トラス首相とともに沈み行く英国が見える

トラス英首相が辞任を表明しました。

就任からわずか6週間での辞任。

驚きですが、予定調和のような。

不謹慎ですが、何かが喜ばしいような。

何が喜ばしいのかと考えてみると、ボリス・ジョンソン前首相の鳥の巣ドタマが見えてきました。

ジョンソン前首相はいやいやながら辞任し、虎視眈々と首相職への返り咲きを狙っています。

トラスさんのすぐ後ではなくとも、将来彼は必ず首相の座を目指すことでしょう。

彼の首相就任は英国解体への助走、あるいは英国解体の序章。。。

なるほど。喜ばしさの正体はこれです。筆者は英国の解体を見てみたいのです。

英国解体は荒唐無稽な話ではありません。

英国はBrexitによって見た目よりもはるかに深刻な変容に見舞われています。

その最たるものは連合王国としての結束の乱れです。

イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド から成る連合王国は、Brexitによって連合の堅実性が怪しくなりました。

スコットランドと北アイルランドに確執の火種がくすぶっています。

スコットランドはかねてから独立志向が強い。そこにBrexitが見舞いました。住民の多くがBrexitに反発しています。

スコットランドは独立とEUへの独自参加を模索し続けるでしょう。

北アイルランドも同じです。

Brexitを主導したのはジョンソン前首相でした。彼は分断を煽ることで政治力を発揮する独断専行型の政治家です。

Brexitのように2分化された民意が正面からぶつかる政治状況では、独断専行が図に当たればあらゆる局面で政治的に大きな勝ちを収めることができます。

言葉を変えれば、2分化した民意の一方をけしかけて、さらに分断を鼓舞して勝ち馬に乗るのです。

彼はそうやって選挙を勝ち抜きBrexitも実現させました。だが彼の政治手法は融和団結とは真逆のコンセプトに満ちたものです。

彼の在任中には英国の分断は癒されず、むしろ密かに拡大し進行しました。

だが国の揺らぎは、エリザベス女王という稀代の名君主の存在もあって、あまり目立つことはありませんでした。

そんな折、ジョンソン首相がコロナ政策でつまずいて退陣しました。

国の結束という意味ではそれは歓迎するべきことでした。

ところが間もなくエリザベス女王が死去してしまいました。

代わってチャールズ3世が即位しました。新国王は国民に絶大な人気があるとは言えません。国の統合に影が差しました。

そこへもってきて就任したばかりのトラス首相が辞めることになりました。

彼女の辞任によって、退陣したばかりのジョンソン前首相がすぐにも権力の座をうかがう可能性が出てきまshじた。

ジョンソン前首相は英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者であり、自らの栄達のためなら恐らく英国自体の解体さえ受け入れる男です。

彼が首相に返り咲くのは、先述したように英国の解体へ向けての助走また序章になる可能性がありあす。

それは悪い話ではありません。

理由はこうです:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながります。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要です。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始しました。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけでした。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かいました。

そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明しました。

そのEUはBrexitによって弱体化しました。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きなマイナス要因です。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドがEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来再び生まれるであろう米トランプ主義的政権をけん制する力でのあり続けることができます。

大局的な見地からは英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来です。

《エリザベス女王死去⇒チャールズ国王即位⇒トラス首相辞任⇒ジョンソン前首相返り咲き》

という流れは、歴史が用意した英国解体への黄金比であり方程式です。

というのはむろん筆者の希望的観測ではありますが。。。

 

 

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ベルルスコーニの最後の奉公

ベルルスコーニ元首相に関する直近の記事を読んだ読者の皆さんの中には、彼のイタリアにおける影響力が極めて大きいと考える人も多いよう。

それは筆者の書き方が悪いのが原因です。非力を謝罪したうえで少し付け加えておきます。

ベルルスコーニ元首相は90年代初め以降、イタリア政界に多大な影響力を持ち続けましたが、アップダウンを繰り返しながらその力は右肩下がりに下がり続けました。

2011年にはイタリア財政危機の責任を取らされて首相を辞任。支持率は急降下しました。

そして2013年、脱税で有罪判決を受けて公職追放となり議員失職。彼の政治生命は絶たれたと見られました。

ところが元首相は2019年、公民権停止処分が解除されたことを受けて欧州議会選挙に出馬。何事もなかったかのように欧州議会議員に当選しました。

イタリアのメディアの中には彼を《不死身》と形容するものまで出ました。

しかし、ベルルスコーニ元首相率いる「FI(フォルツァ・イタリア党)」の、先日の総選挙における得票率はわずか約8%。かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだった政党としてはさびしい数字です。

非力なFI党首のベルルスコーニ氏が影響力を持つのは、同党が選挙で大勝した右派連合の一角を占めるからです。

右派連合の盟主は、次期首相就任が確実比されているジョルジャ・メローニ氏が率いる極右「イタリアの同胞」です。

ジョルジャ・メローニ氏はかつてのベルルスコーニ政権で、31歳の史上最年少閣僚として起用された過去を持っています。

両者の立場が逆転した今、メローニ氏が自らの政権内でベルルスコーニ氏を優遇する可能性は十分にあります。

醜聞と金権と汚職にまみれたベルルスコーニ元首相が、支持率を落としながらもしぶとく生き残ってきたのは、物理的な側面から見れば彼がイタリアのメディアの支配者である事実が大きい。

