“違うこと”は美しい

筆者はここイタリアではミラノにある自分の事務所を基点にテレビの仕事をして来ましたが、これまでの人生ではイギリスやアメリカにも住まい、あちこちの国を旅し、学び、葛藤し、そしてもちろん大いに仕事もこなして来ました。そんな外国暮らしの日々は、とっくの昔に筆者が大学卒業まで暮らした故国日本での年月よりも長くなってしまいました。

長い外国暮らしを通して筆者はいろいろなことを学びましたが、その中で一つだけ大切なものを挙げてみろと言われたなら、それは”違い”を認める思考方法と態度を自分なりに身につけることができた件だと思っています。

国が違えば、人種が違い言葉が違い文化も習慣も何もかも違う。当たり前の話です。ある人は、人間は全ての違いがあるにもかかわらず、結局は誰も皆同じであると言います。またある人は逆に、人間は人種や言葉や文化や習慣などが違うために、お互いに本当に理解し合うことはできないと主張します。それはどちらも正しく且つどちらも間違っています。なぜなら人種や言葉や文化や習慣の違う外国の人々は、決してわれわれと同じではあり得ず、しかもお互いに分かり合うことが可能だからです。

世界中のそれぞれの国の人々は他の国の人々とは皆違う。その「違う」という事実を、素直にありのままに認め合うところから真の理解が始まります。これは当たり前のように見えて実は簡単なことではありません。なぜなら人は自分とは違う国や人間を見るとき、知らず知らずのうちに自らと比較して、自分より優れているとか、逆に劣っているなどと判断を下しがちだからです。

他者が自分よりも優れていると考えると人は卑屈になり、逆に劣っていると見ると相手に対してとたんに傲慢になります。たとえばわれわれ日本人は今でもなお、欧米人に対するときには前者の罠に陥り、近隣のアジア人などに対するときには、後者の罠に陥ってしまう傾向があることは、誰にも否定できないのではないでしょうか。

人種や国籍や文化が違うというときの”違い”を、決して優劣で捉えてはなりません。”違い”は優劣ではありません。”違い”は違う者同士が対等であることの証しであり、楽しいものであり、面白いものであり、美しいものです。

筆者は今、日本とは非常に違う国イタリアに住んでいます。イタリアを「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」の国と語呂合わせに呼ぶ人々がいます。三つのイタリア語は周知のように「食べ、歌い、愛する」という意味ですが、筆者なりにもう少し意訳をすると次のようになります。

つまり「イタリア人(男)はスパゲティーやピザをたらふく食って、日がな一日カンツォーネにうつつを抜かし、女のケツばかりを追いかけているノーテンキな国民」です。それらは、イタリアブームがはるか前に起こって、この国がかなり日本に知れ渡るようになった現在でも、なおかつ日本人の頭の中のどこかに固定化しているイメージではないでしょうか。

ステレオタイプそのものに見えるそれらのイタリア人像には、たくさんの真実とそれと同じくらいに多くの虚偽が含まれていますが、実はそこには「イタリア人はこうであって欲しい」というわれわれ日本人の願望も強く込められています。つまり人生を楽しく歌い、食べ、愛して終えるというおおらかな生き方は、イタリア人のイメージに名を借りたわれわれ自身の願望にほかならないのです。

そして、当のイタリア人は、実は誰よりもそういう生き方を強く願っている人々です。願うばかりではなく、彼らはそれを実践しようとします。実践しようと日々努力をする彼らの態度が、われわれには新鮮に映るのです。

筆者はそんな面白い国イタリアに住んでイタリア人を妻にし、肉体的にもまた心のあり方でも、明らかに日伊双方の質を持つ二人の息子を家族にしています。それはとても不思議な体験ですが、同時に「家族同士のつき合い」の積み重ねという意味では、世界中のどこの家族とも寸分違わない普通の体験でもあります。

日本に帰ると「奥さんが外国人だといろいろ大変でしょうね」と筆者は良く人に聞かれます。そこで言う大変とは「夫婦の国籍が違い、言葉も、文化も、習慣も、思考法も、何もかも違い過ぎて分かり合うのが大変でしょうね」という意味だと考えられます。しかし、それは少しも大変ではないのです。私たちはそれらの違いをお互いに認め合い、受け入れて夫婦になりました。違いを素直に認め合えばそれは大変などではなく、むしろ面白い、楽しいものにさえなります。

日本人の筆者とイタリア人の妻の間にある真の大変さは、私たち夫婦が持っているそれぞれの「人間性の違い」の中にあります。ということはつまり、私たちの大変さは、日本人同士の夫婦が、同じ屋根の下で生活を共にしていく大変さと何も変わらないのです。なぜなら、日本人同士でもお互いに人間性が違うのが当たり前であり、その違う2人が生活を共にするところに「大変」が生じます。

私たちはお互いの国籍や言葉や文化や習慣や何もかもが違うことを素直に認め合う延長で、人間性の違う者同志がうまくやって行くには、無理に“違い”を矯正するよりも「違うのが当然」と割り切って、お互いを認め合うことが肝心だと考え、あえてそう行動しようとします。

