平気で生きる 




悟りとは「いつでもどんな状況でも平気で死ぬ」こと、という説があります。死を恐れない悟りとは、暴力をはらんだいわば筋肉の悟りであり、勇者の悟りです。

一方「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という悟りもあります。不幸や病気や悲しみのどん底にあっても、平然と生きつづける。

そんな悟りをひらいた市井の一人が筆者の母です。子沢山だった母は、家族に愛情を注ぎつくして歳月を過ごし、88歳で病にたおれました。

それから4年間のきびしい闘病生活の間も、母はひと言の愚痴もこぼさずに静かに生きて、最後はなにも分からなくなってねむるように息を引き取りました。

療養中も死ぬときも、母は彼女が生きぬいた年月のように平穏そのものでした。筆者は母の温和な生き方に、本人もそれとは自覚しない強い気高い悟りを見ました。

同時に筆者はここイタリアの母、つまり妻の母親にも悟りを開いた人の平穏を一時期見たことがあります。

義母は80歳を過ぎてから子宮ガンを患い全摘出をしました。その後、苛烈な化学療法をつづけましたが、副作用や恐怖や痛みなどの陰惨をおくびにも出さずに毎日を淡々と生きました。

治療が終わったあとも義母は無事に日々をすごして、ちょうど筆者の母が病気で倒れた年齢まで平穏に生きつづけました。

日本の最果ての小さな島で生まれ育った母には、学歴も学問も知識もありませんでした。あったのは生きる知恵と家族への深い愛情でした。

片やイタリアの母は、この国の上流階級に生まれてフィレンツェの聖心女学院に学び、常に時代の最先端を歩む女性の一人として人生を送ってきました。学問も知識も後ろだてもありました。

天と地ほども違う境涯を生きてきた2人は、母が知恵と愛によって、また義母は学識と理性によって「悟り」の境地に達したと筆者は考えていました。

筆者の将来の人生の目標は、いつか2人の母親にならうことである、と考え人にも話しそこかしこで文章にもしました。

だがそれは義母の急激な変化で内容が異なることになりました。義母は晩年はこわれてしまったのです。いえ、こわれたのではなく死の直前になって彼女の本性があらわれた、ということなのかもしれません。

義母は日本の「老人の日」に際して「今どきの老人はもう誰も死なない。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と言い放ったツワモノでした。

こわれる前の義母は、老人が嫌いでした。老人は愚痴が多く自立心が希薄で面倒くさい、というのが彼女の老人観でした。その義母自身は当時、愚痴が少なく自立心旺盛で面倒くさくない老人だったのです。

しかし義母は昨年亡くなるまでの2年間、愚痴と怒りと不満にまみれた「やっかいな老人」になって、ひとり娘である筆者の妻をさんざんてこずらせました。

文字通り朝の起床から就寝まで不機嫌でなにもかもが気に入らない。義母の荒れ狂う姿は少々怖いくらいでした。子供時代から甘やかされて育った地が出た、というふうだったのです。

義母の急変は、周囲をおどろかせました。告白すれば、筆者は内心かなり落胆しました。落胆は筆者の心の中に、最後まで平穏を保って逝った母への敬慕をさらにつのらせるようでした。

義母を掻き乱したのは、病気や不自由ではなく「死への恐怖」のように筆者には見えました。するとそれは、あるいは命が終わろうとする老人の、「普通の」あり方だったのかもしれません。

そう考えてみると、「いつでもどんな状況でも平気で生きる」という母の生き方が、いかにむつかしく尊い生き様であるかが筆者にはあらめてわかったように思います。

いうまでもなく母の生き方を理解することとそれを実践することとは違います。筆者はこれまでの人生を母のように穏やかに生きることはできませんでした。

戦い、もがき、心を波立たせて、平穏とは遠い毎日を過ごしてきました。そのことを悔いはしませんが、「いかに死ぬか」という命題を他人事とばかりは感じなくなった現在、晩年の母のようでありたい、とひそかに思うことはあります。

死は静謐です。一方、生きるとは心が揺れ体が動くことです。すなわち生きるとは文字通り心身が動揺することなのです。したがって義母の最晩年の狼狽と震撼と分裂は、彼女が生きている証しだった、と考えることもできます。

そうした状況での悟りとはおそらく、心身の動揺が生きている者を巻き込んでポジティブな方向へと進むこと、つまり老境にある者が家族と共にそれを受け入れ喜びさえすること、なのでしょう。

それは言うのはたやすく、行うのは難しい話の典型のようなコンセプトです。だが同時に、老境を喜ぶことはさておき、それを受け入れる態度は高齢者にとっては必須といってもよいほど重要なことです。

なぜなら老境を受け入れない限り、人は必ず不平不満を言います。それが老人の愚痴です。愚痴はさらなる愚痴を誘発し不満を募らせ怒りを呼んで、生きていること自体が地獄のような日々を招きます。

「いつでもどんな状況でも平気で生きる」とは言い方を変えれば、老いにからむあらゆる不快や不自由や不都合を受け入れて、老いを納得しつつ生きることです。それがつまり真の悟りなのでしょう。

苦しいのは、それが「悟り」という高い境地であるために実践することが難しい、ということなのではないか。決して若くはないものの、未だ老境を実感するには至らない筆者は、時々そうやって想像してみるのみです。

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奇妙なカップル

天皇代替わりに合わせるように、安倍首相とトランプ大統領が4月、5月、6月と3回連続で首脳会談を行うという不思議な話は、日本のメディアの関心をあまり買っていないようです。

トランプ大統領は5月に国賓として来日し新天皇と会見します。新天皇が即位後初めて会見する外国首脳がトランプ大統領、という仕組み。一連の行事の主要目的はそこにあるように見えます。

日本の主要メディアは政府発表のスケジュールを短く伝えただけです。立て続けに3度も首脳会談を行うべき緊急課題があるとも思えないのに、あえて強行する異様な状況には口をつぐんでいます。

異様さに気づかないわけではなく、例によって安倍一強政権への恐れや忖度があるのかもしれません。たとえそうではなくても、今回の場合は皇室への遠慮もからんでいる可能性があります。

忖度や遠慮がジャーナリズムさえ凌駕するのが日本の神秘です。いつになったら権力への監視や批判がジャーナリズムの生命線であることを理解するのでしょうか。

トランプ大統領はその後、6月28、29日にも来日して大阪でのG20会議に出席し安倍首相とまた会談する予定。4月の安倍首相の米国訪問に始まった不可解な3連続会談がそこで終了します。

