「時には娼婦のように」の革命的愉快

なかにし礼作詞の名曲「時には娼婦のように」は次のように綴られます。

『時には娼婦のように 淫らな女になりな 
真赤な口紅つけて 黒い靴下をはいて
大きく脚をひろげて 片眼をつぶってみせな 
人さし指で手まねき 私を誘っておくれ

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 
うれしい ム・・・・・

時には娼婦のように たっぷり汗を流しな 
愛する私のために 悲しむ私のために
時には娼婦のように 下品な女になりな 
素敵と叫んでおくれ 大きな声を出しなよ

自分で乳房をつかみ 私に与えておくれ 
まるで乳呑み児のように むさぼりついてあげよう

バカバカしい人生より バカバカしいひとときが 
うれしい ム・・・・・

時には娼婦のように 何度も求めておくれ 
お前の愛する彼が 疲れて眠りつくまで』

この歌が発表された時、筆者は東京の大学の学生でした。歌詞の衝撃的な内容に文字通り目をみはりました。歌謡曲詞の革命だとさえ思いました。今もそう思っています。

「時には娼婦のように」について書いておこうと思ったのは、それが理由です。

かつて三島由紀夫は詩が書けないから小説を書くんだと言いました。詩とはそれほど卓越したものです。そして音楽とともに存在する歌詞もまた詩の一種です。

なかにし礼という作詞家は、阿久悠と共に一世を風靡しました。日本歌謡詞界の双璧として一時代に君臨しましたが、「時には娼婦のように」を生み出した分、なかにし礼の方が少し上かな、と筆者は考えています。

歌詞に限らず、あらゆる創造的な活動とは新しい発見であり発明です。新しい考え、新しい見方、新しい切り口、新しい哲学、新しい表現法などなど、これまで誰も思いつかなかったものを提示するのが創造です。

「時には娼婦のように」はそういう創造性にあふれた歌詞です。際どい言葉の数々を駆使しながらポルノにならず、「歌詞」という型枠を嵌められた「詞」でありながら、自由詩の大きさや凄みの域に達していると思います。

男の下賎な妄想である「昼は貞淑、夜は娼婦」という女の理想像を、歌謡曲という子供も女性たちも誰もが耳にする可能性のある普遍的な表現手段に乗せて、軽々とタブーを跨(また)ぎ越え世の中に広めてしまいました。

もう一方の天才・阿久悠は、名曲「津軽海峡冬景色」を

<上野発の夜行列車おりた時から 青森駅は雪の中~>

と始めて短い表現で一気に時間を飛び越え、東京の上野駅と青森駅を瞬時に結んでドラマを構築しました。よく知られた分析ですが、こちらもまたすごいので一応言及しておこうと思います。

作詞家なかにし礼はそのほかにも多くの創造をしましたが、新人の頃には「知りたくないの」という訳詞でも物議をかもしましたた。

エルビス・プレスリーも歌った英語の名曲「I really don’t want to know」を「あなたの過去など知りたくないの~」という名調子で始めたのですが、歌い手の菅原洋一が「過去」という語はよくないとゴネたといいます。

でも彼は信念を押し通して、そのおかげで今ある名訳詞が世の中に出回ることになりました。ヨカッタ。

筆者の独断と偏見による意見では、イタリアにも「なかにし礼」はいます。

ファブリツィオ・デ・アンドレというシンガーソングライターです。

彼は20年以上も前に亡くなりました。が、歌詞でも音楽でも圧倒的な存在感を持っています。あえて日本の歌手にたとえれば、小椋佳と井上陽水を合わせて、さらに国民的歌手に作り上げた感じ、とでも言えるでしょうか。

実力人気ともに超がつく名歌手、名作詞家、名作曲家です。

デ・アンドレもよく娼婦の歌を作り歌いました。彼は娼婦に対してとても親和的な考えを持っていました。娼婦を不幸な汚れた存在とは見ずに、明るく生命力にあふれた存在として描きました。

娼婦や娼婦に似せた女を歌うタブーは、デ・アンドレの活動期の頃のイタリアには存在しませんでした。従って禁忌を勇敢に破って世に出た「時には娼婦のように」と、デ・アンドレの歌を同列には論じられないかもしれません。

