末に、彼にはどうやっても勝てないと感じたので、立ち合いを“当たらない”で行こうと決めた」とインタビューで語りました。

立ち合いを当たらないとは、要するに変化する、逃げる、などと同じ卑怯な注文相撲のことです。

だが何が何でも勝ちに行く、という白鵬の姿勢は責められるべきものではありません。相撲でも勝つことは重要です。また、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いに臨むのも、反則ではありません。かち上げや張り手が禁じ手ではないように。

それどころか仕切り線から遠くはなれて俵際から立ち合うという形は、ある意味では誰も思いつかなかった斬新な戦法です。ましてや横綱がそれをやるなどとは誰も考えないでしょう。

文化と文明の相克

白鵬の張り手やかち上げを「まともな戦法」と主張する筆者は、正代戦での彼の立ち合いもまっとうな戦術の一つ、と認めて庇護しなければなりません。だが、全くそんな気分にはなれません。

その立ち合いと、立ち合いに続く戦いは、白鵬の土俵上の所作や土俵外での言動に勝るとも劣らない醜さだと筆者は感じました。

白鵬の戦法は理屈では理解できます。しかし筆者の感情が受け入れません。そしてこの感情の部分こそが、つまり、「文化」なのです。

勝つことが全て、という白鵬の立場は普遍的です。相撲は勝負であり格闘技ですから勝つことが正義です。それはモンゴル人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、われわれ日本人も、要するに誰もが理解しています。

誰もが理解できるコンセプトとはつまり文明のことです。白鵬の立ち位置は文明に拠っているためにいかにも正当に見えます。だが筆者を含む多くの日本人はそこに違和感を持ちます。われわれにの中には文明と共に日本文化が息づいているからです。

その日本文化が、大相撲はただ勝てば良いというものではない、とわれわれに告げるのです。

文化は文明とは違って特殊なものです。日本人やモンゴル人やイタリア人やスーダン人など、あらゆる国や地域に息づいている独特の知性や感性が文化です。そして文化は多くの場合は閉鎖的で、それぞれの文化圏以外の人間には理解不可能なことも珍しくありません。

普遍性が命である文明とは対照的に、特殊性が文化の核心なのです。従って文化は、その文化の中で生まれ育っていない場合には、懸命に努力をし謙虚に学び続けない限り決して理解できず、理解できないから身につくこともありません。

相撲は格闘技で勝負ごとだから何をしても勝つことが重要、という明晰な文明は正論です。だがそれに加えて「慎みを持て」という漠たる要求をするのが文化なのです。日本文化全体の底流にあるそのコンセプトは、大相撲ではさらに強い。

文明のみを追い求める白鵬は、そのことに気づき克服しない限り決して横綱の品格は得られません。さらに言えば白鵬の場合、気づいてはいるものの克服する十分な努力をしていない、というふうにも見えます

驚きの“日本人に愛されたい症候群”

しかしながら白鵬の在り方のうちで最もよく分からないのは、彼が「日本人に愛されたいという強い願望を持っている」というNHKスペシャルの指摘です。

番組によると白鵬は、日本人に愛されたいと願っていて、それが叶わないために屈折しコンプレックスとなりプレッシャーになって相撲が乱れたのだといいます。

そうした白鵬の思い込みは、日本人横綱である稀勢の里との対戦の際に、観客が日本人である稀勢の里のみを応援して自分を軽んじている、という見方を彼にもたらしました。

彼はさまざまな場面でそんなひけ目や葛藤また孤独感を抱いて相撲ファンを恨み、それに沿った言動をして日本社会から隔絶していきました。

それらが事実なら、反動で白鵬は2017年、優勝インタビューにかこつけて万歳三唱を観客に要請し、2019年には3本締めを強制したりして顰蹙を買い、さらに溝を深めていった、という分析も可能です。

筆者は白鵬の土俵上の所作とともに万歳三唱や3本締めを冷ややかに見てきました。あまり利口なやり方ではない、と苦笑する思いでいました。従ってそのことに批判的らしい番組の方向性に納得しました。

