サッカー強国とはサッカー狂国のこと

2021年6月末、ヨーロッパはサッカーの欧州選手権で盛り上がっています。欧州杯はW杯と同じく4年に1度開かれるサッカーの祭典。

2020年の第16回大会がコロナパンデミックで1年延期されました。

ブラジルやアルゼンチンなどの南米強豪チームが参加しないのは物足りませんが、レベルの低いアジア、アフリカ、オセアニア、北米などが出場しない分、緊迫した試合が続いてむしろワールドカップよりも面白いと評価する人も多くいます。

ヨーロッパにはイタリア、ドイツを筆頭にフランス、スペイン、イギリス、オランダ、ポルトガルなど、強豪がひしめいています。

筆者はいまイタリア、ドイツを筆頭に云々、と言いました。これはワールドカップを意識しての表現です。

いまこの時のヨーロッパのサッカーは、強い順にスペイン、ドイツ、フランス、イタリア、ポルトガル、オランダ、イギリスという感じでしょうか。

そのこととは別に、ワールドカップの優勝回数となりますと、イタリアとドイツがそれぞれ4回。フランスが2回。スペインとイギリスがそれぞれ1回です。

優勝4回はまずイタリアが達成しドイツが続きました。またスペインの優勝は2010年、イギリスの優勝は1966年。少し昔のことですのでスペインの優勝が印象に残ります。

さらに言えばイギリスは、強豪ながら近年はやや影が薄い。片やスペインは、ポゼッションサッカーと呼ばれる独特のテクニックまた戦術を完成せて、世界サッカーを席巻してきました。

そのことに敬意を示す意味でも、イギリスよりは先に銘記されるべきと思いました。

欧州ではここで触れている7ヵ国はもちろん、どの国に行ってもサッカーが国技と呼べるほどに人気があります。

その中でもサッカーに身も心も没頭している国は、イタリアとドイツとイギリスだとよく言われます。

イギリスはサッカー発祥の地だから当然としても、血気盛んなラテン系のイタリアと、冷静沈着な北欧系のドイツがサッカーにのめりこんでいるのが興味深いところです。

両国がワールドカップの優勝回数がブラジルに次いで多いなど、ヨーロッパの中でも抜きん出ているのも、国民がサッカーをこよなく愛しているからなのでしょう。

個人技に優れているといわれるイタリアはそれを生かしながら組織立てて戦術を立て、組織力に優れているといわれるドイツはそれを機軸にして個人技を生かす戦術を立てる。

独創性を重視する国民が多いイタリアと秩序や規律を重視する国民が多いドイツ。

サッカーの戦い方にはそれぞれの国民性がよく出ます。試合を観戦する醍醐味もまさにそこにあります。

さて、

現在進行形の2020欧州選手権は、一次リーグにつづいて「負けたら終わり」の勝ち抜き戦が6月26日から始まります。

ここまでの状況を見ますと、イタリアの強さとドイツ、スペインの弱さが目立ちます。またオランダとベルギーの好調と前回優勝のポルトガルの弱さも目につきます。

一次リーグでの強い国がまぐれで、弱いチームが一時的にそうである可能性ももちろんあります。

だが、一世を風靡したスペインのポゼッションサッカーの衰退と、2006年を境に絶不調の底で呻吟してきた、イタリアサッカーの復活が鮮明になってきたようにも見えます。

そこにドイツ、ポルトガルの意地とフランスの強い潜在能力がからみ、優勝経験もある強いオランダと前回のW杯で準決勝まで駒を進めたベルギーが加わって、スリリングな展開が期待できそうです。

筆者はスター選手が不在なのに目下のところは強いイタリアを応援しています。

同時に見る者をわくわくさせる天才プレーヤーのいるチームにも期待しています。

つまり、ロナウドのポルトガル、エムバベのフランス、、ルカクのベルギーなどです。

サッカーは1人ではできません。

一方で1人の天才プレーヤーはゲームを華やかにします。

筆者は強くて楽しい、そしてなによりも華やかなサッカーが好きです。

だって、たかがサッカー、されどサッカーなのですから。

 