5月の訪日ではトランプ大統領は、新天皇と会う以外には大相撲観戦をしたり、安倍首相と例によってノーテンキなゴルフ遊びに興じるだけです。結局、世界の首脳に先がけて、同大統領を新天皇に会わせることが主題だからなのでしょう。

退位して上皇になったばかりの前天皇はひそかに、だが気をつけて吟味すれば時にはあからさまな言辞で、安倍首相に敵対していました。憲法護持、国民重視、沖縄擁護、日本の戦争責任追及などなど、安倍首相がいやがる内容ばかりです。

そこで安倍首相は、目の上のたんこぶ的存在だった前天皇が退位した機をとらえて、新天皇を取り込む画策を立てた。その作戦の一環としてトランプ大統領にも協力を頼んでいる、という見方は荒唐無稽に過ぎるでしょうか。

そんな策略に乗るトランプさんは-いまさらおどろくようなことではありませんが-人品のレベルが相棒の安倍さんとどっこいどっこいの寂しい資質であることを露呈しているようで、見ていて空しい限りです。

それにしても、安倍さんが目立たない動きや術策で、やりたい放題をやっているように見える現行の日本の政治状況は驚くばかりです。それが高じて天皇までも思い通りに動かそうとしているらしい姿は、まるで8世紀に登場して世間を騒がせた道鏡のようです。

道鏡は天皇になる野心まで抱いていました。さすがに安倍さんにはそこまでの山気 はないでしょうが、憲法改正に向けて新天皇を何とか懐柔したい意志があっても不思議ではありません。

政治家としてまた国のトップとして、安倍さんがそういう風に動くのは、事態への賛否は別にして、理解できることです。彼は憲法改正という自らの政治目的を達成するためにそう策しています。そして政治目的を完遂することが政治家の正義です。

安倍さんのスタンスに、穏便な形ながら断固として異議を唱え続けた前天皇が、平和憲法護持の立場であったのは隠しようもない事実でした。安倍首相は新天皇が上皇の意思を受け継いでいるかもしれないことが不安なのでしょう。

新天皇の「おことば」などに微妙にあらわれる変化から、安倍政権が天皇即位の前の皇太子さんに近づき、揺さぶりをかけてきたであろうことが推測できます。安倍首相は本気で天皇の籠絡を試みているようです。

彼は政治目的の達成のためには手段を選ばない構えです。日本の真の独立を阻むアメリカのトランプ大統領に借りを作ってでも、天皇の抱き込みを試みようとしているように見えるのです。

それは大胆であると同時に危険な動きです。なぜなら世話になったトランプさんにますます逆らえなくなって、今後も長きにわたって彼の阿諛外交が続き、日本のアメリカ従属がさらに深まりかねないからです。

安倍首相の大胆さは無知と無恥から来るものです。それはトランプ氏が大統領当選を決めたとき、就任前にもかかわらずに彼のもとに駆けつけて諂笑して以来、一貫して続いている安倍さんと政権の最大の特徴です。

世界の大半がトランプ勝利に眉をひそめている最中に、「何らの批判精神もなく」彼に取り入った安倍さんの行為は世界を驚かせました。繰り返しになりますがそこには安倍さんならではの無恥と無知が如実に現れていました。

しかし、矛盾するようですが、ここでは安倍首相に対してフェアなことも言っておきたいと思います。

トランプさんが大統領選に勝利した2016年、安倍首相が世界の首脳に先駆けてトランプタワーに乗り込んで、彼を祝福し友好親善を推し進めたのは日本のトップとしては十分に理解できる行為でした。

なぜならトランプさんがたとえ「何者であれ」彼は米国大統領に当選したのですから、安倍さんは「日本の国益のために」未来のアメリカ大統領に挨拶をしておこうとして動いた側面もあるからです。

安倍さんの行動のすべてが悪いのではありません。しかしながら安倍さんは、トランプさんとのお友達関係を一方的に且つ懸命に強調しつづけるものの、実は彼のポチでしかない卑屈な立ち回りに終始しています。

自尊心のかけらもないような追従外交方ばかりを続けています。それでいて、一向にその事実に気づいていないように見えます。そこが大きな問題なのです。

トランプ大統領は、異様な指導者です。彼の施策はこれまでのところネガティブなものが多い。だがフェイクニュースを流して彼の主張こそ真実だと言い張る行動によって、それまで完璧に見えた大手メディアにもまたフェイクな顔がある、という事実を暴き出した功績は大だと思います。

同時にトランプさんは、「差別や憎しみや偏見などを隠さずに、しかも汚い言葉を使って公言しても構わない」という考えを人々の頭に植え付けてしまいました。つい最近までタブーだった「罵詈や雑言も許される」といった間違ったメッセージを全世界に送ってしまったのです。

それはつまり、人類が多くの犠牲と長い時間を費やして獲得した「寛容で自由で且つ差別や偏見のない社会の構築こそ重要だ」というコンセプトを粉々に砕いてしまったことを意味します。その罪は重い。異様な指導者であるトランプ大統領の奇異に気づかない安倍首相もまた異様です。

2人の異様は、これまでのところ、安倍首相がトランプ大統領をノーベル平和賞候補に推薦した、という噴飯茶番劇によって極限に至りました。しかしながらノーベル賞の茶番は、オバマ前大統領への平和賞やボブ・ディランへの文学賞授与などでもすでに示されていますから、もはやおどろくほどのことではないのかもしれません。

安倍政権に遠慮する大手メディアと、ネトウヨ排外差別主義者らが声高にネットを席巻する日本国内にいるとあるいはよく見えないかもしれませんが、欧州を含む世界の良心は、安倍&トランプという奇妙なカップルの、友情なのか政治パフォーマンスなのか判別できない「奇怪なダンス」を窃笑しつつ“遠巻き”に監視しています。







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連休という果報、飛び石連休という貧困

2019年、日本のゴールデンウイークが10連休になるというニュースは、ここイタリアにいても日本の衛星放送やネットを介していやというほど見、聞き、知っていました。

それに関連していわゆる識者や文化人なる人々が意見を開陳していましたが、その中にはまるで正義漢のカタマリのような少し首を傾げたくなる主張もありました。

いわく10連休は余裕のあるリッチな人々の特権で、休みの取れない不運な貧しい人々も多い。だから、10連休を手放しで喜ぶな。貧者のことを思え、と喧嘩腰で言い立てたりもしていました。