インターネットが普及した欧州先進国の中にあって、イタリアは未だに既存メディアが大きな影響力を持つ国のひとつです。特にテレビの力は巨大です。

イタリアのメディア王とも呼ばれる元首相は、自らが所有するテレビ局のニュースや番組やショーに頻繁に登場して自己アピールをします。

日本で言えば民放全体を束ねた勢力である元首相所有のMEDIASETが、堂々とあるいは控えめを装って、ベルルスコーニ元首相の動きを連日報道するのです。

そうした実際的な喧伝活動に加えて、多くの国民が元首相を寛大な目で見ることも彼の生き残りに資します。

ほとんどがカトリック教徒であるイタリア国民は、「罪を忘れず、だがこれを赦す」というカトリックの教義に深く捉われています。

彼らはベルルスコーニ元首相の悪行や嫌疑や嘘や醜聞にうんざりしながらも、どこかで彼を赦す心理に傾く者が多い。

たとえ8%の国民の支持があっても、残りの92%の国民が強く否定すれば彼の政治生命は終わるはずです。

だがカトリック教徒である寛大な国民の多くが彼を赦します。つまり消極的に支持する。あるいは見て見ぬ振りをします。

結果、軽挙妄動の塊のような元首相がいつまでも命脈を保ち続けることになるのです。

要するにベルルスコーニ元首相は、右派連合が分裂しない限り、メローニ政権内で直接・間接に一定の影響力を行使することでしょう。

彼の動きはいつものように我欲とまやかしに満ちたものになるに違いありません。それは連立政権を崩壊させるだけの「数の力」を持っています。

だがそれだけのことです。彼の時代は終わっています。もしも政権を瓦解させれば彼自身も今度こそ本当に政治生命を絶たれます。

86歳にもなった元首相はそんな悪あがきをすることなく、彼が唯一イタリア国民のために成せることをしてほしい。

つまり前回も書いたとおり、極右的性格のメローニ政権がEUに反目して国を誤ろうとするとき、諌めて中道寄りに軌道修正させるか、軌道修正の糸口を提供することです。

寛大な国民に赦され続けて政治的に生き延びてきたベルルスコーニ元首相の、それが国民への最後の奉公となるべきと考えますが、果たしてどうなるでしょうか。

 

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「ちむどんどん」にドン引きした訳を語ろう

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」が終了しまた。大団円と形容しても良いフィナーレも相変わらず微妙でした。

だが、時間を一気に40年も飛ばした後で元に戻して終わる正真正銘の最後は、フィクション(ドラマ)の基本である時間経過の魔法を上手く使っていると感じました。

その一手だけでも、6ヶ月に渡った消化不良の一部がきれいさっぱり無くなった気がしました。

結局、この長丁場のドラマの最大の欠陥は、これでもかとばかりに愚劣なエピソードを重ねた“にーにー”の存在だったことが明白になりました。

多くの視聴者は、主人公の暢子のキャラクターにも好感を抱かなかったようです。それが嵩じて役者自体の評判も悪くなっている風潮もあるらしい。

主人公の暢子は料理にひたむきに取り組む一本気な女性として描かれます。彼女は料理に没頭するあまり、人情の機微に疎いKY(死語?)な女性であり続けます。

終盤では妹とその恋の相手が、衆目集まる前で感動の抱擁に至る直前、無謀にも2人の間に割って入って、恋人を押し退け妹を思い切り抱きしめることまでします。

多くの視聴者が「は?」と首を傾げたに違いない演技は、役者ではなく演出のキテレツな感性が生み出したタワケです。

演出は“暢子の愛すべきキャラクター”の一環としてそのシーンを描いている節があります。だが、そこだけに限らず、笑いを目指しているらしいエピソードの全てが空回りしていました。

演出家にはユーモアのセンスがない。鈍感な暢子という視聴者の評判があるようですが、そうではなくて演出が鈍感なのです。

断っておきたいが、筆者は監督が誰なのか知りません。エンドクレジットも見ていません。彼(彼女)は明らかに能力のある演出家です。全体の差配力も高い。何よりもNHKが演出を任せた監督です。実力がない訳がない。

筆者はドラマの演出も少し手がけた者として「ちむどんどん」を批判的に見ていて、脚色の不手際を指摘しつづけています。しかしそれはいわば細部の重大な欠点についてのもので、演出家の存在の全体を批判したいのではありません。

完璧な演出家も完璧な演出もこの世には存在しません。それは「ちむどんどん」の場合も同じです。筆者は「ちむどんどん」の実力ある演出家の失点を敢えてあげつらって、ドラマの出来具合を検討してみたいだけです。

主人公の暢子のエピソードも人物像も、にーにーのそれも、つまるところ、前述のように演出家のユーモアのセンスの無さが生み出す齟齬、と筆者の目には映ります。

すべりまくるシーンのほとんどは、明らかに笑いを誘う目的で描かれています。だが一切うまく機能していません。

暢子の故郷である沖縄山原(やんばる)、東京、横浜市鶴見のシーンは割合に巧く描かれていると思います。だがしつこいようですが、主人公の暢子とその兄のにーにーの人物像とエピソードが辛い。

それはどちらも細部です。しかし、物語の中核あたりにちりばめられた大きな細部であるため、結局ドラマ全体に深い影を落としてしまいました。

視聴者の眉をひそめさせ、考えさせる優れたドラマの制作は難しい。多くのドラマがそこを目指して失敗します。

そして視聴者を笑わせるドラマを作るのは、もっとさらに至難です。

さらに言えば、視聴者を笑わせ同時に考えさせるドラマは、天才だけが踏み込める領域です。例えばチャップリンのように。

「ちむどんどん」は全体としては一定の水準を保つドラマながら、制作が非常に困難な笑いのシーンのほぼ全てでコケた、というのが筆者の評価です。

長帳場の朝ドラですから、資金力と能力のあるNHKとはいえ、安手のシーンや展開が頻繁に見られるのは仕方がありません。

それらの瑕疵は、終わりが良ければ全て良し、という雰囲気で仕舞いになるのが普通です。「ちむどんどん」もそうだと言いたいが、やはり少し厳しい。

最終回の前日、重要キャラクターのひとりである歌子が昏睡(危篤?)状態になり、暢子に率いられた兄妹が、他人も巻き込んで海に向かって助けを求めて叫ぶシーンが放送されました。