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ヌーディスト村の落ちこぼれたち

数年前のバカンス旅の、ボスニア・ヘルツェゴビナから遠くないクロアチアの小さな入り江のビーチで実際にあった話です。

ツーリストガイドやネットにも載っていない隠れ家のようなビーチに寝そべっていて、ふと見ると、まるで小山のようなトドが2頭ごろりと寝ころがっていました。

びっくり仰天して、目をこすりつつよく見ると、人間の男と女が素っ裸で、横柄にとぐろを巻いています。

肉塊の周囲では、地元民と見られる家族連れが、子供たちの目を手でおおいかくさんばかりにして、あわててトドから遠ざかろうとしています。

一方では若いカップルが、素っ裸の巨大な老いた肉塊を盗み見ては、くすくす笑っています。

また土地の人らしい高齢の夫婦は、不快感をあからさまに顔に出して、ぶざまに肥え太った2頭をにらみつけています。

ひとことでいえばあたりに緊張感がみなぎっていました。

だが2人の裸の侵入者は何食わぬ顔で日光浴をつづけます。

それは明らかにドイツ人ヌーディストのカップルです。

クロアチアのそこかしこにはドイツ人が中心のヌーディストスポットが多くあります。自然を体感する目的で裸体主義者が集まるのです。

そこからおちこぼれるのか、はぐれたのか、はたまたワザと一般人用のビーチに侵入するのか、臆面もなく裸体をさらして砂上に寝転ぶ者もときどきいます。

そうした傍若無人、横柄傲慢なヌーディストは筆者が知る限りほぼ100%が高齢者です。

平然と裸体をさらして砂浜に横たわったり歩き回ったりして、あたりの人々が困惑する空気などいっさい意に介しません。実に不遜な態度に見えます。

彼らには性的な邪念はない、とよく言われます。

彼ら自身もそう主張します。

多くの場合はそうなのでしょうが、筆者はそれを100%は信じません。

それというのも、高齢者のヌーディストのうちの男の方が、筆者の姿が向こうからは見えないようなときに、はるか遠くからではありますが、わざとこちらに向けて下半身を押し出して、ドヤ顔をしたりすることがあるからです。

そういう因業ジジイは、筆者が姿をあらわしてにらみつけてやるとコソコソと姿を隠します。だが彼と共にいる彼のパートナーらしき女性は、遠目にも平然としているように映ります。男をたしなめたり恥じ入ったりする様子がありません。

そのあたりの呼吸も筆者には異様に見えます。

彼らのあいだではあるいは、彼らの主張を押しとおすために、そうしたいわば示威行動にも似たアクションが奨励されているのかもしれません。

そうした体験をもとに言うのですが、彼らはいま目の前のビーチに寝転がっているトド夫婦なども含めて、性欲ゼロの高齢者ばかりではないように思います。

かなりの老人に見える人々でさえそんな印象です。ましてや若い元気なヌーディストならば、性を享楽しない、と考えるほうがむしろ不自然ではないでしょうか。

そうはいうものの、まがりなりにも羞恥心のかけらを内に秘めているヌーディストの若者は、一般人向けのビーチに紛れ込んできて傍若無人に裸体をさらしたりはしません。

また欧州のリゾート地のビーチでは、トップレスの若い女性をひんぱんに見かけますが、全裸のヌーディストの女性はまず見あたりません。

ヌーディストの縄張りではない“普通の”ビーチや海で平然と裸体をさらしているのは、やはり、 もはや若くはない人々がほとんどなのです。

おそらくそれらの老人にとっては、若い美しい肉体を持たないことが無恥狷介の拠りどころなのでしょう。

コロナパンデミックの影も形もなかった2019年の夏、ヌーディストの本場ドイツでは、記録的な暑さだったことも手伝って、例年よりも多くの裸体主義者が出現しました。

彼らは欧州ほかのリゾート地にも繰り出して、フリチン・フリマンの自由を謳歌しました。

そういうことは彼らが彼らの領域である裸体村や、ヌーディストビーチなどで楽しんでいる限り何の問題もありません。

むしろ大いに楽しんでください、と言いたくなります。

だが、筆者と連れのような普通の、つまりヌーディストに言わせれば「退屈でバカな保守主義者」が、水着を着て“普通に“夏の海を楽しんでいるところに侵入して、勝手に下半身をさらすのはやめてほしいのです。

繰り返しになりますが彼らが彼らの領域にとどまって、裸を満喫している分には全く何も問題はありません。筆者はそのことを尊重します。

だから彼らもわれわれの「普通の感覚」を尊重してほしい。

水着姿で夏のビーチに寝そべったり泳いだりしている筆者らは、既に十分に自由と開放感を味わっています。

身にまとっている全てを脱ぎ捨てる必要などまったく感じません。

それに第一、人は何かを身にまとっているからこそ裸の自由と開放を知ります。

全てを脱ぎ捨ててしまえば、やがて裸体が常態となってしまい、自由と開放の真の意味を理解できなくなるのではないでしょうか。

さて、

ほぼ1年半にもわたるコロナ自粛・巣ごもり期間を経て、筆者らはふたたび南の海や島やビーチへ出かける計画です。

ヌーディストたちも自宅待機生活の反動で、わっと海に山に飛び出すことが予想されています。

筆者らは、今後は必ずヌーディスト村から遠いリゾートを目指す、と思い定めています。

それはつまり、出発前にネットや旅行社を介して、近づきになりたくないヌーディスト村の位置情報などを集めなければならないことを意味します。

申し訳ないのですが、彼らは2重、3重の意味で面倒くさい、と感じないでもありません。

 

 

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ジューン・バカンス

世界はコロナ禍で苦しんでいます。途上国の多くがワクチンを入手できず、先進国の日本も五輪開催を希望しながらワクチン政策の失敗もあって呻吟しています。

ここ欧州は、昨年のイタリアのコロナ地獄に象徴されるように世界最悪の部類の被害をこうむり、いまも苦悩しています。

しかしワクチン接種プロジェクトがうまくすすんで、トンネルを抜けだしつつあります。ことしは夏のバカンスも、コロナ以前の状況に近いにぎわいを見せるのではないか、と期待されています。