10連休中に休めない人は、ホテルやレストランやテーマパークなど、など、の歓楽・サービス業を中心にもちろん多いと考えられます。

しかし、まず休める人から休む、という原則を基に休暇を設定し増やしていかないと「休む文化」あるいは「ゆとり優先のメンタリティー」は国全体に浸透していきません。10連休は飽くまでも善だったと筆者は思います。

休める人が休めば、その分休む人たちの消費が増えて観光業などの売り上げが伸びます。その伸びた売り上げから生まれる利益を従業員にも回せば、波及効果も伴って経済がうまく回ります。

利益を従業員に回す、とは文字通り給与として彼らに割増し金を支払うことであり、あるいは休暇という形で連休中に休めなかった分の休息をどこかで与えることなどです。

他人が休むときに休めない人は別の機会に休む、あるいは割り増しの賃金を得る、などの規則を法律として制定できるかどうかが、真の豊かさのバロメーターです。

そうしたことは強欲な営業者などがいてうまく作用しないことが多い。そこで国が法整備をして労働者にも利益がもたらされる仕組みや原理原則を強制する必要があります。

たとえばここイタリアを含む欧州では、従業員の権利を守るために日曜日に店を開けたなら翌日の月曜日を閉める。旗日に営業をする場合には割り増しの賃金を支払う、など労働者を守る法律が次々に整備されてきました。

そうした歴史を経て、欧州のバカンス文化や「ゆとり優先」のメンタリティ-は発達しました。それもこれも先ず休める者から休む、という大本の原則があったからです。

もちろん休めない人々の窮状を忘れてはなりませんが、休める人々や休める仕組みを非難する前に、窮状をもたらしている社会の欠陥にこそ目を向けるべきなのです。

休むことは徹頭徹尾「良いこと」です。人間は働くために生きているのではありません。生きるために働くのです。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものです。

人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる。特に長めの休暇は大切です。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの働く日本人を見るたびに、筆者はそういう思いを強くします。

バカンス大国ここイタリアには、たとえば飛び石連休というケチなつまらないものは存在しません。飛び石連休は「ポンテ(ponte)=橋または連繋」と呼ばれる“休み”でつなげられて「全連休」になります。

つまり 飛び石連休の「飛び石」は無視して全て休みにしてしまうのです。言葉を変えれば、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全体が橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になります。

長い夏休みやクリスマス休暇あるいは春休みなどに重なる場合もありますが、それとは全く別の時期にも、イタリアではそうしたことが一年を通して当たり前に起こっています。

たとえば今年は、日本のゴールデンウイーク前の時分にもポンテを含む連休がありました。復活祭と終戦記念の旗日がからんだ4月20日から28日までの9連休です。

その内訳は:4月20日(土)、21日(日“復活祭”)、22日(月“小復活祭=主顕節”・旗日)、23日(火“ポンテ”)、24日(水“ポンテ”)、25日(木“イタリア解放(終戦)記念日”・旗日)、26日(金“ポンテ”)、27日(土)28日(日)の9日間。

もちろん誰もが9連休を取る(取れる)わけではありません。23日(火)と24日(水)は働いて25日から28日の間を休む。つまり26日(金)だけをポンテとして休む、という人も相当数いました。同時に20日から28日までの長い休暇を取った人もまた多かったのです。

そうした事実もさることながら、旗日と旗日の間をポンテでつなげて連休にする、という考え方がイタリア国民の間に「当たり前のこと」として受け入れられている点が重要です。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に「連続」にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方です。休日を切り離すのではなく、できるだけつなげてしまうのです。

「連休」や「代休」という言葉があるぐらいですからもちろん日本にもその考え方はあります。だがその徹底振りが日本とイタリアでは違います。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、飛び石連休という思考法が依然として存在していることで分かるように思います。

一方でイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけては「できるだ長く休む」ことを願っています。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じています。 そして彼らは願ったり感じたりするだけではなく、それを実現しようと躍起になります。

そんな態度を「怠け者」と言下に切り捨てて悦に入っている日本人がたまにいます。が、彼らはイタリア的な磊落がはらむ豊穣が理解できないのです。あるいは生活の質と量を履き違えているだけの心の貧者なのです。

休みを希求するのは人生を楽しむ者の行動規範であり「人間賛歌」の表出です。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてきません。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす価値は、休暇を取ることによってのみ理解できるように思います。

2019年に出現した10連休は、日本の豊かさを示す重要なイベントでした。日本社会は今後も飛び石連休を「全連休」にする努力と、連休中に休めなかった人々が休める方策も含めて、もっとさらに休みを増やしていく取り組みを続けるべきなのです。




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負け馬たちの功績

いま英国議会下院で起きているBrexit(英国のEU離脱)をめぐる議論の嵐は、民主主義の雄偉を証明しようとする壮大な実験です。それが民主主義体制の先導国である英国で起きているからです。

そこでは民主主義の最大特徴である多数決(国民投票)を多数決(議会)が否定あるいは疑問視して、煩悶し戸惑い恐れ混乱する状況が続いています。それでも、そしてまさに民主主義ゆえに、直面する難題を克服して前進しようとする強い意志もまた働いています。

民主主義とは、民主主義の不完全性を認めつつ、より良いあり方を求めて呻吟することを厭わない政治体制のこと。だから議論を戦わせて飽くことがありません。言葉を変えれば、不都合や危険や混乱等々を真正面から見つめ、これに挑み、自らを改革・改善しようと「執拗に努力する」仕組みのことです。

民主主義は完全無欠なベスト(最善)の政体ではありません。他の全ての政治システムよりもベター(より良い)なだけです。しかしベストが存在しない限り、“ ベターがベスト ”です。チャーチルはそのことを指して、民主主義はそれ以外の全ての政治体制を除けば最悪の政治だ、と喝破しました。

2016年、英国議会はBrexitの是非を決められず、結果として市民の要請に応える形で国民投票を行いました。国民の代表であるはずの議会が離脱の当否を決定できなかったのはそれ自体が既に敗北です。しかし国民投票を誘導した時の首相ディヴィッド・キャメロンと議会はそのことに気づきませんでした。