それは一筋縄ではいかない、あちこちに落とし穴のある油断のならない作業です。が、私たちは挫折や失敗を繰り返しつつ“違い”を認める努力を続け、同時に日本人の筆者とイタリア人の妻との間の、違いも共通点も全て受け継いで、親の欲目で見る限りまあまあ良い方向に育ってくれた息子2人を慈しみながら、日常的に寄せる喜怒哀楽の波にもまれて平凡に生きています。

そして、その平凡な日常の中で筆者は良く独(ひと)りごちるのです。

――日本とイタリアは、この地球上にたくさんある国のなかでも、たとえて言えば一方が南極で一方が北極というくらいに違う国だが、北極と南極は文字通り両極端にある遠い大違いの場所ながら、両方とも寒いという、これまた大きな共通点もあるんだよなぁ・・・――

と。

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銃弾とコロナが飛び交う時節

 

欧州は新型コロナ感染拡大第2波に襲われつつあります。それどころか、スペイン、フランス、イギリス等の感染状況を見ると、第2波の真っただ中という見方もできます。

そんな中でもいや感染を恐れて家に閉じこもる機会が多いそんな折だからこそヨーロッパ人は狩猟に出ることをやめません。

欧州の多くの国の狩猟解禁時期は毎年9月です。新年をまたいで2月頃まで続きます。いうまでもなく細かい日時は国によって異なります。

たとえばイタリアは9月の第一日曜日に始まり約5ヶ月にわたって続きます。フランスもほぼ似通っています。

一方、狩猟超大国のスペインは春にも狩猟シーズンがあって、一年のうちほぼ9ヶ月間は国中の山野で銃声が聞こえます。

スペインの狩猟は悪名高い。狩猟期間の長さや獲物の多さが動物愛護家やナチュラリスト(自然愛好家)などの強い批判の的になります。

2012年には同国のフアン・カルロス前国王が、ボツワナで像を撃ち殺して世界の顰蹙を買い、スペインの狩猟の悪名アップに一役買いました。

もっとも狩猟への批判は、フランスやイタリアでも多い。欧米の一般的な傾向は、銃を振り回し野生動物を殺すハンティングに否定的です。

近年はハンターも肩身の狭い思いをしながら狩猟に向かう、といっても過言ではありません。彼らの数も年毎に減少しています。

それでもスペインでは国土の80%が猟場になっていて、今でも国民的スポーツ、と形容されることが多い。正式に狩猟ライセンスを保持しているハンターはおよそ80万人です。

しかし実際には密猟者と無免許のハンターを合わせた数字が、同じく80万程度になると考えられています。つまり160万人もの狩猟者が野山を駆け巡るのです。

イタリアのハンターは75万人。状況はスペインやフランスなどと同じで、多くの批判にさらされて数は年々減っています。しかし、真の愛好者は決してその趣味を捨てません。

かつてイタリア・サッカーの至宝、と謳われたロベルト・バッジョ元選手も熱狂的ハンターです。彼は仏教徒ですが、殺生を禁忌とは捉えていないようです。

狩猟が批判されるもうひとつの原因は、銃にまつわる事故死や負傷が後を絶たないことです。犠牲者は圧倒的にハンター自身ですが、田舎道や野山を散策中の関係のない一般人が撃ち殺される確立も高い。

狩猟は山野のみで行われるのではありません。緑の深い田舎の集落の近辺でも実行されます。フランスやイタリアの田舎では、家から150メートルほどしかない範囲内でも銃撃が起こるのです。

そのため集落近くの田園地帯や野山を散策中の人が、誤って撃たれる事故が絶ちません。狩猟期間中は山野はもちろん郊外の緑地帯などでも出歩かないほうが安全です。

イタリアでは昨年秋から今年1月末までのシーズン中に、15人が猟銃で撃たれて死亡し49人が負傷しました。また過去12年間では250人近くが死亡、900人弱が負傷しています。

またフランスでは毎年20人前後が狩猟中に事故死します。2019年の秋から今年にかけての猟期には、平均よりやや少ない11名が死亡し130人が負傷しました。

狩猟の規模が大きくハンターも多いスペインでは、一年で40人前後が死亡します。また負傷者の数は過去10年の統計で、年間数千人にも上るという報告さえあります。

事故の多さや批判の高さにもかかわらず、スペインの狩猟は盛況を呈します。経済効果が高いからです。スペインの狩猟ビジネスは12万人の雇用を生みます。

ハンティングの周囲には狩猟用品の管理やメンテナンス、貸し出し業、保険業、獲物の剝製業者、ホテル、レストラン、搬送業務など、さまざまな職が存在します。

スペインは毎年、世界第2位となる8000万人を大きく上回る外国人旅行者を受け入れます。ところが新型コロナが猛威を振るう2020年は、その97%が失われる見込みです。

観光業が大打撃を受けた今年は国内の旅行者が頼みの綱です。その意味でもほとんどがスペイン人である狩猟の客は重要です。2020年~21年のスペインの狩猟シーズンは盛り上がる気配がありますが、それは偶然ではありません。