しかし、筆者はどうしても両者の「歌詞」の一方を聞くたびに、片方を思い起こしてしまいます。

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サルが木から落ちないためにするべきこと

先年、ミラノの語学学校でイタリア語を勉強しているN・Y君が筆者のところにやって来ました。

N・Y君は将来、イタリアと日本を結んでデザイン関係の大きなビジネスをやりたい、と青雲の志に燃えています。

そのためにイタリア語をものにしようとけん命に取り組んでいます。が、なかなか思うように上達しないのが悩みだそうです。

「おれ、語学の才能がないんだと自分でも思っています。くやしいけど、そのことは口を大にして言ってもいいですよ。おれ、本気ではそんなことは毛頭認めたくないんですけど・・・」
N・Y君は深刻な顔で彼の悩みを語り始めました。
 
筆者はN・Y君のイタリア語がうまくならない理由が分かったと思ったので、なおも話し続けようとする彼を制して、笑って言いました。
「イタリア語もいいけど、日本の古典文学をまず勉強した方がいいな」
「へ?」
「たとえば“源氏物語”とか“枕草子”とか、日本の古典文学だよ」
「・・コテン・・・ブンガク・・?」
N・Y君は、まるで頭の中がコテン、とでんぐり返った男でも見るような顔で筆者を見ました。

少しふざけ過ぎたと思ったので、筆者は言葉を変えました。
 
「今は必死になってイタリア語を勉強しているのだから、日本語は関係がない、と君は思っているだろう。そこが一番の問題なんだ」
「・・・?」
「はっきり言うと君の日本語はおかしい。口を大にして、というのは正確には声を大にして、と言うんだ。本気では、というのもここでは使い方が間違っている。それを言うなら、本心では、と変えた方がいい。毛頭、という小むつかしい語の使い方も少しニュアンスが違う。ついでに言うなら、おれ、おれと言いながらデスマス調で言葉をしめくくるのも変だ」
筆者はあえて指摘しました。
 
N・Y君は決してバカではありません。特別でもありません。彼の世代の日本の若者は皆彼のような言葉遣いをします。しかし、変なものは変です。
 
日本語をしっかり話せない日本人は外国語も決して上達しない。それが長い間そこかしこの国で言葉に苦労した筆者が出した結論です。
 
語学のうまい、へた、は多くが「言い換え」の能力によって決まります。
 
たとえば<猿も木から落ちる>という諺を、一番分かりやすいように英語にしてみます。

格言の一字一句を英語に変える時にはたいていの日本人は、たとえば

<猿>⇒モンキー。
<も>はトゥー、あ、でもここでは<でも>の意味だから多分イーブン。
<木>⇒ツリー。
<から>はフロムなのでフロム・ツリー。
そして<落ちる>⇒ドロップ?フォール?多分フォール・・・

などと辞書を引き引き考えて、最終的に《EVEN A MONKY FALLS  FROM  A TREE》のように英文を組み立てるのではないでしょうか。

少なくとも受験勉強をしていた頃の筆者などはそうでした。
 
こういう直訳の英語で話しかけられた外国人は、目をパチクリさせながら、それでも言おうとする意味は分かりますから、苦笑してうなずきます。

それでは<猿も木から落ちる>と全く同じ意味の<弘法にも筆の誤り>を訳するときはどうするのでしょうか。

前者と同じやり方で《EVEN MR. KOBO MAKES MISTAKES WITH HIS PENCIL》とでも言おうものなら、ドタマの変な奴に違いないと皆が引いたり、避けて通っていくこと必定です。

<ミスター・コーボー>を<空海>と置き換えても、<ペンシル>を<ブラッシュ>と置き換えても事情は変わりません。
 
こういうときに、素早く言い換えができるかどうかによって語学のうまい、へた、が決まるのです。

2つの諺は<私達はみんな間違いを犯す>という意味です。

そこで素早く直訳して《WE ALL MAKE MISTAKES》と言い換えます。あるいは<人間は不完全な存在(動物)である>として《HUMANS ARE INPERFECT BEINGS 》などと言い換えます。

それらは既に《EVEN A MONKY FALLS FROM A TREE》よりもはるかに英語らしい英語だと思いますが、さらに言い換えて<人は誰でも間違いを犯す>《EVERYBODY MAKES MISTAKES》とでもすればもっと良い英語になります。

それをさらに言い換えて

<完全な人間などいない>つまり《NOBODY IS PERFECT》
と簡潔に言い換えることができれば、<猿も木から落ちる>や<弘法にも筆の誤り>のほぼ完璧な英訳と言ってもいいのではないでしょうか。

事は英語に限りません。外国語はそうやってまず日本語の言い換えをしないと意味を成さない場合がほとんどです。

日本語を次々と言い換えるためには、当然日本語に精通していなければなりません。語彙が豊富でなければならない。筆者がN・Y君に言いたかったのは実はその一点に尽きます。