国民投票の結果、Brexitイエスの結果が出ました。民主主義の正当な手法によって決定された事案はすぐに実行に移されるべきでした。事実、実行しようとして議会は次の手続きに入りました。そこでEUとの話し合いが進められ、責任者のメイ首相は相手との離脱合意に達しました。

ところが英国議会はメイ首相とEUの離脱合意の中身を不満としてこれを批准せず、そこから議会の混乱が始まりました。それはひと言でいえば、メイ首相の無能が招いた結果だったのですが、同時にそれは英国民主主義の偉大と限界の証明でもありました。

議会とメイ首相が反目し停滞し混乱する中、彼女はもう一方の巨大な民主主義勢力・EUとの駆け引きにも挑み続けました。そこではBrexitの是非を問う国民投票が、英国民の十分な理解がないまま離脱派によって巧妙に誘導されたもので無効であり、再度の国民投票がなされるべき、という意見が一貫してくすぶり続けていました。

だが改めての国民投票は、民主主義によって選択された国民の意志を、同じ国民が民主主義によって否定することを意味します。それは矛盾であり大いなる誤謬です。再度の国民投票は従って、まさに民主主義の鉄則によって否定されなければなりません。

そこで「議会で解決の道が探られるべき」という至極当たり前の考え方から論戦が展開されました。審議が続き採決がなされ、それが否定され、さらなる主張と論駁と激論が交わされました。結果、事態はいよいよ紛糾し混乱してドロ沼化している、というのが今の英国の状況です。

そうこうしているうちに時限が来て、EUは英国メイ首相の離脱延期要請を受け入れました。それでも、いやそれだからこそ、英国議会は今後も喧々諤々の論戦を続けるでしょう。それはそれで構わない。構わないどころか民主主義体制ではそうあるべきです。

だが民主主義に則った議会での議論が尽くされた感もある今、ふたたび民主主義の名において、何かの打開策が考案されて然るべき、というふうにも筆者には見えます。その最大最良の案が再度の国民投票ではないか、とも思うのです。

なぜ否定されている「再国民投票案」なのかといいますと、2016年の国民投票は既に“死に体”になっている、とも考えられるからです。民意は移ろい世論は変遷します。その変化は国民が学習することによって起きる紆余曲折であり、且つ進歩です。

つまり再度の国民投票は「2度目」の国民投票ではなく、新しい知識と意見を得た国民による「新たな」国民投票なのです。初の審判から経過3年、という月日が十分に長いかどうかは別にして、2016年の国民投票以降の英国の激動は、民主主義大国の成熟した民意が、民主主義の改善と進展を学ぶのに十二分以上の影響を及ぼした、と考えることもできます。

いうまでもなく英国議会は、メイ首相を信任あるいは排除する動きを含めてBrexitの行方を自在に操る権限を持っています。同時にこれまでのいきさつから見て、同議会はさらなる混乱と停滞と無力を露呈する可能性もまた高い。ならば新たな国民投票の是非も議論されなければならないのではないか、と考えます。

そうなった暁には、投票率にも十分に目が向けられなければなりません。そこでは前回の72,1%を上回る投票率があるほうが望ましい。2016年の国民投票後の分析では、EU残留派の若者が投票しなかったことが、離脱派勝利の大きな一因とされました。

もしもその分析が正しいならば、投票率の増加は若者層の意思表示が増えたことを意味し、同時にその結果がもたらす意味を熟知する離脱派の「熟年国民」の投票率もまた伸びて、2016年次よりもなお一層多くの国民が意思決定をした、と見なすことができるでしょう。

要するにBrexitをめぐる英国の混乱と殷賑は、既述したように民主主義の限界と悪と欺瞞と、同時にその良さと善と可能性を提示する大いなる実験なのです。それは民主主義の改革と前進に資する坩堝(るつぼ)なのであって、決してネガティブなだけの動乱ではありません。

動乱を「EU内の紛糾」と視野を広げ俯瞰して見た場合、大きな変革の波は、先ず英国と欧州の成熟した民主主義の上に、Brexit国民投票を実施した当人のデイヴィッド・キャメロン前首相という負け馬がいて、それにイタリアの負け馬マッテオ・レンツィ前首相が続き、テリーザ・メイ英国首相というあらたな負け馬が総仕上げを行っている、という構図です。

民主主義の捨て石となっている彼ら「負け馬」たちに、筆者はカンパイ!とエールを送りたい気持ちです。なぜなら3人は、民主主義の捨て石であると同時に、疑いなくそれのマイルストーンともなる重要な役割を果たしていて、民主主義そのものに大きく貢献している、と考えるからです。






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「子ヤギ食らい」という自罪

4月21日はイタリアのパスクアでした。イギリスではイースター。日本語で言えば復活祭。イエス・キリストの死からの復活を寿ぐキリスト教最大のイベント。ハイライトは祭り当日に供される子ヤギまたは子羊料理です。

不信心者の筆者にとっては、パスクアは神様の日というよりも、ほぼ一年に一度だけ食べる子ヤギ料理の日。イタリアでは子羊料理は一年中食べられますが、子ヤギのそれはきわめて難しいのです。

ことしは初めてレストランで復活祭の子ヤギ料理を食べました。去年までは家族一同が自宅で、または親戚や友人宅に招かれて食べるのが習いでした。

実はことしも親戚に招かれていましたが、子ヤギも子羊も供されない普通の肉料理の食事会、と知って遠慮しました。年に一度くらいは特別料理を食べたいのです。

復活祭前夜の一昨日、友人からも子ヤギ料理への誘いがありました。しかし、すでにレストランを予約してしまっているという不都合もありましたので、そちらもやはり遠慮しました。

結論をいえば、レストランでの食事は大いに満足できるものでした。12時半に始まって4時間にも渡ってつづいた盛りだくさんの料理のメインコースは、もちろん子ヤギのオーブン焼きです。

それは「成獣肉料理」を含むこれまでに食べたヤギおよび羊肉料理の中でも第一級の味でした。来年も同じ店で食べてもいいとさえ思っています。

イタリアのレストランでは子羊料理は一年中提供されます。その一方で、子ヤギ料理は復活祭が過ぎるとほぼ完全に姿を消します。

ヤギは山羊、つまり「山の羊」と呼ばれるくらいですから、飼育や繁殖がむつかしくて数が少ない、ということがその理由かもしれません。

復活祭になぜ子羊や子ヤギ料理を食べるのかと言いますと、由来はキリスト教の前身ともいえるユダヤ教にあります。古代、ユダヤ教では神に捧げる生贄として子羊が差し出されました。