スペインほどではありませんがここイタリアの狩猟も、またフランスのそれも盛況になる可能性があります。過酷なロックダウンで自宅待機を強いられたハンター達が、自由と解放を求めて野山にどっと繰り出すことが予想されます。

欧州では2020年秋から翌年の春にかけて、鹿、イノシシ、野生ヤギ、ウサギまた鳥類の多くが狩られ、ハンターと同時に旅人や散策者や住人が誤狙撃されるいつもの危険な光景が出現することになります。

その同じ欧州は新型コロナの感染拡大第2波に襲われています。外出をし、移動し、郊外の田園地帯や山野を旅する者は従って、狩猟の銃弾の剣呑に加えて新型コロナウイルスの危険にも晒される、という2重苦を味わうことになりそうです。


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狂犬vs痩せ犬 

イタリア時間9月30日の午前3時に始まった、米大統領選に向けてのトランプvsバイデン候補の討論会を見ました。期待はずれのひどい見せ物でした。

子供のののしり合い、というと子供に失礼なので、「狂犬と痩せ犬」の吼え合い、と穏健な表現で中身を描写しておこうと思います。

狂犬はいうまでもなくトランプ候補。例によってこれがアメリカ大統領かと耳を疑い目をむきたくなる下品で、野卑で、尊厳のひとかけらもない言動のオンパレードでした。

一方のバイデン候補には「負け犬」という称号を与えたいところです。しかしながら、トランプ候補に比べると、少しは言動の野蛮度が低かったことに鑑みて、「痩せ犬」と形容するにとどめておきます。

およそ討論とは呼べない激しい言葉の応酬は、トランプ候補が繰り返しバイデン候補の発言を遮り、バイデン候補がトランプ候補を「嘘つき」「史上最悪の大統領」などと罵倒する流れの中で、どんどんヒートアップして混乱の極みに達しました。

一時間半におよぶ討論会では、新型コロナウイルスや人種問題や経済、また保守派で固められつつある最高裁判事事案や、選挙そのものの信頼性への疑問等々がテーマになりました。

しかし、両候補は政策論や政治論の入り口にさえ入ることなく、相手への誹謗中傷に終始しました。それはトランプ候補のトランプ候補らしい傍若無人な言動によって始められ拡大しました。

だが、そうはいうものの、バイデン候補にも大人の知性と分別で相手に対峙するほどの能力はさらさらなく、どちらも似たり寄ったりの無残な姿態をさらし続けました。

司会者がトランプ候補に白人至上主義者を否定するよう求める場面もありました。

トランプ候補は独特の狡猾な言い回しで否定も非難もしませんでした。司会者の要求をかわしつつ、選挙結果が信用できない形になる恐れがある、と自らの敗北を意識してそれを認めない可能性を示唆するありさまでした。

トランプ候補とどっこいどっこいの下劣と威儀の無さで印象の薄かったバイデン候補はそれでも、ヘイトスピーチと遜色の無いトランプ候補の咆哮の間隙を縫って重要な指摘もしました。

いわく、
トランプ大統領のもとで米国は分断され、弱体化し貧しくなって、国民はより暴力的になる。また私はロシアのプーチン大統領に対して、彼の政治手法は断じて受け入れられない、と面と向かって伝えたが、トランプ候補は彼に何も言えない。プーチンの犬になっている。

いわく
(トランプ大統領が所得税をほとんど納めていないという疑惑を受けて)
大金持ちのトランプ候補が納めた税金は学校の教師よりも少ない。そんな男が大統領だなんて最悪の事態だ。

いわく
トランプ大統領は金融市場にしか興味が無い。新型コロナウイルスによる死者が急増し世界最悪になっているのに、経済活動を再開させると言い張っている。Covid19恐慌を抑えなければ経済を回復させることなどできない。

云々。

エール大学経営大学院の統計によると、まるで新型コロナに絡めて経済に言及したバイデン候補に同調するのでもあるかのように、アメリカの77%の企業幹部が選挙では民主党のバイデン候補に投票する、としています。彼が法人や金持ちに対する税を引き上げる、と公約しているにも関わらずです。

そのことは選挙結果の重大な内容を示唆しているようにも思えますが、前回選挙でトランプ候補の落選を予想してスベリ続けた自分を恥じ、反省する意味合いでも、これ以上の言及は避けておきたいと思います。

 

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蓮の台でコロナを迎え撃つ

【新聞同時投稿コラム】

~同床異夢~

欧州ではスペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に多くの国で新型コロナの感染が拡大している。第2波である。

そんな中、かつて欧州どころか世界でも最悪のコロナ感染地だったもう一つの大国イタリアは、感染拡大が最も少ない部類の国になっている。

イタリアは3月から4月にかけてコロナ恐慌で呻吟した。医療崩壊に陥り、これまでに3万5千人余の患者と177名もの医師が新型コロナで死亡するいう惨状を呈した。

当時イタリアには見習うべき規範がなかった。孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験した。

世界一過酷なロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服した。だが国民の間には巨大な恐怖心が残った。そのために少し感染拡大が進むと人々は即座に緊張する。