言葉を全く知らない赤ん坊ならひたすらイタリア語を暗記していけばいい。しかし、一つの言語(この場合は日本語)に染まってしまっている大人は、その言語を通してもう一つの言語を習得するしか方法がありません。

N・Y君は日本語の聞こえないイタリアに来て、イタリア語にまみれてそれを勉強しています。それは非常にいいことです。

言葉は学問ではありません。単なる「慣れ」です。従ってN.Y君も間もなく慣れて、少しはイタリア語が分かるようになります。

しかし、うまいイタリア語は日本語をもっと勉強しない限り絶対に話せないと筆者は思います。

この先彼が何十年もイタリアに住み続け、彼の中でイタリア語が日本語に取って代わって母国語にでもなってしまわない限り・・・。

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悪を悪と呼べない客観性の眉つば

プーチン大統領に同情的らしい日本の友人に次のような手紙を書きました。

「 渋谷君

“ウクライナ戦争はいつ終わるのか。プーチンだけが悪ではなく、戦争が起きる欧州のあり方そのものが悪なのではないか”、というあなたのメッセージにはひどく驚かされました。

戦争がいつ終わるのかについては僕は答えられません。それは誰にも答えられない問いです。当事者のプーチン大統領も、ウクライナのゼレンスキー大統領もおそらく知らないでしょう。

だが、 「プーチンだけが悪ではなく、戦争が起きる欧州のあり方そのものが悪なのではないか」というあなたの問いには明確に答えることができます。

ウクライナ戦争を起こしたプーチン大統領は徹頭徹尾悪です。のみならずウクライナ紛争では、プーチン大統領だけが悪、と僕は断言します。

ウクライナ戦争の先行きについては、世界中の多くの人が意見を述べていますね。

そのうち日本の各種メディアに躍っている主張は、欧州の現実を知らない事情や、逆に欧州の情報を頭デッカチに詰め込んだだけの、いわゆる欧州専門家なる人々の突飛な意見など、的外れなものも少なくありません。

欧州は外交や対話を知らず、軍による暴力を優先させる未開地域、という馬鹿げた意見さえあります。あなたもややそれに近い考えを持っているようですね。

何よりも先ず、その思考は全くの的外れであることを指摘させてください。

真実はこうです。

欧州は紛争を軍事力で解決するのが当たり前の、野蛮で長い血みどろの歴史を持っています。そして血で血を洗う凄惨な時間の終わりに起きた、第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て、ようやく「対話&外交」重視の政治体制を確立しました。

それは欧州が真に民主主義と自由主義を獲得し、「欧州の良心」に目覚める過程でもありました。

僕が規定する「欧州の良心」とは、欧州の過去の傲慢や偽善や悪行を認め、凝視し、反省してより良き道へ進もうとする“まともな”人々の心のことです。

その心は言論の自由に始まるあらゆる自由と民主主義を標榜し、人権を守り、法の下の平等を追求し、多様性や博愛を尊重する制度を生みました。

良心に目覚めた欧州は、武器は捨てないものの“政治的妥協主義”の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになりました。できるようになったと信じました。

欧州はその後、「欧州の良心」を敷衍する努力を続けてきました。

2022年現在、「欧州の良心」に基づく政治勢力は欧州全体では過半数、世界では半分をほんの少し上回る程度に存在する、と僕は考えています。

かつて僕は、その勢力は世界の圧倒的多数だ、と幼稚にユートピア的に考えていました。

だが、トランプ主義の台頭、Brexit の実現、イタリアのポピュリスト政権の登場などを見て、それは過半数をかろうじて上回る程度の弱々しい多数派に過ぎない、と思い知るようになりました。

それらの動きに中露北朝鮮が率いる世界の専制国家群を加えると、対抗する「欧州の良心」はますます頼りない存在になってしまいます。「欧州の良心」に賛同する者(僕もその一人です)は、強い心でそれを死守するべく闘わなくてはなりません。

欧州の良心も、民主主義も、言論の自由も、その他あらゆる自由主義社会の良さは全て、闘って勝ち取るものです。黙っているとすぐに専制主義とそれを支持する勢力に凌駕されてしまいます。