子羊は犠牲と同義語です。イエス・キリストは人間の罪を贖(あがな)って磔(はりつけ)にされました。つまり犠牲になったのです。

そこで犠牲になったもの同士の子羊とイエス・キリストが結びつけられて、イエス・キリストは贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」とみなされるようになりました。そこから復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができたのです。

復活祭に子羊を食べるのは、そのようにユダヤ教の影響であると同時に、「人類のために犠牲になった子羊」であるイエス・キリストを食する、という意味があります。

救世主イエスを食べる、という感覚はとても理解できないという日本人も多くいます。だがよく考えてみれば、実はそれはわれわれ日本人が神仏に捧げたご馳走や酒を後でいただく、という行為と同じことだと考えられます。

神棚や仏壇に供された飲食物は、先ず神様や仏様が食べてお腹の中に入ったものです。その後でわれわれ人間は供物を押し頂いて食べます。それはつまり神仏を食するということでもあります。

われわれは供物とともに神様や仏様を食べて、神仏と一体化して煩悩にまみれた自身の存在を浄化しようと願うのです。キリスト教でも恐らくそれは同じです。そんなありがたい食べ物が子羊料理なのです。

子羊はそれによく似た子ヤギにも広がり、現代のイタリアでは復活祭当日とその前後の時期には、子羊料理よりも期間限定のイメージが強い子ヤギ料理のほうが多く食べられるようです。

筆者は冒頭でことわったように不信心者なので、神や霊魂や仏や神々と交信するありがたさは理解できません。ただ、おいしいものを食べる幸せを何ものかに感謝したい、とは常々思っています。

イタリアでは復活祭の期間中に、通常400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理されてきたとされます。それ以外の期間にも80万頭が消費されてきました。

しかし、その数字は年々減ってきて、ここ数年は200万頭前後に減少したという統計もあります。不景気のあおりで人々の財布のヒモが堅いのが理由です。子ヤギや子羊の肉は、豚肉や牛肉などのありふれた食材に比べて値段が張るのです。

一方で消費の落ち込みは主に、動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏しているという見方もあります。最近はいたいけな子ヤギや子羊を食肉処理して食らうことへの批判も少なくありません。

2017年にはあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買いました。

ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになったのです。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出ました。

筆者は正直に言ってその胡散臭さに苦笑します。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身する元首相も驚きですが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのです。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのでしょうか。

動物の食肉処理の現場は凄惨なものす。筆者は以前、英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験があります。屠殺される全ての動物は、次に記す豚たちと同じ運命にさらされます。

食肉処理される豚は、1頭1頭がまず電気で気絶させられ、失神している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られ、血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていきます。

その工程は全て流れ作業です。血の雨が降るすさまじい光景ですが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がありません。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものです。

菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思います。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果があります。

だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかならなりません。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きています。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っています。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことです。それが人間の定めです。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実です。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることです。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もありません。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直です。筆者はイタリアにいる限りは、復活祭に提供される子ヤギあるいは子羊料理を食べる、と決めています。

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男はだまって大いにしゃべる

筆者は故国日本の次にはヨーロッパが好きで、さらにアメリカも好きで、大学卒業後すぐに日本を出てからは英国、米国、そしてここイタリアに移り住み、その他の多くの国々を訪ね、勉強し、もちろん仕事もたくさんこなして来ました。

住んだ欧米の国々はすべて好きな場所なのでいつも楽しく過ごしてきたのですが、一つだけとても辛いものがあります。それが社交です。社交とは何か。それは「おしゃべり」のことです。つまり他者との会話の実践場が社交であり社交場です。

社交こそ、特に西洋で生きる時の一番疲れる気の重い時間です。しかもそれは欧米社会では、社会生活の根幹を成す最も重要なものの一つと見なされます。社交、つまり「おしゃべり」ができなくては仕事も暮らしもままならないのです。

昔、日本には、三船敏郎が演じる「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルがありました。あのキャッチフレーズは、沈黙を美徳とする日本文化の中においてのみ意味を持ちます。あれから時間が経ち、世界と多く接触もして、日本社会も変わりましたが、沈黙を良しとする風潮は変わっていません。

一方欧米では、男はしゃべることが大切です。特に紳士たる者は、パーティーや食事会などのあらゆる社交の場で、 自己主張や表現のために、そして社交仲間、特に女性を楽しませるために、一生懸命にしゃべらなければなりません。「男はだまって、しゃべりまくる」のが美徳なのです。

例えばここイタリアには人を判断するのに「シンパーティコ⇔アンティパーティコ」という基準がありますが、これは直訳すると「面白い人⇔面白くない人」という意味です。そして面白いと面白くないの分かれ目は、要するにおしゃべりかそうでないかということです。

ことほど左様にイタリアではしゃべりが重要視されます。イタリアに限らず、西洋社会の人間関係の基本には「おしゃべり」つまり会話がドンと居座っています。社交の場はもちろん、日常生活でも人々はぺちゃくちゃとしゃべりまくる。社交とは「おしゃべり」の別名であり、日常とは「会話」の異名にほかなりません。

言葉を換えれば、それはつまりコミュニケーションの重大、ということです。コミュニケーションのできない者は意見を持たない者のことであり、意見を持たないのは、要するに思考しないからだ、と見なされます。つまり西洋では、沈黙は「バカ」と同じ意味合いを帯びて見られ、語られることが多い怖いコンセプトなのです。

西洋人のコミュニケーション能力は、子供の頃から徹底して培われます。家庭では、例えば食事の際、子供たちはおしゃべりを奨励されます。楽しく会話を交わしながら食べることを教えられるのです。日本の食卓で良く見られるように、子供に向かって「黙って食べなさい」とは親は決して言いません。せいぜい「まず食べ物を飲みこんで、それからお話しなさい」と言われるくらいです。

学校に行けば、子供たちはディベート(討論)中心の授業で対話力を鍛えられ、口頭試問の洗礼を受け続けます。そうやって彼らはコミュニケーション力を育てられ、弁論に長けるようになり、自己主張の方法を磨き上げていきます。社交の場の「おしゃべり」の背景にはそんな歴史があります。それが西洋社会なのです。