イタリア国民はかつてロックダウンの苛烈な規制だけが彼らを救うことを学び、それを実践した。規制の多くは今も実践している。

国の管制や命令や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことだ。

イタリアに続いて、例えばスペインもフランスも感染爆発に見舞われ医療危機も体験した。だが、スペインとフランスにはイタリアという手本があった。失敗も成功も悲惨も、両国はイタリアから習ぶことができた。

恐怖の度合いがイタリアに比べて小さかった二国は、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開した。その結果感染拡大が急速に始まった。そうした状況は他の欧州のほとんどの国々にも当てはまる。

イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものではない。

イタリアでも新規の感染者は着実に増えている。結局イタリアも欧州の一部だ。コロナ禍の先行きはまだ全く見えないのである。

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コロナがいてもトマトソースは作らねば

今年は菜園のトマトが不作でした。新型コロナのせいです。もっと正確に言えば、新型コロナの脅威に心が折れて、菜園から足が遠のき種まきや苗の植え付けが少し時期外れになりました

植え付けてからの世話も後回しになり、遅れ、見逃し、忘れがちになりました。一時は世界最悪だったイタリアのコロナ禍は、それほどに凄まじかったのです

加えて菜園の土の地味が弱いのも不作の一因になっているようです。野菜作りは土作りで。地味が良くなかったり土が瘠せていては作物は大きく育ちません

トマト以外の、例えばフダン草やナスや春野菜の出来も良くありませんでした。堆肥の投入が必要なようです。菜園は完全な有機栽培で

不作ながら8月と9月の2回、トマトソース作りをしました。8月には500ml 9+250ml 1本、9月には500ml 7本、計いわば16,5本。8リットル余のトマトソースを作りました。例年よりも大分少ない。

家族や友人に分けると自家消費分はほとんど残らないでしょう。しかし、皆楽しみにしているので、分けないわけにはいきません

トマトソース作りは:

1先ずトマトのヘタ周りに包丁を入れて芯をえぐり取る。

2反対側にやはり包丁で十文字(✕印でも何でもいい)の切り込みを入れる(そうしておくとトマトを茹でたとき皮がつるりと剥ける)。

3トマトを沸騰した湯に浸し、取り出して冷水に投げ込み冷やす。

4皮を剥き、適当な大きさに切るなりして身を絞り出す。皮は捨てる。芯と同様に硬くてソースには向かないから。

5絞り出した身を沸騰させて煮ながら水分を飛ばす。どろりとした感じなった時点で火を止め、そのまま冷ます(一晩なり)。

6保存用の容器(瓶など)に移し(分け)入れ、ソースを覆うようにオリーブ油を少し加える。きっちりと蓋をする。

7.全ての瓶が出来上がったら、瓶の全体が水に浸かる深さの鍋に入れ、冷水から沸騰させる(煮沸していく)。

8沸騰したらそのまま5分ほど置き、火を消す。

9鍋の中で冷ます(一晩なり)。湯が完全に冷めたら一本一本取り出す。出来上がり。

ソースには塩やハーブを加えても良い。筆者は一切何も入れません。後で調理をするときに好きなだけ追加すればいい、と考えるからです

ソースはきっちりと手順を踏んで作れば常温でも1年は保ちます。冷蔵保存すればもっと長持ちします筆者の場合は冷蔵保存で3年、という記録があります。

味や品質に全く問題はありませんでした。しかし科学的、専門的に見たときにどうなのかは分かりません。従って長期の保存はおすすめはできません。

そのときのソースは3年目で食べつくしましたが、残っていればもしかするとそれ以上長持ちしたかも、というふうにも思いました

 

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ロックダウンのバタフライ効果

欧州を新型コロナ感染拡大の第2波が襲いつつあります。スペイン、フランス、イギリスなどの大国を中心に感染が急速に拡大しています。フランスの一日あたりの感染者数が13千人を超えたり、スペインがその上を行き、 最近のイギリスの一日当たりの感染者数が4000人前後に達するなど、状況が切迫してきました。

そうした中、かつて欧州どころか世界最悪のコロナ感染地だったもうひとつの大国イタリアは、感染拡大を抑えて欧州の優等生と形容しても過言ではない平穏を保っています。一例を挙げれば9月18日現在、人口10万人あたりの2週間の平均感染者数はスペインが292,2人、フランスが172,1人に対しイタリアは33人にとどまっています 。

なぜイタリアの感染拡大が抑えられているのか。専門家によれば優れた検査システムと効果的な感染経路追跡手法、また厳格な感染防止策や的確な安全基準などが功を奏しているとされます。

そしてさらに大きいのは、イタリアがどの国よりも早くロックダウンを開始し、どの国よりも遅くそれを解除した事実です。しかもイタリアは全土封鎖を迅速に行い、且つそれの解除の際は他の国々のように急いで規制を緩和するのではなく、段階を踏んでゆるやかに行いました。

一方イタリア以外の国々は、ロックダウンをためらってその導入が遅れ、封鎖はしたものの、より規模の小さな、より弱い規制をかけました。その上彼らはロックダウンの解除を、より迅速により広範に行いました。それが国々の感染拡大の要因である、とします。