「欧州の良心」に基づいて政治・社会・経済制度の改革を加速させる欧州は、ロシアも自らの一部と見なしました。

例えば西側を主導するG7クラブは、ロシアと協調する作戦を取り、同国をG7の枠組みに招待してG8クラブに作り変えたりしたほどです。

そこにはロシアを懐柔しようとする西側の打算と術数が秘匿されていました。

同時にロシアは、西側とうまく付き合うことで得られる巨大な経済的利益と、政治的なそれを常に計算してきました。

西側とロシアのいわば“化かし合いの蜜月”は、おおざっぱに言えば90年代の終わりに鮮明になり、プーチン大統領の登場によってさらに深化し定着しました。

なぜか。

西側がプーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえしたからです。

言葉を替えれば西側世界は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けました。

彼は西側の自由主義とは相容れない独裁者だが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのです。

しかし、西側のいわば希望的観測に基づくプーチン観はしばしば裏切られました。

その大きなものの一つが、2014年のロシアによるクリミア併合です。それを機会にG8はロシアを排除して、元のG7に戻りました。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨て切れませんでした。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」しました。

そうやって西側世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまいました。

西側はクリミア以後も、プーチン大統領への強い不信感は抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑いませんでした。

「常識」の最たるものは、「欧州に於いては最早ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない」ということでした。

プーチン・ロシアも血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別していて、専制主義国家ながら自由と民主主義を旗印にする欧州の基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、“殺し合い”は避けるはずでした。

ところがどっこい、ロシアは2022年2月24日、主権国家のウクライナへの侵略を開始しました。

ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された、未開国であることが明らかになったのです。

ロシアは欧州の一部などではなく、同時にプーチン大統領は、民主主義の精神とはかけ離れた独善と悪意と暴力志向が強いだけの、異様な指導者であることが再確認されました。

プーチン・ロシアはいわばアジアだと僕は考えます。ここでいうアジアとは、民主主義を理解しない中国的、アラブ的、日本右翼的勢力の全てです。

現代では主権国家を力でねじ伏せることは許されません。それは欧州が、日本が、アラブが、世界が過去に繰り返しやってきた蛮行です。

プーチン大統領がウクライナ侵略を正当化しようとして何かを言い、弁解し、免罪符を求めても、もはや一切無意味になりました。それらは全て枝葉末節であり言い逃れであり虚偽になったのです。

事態の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を惨殺していることに尽きます。

細部、あるいは枝葉末節は、それのみを切り取って語ると過激論に陥る危険を秘めています。細部を語るのではなく、先ず幹を捕捉して、それを凝視しつつ全体を語るべきです。

日本では幹を見るどころか、細部だけを捉えてロシアにも一理がある、NATOの脅威がプーチンをウクライナ侵攻に駆り立てた、ウクライナは元々ロシアだった、などなどのこじつけや欺瞞に満ちた風説がまかり通っています。

東大の入学式では、名のあるドキュメンタリー制作者がロシアの肩を持つ演説をしたり、ロシアを悪魔視する風潮に疑問を呈する、という論考が新聞に堂々と掲載されたりしていますね。それらは日本の恥辱と呼んでもいいほどの低劣な、信じがたい言説です。

そうしたトンデモ意見は、愚蒙な論者が偽善と欺瞞がてんこ盛りになった自らの考えを、“客観的”な立ち位置からの見方、と思い込んで吠え立てているだけのつまらない代物です。

僕は愚陋な意見を開陳する人々に言いたい。

ウクライナを侵略しているプーチン大統領の行為は、言い訳など無用の完全な悪です。

繰り返しなりますが、彼は彼の得意な脅しや、騙しや、嘘や、情報操作など、彼が過去にも現在も実行しまくり、将来も実践し続けるであろう蛮行の限りを尽くしても、決して主権国家を侵略し市民を虐殺するべきではなかったのです。

ここではその認識が巨大な木の幹に当たります。幹はあまりにも大きく重大なため、それ以外の全てはほとんど意味のない枝葉末節であり細部になります。

巨大な木の幹こそ重要です。ウクライナ危機を論ずる場合には、幹のみを見つめ育み大切にしなければなりません。

幹を見失って詳細だけを見、語ると、既述の日本の論者のようにウクライナ危機ではプーチン大統領にも理がある、というような誤謬に迷い込みます。

欧州による、「欧州の良心」を具体化しようとする努力が生み出す結果は、民主主義と同様にむろん未だ完璧ではありません。むしろ欠点だらけです。

だがそれは、ロシアや中国や北朝鮮やトランプ主義者、さらに日本右翼団体ほかの強権、全体主義勢力に比べた場合は、完璧以上の優れた体制です。

ロシアの蛮行を放置し、プーチン大統領の悪意を徹底して挫(くじ)かなければ、それらの負の政治勢力が勢いを増して、世界中にいくつものウクライナが生まれることは必定と考えます。 