沈黙を美徳と考える東洋の国で育った筆者は、会話力を教えられた覚えはありません。おしゃべりな男はむしろ軽蔑されるのが、いかに西洋化されたとはいえ日本の歴とした現実です。男は黙ってサッポロビールを飲んでいるべき存在なのです。自己表現やコミュニケーションを重視する西洋文化とは対極にあります。

日本の風習とは逆のコンセプト、つまり「‘おしゃべり’がコミュニケーション手段として最重要視される」西洋社会に生きる者として、筆者は仕事や日常生活を含むあらゆる対人関係の場面で、懸命に会話術の習得を心がけようと努力してきたつもりです。

おかげで日本人としては、パーティーや食事会などでも人見知りをせず、割合リラックスしてしゃべることができる部類の男になったのではないか、と思っています。ところがそれは、西洋人の男に比べると、お話にもならない程度のしゃべりに過ぎないのです。

子供時代から会話力を叩き込まれてきた彼らに対抗するには、筆者は酒の力でも借りないと歯が立たない。ワインの2、3杯も飲んで、さらに盃を重ねた場合のみ、筆者はようやく男たちのおしゃべりの末席を汚すか汚さないか、くらいの饒舌を獲得するだけなのです。

その後は知りません。彼らのしゃべりに圧倒されて、負けないゾと頑張って、頑張るために杯を重ねます。重ねるうちに絶対にやってはいけないことをやります。つまり「酔いに呑まれて」しまって、やがて人々のヒンシュクを買う羽目に陥ったりもするのです。



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独立自尊こそ島の心意気

サルデーニャ州旗

イタリア・サルデーニャ島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けました。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡しました。

元長距離トラック運転手だったメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・ディ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名しました。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動でした。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴されます。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていました。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものでした。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配されました。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡されました。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称しました。国名こそサルデーニャ王国になりましたが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされました。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれました。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかったのです。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に「サルデーニャ特別自治州」となりました。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けました。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら「喜んでサルデーニャをフランスに譲り渡す」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えました。

[イタリアという車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けました。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別されました。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのです。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めました。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになりました。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党 (Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党 (Unione Democratica Sarda).」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党が躍進しました。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になります。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちです。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だったのです。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けています。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実です。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も多くの島民をいらだたせます。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていません。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからです。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたぐらいです。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くあります。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めています。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票でした。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きでしたが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こります。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家です。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれません。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えています。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思います。



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スイスの海で泳いでみたい

スイスair機とサルデーニャ州旗

イタリアのサルデーニャ島は古代からイタリア本土とは異なる歴史を歩んできました。それゆえにサルデーニャ島人は独自のアイデンティティー観を持っていて 、自立・独立志向が強い、と言われています。

ローマ帝国の滅亡後、イタリアでは半島の各地が都市国家や公国や海洋国家や教皇国などに分かれて勝手に存在を主張していました。

そこでは1861年の統一国家誕生後も、独立自尊のメンタリティーが消えることはなく、それぞれの土地が自立あるいは独立を模索する傾向があります。あるいはその傾向に向かう意志を秘めて存在しています。

サルデーニャ島(州)ももちろんそうした「潜在独立国家」群の一つです。だが同島の場合、島だけで独立していたことはありません。イタリア共和国に組み込まれる以前はアラブやスペインの支配を受け、イタリア半島の強国の一つピエモンテのサヴォイア公国にも統治されました。

現在はイタリア共和国の同じ一員でありながら、サルデーニャ島民が他州の人々、特にイタリア本土の住民とは出自が違いルーツが違う、と強く感じているのは島がたどってきた独自の歴史ゆえです。

抑圧され続けた歴史への怨恨と島人としての誇りから、サルデーニャ島の人々は、独立志向が強いイタリア半島の各地方の中でも特に、イタリア共和国からの独立を企てる傾向が強いと見られています。

1970年代には38%のサルデーニャ島民が独立賛成の意思を示していました。また2012年のカリアリ大学とエジンバラ大学合同の世論調査では、41%もの島民が独立賛成と答えました。

その内訳は「イタリアからは独立するものの欧州連合(EU)には留まる」が31%。「イタリアから独立しEUからも離脱する」が10%でした。

今日現在のサルデーニャ島には深刻な独立運動は存在しません。しかしそれらの統計からも推測できるように、島には政党等の指導による独立運動が盛んな時期もありました。島の独立を主張する政党は今でも10以上を数えます。

それらの政党にかつての勢いはなく、2019年現在のサルデーニャ州の独立運動は、個人的な活動とも呼べる小規模な動きに留まっているのがほとんどです。

その中にはイタリアから独立し、且つEU(欧州連合)からも抜け出してスイスへの編入・統合を目指そう、と主張するユニークなグループもあります。なぜスイスなのか、と考えてみると次のような理由が挙げられそうです。

独立を目指すサルデーニャ島民の間には、先ずイタリア本土への反感があり、そのサルデーニャ島民を含むイタリア共和国の全体には欧州連合(EU)への不信感があります。最近イタリアに反EUのポピュリスト政権が誕生したのもそれが理由の一つです。

イタリア本土とEUを嫌うサルデーニャ島が、欧州内でどこかの国と手を結ぶとするなら、非EU加盟国のスイスとノルウェーしかりありません。バルカン半島の幾つかの国もありますが、それらは元共産主義圏の貧しい国々。一緒になってもサルデーニ島にメリットはありません。

さて、スイスとノルウェーのどちらがサルデーニャにとって得かと考えると、これはもう断然スイスです。金持ちで、EU圏外で、しかも永世中立国。さらに国内にはティチーノ州というイタリア語圏の地域さえあります。このことの心理的影響も少なくないと思います。

ノルウェーもリッチな国ですが豊かさの大半は石油資源によるもの。石油はいつかなくなるから将来性に不安があります。また人口も約500万人とスイスの約800万人より少ない。従って後者の方が経済的にも受け入れの可能性が高い、など、など、の理由があると考えられます。

仮に島が分離・独立を果たしたとします。その場合にはスイスは、あるいは喜んでサルデーニャを受け入れるかもしれません。なにしろ自国の半分以上の面積を有する欧州の島が、一気にスイスの国土に加わるのですから悪くない話です。