むろんそうした要素は疑いなく存在します。だがそれに加えて、ここイタリアにいて筆者が実感し強く思うこともあります。つまりイタリア国民の中に植えつけられた新型コロナへの強い恐怖感が、感染拡大の抑止に貢献しているのではないか、ということです。

イタリアは2月から4月にかけて、コロナ恐慌に陥って呻吟しました。医療崩壊に陥り、累計で千人余の患者と、なんと177名もの医師が新型コロナで死亡するという惨状に苦しみました。

感染爆発が起きた2月、イタリアには見習うべき規範がありませんでした。イタリアに先立って感染拡大が起きていた中国の被害は、イタリアのそれに比較して小さく、ほとんど参考になりませんでした。イタリアは孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験しました。

世界一厳しく、世界一長いロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服しました。だが国民の間には巨大な恐怖心が残りました。そのために少し感染拡大が進むと人々は即座に緊張します。彼らは恐怖に駆られて緩みかけた気持ちを引き締め、感染防止のルールに従う、という好循環が起きています。

コロナ地獄の中でイタリア国民は、ロックダウンの苛烈な規制の数々だけが彼らを救うことを学び、それを実践しました。規制の一部は今も厳格に実践しています。規則や禁忌に反発し国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことです。

多くの国がロックダウンを急ぎ解除した最大の理由は ― 感染拡大が縮小したこともありますが ― 経済活動の再開でした。ロックダウンによって各国の経済は破壊されました。あらゆる国が経済活動を元に戻さなければなりませんでした。それでなければ貧困が新型コロナを凌駕する困難をもたらすことが予想されました。

イタリアの経済状況は欧州の中でも最悪の部類に陥りました。コロナ以前にも決して良くはなかった同国経済は、全土にわたる封鎖によって壊滅状態になりました。それでもイタリアはロックダウンの手を緩めず、どの国よりも過酷にそれを続けました。なぜでしょうか。

それはひとえにイタリアが味わった制御不能な感染爆発と、それによってもたらされた前述の医療崩壊の恐怖ゆえでした。患者のみならず、医者をはじめとする医療従事者までが次々と犠牲になる新型コロナとの壮絶な戦いの様子は、連日連夜メディアによってこれでもかと報道され続けました。ロックダウンによって自宅待機を強制された国民は、文字通り朝から晩までテレビの前に釘付けになって、医療現場の地獄を目の当たりにしました。

医療現場の修羅は、鮮烈な臨場感を伴って人々の胸を突き刺しました。特に医療崩壊が激しかった北部州では、身近の者がバタバタと死んでいく現実と相まって、普段は目にすることが少ない医療現場の凄惨悲壮な地獄絵が人々を責めさいなみましだ。

イタリアに続いてスペインも感染爆発に見舞われ医療危機も体験しました。だが、スペインにはイタリアという手本がありました。失敗も成功も悲惨も、スペインはイタリアから習うことができました。恐怖の度合いがはるかに小さかったスペインは、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開しました。 

スペインを追いかけてフランスもイタリアに倣いロックダウンを導入しました。だが仏西両国はイタリアよりも早くロックダウンを緩和しました。例えばイタリアは学校を9月13日まで完全閉鎖して14日から再開しましたが、全国一斉の措置ではなく地方によってはさらなる閉鎖を続けました。つまり感染状況を見極めながらの段階的な再開に留めたのです。

一方スペインは9月初めに学校を全面再開。フランスに至っては5月から段階的に学校を開きました。またイタリア政府がサッカーなどのプロスポーツ観戦の客数を1000人までとした段階で、フランスはプロテニスの観客数をイタリアの11倍以上の11500人まで認めるなど、多くの場面でイタリアよりもより遅く規制をかけ、イタリアよりもより早く且つ大幅に規制を緩和する措置を取り続けてきました。

それが今現在のイタリアと仏西両国の感染状況の差になって現れています。ちなみに感染拡大が懸念されている英国ほかの欧州各国も、スペインやフランスとほぼ歩調を合わる形でロックダウンを管理してきました。その結果、感染拡大が再び急速に始まったのです。

イタリアの平穏な状況は、しかし、同国のコロナ禍が終わったことを意味するものでは全くありません。イタリアでも新規の感染者は着実に増えています。つまるところイタリアも欧州の一部です。コロナ禍の先行きは他の国々と同様にまだ少しも見えないのです。

 

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パスタをスプーンで食う不穏と愉快

ここのところスパゲティやパスタに言及する機会が多かった。そこでついでにもう一点その周辺にこだわって記しておくことにしました。

筆者はこの直近のエントリーで、スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい。食事マナーに国境はない、と書きました。

だが、しかし、右手にフォーク、左手にスプーン姿でスパゲティを食べるのはアメリカ式無粋だからやめた方がいい、という意見があることは指摘しておこうと思います。

フォークにからめたスパゲティをさらにスプーンで受けるのは、湯呑みの下にコースターとか紅茶受け皿のソーサーなどを敷いて、それをさらに両手で支えてお茶を飲む、というぐらいに滑稽な所作です。