そうなることを期待しつつ、暗いニュースばかりのありさまをあえて忘れて、ここイタリアのそしてまた欧州の夏のバカンスのたたずまいの一部を見てみましょう。

ジューン・ブライドという言葉があります。ジューンは6月、ブライドは花嫁。「6月の花嫁は幸せになる」という意味の英語です。

ギリシャ神話から出た古代ローマ神話のうちの、結婚の女神JUNO(ジュノー)に由来します。

語源を季節や農作業に結びつけて探る考え方もあります。菜園をたがやす筆者もそれを気候にからませて見たいほうです。

ジューン・ブライドは、結婚式を「光がまぶしく空気がさわやかな6月」に行えば花嫁がうるわしく輝く、という意味にも取れると思います。

梅雨でうっとうしい日本とは違って、ヨーロッパの6月は暑くなく寒くなく、かつバラなどに代表される花々が咲きみだれる1年でもっとも美しい季節なのです。

アサリ&ボッタルガ800

ところで筆者にとっては6月は、例年ジューンブ・ライドならぬ「ジューン・バカンス」の季節です。

ここイタリアを含むヨーロッパのバカンス期は、6月にぼちぼち始まって7月に加速し、8月のピークを経て、9月いっぱいをかけてゆるゆると終息する、というふうです。

ただし、ギリシャとギリシャ以南の地中海のリゾート地は、10月もまだ十分に暑くバカンス客が多く滞在している光景も見られます。

そんな中での最適なバカンス時期は6月だと筆者は思っています。

花が咲き誇る地中海の島々や内国の初夏は雨が少なく、しかも夏時間のまっ最中ですから、南欧でも昼がいちばん長い季節。

その気になれば夜の8時、9時までビーチで過ごすこともできます。さらにビーチの後で食事や遊びにくり出す夜の歓楽街の風は、暑い7月や8月とは違って涼しい。

またバカンス最盛期ではないその時節は人出が少ない。そのこと自体も好都合ですが、人が混みあわない分ホテルやビーチ施設の料金など、あらゆるものの値段も安い。

良いことずくめなのです。

6月のバカンスの欠点は、普通の勤め人には休みをとるのが難しいという点です。欧州全体もまたイタリアも、サラリーマンが休めるのはやはり圧倒的に8月が普通なのです。

サントリーニ、pool船見下ろし800

 
筆者はドキュメンタリーや報道番組を手がけるフリーランスのTVディレクターです。

そんなヤクザな商売をしているおかげで、6月以外の季節に普通以上に頑張って仕事をする代わりに、皆が休めない時間に休めるという幸運に恵まれてきました。

そういうわけでことしも間もなく休暇に向かいます。2回のワクチン接種も受けましたので可能になりました。ワクチンがなければとてもかなわなかったことだろうと思います。

最近はほぼ毎年ギリシャで過ごしますが、コロナで痛めつけられたイタリアの観光業者の皆さんを支援する意味を込めて、今回は外国には出ず南イタリアを目指します。

24号アパートベランダ800

イタリアにも日本にもそして世界にも、困窮している人々が無数にいます。そんな折にバカンスに出るのは不謹慎かもしれません。

だが一方で、バカンス客や観光客がいないために大打撃を受けている観光業界や、飲食業界などの皆さんにとっては朗報です。できるだけポジティブに考えることにします。

来年以降はコロナ禍が終息して、ふだんのようにギリシャにも自由に渡れることを願っています。

イタリアは全体が一級のバカンス・リゾート地です。

ギリシャはその上を行く、いわば超一級のリゾート地です。地中海における位置関係が2者の違いを生みます。

地中海では西部よりも東部のほうが乾燥していて気温も高くなります。

たとえばイタリア半島の西にあるサルデーニャ島とエーゲ海の島々では、後者のほうがより高温で乾いています。

乾燥していて気温が高ければ、空気が澄んで空が青い。

空が青ければ海はなお青い。

サルデーニャ島よりも、ギリシャの島々の空と海がより深い青に見えるのは、それが理由のようです。

 

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台湾へのワクチン供与は管政権初のクリーンヒット

日本政府は新型コロナウイルスの感染が急拡大している台湾に対し、アストラゼネカのワクチンおよそ124万回分を無償で提供しました。

すばらしいことです。台湾へ、ひいては尖閣を介して日本へも軍事的な圧力をかけ続けている中国に対抗する意味でも、また単純に友好国の台湾を支援するという意味でも、快挙ではないでしょうか。

管政権が船出以来はじめて行ったまともな政治であり仕事に見えます。菅首相の時代錯誤とも見える訥弁や泥臭さや無能をうんざりしながら眺めていた筆者ですが、ここでは素直に賛辞を贈りたいと思います。