それは「理解不能だ」「もはやカルトだ」などとネット民の大ブーイングを呼んだようです。だがネット民ではなくても、恐らく多くの視聴者が展開の唐突と場面の意味不明に驚いたのではないでしょうか。

何の説明も無く挿入された物語を筆者は次のように解釈しました。

あれはいわゆる「魂(たま)呼び」あるいは「魂呼ばい」の儀式です。死にかけている人の名を呼んで、肉体から去ろうとする魂を呼び戻し生き返らせようとする古俗の名残です。

今のように科学が進んでいない時代の人々は、愛する者の死の合理的な意味が良くわからない分、恐らくわれわれよりもさらに強く死を恐れた。同時に奇跡も信じました。

恐れと祈りに満ちた強い純真な気持ちが、 魂(たま)呼びという悲痛な儀式を生みました。そのやり方は地方によって違います。

井戸の底に向かって呼びかけたり、西に向かって叫んだり、屋根の上で号泣したりもします。井戸は黄泉の国につながっています。西方浄土は文字通り西にあります。屋根に上れば西方への視界も開けます。

時代劇などで、人々が井戸の底に向かって死者や危篤者の名を呼ぶシーンを見たことがある読者も多いのではないでしょうか。井戸はあの世につながっているばかりではなく、底にある水が末期の水にも連動しています。

沖縄の民間信仰では死後の理想郷は海のかなたにあります。いわゆるニライカナイです。儀来河内とも彼岸浄土とも書きます。それは神話の「根の国」と同一のものであり、ニライは「根の方」という意味です。

そこで沖縄の兄妹は、必死に海に向かって助けを求めて叫ぶのです。しかし呼ばれたのは病人の歌子の名前ではなく、死んだ父親の魂です。

筆者が知る限り沖縄には魂呼びの風習はありません。だから危篤の歌子の名前ではなく、ニライカナイにいる亡き父の魂に呼びかけて助けを求めた、と解釈しました。

だが兄妹が突然海に向かって叫ぶ場面の真の意味を、いったい何人の視聴者が理解していたのでしょう?極めて少数ではないか。もしかするとほぼゼロだったかもしれません。

ニライカナイという概念を知っている沖縄の視聴者でさえ首を傾げた可能性が高い。それほど唐突な印象のエピソードでした。

そんな具合にすっきりしないまま、ドラマは翌日の最終回を迎えて、歌子は元気に年齢を重ねて40年が過ぎた、という展開になります。

中途半端や荒唐無稽や独りよがりの多いドラマでしたが、ニライカナイの概念と魂呼びの風習に掛けたらしい挿話を、突然ドラマの終わりに置いた意図も不明です。

あのシーンはもっと早い段階で展開させたほうが、珍妙さが無くなって深みのあるストーリーになったと思います。

返す返すも残念な仕上がりでした。

 

 

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映画人のための映画屋だったゴダールは

2022年9月13日、ジャン=リュック・ゴダール監督が亡くなりましたが、イタリアの総選挙、エリザベス女王国葬、安倍国葬などの重要行事が続いて執筆の優先順位が後回しになりました。

映画史に残る、だが自分の中ではそれほど重要ではないスター監督の死は、仏・ヌーベルバーグという既に終わった一時代の墓標建立とも言える出来事でした。

そこで遅まきながらも、やはり少し言及しておくことにしました。

筆者は今、ゴダールは自分の中ではそれほど重要ではないスター監督、と言いました。それは映画をあくまでも「娯楽芸術」と捉えた場合の彼の存在意義のことです。

筆者の個人的な規定は、言うまでもなく、ゴダールが映画史に燦然と輝く重要監督である事実を否定するものではありません。

ゴダールはスイスでほう助による服毒自殺を遂げました。91歳の彼の死は予見可能なものでしたが、スイスの自宅で安楽死を遂げたことは意外な出来事でした。

彼は自身の作品と同じように、最後まで予定調和を否定する仕方で逝きたかったのでしょう。

筆者は― 再び個人的な感想ですが ― 映画監督としての彼よりも、その死に様により強く興味を引かれる、と告白しておきます。

ジャン=リュック・ゴダールはいわば映像の論客でした。言葉を換えればゴダールは「映画人のための映画監督」でした。

映画の技術や文法や理論や論法に長けた者は、彼の常識破りの映画作法に驚き感心し呆気にとられ、時には和み心酔しました。

映画人のための映画監督とは、インテリや映画専門家などに愛される監督、と言い換えることもできます。

要するに彼の映画は大衆受けはせず、映画のスペシャリスト、つまり映画オタクや映画愛好家、あるいは映画狂いなどとでも形容できる人々を熱狂させました。

そこには大衆はいません。「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、ゴダールの客ではなかったのです。

映画は映画人がそれを芸術一辺倒のコンセプトで塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために衰退しました。

言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画は死に体になりました。

それは映画の歴史を作ってきた日英独仏伊で特に顕著でした。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけでした。

映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込みました。

こういうことです。

映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑いました。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮しました。

だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価されました。

言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられました。だが演劇人は、劇場こそ真の芸術の場と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退しました。

やがてテレビが台頭しました。映画人はかつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り固執してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になりました。

そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしています。

それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録です。

大衆受けを無視した映画を作り続けたゴダールは、そうした観点から見た場合、映画の衰退に最も多く加担した映画監督の一人とも言えるのです。

大衆を軽侮し大衆を置き去りにする娯楽芸術は必ず衰退し死滅します。

大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは理論であり論考であり学問であり試論の類です。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのです。

ゴダールは天才的なゲージュツ家でした。

そしてゲージュツとは、くどいようですが、芸術を装った論文であり論述であり理屈であり理知です。それを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクが要ります。

だが喜び勇んで寅さんに会いに映画館に足を運ぶ大衆は、そんな重い首木など知りません。

彼らは映画を楽しみに映画館に行くのです。映画を思考するためではありません。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということです。

それは同時に、映画の生命線である経済性に資することでもあります。

映画制作には膨大な資金が要ります。小説や絵画や作曲などとは違い、経済的な成功(ボックスオフィスの反映)がなければ存続できない芸術が映画です。

興行的に成功することが映画存続の鍵です。そして興行的な成功とは大衆に愛されることです。その意味では売れない映画は、存在しない映画とほぼ同義語でさえあります。

ゴダールの映画は大きな利益を挙げることはありませんでした。それでも彼は資金的には細々と、議論的には盛況を招く映画を作り続けました。だが映画産業全体の盛隆には少しも貢献しませんでした。

片や彼と同時代のヌーベル・バーグの旗手フランソワ・トリュフォーは、優れた娯楽芸術家でした。彼は理屈ではなく、大衆が愛する映画を多く作った、筆者に言わせれば真のアーティストでした。

トリュフォーは1984年に52歳の若さで死んでいなければ、ゴダールなど足元にも及ばない、大向こう受けする楽しい偉大な「娯楽芸術作品」 を、もっとさらに多く生み出していたのではないかと思います。

無礼な言い方をすれば、ゴダールには52歳で逝ってもらい、トリュフォーには91歳まで映画を作っていて欲しかった、と考えないでもありません。

繰り返しになりますが、ゴダールは映画人のための映画監督であり、トリュフォーは大衆のための名映画監督でした。

合掌

 

 

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茶番劇「安倍国葬」の危うさ

2022年9月26日から27日にかけて、イタリアの各放送局は、総選挙で大勝した極右政党「イタリアの同胞」と、次期首相就任が濃厚な同党のジョルジャ・メローニ党首にスポットを当てた報道を繰り返しました。

イタリア初の女性首相の誕生は喜ばしいことですが、彼女が極右を通り越してファシストの心まで持つ人物とあっては、「めでたさも中くらい」どころか最悪の気分です。

だがファシスト政権は現代イタリアでは生き延びることはできません。従って彼女の政権は必ず中道寄りに軌道修正することを余儀なくされます。メローニ氏の言動には既にその兆候が見えます。

そうではあるものの、ファシストの流れを汲むメローニ首相率いるイタリア共和国政府なんて、できれば目にしたくはない、というのがやはり正直な気持ちです。

そんな折、安倍元首相の国葬の模様が衛星日本語放送を介して流れました。思わず気を引かれて見入りました。見るうちにイタリアの選挙結果がもたらしていた重い気分が晴れました。

いや、重い気分が晴れたわけではありません。安倍元首相の国葬儀を見進めるうちに、絶望的な感覚が身いっぱいに広がって、イタリア政局への怒りがどこかに吹き飛んでしまったというのが真実です。

葬儀委員長と称する岸田首相の、独善的で恥知らずで不遜な追悼の辞に驚きました。また安倍元首相のポチ、菅前首相のうんざりするほど長い、空疎で笑止な“友人代表ラブレター”にも苦笑させられました。

数だけはやたらと多い出席者と、式次第と、儀式の中味の空しさに呆然としました。

先日のエリザベス女王の国葬と比べるのは詮無いことと知りつつ、それでも比べてしまう自分がいました。比べると心が寒々と萎えました。

目を覆いたくなるほど浅薄でうつろなセレモニーが続きました。虚栄心満載の無意味な式辞も、えんえんと繰り返されました。

世論調査に慎重なNHKを含む報道各社が、「6割以上の国民が反対」と報告する国葬を岸田政権が強行したのは、ネオファシストと呼ばれることさえあるここイタリアの前述の次期首相、ジョルジャ・メローニ氏も真っ青の独断専行ぶりです。

閣議決定だけで国事を進めることができるなら国会は要りません。それはつまり民主主義など要らないということと同じです。

独自の思案を持たず、他派閥の顔色を伺うばかりに見える優柔不断な岸田首相の身内には、恐るべき独裁者気質が秘匿されているようです。

6割の国民が反対し、例えば1割の国民が意見を持たないとするならば、残り3割の国民が国葬に賛成していることになります。その事実は尊重されるべきです。

同時に6割の国民の思いも必ず尊重されなければなりません。

だが岸田ご都合主義政権は、そのことを完全に無視しています。3割のみを敬重し、少なくとも6割の国民を侮辱しています。

葬送の儀は、どう考えても国葬ではない式典であるべきだったのです。3割の国民と、安倍氏に心酔する自民党議員のみで合同葬を行っていれば、何も問題はなかったはずです。

考えたくもないことですが、しかし、熱しやすく冷めやすくしかも忘れっぽい日本国民は、のど元を過ぎればこの無残な国葬騒ぎでさえ忘れがちになることでしょう。

だが今回ばかりは断じて忘れてはなりません。反民主主義どころか、イタリアの次期政権を上回るファシズム体質とさえ規定できそうな、岸田右顧左眄政権を野放しにしてもなりません。