田舎者のアメリカ人が、スパゲティにフォークを差し立ててうまく巻き上げる仕草ができず、かと言って日本人がそばを食べるようにすすり上げることもできず、苦しまぎれに発明した食べ方。

それを「上品な身のこなし」と勘違いした世界中の権兵衛が、真似をし主張して広まったものです。本来の簡素で大らかで、それゆえ品もある食べ方とは違います。

上品のつもりで慎重になりすぎると物事は逆に下卑ることがあり、逆に素直に且つシンプルに振舞うのが粋、ということもあります。スパゲティにフォークを軽く挿(お)し立てて、巻き上げて口に運ぶ身のこなしが後者の典型です。

というのは、2年前に亡くなった義母ロゼッタ・Pの受け売りです。義母は北イタリアの資産家の娘として生まれ、同地の貴族家に嫁しました。

義母は物腰の全てが閑雅な人でした。義母に言わせると、イタリアで爆発的に人気の出たスイーツ「ティラミス」も俗悪な食べ物でした。

「ティラミス」はイタリア語で「Tira mi su! 」です。直訳すると「私を引き上げて!」となります。それはつまり、私をハイにして、というふうな蓮っ葉な意味合いにもなります。

義母にとってはこの命名が下品の極みでした。そのため彼女はスイーツを食べることはおろか、その名を口にすることさえ忌み嫌いました。

筆者は義母のそういう感覚が好きでした。彼女は着る物や持ち物や家の装飾や道具などにも高雅なセンスを持っていました。そんな義母がけなす「ティラミス」は、真にわい雑に見えました。

また、フォークですくったパスタをさらにスプーンで受けて食べる所作は、義母が指摘したアメリカ的かどうかはともかく、大げさに言えば、法外で鈍重でしかも気取っているのが野暮ったい。

その野暮ったさを洗練と履き違えている心情は2重に冴えない。そんなあまのじゃくな主張は、未だ人間のできていない筆者の、大気ならぬ小気な品性による感慨です。

あまのじゃくで軽薄な筆者の目には同時に、フォークにスプーンを加えて二刀流でスパゲティに挑む人々の姿は、宮本武蔵をも彷彿とさせて愉快、とも映ります。

発見や発明は多くの場合、保守派の目にはうっとうしく見え、新し物好きな人々の目には斬新・愉快に見えます。

そして筆者は、新し物好きだが保守的な傾向もなくはない、中途半端な人間です。

 

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2020米大統領選が盛り下がるわけ

今のところ何かを書く気も起こらないほど11月の米大統領撰の影が薄い。9月末に予定されているバイデン、トランプ両候補の討論会が行われれば、状況は少し変わるのかもしれません。それまで何も書かずにおこうかと思いましたが、実際に状況が変わってしまう前に今の低空飛行気分を書いておくのも意味があるかも、と思い直しました。

選挙キャンペーンが盛況にならないのは新型コロナの感染拡大が止まず、大きな集会や演説会などができないのが最大の理由なのでしょう。オンラインやテレビ広告などに頼るだけの選挙運動では人々の熱気は期待できません。

個人的にはトランプ、バイデン両候補の魅力のなさが盛り下がりに一役買っています。両者ともに意外性がない。2016年の選挙時こそ、トランプ候補の常軌を逸した言動やキャンペーン、憎しみや分断をあおる敵意満載の行動様式が、驚きや反感や逆に喝采を浴びたりして、面白いドラマが展開されました。だが柳の下に2匹目のドジョウはいません。

トランプ氏の選挙また政治手法は多くの常識を覆しました。いわば北朝鮮の金正恩書記長や中東諸国の独裁者や独裁政権、はたまた中国共産党的厚顔や傲岸や無礼、南米の強権レジームなどのやり方や信条やコンセプトと良く似た野蛮な行動規範で、彼は支持者を獲得していきました。

しかし彼の当選はあり得ないと多くの人々が考え、主張し、分析し結論付けていました。筆者もそのひとりでした。だがトランプ氏はそれをあざ笑うかのように当選を果たしました。そこではアメリカ国民のおよそ半数がれっきとした排外差別主義者であり、ネトウヨヘイト系の白人至上主義者であり、強硬且つ好戦的な民族主義者であることが明らかになりました。

それらの人々がトランプ氏のいわゆる岩盤支持層です。その数がアメリカ国民のおよそ半数にのぼるという想定外の真実は、世界の良識に大きな衝撃を与えました。その状況はほぼ4年が経とうとする今も変わらず、バイデン候補有利の世論調査もすぐには信用できません。岩盤支持者がいる限り、且つその数が有権者の半数に迫る数字であり続ける限り、トランプ再選のシナリオは常に現実味を帯びています。

勝負はひと言でいえば、曲者トランプvs退屈バイデン。嘘と詭弁と差別主義とはったりが得意な現職大統領と、無難で平凡で牙のない“似非反中国(実は中国寄り”のリベラル、あるいは少なくとも中国と事を荒立てたくないのが本心)”主義者の元副大統領の一騎打ちなんてつまらない。展開が見え透いていて驚きがありません。