                                    以上 」                                                               

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夫婦の寝床と夫婦のベッド

イタリアきってのシンガーソングライター、ファブリツィオ・デ・アンドレは彼の名作の一つ「バーバラの唄」の中で

「♪~あらゆる夫婦のベッド
 オルティカとミモザの花でできているんだよ
 バーバラ~♪」

と歌いました。

オルティカは触れると痛いイラクサのことです。

結婚生活は山あれば谷あり、苦楽でできています。

それを「夫婦のベッドは、イラクサと美しく甘い香りのミモザで作られているんだよ、バーバラ」と艶っぽく表現するところがデ・アンドレの才能です。

同時に、そういう言い回しができるのがイタリア語の面白さだとも考えられます。

それというのも、これを正確な日本語で言い表すと「夫婦の褥(しとね)は~でできている」とか「夫婦の寝床は~でできている」とかいうふうになって、とたんにポルノチックな雰囲気が漂い出しかねません。

少しこだわり過ぎに見えるかもかもしれませんが、この歌の内容は日伊ひいては日欧の文化の根源的な違いにまでかかわる事象の一つ、とも考えられますのであえて書いておくことにしました。

「♪~あらゆる夫婦のベッドは
  オルティカとミモザの花でできているんだよ ~♪」

をイタリア語で書くと、

「♪~ ogni letto di sposa
e’ fatto di ortica e mimosa ~♪」

となり、そのうち「夫婦のベッド」に当たるのは「letto di sposa」です。

筆者はその部分をダイレクトに「夫婦のベッド」と訳しました。

その上で、実は日本語では「夫婦の寝床」とか「夫婦の褥(しとね)」または「」夫婦の布団」とするのが正確な表現、というふうにもって回った説明をしました。

なぜそうしたのかというと、イタリア語をそのまま本来の日本語にすると「letto di sposa」の持つ「性的な意味合い」だけが突然強調されて、その結果、原詩が強く主張している(夫婦の)人生や生活や暮らし、というニュアンスが薄くなると考えたからです。

ポルノチックになりかねない、と書いたのもそういう意味でした。

だが、そうではあるものの、二次的とはいえ「letto di sposa」には性的な含蓄も間違いなくあって、それらの微妙なバランスがイタリア語では「艶っぽい」のです。

日本語とイタリア語の間にある齟齬やずれは、性あるいは性的なものを解放的に語ったり扱ったりできるかどうか、という点にあります。

イタリア語のみならず欧米語ではそれができるが、日本語では難しい。

言葉が開放的である、とは思考や行動が開放的である、ということです。そう考えれば性的表現における欧米の開放感と日本の閉塞感の違いが説明できます。

性や性表現が閉鎖的だから、日本にはそのはけ口の一つとして「風俗」という陰にこもった性産業が生まれた、とも考えられます。

人生の機微や結婚生活の浮き沈みの中には、夫婦の性の営みも当然含まれていて、欧米文化の方向性はそのことも含めて直視しようとします。

日本文化の方向性はそこから目をそらせます。あるいは見て見ぬ振りをします。あるいはぼかして捉えます。

そこには日本文化の奥ゆかしさに通じる美もありますが、内向して「風俗」的な執拗につながる危うさもあるように思います。

良くしたもので、日本語には都合の悪い表現を別の言い回しでうまく切り抜ける方法があります。それが外来語です。

たとえば日常の会話の中ではちょっと言いづらい「性交」という言葉を「セックス」と言い換えると、たちまち口に出しやすくなるというようなこと。

筆者がバーバラの唄の「letto di sposa」を「夫婦の寝床」と訳さずに、あえて太字で強調して「夫婦のベッド」と書いたのも、そのあたりの機微にこだわったからです。

ベッドはもはや、日本語と言っても良いほどひんぱんに使われる言葉です。

しかし夫婦の「寝床」や「褥(しとね)」や「布団」に比べると、まだまだ日本語のいわば血となり肉となっている言い回しではありません。

依然として外来語のニュアンスを保っています。

だから「性交」に対する「セックス」という言葉のように、生々しい表現のクッションの役を果たして、それらの直截的な言い回しをぼかす効果があるように思います。

そればかりではなく、日本の大半の家の中には「夫婦のベッド」など存在しないのが普通です。夫婦のベッドとは巨大なダブルベッドのことです。だから狭い日本の家にはなじみません。