台湾の皆さんが東日本大震災の際に多くの義援金を送ってくださったのは記憶に新しい。その友情にこたえる意味でも、ワクチンを迅速に送ったのはきわめて適切な行為です。

台湾は周知のように親日の情の厚い国です。しかし日本人は台湾の皆さんの友誼また情誼に十分に応えているとは言いがたい面もあります。

これをきっかけに日本が台湾にもっと目を向け日台の友情がさらに深まれば、と思います。

個人的には筆者は2019年に台湾を旅して以来、以前にもましてすっかり台湾ファンになりました。

その理由としては、いうまでもなく台湾そのものの魅力が先ずありますが、台湾の人々が示す親日の情がとてもうれしかった、という事実も大きい。

日本と台湾の間には、こだわるつもりになれば気分が重くなる過去の因縁もあります。それを忘れてはなりませんが、負の遺産ばがりにかかずらうのではなく、お互いに未来志向で向き合うべきです。

日本はかつては加害者でした。したがってこちらから過去を水に流してください、とは言えないし言ってもなりません。それは台湾の方々の自発的な意思があって初めて成立することです。

そして台湾の皆さんはあらゆる機会を捉えて、過去のわだかまりを越える努力をし実践されています。日本の側も気持ちは同じですが、今後はもっともっとその機運を高め実行していくべきです。

中国は台湾への威嚇を続けています。香港も脅しています。尖閣諸島への我欲も隠そうとはしません。日本はまず台湾と共闘し、香港も仲間に入れつつ中国に対抗するべきです。それが尖閣を守ることにもつながります。

幸いアメリカも台湾と香港を中国の奸計 から守る意志を示しています。日本はアメリカとも連携して台湾や香港にもコミットメントするべきと考えます。

日本政府はワクチン提供をあえて6月4日に実行しました。それは明らかに天安門事件を意識した動きです。ご存じのように天安門事件は1989年6月4日に発生しました。

日本は中国が台湾のワクチン政策を妨害しているとの観測に基づいて、民主化勢力を弾圧した天安門事件に重ねて行動を起こしたのでしょう。

中国共産党はことし7月に結成100周年を迎えます。祝賀ムードを徹底して盛り上げたい習近平政権は、民主化を要求する学生らを弾圧し、多くの死傷者が出た天安門事件の記憶を封印しようと躍起になっています。

その心根は、台湾や香港を抑圧し他国の領土に食指をのばす悪行も生みます。日本はそろそろ覚悟を決めて、同盟国と連携しつつ中国に対峙するべきです。

その意味でもあえて6月4日を選んで台湾にワクチンを届けたのは意味のあることだと考えます。中国に勝手なまねばかりをさせてはならない、という覚悟を少しは示したのですから。

中国は例によって自らの行為を棚に上げて、日本はワクチンを政治目的で台湾に供給している、と鉄面皮な非難をしています。

常識や誠意のなかなか通じない野蛮性は相変わらずです。ワクチンを誰よりも政治的に操っているのは中国なのです。

中国をけん制し蛮行を阻止するためにも、日本はアメリカほかの同盟国とも協力して、必要ならば台湾へのワクチン提供をさらに進めるべきではないでしょうか。

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マフィアの殺人鬼との司法取引は正か邪か

2021年5月31日、マフィアの凶悪犯、ジョヴァンニ・ブルスカが刑期を終えて釈放されました。

ブルスカは2016年と2017年に獄死したマフィアの大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノとトト・リイナに続くコルレオーネ派のナンバー3とも目されます。

ブルスカが犯した殺人のうちもっとも知られているのは、反マフィアの旗手だったジョヴァンニ・ファルコーネ判事の爆殺。

パレルモ空港から市内に向かう判事の車を、遠隔装置の爆弾で吹き飛ばしたいわゆる「カパーチの虐殺」です。

また自らと同じマフィア内の敵への報復のために、相手の12歳の息子を誘拐して殺害し酸の中に遺体を投げ込んで溶かしました。

そうすることで遺族は子供を埋葬できずに苦しみが深まると考えたのです。

ブルスカは1996年に逮捕されました。そのとき取調官に「100人から200人を殺害した。だが正確な数字は分からない」と告白しています。

彼は終身刑になりましたが、後に変心していわゆるペンティート(悔悛し協力する者)となり、マフィアの内部情報を提供する代わりに大幅な減刑を受ける司法取引にも応じました。

ブルスカが25年の刑を終えて出所したことに対して、イタリア中には賛否両論が渦巻いています。

彼を釈放するべきではないという怒りの声が大半ですが、司法取引の条件が減刑なのだから仕方がない、という声も少なからずあります。

秘密結社であるマフィアには謎が多い。ブルスカのような大物が司法協力者となって情報をもたらす意義は小さくないのです。

ブルスカの手によって殺害されたファルコーネ判事の姉のマリアさんは「ブルスカの釈放には人として憤りを感じるが、司法協力者となったマフィアの罪人を減刑するのは、弟が望んだことでもあるので尊重するしかない」と語っています。