トランプ候補は不快で政治的に危険な存在ですが、基本的に反中国主義。少なくとも中国の覇権主義への強い警戒心感と敵意を隠さずに次々と手を打つところは共感できます。選挙目当てのハッタリの要素が強いことは、香港問題やウイグル争議などの政治命題に口先だけの介入をして済ませていることで分かります。

そんなトランプ候補に人権や民主主義や、自由や寛容の精神の発露や理解を求めても詮無いことです。それでも、せめて中国への咆哮だけは続けてほしい。それに欧州や日本やその他の「民主主義常識国」が加勢すれば、さすがの厚顔無恥また横柄な中国も勝手気ままはできない。少なくともかの国へのけん制にはなります。

だがバイデン候補が大統領になれば、中国と仲良くしようとするばかりで、結果中国が付け上がり続けるだけの構図が復活するでしょう。バイデン候補は中国に対峙する姿勢を打ち出していますが、あまり期待できません。

中国とはむろん対話を模索し協力関係を構築するよう心がけるべきです。が、同時に中国の人権無視と覇権主義と独裁主義に塗り固められた横暴な行為の数々は阻止されるべきです。国際秩序を無視する国が、国際社会にのさばっていてはならないのです。

しかしバイデン氏には中国を抑えこむ意志も力量もないのではないか。片やトランプ大統領は少なくともそれを「試行する」強い意志を示しています。たとえそえが自己本位の且つ選挙キャンペーンの色合いが濃いものであっても、その点は評価できます。とは言え分断と憎しみと差別をあおる狂気じみた政治姿勢はやはり見苦しい。結局筆者は2016年の選挙と同じで、消去法でバイデン氏を支持します。米大統領選で積極的に支持できる候補はもう永遠に出ないかもしれません。

そう考える理由があります。全くの希望的観測なのですが、筆者は2016年までは、自由と民主主義と機会の均等と人権擁護を血肉の奥までしみこませた国民が、アメリカの有権者の8割ほどを占めると漠然と考えていました。残りは1割がネトウヨヘイト系排外差別主義の白人優位論者、つまりトランプ候補の岩盤支持者たち。残りの1割が政治に無関心な無為の若者やアナキストやリベラル過激派など、などと感じていました。

だがトランプ氏の登場で、ネトウヨヘイト系排外差別主義の白人優位論者は、アメリカ国民のほぼ半数を占めるという衝撃の事実が明らかになり、その情勢はトランプ政権が4年続いた今も全く変わっていません。それを見てアメリカへの筆者の100年の恋は一気に冷めています。が、それでも、アメリカはいまだに世界最強の「まがりなりにも」の民主主義国家です。

したがってその意味での信頼は変わりません。筆者のアメリカへの全き愛と尊敬と親和心は冷めてしまいましたが、世界の民主主義と自由と希望のために、アメリカに偉大な指導者が生まれ、欧州や日本などと協調してその理念のために前進する米大統領が生まれることを願います。だが、それは残念ながらバイデン候補ではありません。ましてやトランプ候補であることなど世界が逆立ちしてもあり得ません。

 

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スパゲティのすすり方

以前、新聞に次の趣旨のコラムを書きました。

 

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相手が音を立ててそばを食べるのが嫌、という理由で最近日本の有名人カップルの仲が破たんした、と東京の友人から連絡があった。友人は僕がいつか「音を立ててスパゲティを食べるのは難しい」と話したのを覚えていて、愉快になって電話をしてきたのだ。僕も笑って彼の話を聞いたが、実は少し考えさせられもした。

スパゲティはフォークでくるくると巻き取って食べるのが普通である。巻き取って食べると3歳の子供でも音を立てない。それがスパゲティの食べ方だが、その形が別に法律で定められているわけではない。従って日本人がイタリアのレストランで、そばをすする要領でずるずると盛大に音を立ててスパゲティを食べても逮捕されることはない。

スパゲッティの食べ方にいちいちこだわるなんてつまらない。自由に、食べたいように食べればいい、と僕は思う。ただ一つだけ言っておくと、ずるずると音を立ててスパゲティを食べる者を、イタリア人もまた多くの外国人も心中で眉をひそめて見ている。見下している。しかし分別ある者はそんなことはおくびにも出さない。知らない人間にずけずけとマナー違反を言うのはマナー違反だ。

スパゲティの食べ方にこだわるのは本当につまらない。しかし、そのつまらないことで他人に見下され人間性まで疑われるのはもっとつまらない。ならばここは彼らにならって、音を立てずにスパゲティを食べる形を覚えるのも一計ではないか、と思わないでもない。

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食事マナーに国境はありません。

もちろん、いろいろな取り決めというものはどの国に行っても存在します。たとえばイタリアの食卓ではスパゲティをずるずると音を立てて食べてはいけない。スープも音を立ててすすらない。ナプキンを絶えず使って口元を拭く・・・などなど。それらの取り決めは別に法律に書いてあるわけではありません。が、人と人がまともな付き合いをしていく上で、時には法律よりも大切だと見なされるものです。