また例えそれを用いていても、ベッドはあくまでもベッド、あるいは寝台であって、朝になれば畳まれて跡形もなくなる「寝床」や「褥」や「布団」ではないのです。

そんな具合に日本の家においては「ベッド」は、やっぱりまだ特別なものであり、日本語における特別な言葉、つまり外来語同様に特別なニュアンスを持つ家具なのです。

だから夫婦の「寝床」や「褥」や「布団」と言わずに「夫婦のベッド」と表現すると、この部分でも恥ずかしいという感じがぐんと減って、耳に心地よく聞こえるのです。

もっと言えば、日本語では「夫婦の寝室」「や「夫婦の寝間」などと空間を広げて、つまりぼかして言うことは構わないが、「夫婦の寝床」とピンポイントで言うと、微妙に空気が変わってしまいます。

そこがまさに日本語のつまり日本文化の面白いところであり、ひるがえってそこと比較したイタリア語やイタリア文化、あるいは欧米全体のそれの面白さの一つなのだと思います。

 

 

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ウクライナ戦中に祝うイタリアの終戦記念日

毎年4月25日はイタリアの「解放記念日」です。

解放とはファシズムからの解放のことです。

日独伊3国同盟の仲間だったドイツとイタリアは、第2次大戦中の1943年に仲たがいしました。3国同盟はその時点で事実上崩壊し、独伊は険しい敵同士になりました。

イタリアでは、ドイツに抵抗するレジスタンス運動が戦争初期からありましたが、仲たがいをきっかけにそれはさらに燃え上がりました。

イタリアは同時に、ドイツの傀儡政権である北部の「サロ共和国」と「南部王国」との間の激しい内戦にも陥りました。

1945年4月、サロ共和国は崩壊。4月25日にはレジスタンスの拠点だったミラノも解放されて、イタリアはムッソリーニのファシズムとドイツのナチズムを放逐しました。

つまり4月25日はイタリアの「終戦記念日」。

掃滅されたはずのイタリアのファシズムは、しかし、種子として残りました。それは少しづつ土壌と湿りを獲得して、やがて発芽しました。

芽は成長し、極右政党と規定されることが多い「同盟」と、ファシスト党の流れを組むまさしく極右政党の「イタリアの同胞」になりました。

「同盟」はトランプ主義と欧州の極右ブームにも後押しされて勢力を拡大。2018年、極左ポピュリストの「五つ星運動」と組んでついに政権を掌握します。

コロナパンデミックの中で連立政権は二転三転しました。だが「同盟」も「イタリアの同胞」も支持率は高く、パンデミック後の政権奪還をにらんで鼻息は荒い。

彼らは自らを決して極右とは呼びません。中道右派、保守などと自称します。だが彼らはウクライナを蹂躙しているプーチン大統領を賞賛しトランプ主義を信奉して止みません。

極右の頭を隠したがりますが、尻がいつも丸見えなのです。

彼らは今日この時は、特にその傾向が顕著です。プーチン・ロシアがウクライナで残虐行為を働いていることに激しい批判が起きたため、一斉にプーチン大統領と距離を置くポーズを取っています。

しかしながら、それは死んだ振りに過ぎません。

彼らはフランス極右の「国民連合」 とも連携し欧州の他の極右勢力とも親しい。それらの極右勢力も、プーチン大統領との友誼を必死に隠匿しようとしているのは周知の通りです。

極右はファシストに限りなく近いコンセプトです。しかし、イタリアの極右勢力をただちにかつてのファシストと同じ、と決めつけることはできません。彼らもファシトの悪を知っているからです。

だからこそ彼らは自身を極右と呼ぶことを避けます。

第2次大戦の阿鼻地獄に完全に無知ではない彼らが、かつてのファシストやナチスや軍国主義日本などと同じ破滅への道程に、おいそれと迷い込むとは思えません。

だが、それらの政治勢力を放っておくと、やがて拡大成長して社会に強い影響を及ぼします。あまつさえ人々を次々に取り込んでさらに膨張します。

膨張するのは、新規の同調者が増えると同時に、それまで潜行していた彼らの同類の者がカミングアウトしていくからです。

トランプ大統領が誕生したことによって、それまで秘匿されていたアメリカの反動右翼勢力が一気に増えたように。

政治的奔流となった彼らの思想行動は、急速に社会を押しつぶしていきます。それは日独伊のかつての極右パワーの生態を見れば火を見るよりも明らかです。

そして奔流は世界の主流となってついには戦争へと突入します。そこに至るまでには、弾圧や暴力や破壊や混乱が跋扈するのは言うまでもありません。

したがって極右モメンタムは抑さえ込まれなければなりません。激流となって制御不能になる前に、その芽が摘み取られるべきです。

では権力を握った極右の危険の正体とはいったい何でしょう?