ブルスカのボスだった前述のリイナとプロヴェンツァーノは、マフィアの秘密をいっさい明かさないまま終身刑を受けて獄死しました。

ブルスカもその同じ道をたどることができましたが、司法に寝返りまた。

彼の告白は司法にとって重要なものだったとされます。同時にブルスカは全てを話してはいない、という否定的な意見もあります。

いずれにしても100人以上の人間を殺害した男が、終身刑を逃れて釈放されるのは異様です。

異様といえば、いかにもマフィアがからむ事案らしい面妖なことがあります。

ブルスカは獄中から彼の犠牲者の遺族に謝罪するビデオを公開しました。

ところがカメラに向かって話す彼の顔は覆面で覆われているのです。

彼の素顔は逮捕時にもその後にもいやというほどメディアその他で公開さています。いまさら顔を隠す意味がありません。

それにもかかわらずブルスカは、ビデオの中でセキュリティーのためにこうして覆面をしている、と述べます。

不思議はまだ続きます。

警官に囲まれて出所するブルスカは、左手で口のあたりを覆って顔を隠す仕草をしています。その絵が新聞の一面を飾っているのです。

一連の出来事が示唆しているのは、ブルスカがおそらく顔の整形手術を受けていることです。

マフィアから見れば彼は司法に寝返った裏切り者です。

ブルスカに恨みを抱く闇の世界の住民は多くいる、と容易に想像できます。

彼はマフィアの報復を避けるために警察の了解のもと、いやむしろ司法に強制されるような格好で整形手術を受けたと考えられます。

ブルスカは4年間の監視生活のあとで完全に自由になります。

その4年間はもちろん、その後も彼は常に警察の庇護を受けながら生きていくことになります。それが決まりです。

それでもマフィアの刺客の危険は付きまといます。しかもブルスカは自由人なのですだから、護衛官は人々にはそれとは分からない形で彼を守り続けるのでしょう。

ブルスカがひとりで行動することも増えるに違いない。だから顔の整形が役に立つ、ということではないかと思います。

しかし国家権力には慈悲などありません。

権力は将来、ブルスカを庇護する価値がない、と判断したときにはさっさと彼を見離すでしょう。

そればかりではなく権力は、整形のことも含めたブルスカに関する全ての情報を、彼の敵にリークしてしまうことも十分にあり得ると思います。

 

 

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権力者ではなく国民が威張るのが真の民主主義

国民と対話できない菅首相はうっとうしい稿に続いて菅首相について書きます。彼の存在は、日本の政治家の奇天烈を世界に知らしめるのに最善のテーマ、と考えます。そこで今後もこだわって書いていければと思っています。

それは筆者のこの文章が世界で読まれるという意味ではなく、彼の存在自体が世界に日本の政治の不思議を物語る。筆者その様子を語ろうという意味です。

適任者とも見えないのに、いわばタナボタのようないきさつで日本国のトップになった菅首相は、彼がその地位に登りつめたのではなく、国民がそこに据えてやったものです。

ところが菅首相は、権力者の常ですっかりそのことを忘れてしまったようです。あるいは彼はその事実を、事実通りに受け取って考えてみることさえないのもしれません。

だがわれわれ国民は決してそのことを忘れてはなりません。なぜならそれは民主主義の根幹にかかわる重大な要件だからです。

つまり国民が「主」であり彼ら権力者は「従」、という厳とした構造が民主主義であるという真実です。

それにもかかわらずに、特に日本の権力者は上下を逆転して捉えて、自らがお上であり主権者である国民が下僕でもあるかのように尊大な態度に出ます。

非はむろん政治家のほうにあります。だが、彼らをそんなふうにしてしまうのは、長い歴史を通して権力者に抑圧されいじめぬかれてきた国民の悲しい性(さが)でもある、という皮肉な側面も見逃せません。

日本国民が、民主主義の時代になっても封建社会の首木の毒に犯されていて、政治家という“似非お上”の前についつい這いつくばってしまうのです。

そして政治家は、彼らを恐れ平伏している哀れな愚民の思い込みを逆手に取って、ふんぞり返っている背をさらに後ろに反らして付け上がり、傲岸不遜のカタマリになってしまいます。

日本国民はいい加減に目覚めて、背筋を伸ばして逆に彼らを見下ろすべきです。

権力者が国民を見下ろす風潮は、民主主義がタナボタ式に日本に導入されて以後も常に社会にはびこってきました。厳しい封建制度に魂をゆがめられた日本人が、どうしてもその圧迫から脱しきれない現実がもたらす悲劇です。

明治維新や第2次大戦という巨大な世直しを経ても桎梏はなくなりませんでした。なくならなかったのは、世直しの中核だった民主主義が、日本人自らが苦労して獲得したものではなかったからです。

民主主義は欧米社会が、日本に勝るとも劣らない凶悪な封建体制を血みどろの戦いの末に破壊して獲得したものです。日本はその果実だけを試練なしに手に入れました。だから民主主義の「真の本質」がわからないのです。

菅首相は日本の未熟な民主主義社会で、その器とも見えないのに首相になってしまいました。そして首相になったとたんに、日本の政治権力者が陥るわなに見事にはまって、自らを過信して思い上がりました。

言葉を替えれば彼は、自らを「お上」だと錯覚しある種の国民もまた彼をそう見なしました。底の浅い日本民主主義社会でひんぱんに描かれる典型的な倒錯絵図です。

管首相はコロナ対策で迷走を繰り返しながら、国会質疑や記者質問に際して横柄な態度で失態を隠したり、説明責任を逃れたり、ブチ切れたり逆切れしたり、と笑止で不誠実な対応を続けました。