日本の民主主義は真に危機に瀕しています。民主主義を理解しない勢力が権力を握っているからです。

岸田政権に比べれば、今この時の欧州の、ひいては民主主義世界全体の懸念を一身に集めている、ここイタリアの次期政権、極右のジョルジャ・メローニ政権でさえ可愛く見えます。

イタリアでは民主主義の本則がはきちんと機能していて、極右政権といえども議会を無視して国事を行うことは絶対にできません。それをやれば選挙で確実に権力の座から引き摺り下ろされます。

民主主義制度の自浄作用が働いて、ここイタリアでは政権交代があっさりと、当たり前に起こるのです。

それに比べると、岸田政権のような横暴な権力が幅を利かせている日本の民主主義の土壌は、全くもってお寒い限り、と言わざるを得ません。

 

 

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たいしたことはない

この世の中でもっとも大きな「たいしたこと」は自分の死です。

死ねば「たいしたこと」の全てはもちろん、ありとあらゆることが消滅するのですから、誰にとっても自らの死は、人生最大の「たいしたこと」です。

ところが死というものは誰にでも訪れる当たり前のことです。

日常茶飯の出来事なのです。

毎夜の睡眠も、自らの意志では制御できない無意識状態という意味では、死と同じものです。

そう考えると、死はいよいよ日常茶飯の出来事となり、「たいしたことではない」の度合いが高まります。

要するに自らの死も、実はたいしたことはないのです。

死という生涯最大の「たいしたこと」も、「たいしたことがない」のですから、もうこの世の中には全くもってたいしたことなど一つもありません。

そう考えるとあらゆる不幸や悲しみや病や、たぶん老いでさえ少しは癒やされるようです。

なに事も「たいしたことはない」の精神で生きていけたら、人生はさぞ楽しいものでしょう。

だが、そうはいっても、あらゆることを大げさに「たいしたこと」にしてしまうのが、凡人の哀しさです。

そこで、たいしたことはなにもないと達観はできないが、そうありたいという努力はできるのではないか、と考えてみました。

言うまでもなく、どう努力をしても達成できない可能性もあります。だが、努力をしなければ、成しえる可能性は必ずゼロです。

ならばやはり努力をしてみるに越したことはない。

なにごとにつけ、理想を達成するのは至難です。

だが努力をして理想の境地に至らなくても、「努力をする過程そのもの」がすなわち理想の在りかた、ということもあります。

理想を目指して少しづつ努力をすることが、畢竟「理想の真髄」かもしれないのです。

なのでここはとりあえず、「なにごともたいしたことはなにもない」というモットーをかかげて、ポジティブに考え、前向きに歩く努力だけでも始めてみよう、と自分に言い聞かせます。

言い聞かせた後から、その決意自体が既に、物事を大げさに「たいしたこと」にしてしまっている情動だと気づきます。

揺れない、ぶれない、平心の境地とはいったいどこにあるのでしょうか。

 

 

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絵空事の真実と虚無とスペクタクル

2022年9月19日、イタリア時間午前11時55分頃、習慣で定時のBBCニュースをチェックしようと衛星放送をONにしました。

するとエリザベス女王の葬儀の模様が目に飛び込んできました。

スペクタクルな絵の連続と荘厳な雰囲気にぐいと惹きつけられました。

イタリア公共放送RAI、NHK、EURONEWS、AlJazeera、CNNと次々にチャンネルを変えてみました。全ての局が生中継で儀式の様子を伝えていました。

このうちNHKの7時のニュースは、冒頭の数分間のみの生中継で別ニュースに変わりました。

BBCに戻り、腰を落ち着けて観始めました。

BBCの生中継は、その後えんえんと6時間も続きました。

RAIは見事な同時通訳付きでBBCの放送を同じく最後まで中継しました。

EURONEWSも全体を生放送で伝え続けました。CNNとAljazeerahaはその後は確認しませんでしたが、おそらく同じ状況だったと思います。

エリザベス女王がいかに英国民と英連邦の住民に敬愛されていたかが分かる式典でした。

彼らの思いは全世界の人々に伝播し、感動が感動を呼びました。世界中の放送局が熱く報道し続けたのがその証拠です。

式典にはまた、イギリスが国の威信をかけて取り組んだ跡がまざまざと刻印されていました。

エリザベス女王の死去を受けてすぐに行われた一般弔問から、遺体が埋葬されるウインザー城まで展開された壮大な葬儀式は、10年以上も前から周到に準備され、繰り返しシミュレーションされ訓練され続けてきたものです。