しかも島の人口はスイスの5分の一以下。サルデーニャの一人当たりの国民所得はスイスよりもはるかに少ないですが、豊かなスイス国民は新たに加わる領土と引き換えに、島民に富を分配することを厭わないかもしれません。

スイス政府はこれまでのところ、サルデーニャ島からのラブコールをイタリアの内政問題だとして沈黙を押し通しています。それは隣国に対する礼儀ですが、敢えてノーと言わずに沈黙を貫き通していること自体が、イエスの意思表示のように見えないこともない、と筆者は考えています。

ただスイスと一緒になるためには、島は先ずイタリアからの分離あるいは独立を果たさなければなりません。イタリア共和国憲法は国内各州の分離・独立を認めていないからです。分離・独立を目指すならサルデーニャ島は憲法を否定し、従ってイタリア共和国も否定して、武力闘争を含む政治戦争を勝ち抜く必要があります。これは至難の業です。

分離・独立の主張は、イタリア本土から不当な扱いを受けてきたと感じている島人たちの、不満や恨みが発露されたものです。イタリア本土の豊かな地域、特に北部イタリアなどに比較すると島は決して裕福とは言えません、

経済的な不満も相まって、島民がこの際イタリアを見限って、同時に、欧州連合内の末端の地域の経済的困窮に冷淡、と批判されるEUそのものさえも捨てて、EU圏外のスイス連邦と手を組もうというのは面白い考えだと思います。

ただし誤解のないように付け加えておきます。スイスへの編入・統合を主張しているのは今のところ、サルデーニャ島の島民の一方的な声です。片思いなんですね。しかも声高に言い張るのは、これまた今のところはサルデーニャ島民のうちの極く小さなグループに過ぎません。

面白いアイデアながらグループの主張には筆者は違和感も覚えます。つまり彼らが独立を求めるようでいながら、最終的には独立ではなく、イタリア本土とは別のスイスという「新たな従属先」を求めているだけの、事大主義的主張をしている点です。どうせなら彼らは独立自尊の純粋な「独立」を追求するべきです。

筆者はサルデーニャ島の独立にも、そこに似た日本の沖縄の独立にも真っ向から反対の立場ですが、独立を志向する精神には賛成です。島に限らず、国に限らず、人に限らず、あらゆる存在は「独立自尊」の気概を持つべき、というのが筆者の立場です。そしてそういう考えが出てくるほどの多様性にあふれた世界こそが、理想的な「あるべき姿」だと考えます。

「イタリアを捨ててスイスに合流する」というサルデーニャ島民の荒唐無稽に見える言い分は、それをまさに荒唐無稽ととらえる欧州や世界の人々の笑いと拍手と喝采を集めました。しかしながら筆者の目にはそれは、荒唐無稽とばかりは言えない真摯な意志を秘めたアイデアにも見えるのです。

とはいうものの、海のないスイス連邦に美しいティレニア海と温暖で緑豊かなサルデーニャ島が国土として加わるというファンタジーは、 暴力と憎しみと悲哀のみを生みかねない政治闘争の可能性はさておき、 筆者の心を躍らせます。

ファンタジーが現実になって、スイス連邦サルデーニャ州のビーチで アイスクリーム を食べると、あるいはそれはイタリアのサルデーニャ島で食べるアイスクリームとは違う味がするかもしれません。やはりちょっと味見をしてみたい気もします。


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癒しのワンダーランド

サルデーニャ島ペローザビーチ

2018年夏、ほぼ20年ぶりにイタリア・サルデーニャ島を訪れました。ミラノから飛行機で約1時間の便利さを避けて車ともどもフェリーで島に着きました。船中一泊の長い旅です。

簡便な飛行機旅を避けたのは、 サルデーニャ島の歴史や文化の大半 は、「イタリア本土から遠いという事実に規定される」と考える持論に基づいて、イタリア本土とサルデーニャ島との距離感を実体験したかったからです。

サルデーニャ島がイタリア本土からかなり遠い位置にある、ということを肌身に感じて体験するには船旅が最適です。人はつい最近まであらゆる島には船でしか渡れませんでした。人の距離感覚は飛行機に乗ると麻痺するのです。

日本ほど島が多くはないイタリアには、意外なことに地中海で面積が1番大きいシチリア島と2番目に大きなサルデーニャ島があります。

筆者はロンドンの映画学校の学生時代からシチリア島は何度も訪れています。イタリアに居を定めてからは、仕事でもプライベートでもさらにひんぱんにシチリア島に行きました。

ところがサルデーニャ島は今回が2度目。しかも20年以上も時間が経っての再訪です。島の羊飼いを追いかけるドキュメンタリーを制作しようと思いついて、いろいろ調べた時期もありましたが、多忙に呑み込まれて立ち消えになっていきました。

サルデーニャ島は日本の四国よりも面積が大きい島ですが、人口はその半分にも満たないおよそ165万人程度です。内陸部は特に人口密度が低いことで知られています。

筆者は辺鄙な離島で生まれ育ったせいか、もともと島という場所に特別の愛着を抱く傾向があります。島と聞けばすぐに興味を持ち訪ねてみたくなります。サルデーニャ島も例外ではありません。

その上サルデーニャ島は、イタリアの島のうちでは面積もさることながら、多くの意味でシチリア島と並ぶ重要な島なのです。これまでに一度しか訪問していないのが自分でも不思議なくらいでした。

サルデーニャ島は何よりも自然の景観が目覚ましい島です。イタリアの自然はどこも美しい。だがサルデーニャ島のそれは格別です。なぜならこの島には、イタリアでも1、2を争うほどの豊かで手付かずの大自然がどんと居座っているからです。

島の北部の港町に午前6時に着いて、ホテルにチェックインするまでの長い時間と翌日の全てをかけて、島の半分ほどを一気に車で巡りました。それだけで20年前に経験した島のワイルドな自然を再確認することができました。

緑一色がえんえんと続く、集落も人影も見当たらない島の内陸部を旅すると、DHローレンスがいみじくも指摘したように、まるで限界ある島ではなく大陸の雄大の中を走っているような印象さえ受けます。

サルデーニャ島は、地中海の十字路とも形容されて古くから開発が進んだシチリア島やイタリア本土の大半とは違い、近代化の流れから少し取り残される形で歴史を刻んできました。