しかしその原因が、いわば「日本人に愛されたい症候群」によるとは思いもよりませんでした。

日本人に愛されたい願望がある、とは日本人に嫌われているということです。少なくとも白鵬自身はそう感じているということです。

それはもしかすると、日本人の中にある執拗な人種差別あるいは排外感情を、白鵬が感じ続けているということなのかもしれません。

大相撲に絡んだ人種差別は、小錦騒動などでも明らかでした。しかしモンゴル人の鶴竜が横綱に昇進した時点で、人種差別は克服されたと筆者は書きました。

白鵬はバナナ日本人など恐れなくていい

そうはいうものの、圧倒的な強さを誇った白鵬が、人種差別的な苦悩を抱えている、という意識とともに最後の優勝シーンを思い返してみると、ちょっとつらい気持ちになりました。

名古屋場所の千秋楽に白鵬は家族を招待していました。彼が優勝を遂げた瞬間、奥さんと子供たちは嬉し泣きをしました。筆者はそれを、膝の怪我を克服して復活した白鵬を家族が喜び称える姿、と信じて疑いませんでした。だがそこに人種差別的な要素が加わるとひどく違うシーンに見えてきます。

白鵬の「日本人の奥さん」と「日本人の子供たち」は、理不尽な差別を受ける夫また父親が、重圧を跳ね返してまた優勝を遂げたことを祝い、賞賛し、誇る気持ちから喜びの涙にくれた、とも考えられるのです。

では向かうところ敵なしの強さと、存在感を示し続けた白鵬を否定しようとする勢力とは、いったい何でしょう。

それはおそらく、日本人であるということ以外には何にも誇るものを持たない「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」、あるいは皮膚は黄色いのに中身が白人のつもりのバナナ市民、つまり「国粋トランプ主義者」あたりではないいでしょうか。

それらの下種な勢力は、モンゴル人だからという理由で白鵬を貶めようとすることも十分考えられます。

だが先に触れたように白鵬は、2007年に横綱に昇進して以降力強く美しい相撲で快進撃を続け、野球賭博や八百長問題で存続の危機にまでさらされた大相撲を救った立役者です。

その意味では日本人以上に日本の最重要な伝統文化の一つを守った男なのです。白鵬がもしもバナナ国民の中傷や攻撃を受けていたのなら、怖れることなく告発をするべきです。

日本の国際的な評判を貶めるだけの反日・亡国の輩、すなわち「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」あるいは「国粋バナナ・トランプ主義者」等々を怖れる必要などまったくありません。

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秋言葉を持たないイタリアの秋も美しい

秋の日はつるべ落としと言いますが、ここ北イタリアでは秋そのものがつるべ落としに素早くやって来て、あっという間に過ぎ去ります。印象としては夏が突然冬になります。日本の平均よりも冬が長く厳しい北イタリアですが、短い秋はそれなりに美しく、風情豊かに時間が流れて行きます。

ところが、イタリア語には、枯れ葉、病葉 (わくらば)、紅葉、落葉、朽ち葉、落ち葉、木の葉しぐれ、黄葉、木の葉ごろも、もみじ・・など、など、というたおやかな秋の言葉はありません。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現します。

少し優美に言おうと思えば「乾いた葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではありません。また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もあります。だが、筆者が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝った「死に葉」という言い方が基本であり普通です。

言葉が貧しいと いうことは、それを愛でる心がないということです。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎません。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのです。紅葉がきれいだと知ってはいても、そこに特別の思い入れをすることはなく、当然テレビなどのメディアが紅葉の進展を逐一報道するようなこともあり得ません。

前述したように夏がいきなり冬になるような季節変化が特長的な北部イタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思いますが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはありません。ただイタリア人の名誉にために言っておきますと、それは西洋人社会全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではありません。

それと似たことは食べ物でもあります。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合があります。といいますか、魚介類をまとめてフィッシュと呼ぶことは珍しくありません。Seafood(シーフード)という言葉もありますが、日常会話の中ではやはりフィッシュと短く言ってしまうことも多いように思います。

イタリア語もそれに近い。だが、もしも日本語で、たとえひとまとめにしたとしても、貝やタコを「魚」と呼んだら気がふれたと思われるでしょう。

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュですから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになります。もっとも欧米人が海藻を食べることは、かつてはほとんどありませんでしたが-。タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎いところが結構あるのです。

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいます。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちます。また、ラテン人でもナマコなどは食べ物とは考えませんし、海藻もそうです。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいます。
 
多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや愛着や文化があります。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出しました。
 
もちろん西洋には西洋人の思い入れがあります。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕します。イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもありません。

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を俟たないところです。心情が濃密であるとは、言葉が豊かで深く広いということにほかなりません。その部分では日本語は未だ欧米語の後塵を拝しているとも言えるかもしれません。

 

 

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