軍隊が式典の核を占めているからこそ完成できた大きな物語だと思います。

そこには大英帝国時代からのイギリスの誇りに加えて、Brexit(英国のEU離脱)の負の遺産を徹底して抑える意図などが絡んでいます。

むろん70年という異例の長さで英国を支え、奉仕し、国民に愛された巨大な君主を葬送する、という単純明快な意味合いもありました。

運も英国と女王に味方しました。つまりコロナパンデミックが収まった時期に女王は逝去しました。

だから英国政府は式典に集中することができ、英国のみならず世界中の膨大な数の人々がそれに参画しました。

式典の終わりに近い時間には、偶然にも米バイデン大統領が「アメリカのコロナパンデミックは終息した」と正式に述べました。

筆者は式典の壮大と、BBCの番組構成の巧みと、歴史の綾を思い、連想し、感慨に耽りながら、ついにウインザー城内での最後の典礼まで付き合ってしまいました。

強く思い続けたのは、間もなく行われるであろう安倍元首相の国葬です。

エリザベス女王の無私の行為の数々と崇高で巨大な足跡に比べると、恥ずかしいほどに卑小で、我欲にまみれた一介の政治家を国葬にするなど論外だと改めて思います。

自民党内の権力争いの顕現に過ぎない賎劣な思惑で、国葬開催に突き進む岸田政権は、もはやプチ・ファシズム政権と形容してもいい。

今からでも国葬を中止にすれば、岸田首相は自らを救い、日本国の恥も避けることができるのに、と慨嘆するばかりです。

いまこの時の日本に国葬に値する人物がいるとすれば、それは上皇明仁、平成の天皇を置いて他にありません。

平成の天皇は世界的に見れば、かつての大英帝国の且つ第2次大戦の戦勝国である英国君主の、エリザベス女王ほどの重みを持ちません。

だが平成の天皇は、戦前、戦中における日本の過ちを直視し、自らの良心と倫理観に従って事あるごとに謝罪と反省の心を示し、戦場を訪問してひたすら頭を垂れました。

その真摯と誠心は人々を感服させ、日本に怨みを抱く人心を鎮めました。そしてその様子を見守る世界の人々の心にも、静かな感動と安寧をもたらしました。

平成の天皇は、その意味でエリザベス女王を上回る功績を残したとさえ筆者は考えます。なぜならエリザベス女王は、英国の過去の誤謬と暴虐については、ついに一言も謝罪しませんでした。

英国による長い過酷な統治は、かつての同国の植民地の人々を苦しめました。むろんエリザベス女王は直接には植民地獲得に関わっていません。だが英国の君主である以上、彼女は同国の責任から無縁ではありえません。

エリザベス女王は、人として明らかに平成の天皇に酷似した誠心と寛容と徳心に満ちた人格だでした。

だが彼女は、第2時世界大戦によってナチズムとファシズムと日本軍国主義を殲滅した連合国の主導者、英国の君主でもありました。

彼女には第2次大戦について謝罪をする理由も、意志も、またその必要もありませんでした。むしろ専制主義国連合を打ち砕いた英国の行為は誇るべきものでした。

その現実は過去の植民地経営の悪を見えなくする効果もありました。だから女王はそのことについて一言の謝罪もしませんでした。しかもその態度は世界の大部分にほぼ無条件に受け入れられました。

だが、英国に侵略され植民地となった多くの国々の人々の中には、女王は謝罪するべきだったと考える者も少なくありません。彼らの鬱屈と怨みは将来も一貫して残ります。

その意味では、過去の過ちを謝罪し続ける平成の天皇は、エリザベス女王の上を行く徳に満ちた人格とさえ言えると思います。

岸田政権は姑息な歴史修正主義者の国葬に時間を潰すのではなく、世界にも誇れるそして世界も納得するに違いない、上皇明仁の国葬のシミュレーションをこそ始めるべきです。

英国政府が10余年も前からエリザベス女王の国葬の準備を進めていたように。

 

 

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エリザベス女王の闇と平成の天皇の真実

亡くなったエリザベス女王を称える声が世界中にあふれています。

中には彼女をほぼ現人神と見なすらしく、天皇に捧げる言葉である“崩御”を用いて死を語るケースさえあります。

そうするのはむろん日本人です。君主の死を特別扱いにして言葉まで変えるのは、外務省の慣例を含めて日本語以外にはありえません。

エリザベス女王は現人神ではなく人間です。人間の中で優れた人格の人だったから、世界中で賞賛の声が沸き起こったのです。

天皇に象徴されるお上の死を別格と捉えて、無条件に平伏して称える日本人に特有の精神作用によっているのではありません。

英国には反王室派の人々もいます。エリザベス女王はその反王室派の一部にさえ敬愛されました。そのことが既にエリザベス女王の人柄を語って余りあると思います。

エリザベス女王は1952年、父親で国王のジョージ6世の死去を受けて25歳の若さで即位しました。当時の英首相はあのウィンストン・チャーチルです。

彼女はその後、70年の在位中に14人の首相を任命し、チャーチルを含む15人の宰相と仕事を共にしました。その間は、いつも慎重に政治的中立の立場を守り続けたのは言うまでもありません。

女王の在位中には旧植民地の国々の多くが独立。イギリスの領土は大幅に縮小しました。

同時に王室はさまざまなスキャンダルに見舞われました。だが女王は見事な手腕で危機を乗り越え、名君とみなされました。

筆者は昨年、女王の夫であるエディンバラ公爵フィリップ殿下の死去に際して次のように書きました。

英国王室の存在意義の一つは、それが観光の目玉だから、という正鵠を射た説がある。世界の注目を集め、実際に世界中から観光客を呼び込むほどの魅力を持つ英王室は、いわばイギリスのディズニーランドだ。

おとぎの国には女王を含めて多くの人気キャラクターがいて、そこで起こる出来事は世界のトピックになる。むろんメンバーの死も例外ではない。エディンバラ公フィリップ殿下の死がそうであるように。

最大のスターである女王は妻であり母であり祖母であり曾祖母である。彼女は4人の子供のうち3人が離婚する悲しみを経験し、元嫁のダイアナ妃の壮絶な死に目にも遭った。ごく最近では孫のハリー王子の妻、メーガン妃の王室批判にもさらされた。

英王室は明と暗の錯綜したさまざまな話題を提供して、イギリスのみならず世界の関心をひきつける。朗報やスキャンダルの主役はほとんどの場合若い王室メンバーとその周辺の人々だ。だが醜聞の骨を拾うのはほぼ決まって女王だ。

そして彼女はおおむね常にうまく責任を果たす。時には毎年末のクリスマス演説で一年の全ての不始末をチャラにしてしまう芸当も見せる。たとえば1992年の有名なAnnus horribilis(恐ろしい一年)演説がその典型だ。