手付かずの大自然が多く残っているのはそのことと無関係ではありません。近代化とは開発の異称であり、開発は往々にして自然破壊と同義語です。

近代化の遅れを工業化の遅滞、あるいは産業化の滞りなどと言い換えてみれば、サルデーニャ島の置かれた状況は、イタリア本土の南部地域やシチリア島などにもあてはまる現象であることが分かります。

イタリア共和国を語る時によく引き合いに出される「南北の経済格差」問題とは、サルデーニャ島とシチリア島を含む南イタリア各州の経済不振そのもののことにほかならないのです。

サルデーニャ島の近・現代は、そのようにイタリアの南部問題のなかに包括して語られるべきものですが、同島の場合にはそれだけでは語りつくせない「遅れ」のようなものがあると筆者は考えています。

つまり、先史時代からサルデーニャ島が刻んできた特殊な歴史が、同島の近代化の遅れを語る前に既に、島の「後進性」の源を形成してきたということです。

サルデーニャ島には紀元前16世紀頃から謎に満ちたヌラーゲ人が住み着き、紀元前8世紀頃にはフェニキア人が沿岸部に侵攻して次々に都市を建設しました。やがてカルタゴ人が島を征服します。次にローマ帝国の支配を受けその後アラブ・イスラム教徒に支配されました。

海の民とも呼ばれるフェニキア人は今のレバノン近辺、またカルタゴ人は今のチュニジア周辺に生を受けた人々です。つまり彼らはアラブ人です。彼らのほとんどは7世紀以降、当時の新興宗教だったイスラム教に帰依していきます。

アラブ・イスラム教徒の支配は、9世紀にはシチリア島にも及びました。しかしサルデーニャ島の場合は、そのはるか以前からアラブ系の人々の侵入侵略、また占領が間断なく続いていたのです。その意味では島の歴史は、イタリアよりもスペインに近い、とも考えられます。

またシチリア島が、古代ギリシャの植民地となって発展した時代もサルデーニャ島は経験していません。そうした歴史が、サルデーニャ島を立ち位置のよく似たシチリア島とは異質なものにした、と言うこともできるようです。

さらに言えばサルデーニャ島は、再びシチリア島やマルタ島、またロードス島とクレタ島に代表されるギリシャの島々などとは違って、十字軍の進路の版図内にはありませんでした。そのために十字軍とともに拡散した「欧州の息吹」がもたらされることもなかったのです。

そればかりではありません。サルデーニャ島は極めて開明的だったベニス共和国が、アドリア海に始まる東地中海を支配して、自らの文化文明を地域に浸透させ発展させた恩恵にも浴することはありませんでした。

そのようにサルデーニャ島は、欧州文明のゆりかごとも規定される地中海のただ中に位置しながら、一貫していわば「地中海域の普遍的な発展」から取り残された島であり続けました。それがサルデーニャ島の後進性の正体ではないか、と筆者は考えます。

シチリア島が輝かしい文化の島なら、サルデーニャ島は素朴で庶民的な文化に満ちた場所です。そこにはシチリア島に見られる絢爛な歴史的建築物や芸術作品はあまり多くは存在しません。その代わりに豊穣雄大な自然と、素朴な人情や民芸などの「癒しの文化」がふんだんに息づいているのです。

サルデーニャ島はイタリアの中でも、ひいては欧州の中でも、きわめてユニークな歴史と文化を有しています。同島に関しては以前にも幾つかの論考を書きました。世界一の成獣羊肉料理を食するイタリア・サルデーニャ島海鮮料理に見る殖民地メンタル肉料理の島の海鮮レシピサルデーニャ島「4人のムーア人旗」の由来~島民の誇りと屈折などです。

それに続いて先日「アートに救われた人殺しの島」を書きました。そのついで、というわけではありませんが、筆者の心を捉えてやまない美しい島について、再びここで幾つかの論点にしぼって書いておくことにしました。

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アートに救われた人殺しの村

イタリア、サルデーニャ島に集落中の建物が壁画で覆われた村があります。深い山中にあるオルゴーソロ(Orgosolo)です。人口約4500人のその村は、かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語です。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村でした。イタリア本土の発展から取り残された島嶼州サルデーニャの、さらに奥の陸の孤島に位置していたからです。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知りませんでした。貧しさの中に溺れ、あがき続けていたのです。

そのためにある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めました。また残りの村人たちは、隣人であるそれらの実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていきました。

犯罪に基盤を置く村の経済状況が良くなることはありませんでした。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行しました。かつてのオルゴーソロの現実は、イタリア本土の発展に乗り遅れたサルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものでもあります。

イタリア半島の統一に伴ってイタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も少づつ姿を消していきました。

第2次大戦後初の経済危機がイタリアを襲った際、国が村の土地を接収しようとしました。それをきっかけに村人の反骨精神が燃え上がります。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めました。山賊や殺人犯や誘拐犯らはイタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのです。

アナキストなどが先導する反骨アーチスト集団は、村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗しました。1960年代終わりのことです。

オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの最大の担い手ではありますが、実はそれの先駆者ではありません。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのがサルデーニャ島の壁画アートの始まりでした。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになりました。特に内陸部の僻地などにに多いのが特徴です。そこは昔から貧しく。今日も決して豊かとは言えない村や町が大半を占めています。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けました。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物者が訪れるようになっています。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結です。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、既述のように貧困から逃れようとして犯罪に走りました。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残りました。そして「反骨の血」を持つ者らが中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いたのがオルゴーソロの壁画アートなのです。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきました。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つと捉えられるべきものですが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なります。

まず地理的に考えれば、サルデーニャ島はイタリア本土とかけ離れたところにあります。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっています。

一見なんでもないことのように見えますが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たしました。イタリア半島から見て西方の、なぜかイタリアのどの島よりも「アフリカ側にある」と考えられた同島は軽視されたのです。

錯覚に近い人々の思い込みは、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る進入・支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていきました。

島の支配者はアラブからスペインに変り、次にオーストリアが名乗りを上げて最終的にイタリア共和国になりました。以後サルデーニャ島は、イタリアへの同化と同時に自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けています。

島が政治・経済・文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命です。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることです。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむりますが、同時に経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受けます。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命です。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定されます。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々の住民と比べると、「本土との精神的距離が遠いと感じている」ように筆者には見えます。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの「怒れるアート壁画」ではないか、と筆者は以前から考えていました。だから島に着くとほぼ同時に筆者はそれを見に行かずにはいられませんでした。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが、家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、筆者は自らの思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのでした。

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