そこには国民との対話こそが民主主義の根幹、ということを全く理解できないらしい政治屋の、見苦しくうっとうしい姿だけがあります。

管首相の一連の失態の中でも最も重大な不始末は、ことし1月27日、国会質疑で立憲民主党の蓮舫代表代行に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことでしょう。

蓮舫氏の言い方に問題があったことよりも、管首相が国民の下僕である事実を忘れて国民への報告(=対話)を怠り、開き直って居丈高に振る舞ったことが大問題です。

日本最強の権力者という願ってもない地位を国民の“おかげ“で手に入れながら、彼は日本の政治家の常で自らが民衆の上に君臨する「お上」だと錯覚しました。

それは彼に限らず日本の政治家に特有の思い込みです。彼らは権力者という蜜の味の濃い地位に押し上げられたことに感謝し、謙虚にならなければならない。ところが逆に思い上がるのです。

民主主義における権力者は、あくまでも民意によってその地位に置かれている「市民の下僕」です。ところがその真理とは逆の現象が起こる。それはー繰り返しになりますがー日本の民主主義の底が浅いことが原因です。

国民は権力者に対して、「俺たちがお前を権力の地位に付けた。お前は俺たちの下僕だ。しっかり仕事をしなければすぐに首を切る(選挙で落選させる)。そのことを一刻も忘れるな」 と威圧しつづけるべきなのです。

国民は彼ら「普通の人」を、権力者という人もうらやむ地位に据えてやっています。国民はそのことをしっかりと認識して、彼らに恩を着せてやらなければなりません。

彼ら政治家や権力者が威張るのではなく、国民が威張らなければならない。それが良い民主主義のひな型なのです。

だが日本ではほぼ常に権力者が「主」で国民が「従」という逆転現象がまかり通ります。政権交代がなかなか起きないこともその負のメンタリティーを増長させます。

多くの先進民主主義国のように政権交代が簡単に起きると、国民は権力者の首が国民の手で簡単にすげ替えられるものであることを理解します。理解すると権力者にペこぺこ頭を下げることもなくなります。

具体的な例を挙げればイタリアで2018年、昨日までの政治素人集団だった「五つ星運動」が、連立政権を構築して突然権力の座に就きました。そんなことが現実に起きると、事の本質が暴かれて白日の下にさらされます。

つまり、言うなれば隣の馬鹿息子や、無職の若者や、蒙昧な男女や、失業者や怠惰な人間等々が、代議士なり大臣などになってしまう現象。彼らの在り方と組織構成が権力者の正体であり権力機構の根本なのです。

そういう状況が日常化すると、権力なんて実は誰でも手に入れられる、あるいは国民の力でどうにでもなる代物だ、ということがはっきりとわかって、民衆は権力や権力者を恐れなくなります。

そこではじめて、真の民主主義が根付く「きっかけ」が形成されていくのです。


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菜園の気さくなスターたち

菜園をたがやしてわかったことはたくさんありますが、作りやすい野菜と育てるのが難しい野菜がある、ということもそのひとつです。

そんなことはあたり前だと思っていましたが、じつはそれはどこかで読んだり聞いたりしたことで、自分で本当に野菜の種の選択や芽の成長過程などにかかわってみないかぎり、具体的にはわからないものだと気づきました。

筆者にとって作りやすい野菜とは、およそ次のようなものです。

種が早く、そして多く芽ぶく(つまりムダな種が少ない)。

萌えた芽の成長が早い。

水遣りや肥料がいらないか、最小限で済む。

病気になりにくい。

日照りや風や寒さに強い。など、など。

また地域によって異なる土質に適応しやすい。

土地の気候に順応しやすい。

などの人の力では変えられない条件に適合することも重要でしょうが、そうした点はあまり気にかけなくてもいいようです。

それというのも市販されている種子や苗は、種苗メーカーが長い間の経験で取捨していて、たとえば起源が南国の野菜でも寒い北イタリアで十分に育つ、などの品種改良がなされています。