92年には女王の住居ウインザー城の火事のほかに、次男のアンドルー王子が妻と別居。娘のアン王女が離婚。ダイアナ妃による夫チャールズ皇太子の不倫暴露本の出版。嫁のサラ・ファーガソンのトップレス写真流出。また年末にはチャールズ皇太子とダイアナ妃の別居も明らかになった。

女王はそれらの醜聞や不幸話を「Annus horribilis」、と知る人ぞ知るラテン語に乗せてエレガントに語り、それは一般に拡散して人々が全てを水に流す素地を作った。女王はそうやって見事に危機を乗り切った。

女王は政治言語や帝王学に基づく原理原則の所為に長けていて、先に触れたように沈黙にも近いわずかな言葉で語り、説明し、遠まわしに許しを請うなどして、危機を回避してきた。

英王室の人気の秘密のひとつだ。

危機を脱する彼女の手法はいつも直截で且つ巧妙である。女王が英王室が存続するのに必要な国民の支持を取り付け続けることができたのは、その卓越した政治手腕に拠るところが大きい。

女王の潔癖と誠実な人柄は―個人的な感想だが―明仁上皇を彷彿とさせる。女王と平成の明仁天皇は、それぞれが国民に慕われる「人格」を有することによって愛され、信頼され、結果うまく統治した。

両国の次代の統治者がそうなるかどうかは、彼らの「人格」とその顕現のたたずまい次第であるのはいうまでもない。

自国民の大多数に愛され、世界の人々にも敬仰されたエリザベス女王を憎む人々もいます。一部の英国人と、かつてイギリスに侵略され植民地にされた多くの国々の国民です。

エリザベス女王は英国の植民地主義には関わりませんでした。また憲法上君主は象徴に過ぎない。従ってエリザベス女王に植民地搾取の責任はなかった、という主張もできます。

だが彼女の地位は植民地主義で潤った英国の過去と深く結びついています。反王室派や元植民地の英連邦の人々は、そのことを理由に女王に強く反発しました。彼らにとって女王は抑圧の象徴でもあったのです。

それは理解できることです。帝国主義時代を経た英国の君主である以上、例え彼女自身は直接植民地経営に携わっていなくても、国の責任から自由でいることはできません。

エリザベス女王は恐らくそのことを熟知していました。だが過去について謝ることはほとんどありませんでした。彼女が謝罪しなかったのは、英国が戦勝国だった事実も大きい。

戦勝国である英国は、ドイツ、イタリア、日本などとは違って彼らの過去の行為を謝る必要はありませんでした。戦争は言うまでもなく植民地経営についても。

英国は連合国を主導して、日独伊という独裁国家群の悪を殲滅しました。それでなければ世界は、今この時もナチズムとファシズムと軍国主義に支配された暗黒の歴史を刻んでいた可能性が高い。

英国にとっては過去は謝るどころか、むしろ誇るべきものとなりました。その過去には第2次大戦のみならず、戦争以前の植民地主義時代も含まれました。

ところで過去を謝罪しない点を除けば―前出のブログ記事の如く―エリザベス女王はその人間力において平成の天皇によく似ています。

女王の篤実で穏やか且つ真摯な人柄は明仁上皇のそれと瓜二つです。だが2人の政治的立場には大きな違いがあります。

敗戦国日本の君主である平成の天皇は、歴史に鑑みての義務感と倫理また罪悪感から、日本が戦時に犯した罪を償うべきと考えそのように行動しました。

彼は折に触れて過去の過ちを謝罪し、戦地を巡ってひたすら頭を下げ続けました。その行為はかつて日本を恨んでいた人々の心をほぐしました。

同時に平成の天皇の行為と哲学は、過去の誤謬を知らずにいた多くの日本人の中にも道徳心を植えつけ良心を覚醒させました。

エリザベス女王もおそらく心情的には平成の天皇と同じ立場でした。だが彼女は既述の戦勝国イギリスの国王という立場上、平成の天皇と同じアクションは取れませんでした。

また英国が、ナチズムとファシズムと軍国主義を殲滅して民主主義を守った過去を有する以上、過去を否定して謝罪に回ることはあり得なかったのです。

その意味では彼女は、植民地主義の負の遺産という闇を抱えたまま死去しました。一方の平成の天皇は、日本の誠心を世界に示して薄明を点し、その上で退位しました。

日本は平成の天皇が点した薄明を守り大きな明かりへと成長させなければなりません。

象徴である天皇が政治に関わらない、というのは建前であり原則論です。天皇はそこにある限り常に政治的存在です。

政治家がそれを政治的に利用するという意味でも、また天皇が好むと好まざるにかかわらず、政治の衣をがんじがらめに着装させられているという意味でも。

天皇は政治に口を出してはならないが、口を出してはならないという建前も含めた彼の存在が、全き政治的存在です。

令和の天皇はそのことを常に意識して行動し発言をすることが望まれます。退位した平成の天皇、明仁上皇がそうであったように。

それはエリザベス女王の治世を引き継いだ英チャールズ国王が、旧植民地の人々に対する謝罪も視野に入れた抜本的なアクションを起こすのかどうか、と同じ程度の重要課題と考えます。

 

 

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ダイコン役者ではなくダイコン演出家が罪作りである

NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の役者がつまらないなら、それは演出がダイコンでありプロデュサーがボケだからです。