なぜ大切かというと、そこには相手に不快感を与えまいとする気配り、つまり他人をおもんばかる心根が絶えず働いているからです。マナーとはまさにこのことにほかなりません。それは日本でも中国でもイタリアでもアフリカでも、要するにどこの国に行っても共通のものです。食事マナーに国境はない、と言ったのはそういう意味です。

スパゲティをずるずると音を立てて食べるな、というこの国での取り決めは、イタリア人がそういうことにお互いに非常に不快感を覚えるからです。別に気取っている訳ではありません。スープもナプキンもその他の食卓での取り決めも皆同じ理由によります。

それらのことには、しかし、日本人はあまり不快感を抱かない。そばやうどんはむしろ音を立てて食べる方がいいとさえ考えますし、みそ汁も音を立ててすすります。その延長でスパゲティもスープも盛大な音を立てて吸い込む。それを見て、日本人は下品だ、マナーがないと言下に否定してしまえばそれまでですが、マナーというものの本質である「他人をおもんばかる気持ち」が日本人に欠落しているとは筆者は思いません。

それにもかかわらずに前述の違いが出てくるのはなぜか。これは少し大げさに言えば、東西の文化の核を成している東洋人と西洋人の大本の世界観の違いに寄っている、と筆者は思います。

西洋人の考えでは、人間は必ず自然を征服する(できる)存在であり、従って自然の上を行く存在である。人間と自然は征服者と被征服者としてとらえられ、あくまでも隔絶した存在なのです。自然の中にはもちろん動物も含まれています。

東洋にはそういう発想はありません。われわれももちろん人間は動物よりも崇高な生き物だと考え、動物と人間を区別し、犬畜生などと時には動物を卑下したりもします。

しかし、そういうごう慢な考えを一つひとつはぎ取っていったぎりぎりの胸の底では、結局、われわれ人間も自然の一部であり、動物と同じ生き物だ、という世界観にとらわれているのが普通です。

天変地異に翻弄され続けた歴史と仏教思想があいまって、それはわれわれの肉となり血となって存在の奥深くにまで染み入り、われわれを規定しています。

さて、ピチャピチャ、ガツガツ、ズルズルとあたりはばからぬ音を立てて物を食うのは動物です。口のまわりが汚れれば、ナプキンなどという七面倒くさい代物には頼らずに舌でペロペロなめ清めたり、前足(拳)でグイとぬぐったりするのもこれまた動物です。

人間と動物は違う、とぎりぎりの胸の奥まで信じ込んでいる西洋人は、人間が動物と同じ物の食い方をするのは沽券(こけん)にかかわると考え、そこからピチャピチャ、ガツガツ、ズルズル、ペロペロ、グイ!は実にもって不快だという共通認識が生まれました。

日本人を含む東洋人はそんなことは知りません。たとえ知ってはいても、そこまで突き詰めていって不快感を抱いたりはしません。なにしろぎりぎりの胸の奥では、オギャーと生まれて食べて生きて、死んでいく動物と人間の間に何ほどの違いがあろうか、と達観しているところがありますから、食事の際の動物的な物音に大きく神経をとがらせたりはしないのです。

そうは言ってみても ― このこともまたコラムに書きましたが ― 周囲の外国人は、ピチャピチャ、ズルズルと音を立てて食事をする人の姿を見て不快に思っています。ならばそれを気づかってあげるのが、最低限のマナーというものかもしれません。

周囲に気を使いつつ食べるのは窮屈だとか、上品ぶるようで照れくさいとか、フォークの運びが面倒くさい、などと言ってはいられません。日本の外に広がる国際社会とは、窮屈で、照れくさくて、面倒くさくて・・要するに疲れるものなのです。スパゲティを静かに食べる所作と同じように。。

 

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Je suis Charlieか否か?

 

いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもしました。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺されました。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴されました。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのです。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出しました。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国からは例によって強い反発が起きました。


冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こりました。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議しました。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められています。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もあります。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされました。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱です。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもあります。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容です。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することです。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語です。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことです。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断断固として確認することです。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことです。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが重要です。

言うまでもなく言論の自由には制限があります、だがその制限は言論の自由の条件ではありません。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限です。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きます。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうです。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやりました。

制限の中身は国や社会によって違います。違って然るべきです。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許されます。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれません。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てきます。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのです。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからです。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということです。

そのように言論の自由には限界があります。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではありません。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものです。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語です。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制します。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もありません。しかし、その中身については、筆者を含む多くの人々が賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合います。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べます。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていきます。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのです。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方です。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになります。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言えます。つまり民主主義と同じです。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではありません。完璧な政治システムは存在しません。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とします。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制です。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのです。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことです。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことです。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となります。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実です。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとします。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明します。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間です。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってです。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのです。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することでしょう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点です。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければなりません。話し合えば暴力は必ず避けられます。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はありません。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保です。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいました。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるでしょう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことです。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取りました。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴しています。人々が好き勝手なことを言えるのも、筆者が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰です。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれらは何も口にできなかったことでしょう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保証された世界に住む者として、筆者はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持します。

 

 

 

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