それは独裁者の暴虐そのもののことです。ロシアの独裁者、プーチン大統領がウクライナで無差別殺戮を繰り返しているように、極右政権は自国民や他国民をいとも簡単に虐待します。

ウクライナ、またロシア国内の例を見るまでもなく、人類の歴史がそのことを雄弁に物語っています。

イタリアは今日、解放記念日を祝います。ファシズムとナチズムという専制主義を殲滅したことを称揚するのです。

それは将来ウクライナの人々が、プーチンという独裁者を地獄に追いやる時の儀式にも似ているに違いありません。

ウクライナの4月25日を筆者はイタリアの地で待ちわびています。

 

 

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“マリオ・ドラゴン”伊首相の快刀乱麻

プーチン・ロシアによるウクライナへの蛮行は止む気配がありません。

欧州で発生した戦争という信じがたい事態に、人々は怒り悲しみ嘆いています。

各国の政治指導者も、ほとんどが強い言葉でプーチン大統領の独善と残虐性を指弾しています。

同時に停戦を目指して、プーチン大統領と対話し説得し、仲介を試みる動きも活発です。

中でもフランスのマクロン大統領は、対話は功を奏していないという批判もある中、プーチン大統領との会談を繰り返して和平を模索しています。

一方イギリスのジョンソン首相やEUのフォンデアライエン委員長、またポーランドやバルト3国の首脳など、多くの政治家がウクライナを訪問し、トルコほかの首脳もプーチン大統領との接触を間断なく続けています。

そんな折、プーチン大統領と会談したイタリアのマリオ・ドラギ首相が、EU主要国の首脳としては異例の発言をしました。

ドラギ首相は「プーチン大統領と話すのは時間のムダ」と言い放ったのです。

ドラギ首相はプーチン大統領に、「ウクライナのゼレンスキー大統領と一刻も早く面談し、停戦を模索するべき」と促したが、プーチン大統領は「今じゃない」と繰り返すだけでした。

ドラギ首相はまた、「プーチン大統領の目標は今のところ平和の追求ではない。ウクライナの抵抗勢力を全滅させ、国土を占領し、親ロシア政権を作ってウクライナを操ることだ」とも説明しました。

イタリアはG7の構成国ですが、国際政治の場では日本と同様の弱小国です。ほとんどの何の影響力も持ちません。

ところがドラギ首相は、欧州中央銀行総裁として辣腕を振るった経歴がものをいって、欧州はもちろん世界的にも一目置かれている存在です。

だからこそプーチン大統領も、危機のさなかでドラギ首相との会談に応じました。

ドラギ首相が説明した、プーチン大統領の目標の中身は目新しいものではありません。

しかし、「ロシアのボスとの対話は時間のムダ」と一刀両断に切り捨てた彼の言葉は重い。

ロシアは中国と並んで伝統的にイタリアと親しい。しかしながらドラギ首相は、「中国もロシアも専制国家」と公言してはばかりません。

歯に衣着せぬ発言が彼の持ち味です。

ドラギ首相の辛らつな発言をなぞるような出来事も起こっています。

イギリスのジョンソン首相が「プーチン大統領との協議は、ワニに足をかまれたまま対話するようなものだ」とドラギ首相の発言に追随したのです、

また主要20か国の財務相・中央銀行総裁が集まるG20会議では、米英カナダの代表団が、ロシアの発言時に退席するというあからさまな動きに出ました。

各国が協調し団結するのが目的の世界会議場で、ロシアへの抗議を優先させた3国の異例の行動も、ドラギ首相の脳天唐竹割り発言に触発されたのかもしれません。

しかしながらドラギ首相の言葉も、それをなぞったように見えるあれこれの動きも、どちらかと言えば和平には資しません。

少しでも和平に貢献する可能性があるのは、ドラギ首相の単純明快な発言ではなく、対話を続けようとするマクロン大統領のねばり腰です。

そうはいうものの、しかし、ガツンと一発かましたドラギ首相の正直も、ウクライナ危機の真髄に迫っていて、それはそれで気に留めておくべき、と思います。

誰もが彼と同じ態度に出れば、戦線の拡大から世界戦へと、悪夢が現実化して行かないとも限りません。

 

 