役者の力量は役者自身の責任です。役者はそれを背負って出演依頼の声がかかるのを待ちます。あるいは出演審査のオーディションに向かいます。

役者の力量は目に見えています。それを見抜けないのがダイコン演出家です。

役者の力量を見抜けない彼は、撮影現場では役者の拙い演技に気づかず従ってアドバイスもダメ出しもできません。

むろん彼は役者のオーバーアクション(演技過剰)も制御できない。そうやって例えば「ちむどんどん」では“にーにー”の大げさなクサい芝居が次々に繰り出されます。

役者がオーバーアクションをするのは、つまり彼が役者だからです。彼には役者の素質があるのです(素人には過剰演技はできない。過剰演技どころか固まって何もできないのが素人です)。だからその役者は撮影現場まで進出できたのです。

役者をコントロールするのが演出です。この場合のコントロールとは、もちろん役者を縛ることではありません。演出の意図に合うように彼らを誘導することです。

役者は台本を読み、演出家と打ち合わせをして、必ず演出の意図に合う芝居を心がけています(大物役者が演出を無視して勝手に動く問題はまた別の議論です)。

だが役者は独立した一個の個性ですから、彼の個性で台本を解釈し演出の意図を読み取り表現しようとします。

演出家は役者の表現が自らの感性に合致しているかどうかを判断してOKを出します。あるいはダメ出しをします。実に単純明快な構図です。

ダイコン演出家は自らの意図が何であるかが分からない。だからコンテンツが乱れ、混乱します。そうやって下手なドラマが完成していきます。

「ちむどんどん」の不出来の責任は全て、脚本の下手を見抜けず役者を誘導できない演出の責任です。その演出家を選んだプロデュサーの責任も重い。

だが最大最悪の罪は、脚本を把握し、役者を手中に置き、現場の一切を仕切る演出(監督)にあります。

もう一度言います。ドラマがすべりまくるのは役者が下手なのではなく、演出家がダイコンだからです。

ダイコン演出家の手にかかると脚本も役者もそしてドラマそのものも「大ダイコン」にすべりまくります。

一方で演出は、ドラマが成功すれば、脚本の充実も役者の輝きも全て彼の力量故、という評価を得ます。

演出とはそんな具合に怖い、且つ痛快な仕事です。

だから視聴者は役者ではなく、「痛快」を楽しむことができるのにそうしない(できない)演出家を罵倒するほうが公平、というものです。

 

 

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英国解体のシナリオの信憑性

エリザベス女王の訃報に接して、筆者の思いは連想ゲームふうに次々に動いています。

もしかするとそれをきっかけに英国の真の解体が始まるかも、とも考えたりしています。

英国の民主主義と立憲君主制はゆるぎないものです。

女王の死に続いたチャールズ新国王の議会演説を聞けばそれは明らかです。

民主主義大国の核心である英国議会では、リズ・トラス首相が就任演説をして新政権が船出しました。

それらの全ては英国の民主主義の堅牢を明示しています。

でもそれは英国を構成する4か国、即ちイングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの結束を意味しません。

結束どころか、英連合王国内の絆は同国のEU(欧州連合)離脱、即ちBexitを境に軋みっぱなしです。

なぜならスコットランドが英国から独立してEU参加を模索し、北アイルランドもそれに倣おうとしています。

Brexitを主導したジョンソン前首相は、退陣したものの早くも復活を目指して画策を開始したとも見られています。

英国民の分断を糧に政治目標を達成し続けたトランプ主義者のジョンソン氏は、自らの栄達のためなら英国自体の解体さえ受け入れる類いの男に見えます。

筆者は2019年、

“英連合王国はもしかすると、Brexitを機に分裂解体へと向かい、ジョンソン首相は英連合王国を崩壊させた同国最後の総理大臣、として歴史に名を刻まれるかもしれない”

書きました

英国は未だにBrexit後の少しの混乱の中にあります。だが、一見すると前途は安泰のように見えます。

それでも筆者は、少しの希望的観測も込めて、英国解体の可能性はかつてなく高い、と考えています。

新国王のチャールズ3世は、日本の現天皇と同様にこれから彼の真価を国民に評価してもらう立場です。人間力が試されます。

彼が国民に受け入れられるかどうかは未知数です。皇太子時代のチャールズ3世は、必ずしも国民に愛されているとは言えませんでした。

英国に関しては、例えチャールズ国王が母女王のレガシーを受け継いでも、スコットランドと北アイルランドの不満が解消されない限り同国解体の可能性は消えません。

エリザベス女王治世時にあった懸念が、チャールズ3世時代にはたちまち消えて無くなると考えるのは理にかないません。

筆者は先刻、《希望的観測》と記したように個人的に英国解体を密かに願っています。

理由はこうです:

英連合王国が崩壊した暁には、独立したスコットランドと北アイルランドがEUに加盟する可能性が高い。2国の参加はEUの体制強化につながります。

世界の民主主義にとっては、EU外に去った英国の安定よりも、EUそのもののの結束と強化の方がはるかに重要です。

トランプ統治時代、アメリカは民主主義に逆行するような政策や外交や言動に終始しました。横暴なトランプ主義勢力に対抗できたのは、辛うじてEUだけでした。

EUはロシアと中国の圧力を押し返しながら、トランプ主義の暴政にも立ち向かいました。そうやってEUは、多くの問題を内包しながらも世界の民主主義の番人たり得ることを証明しました。

そのEUはBrexitによって弱体化しました。EUの削弱は、それ自体の存続や世界の民主主義にとって大きな負の要因です。

英連合王国が瓦解してスコットランドと北アイルランドEUに加盟すれば、EUはより強くなって中国とロシアに対抗し、将来生まれるかもしれない米トランプ主義政権をけん制する力であり続けることができます。

英国の解体は、ブレグジットとは逆にEUにとっても世界にとっても、大いに慶賀するべき未来です。

 

 

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