逆に作りにくい野菜とは、上記とは逆の性質を持つもののことです。

10年あまりにわたって野菜を作った中で筆者が作りやすいと思うのは―いろいろありますがあえて二つだけを挙げるならば―ラディッシュと春菊です。

どちらも種をまき散らしておけば確実に芽ぶき、成長も早い。水遣りも少なくて済みます。また追肥もいりません。

ラディッシュは欧州で盛んに栽培されます。

春菊はここにはありませんので日本から種を持ち込みます。

ラディッシュはサラダで食べるのが主流ですが、煮たり焼いたり漬物にしたりもできます。

筆者はほぼ大根と同じとらえ方で扱い調理します。

上の写真は収穫したばかりのラデッシュを葉とともに味噌をまぶして半日ほど漬け込んだもの。イタリア人の友人らにも好評な味です。

一方春菊は、自分で作ってはじめて生食できることを知りました。新芽あるいは若芽を刈ってサラダにします。

みずみずしく香りもまろやか。きわめて美味です。

かつては筆者にとって春菊とは、においのきつい、鍋に入れることが多い、個性の強烈な野菜のことでした。

が、菜園で栽培して初めて、新芽がにおいも味もたおやかで上品な野菜だと知りました。

春菊の新芽のサラダを食べるのは、菜園をたがやす者の特権だとひとり合点していますが、実際はどうなのでしょうか。

ラディッシュも春菊も、春浅い時期に種をまいてもよく芽ぶきます。成長があきれるほどに早く、数週間から遅くても1ヵ月ほどで食べごろになります。

ラディッシュは一度収穫したらそれで終わりですが、春菊は切り取った茎からまた芽が出てくるので何度も収穫できます。

新芽を食べつづければ、夏の間ずっと楽しむことができます。

春菊はサラダ以外に、野菜炒めに加えたり、豆腐と煮たり、白和えにしたりもします。

だがここイタリアで新芽を食べる場合は、他のサラダ菜とまじえる生食がほとんどです。

そのときはオリーブ油と醤油だけで和えるのが鉄則です。

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「島人大統領&島人判事」対「島マフィア」

1992年5月23日17時半頃、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の乗った車が、シチリア島パレルモのプンタライジ空港を市内に向けて走り出しました。

ファルーネ判事はマフィア殲滅を目指して戦うイタリアの反マフィア勢力の旗手。島の出身であることを活かして、闇組織との激しい法廷闘争を繰り返していました。

自動車道を時速約150キロ(140キロ~160キロの間と推測される 。判事の車はマフィアの襲撃を防ぐために常に高速走行することが義務付けられていた)で疾駆していた車が17時56分48秒、凄まじい爆発音と共に中空に舞い上がりました。

ファルコーネ判事と同乗していた妻、さらに前後をエスコートしていた車中の3人の警備員らが一瞬にしてこの世から消えました。

マフィアはそうやって彼らの敵であるファルコーネ判事を正確に葬り去りました。

いわゆる「カパーチの悲劇」です 。

ほぼ2ヶ月後の7月19日、ファルコーネ判事の朋友で反マフィア急先鋒のパオロ・ボルセリーノ判事もパレルモ市内で爆殺されました。

セルジョ・マタレッラ大統領はコロナ禍中の5月23日、パレルモ市内の刑務所のホールで催されたファルコーネ、ボルセリーノ両判事の29回目の追悼式典に参列しました。

それはマタレッラ大統領の最後の式典参加になると見られています。彼の任期は来年2月まで。大統領は2期目の選挙への出馬は目指さない、とつい先日明言しました。

マタレッラ大統領はシチリア島人です。そればかりではありません。彼は家族をマフィアに殺された凄惨な過去を持っています。

1980年1月6日、シチリア州知事だった兄のペルサンティ・マタレッラがマフィアに襲われて死にました。州知事は反マフィア活動に熱心でした。

それに怒った犯罪組織が刺客を送って知事に8発の銃弾を撃ち込みました。

たまたまその場に居合わせたセルジョ・マタレッラは、救急車に乗り込んで虫の息の兄を膝に抱いたまま病院に向かいました。

兄の体とそれを掻き抱いている弟の体が鮮血にまみれ車中に血の海が広がりました。

そのむごたらしい出来事が、当時は学者だったセルジョ・マタレッラを変えました。

彼は兄の後を継いで政治家になる決心をししたのです。

マフィアを合法的に殲滅するのが目的でした。3年後、彼は下院議員に初当選。

そうやって筋金入りの反マフィア政治家、セルジョ・マタレッラが誕生しました。

2015年、セルジョ・マタレッラはイタリア共和国大統領に選出されました。

マフィア撲滅を願う彼は、殺害された反マフィア判事らの追悼式にも毎年参列してきました。

シチリア島を拠点にするマフィアは、近年イタリア本土の犯罪組織ンドランゲッタやカモラに比べて陰が薄いように見えます。

だがそれはマフィアが消えたことを全く意味しません。

マフィアから見れば、新興勢力とも呼べるンドランゲッタやカモラが派手に活動するのを隠れ蓑にして、老舗の暗黒組織はむしろ執拗にはびこっています。

現にコロナパンデミック禍中では、マフィアが困窮した事業や一般家庭を援助する振りで取り入り、彼らを食い物にする実態なども明らかになりました。

マフィアを完全に駆逐することは難しい。

それでも反マフィアの看板を下ろさないマタレッラ大統領は、あるいは来年からは市民のひとりとして、故郷の判事追悼式典に参加するのかもしれません。

 

 

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ワクチン抜け駆け接種者も許すイタリアの空気感

イタリアを含むEU(欧州連合)のワクチン接種戦略は、宇紆余曲折をたどりながらもほぼ軌道に乗りつつあります。

2021年、5月18日現在のイタリアのワクチン接種状況は:19.618.272人で人口の 32,89% 。このうち2回接種を受けた者:9.241.064人で人口の15,49%。

接種率約33%というイタリアの数字は、EU全域の数字と見てほぼ間違いありません。

EU27ヵ国は共同でワクチンを購入し、人口に応じて公平に分配する仕組みを取っています。人口が多いほど受け取るワクチンの数は多くなりますが、接種比率はほぼ同じです。

しかし国によって接種状況は違います。

ある国は高齢者への接種を優先させ、ある国は医療従事者への接種をまず徹底し、他の国は両方を組み合わせるなど、国によってワクチンの使い道は自由に裁量できるのです。

例えばここイタリアでは医療従事者への優先接種を大幅に進めたあとで、80歳以上の高齢者への接種を始めました。

5月20日現在は、50歳代の国民への接種も開始されています。

ワクチンの数が足りなかった2月から3月にかけては、順番や年齢を無視して抜け駆け接種をする不届き者の存在が問題になりました。

筆者の近くでも、介護で多くの老人に接することが多い、と偽って抜け駆け接種をした女性がいます。50歳代の彼女は他人の家で働くいわゆる家事手伝い。

長い間寝たきりだった夫を介護していた事実を利用して、あたかも他者の介護もする介護人資格保有者のように装い2月頃にワクチンの優先接種を受けました。

そのことがバレて近所で評判になりましたが、彼女は悪びれず「私は他人の家に入って清掃をするのが仕事。人の家だから感染のリスクが高い」と強弁してケロリとしていました。

似たようなことがイタリア中で起こりました。4月初めの段階で、自分の番でもないのに割り込みで抜け駆け接種を受けた者は、全国で230万人にものぼりました。

中でも南部のシチリア、カラブリア、プーリア、カンパーニャ各州で割り込み接種が多く、4州ではそのせいで優先接種を受けるべき80歳代以上の住民の接種が大幅に遅れました。

そのうちナポリが州都のカンパーニャ州では、デ・ルーカ州知事自身が順番を無視して抜け駆け接種をしたことが明るみに出ました。

批判を浴びると知事は、「カンパーニャ州は年齢順ではなく業種別に接種を進める」と開き直りました。

南部4州に加えて、フィレンツェが州都のトスカーナ州でも割り込み接種が多くありました。同州では80歳以上の人を尻目に接種を受けた狡猾漢が、弁護士や役場職員や裁判官などを中心に12万人にも及びましだ。

似たようなことは、お堅いはずのドイツでさえ起こってます。例えば旧東ドイツのハレ市では、64歳の市長が、優先接種の対象となっている80歳以上の人々を出し抜いてワクチン接種を受けました。

市長は「時間切れで廃棄処分に回されそうなワクチンを接種しただけ」と言い訳しました。しかし原理原則に厳しいドイツ社会は抜け駆けを許さず、辞職を含む厳しい処分を受けると見られています。

同様な問題は日本でも起こっています。が、ドイツほどの苛烈な批判にはさらされていませんし、状況そのものもイタリアほどひどくはありません。とはいうものの、どの国であれ、コネや地位を利用しての抜け駆け接種はやはり見苦しい。

その一方で、ドイツの厳格さも息が詰まるように感じるのは、よく言えばイタリア的寛容さ、悪く言えばイタリア的おおざっぱに慣れた悪癖なのかもしれません。

「人は間違いをおかす。だから許せ」が信条のイタリア人は、醜聞まみれのあのベルルスコーニさんも許し、ワクチン抜け駆け接種のろくでなしなども最終的には許してしまいます。

人間ができていない筆者は、どちらも許せないと怒りはするものの、結局イタリア人の信条にひそかに敬服している分、ま、しょうがないか、と流してしまういつもの体たらくです。

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国際的味覚

値段の高いものを人がおいしいと感じるのは、下品どころか、感情を備えた人間特有の崇高な性質ではないでしょうか。

例えば筆者は、サクランボが大好きですが、イタリアで食べるサクランボは日本で食べるよりもはるかにおいしい。

日本とイタリアのサクランボの味は「物理的」にはあまり変わりがないのかも知れません。

だが筆者は明らかにイタリアのものがおいしいと感じます。なぜか。

イタリアのサクランボはドカンと量が多いからです。

サクランボを大量に、口いっぱいにほおばっているとき、筆者は日本ではあんなにも値段の高い高級品を、今はこんなにもいっぱい食べまくっている、という喜びで心の中のおいしさのボルテージが跳(は)ね上がっているのです。

恐らくこれはイタリア人が感じているものよりも、ずっとずっと大きなおいしさに違いない。

なぜなら彼らは、サクランボの「物理的な」おいしさだけを感じていて、日本の山形あたりのサクランボの「超高級品」という実態を知らないから、従って「ああ、トクをしている」という気分が起こらない。

筆者は日本を出て外国に暮らしているおかげで、時にはこういういわば「味の国際化」の恩恵を受けることがあります。

しかし、これはいいことばかりとは限りません。

というのも筆者は日本に帰ってサクランボを食べるとき、そのあまりの量の少なさに、ありがたみを覚えるどころか、なんだかケチくさい悲しみを感じ、もっとたくさん食わせろと怒って、おいしさのボルテージが下がってしまう。

このように、何事につけ国際化というものは善(よ)しあしなのです。

 

 

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