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ゼレンスキー大統領の勇み足を憂う

ウクライナのゼレンスキー大統領が、ドイツのシュタインマイヤー大統領のキーヴ訪問を拒否しました。

シュタインマイヤー大統領が、ロシア寄りのスタンスを取り続けたことをゼレンスキー大統領が問題にしての動きですが、筆者はその頑なさに危うさを感じます。

ロシアがウクライナを侵略するまでは、日本を含む多くの西側諸国の指導者が多かれ少なかれロシア寄り、つまり親プーチン大統領のスタンスを取ってきました。

そこにはロシアを懐柔しようとする西側の打算と術数が秘匿されていました。同時にプーチン・ロシアは、西側とうまく付き合うことで得られる巨大な経済的利益と政治的なそれを常に計算してきました。

西側とロシアのいわば“化かし合いの蜜月”は、おおざっぱに言えば90年代の終わりに鮮明になり、プーチン大統領の登場によってさらに深化し定着しました。

なぜでしょうか。

西側がプーチン大統領の狡猾と攻撃性を警戒しながらも、彼の開明と知略を認め、あまつさえ信用さえしていたからです。

言葉を替えれば西側世界は、性善説に基づいてプーチン大統領を判断し規定し続けました。

彼は西側の自由主義とは相容れない独裁者ですが、西側の民主主義を理解し尊重する男だ、とも見なされたのです。

西側はプーチン大統領以前からロシアを調略する作戦を取り、ロシアをG7の枠組みに招待してG8クラブに作り変えたりさえしました。

しかしG8は2014年、プーチン・ロシアがクリミア半島を併合したことを受けて崩壊し、元のG7に戻りました。

それでもG7が主導する自由主義世界は、プーチン大統領への「好意的な見方」を完全には捨てきれませんでした。

彼の行為を非難しながらも強い制裁や断絶を控えて、結局クリミア併合を「黙認」しました。

そうやって西側世界はプーチン大統領に蜜の味を味わわせてしまいました。

西側は以後、プーチン・ロシアへの強い不信感を抱いたまま、性懲りもなく彼の知性や寛容を期待し続け、何よりも彼の「常識」を信じて疑いませんでした。

「常識」の最たるものは、欧州に於いてはもはや、ある一国が他の主権国家を侵略するような未開性はあり得ない、ということでした。

欧州の歴史は、血で血を洗う過酷な殺し合いの連続でした。それでも、やがて第1次、第2次大戦という巨大な殺戮合戦を経て欧州は生まれ変わりました。

民主主義と自由を獲得し、欧州の良心に目覚め、武器は捨てないものの政治的妥協主義の真髄に近づいて、武器を抑止力として利用することができるようになりました。できるようになったと信じました。

その欧州はロシアも自らの一部と見なしました。従ってロシアも、血で血を洗う過去の悲惨な覇権主義とは決別しているのが当然、思い込みました。

ロシアは、専制主義国ながら欧州のその基本原則を理解し、たとえ脅しや嘘や化かしは用いても、殺し合いは避けるはずでした。

ところがどっこい、ロシアは2022年2月24日に主権国家のウクライナを侵略しました。ロシアはプーチン大統領という魔物に完全支配された悲劇の国であることが明らかになりました。

ロシアは欧州の一部などではなく、またプーチン大統領は、民主主義の精神とはかけ離れた独善と悪意と暴力志向の強い、異様な指導者であることが改めて確認されました。

プーチン大統領がウクライナ侵略を正当化しようとして何かを言い、弁解し、免罪符を求めても一切無意味です。それらは全て枝葉末節であり言い逃れであり虚偽です。

事態の核心は、彼が歴史を逆回転させて大義の全くない侵略戦争を始め、ウクライナ国民を惨殺していることに尽きます。

それによって第2次大戦後に獲得された欧州の恒常的な平和が瓦解し、世界秩序が無理やり引き裂かれました。

多くの西側の指導者が突然、プーチン大統領を買いかぶっていたことに気づきました。

シュタインマイヤー大統領もそのひとりです。彼はそのことに気づいて「ロシアを支持し続けたのは間違いだった」と公式に認めました。

ドイツ大統領は象徴的な置き物で実権はありません。

彼のキーヴ訪問を拒否したゼレンスキー大統領の言葉を翻訳すると、大統領ではなく「実権を持つショルツ首相がウクライナに来い」ということなのでしょう。

ドイツはエネルギーの首根っこをロシアに掴まれている弱みから、危機の初めにはウクライナに冷たい態度を示しました。

ゼレンスキー大統領の怨みは理解できますが、ドイツを責めるのはこの場合は得策ではありません。見当違いでさえあります。

過去にはドイツに限らず多くの国が、エネルギー欲しさからもロシアにしきりに擦り寄りました。そしてドイツを含む西側のほぼ全ての国が、2022年2月24日を境にそれは大きな誤りだったと悟ったのです。

ゼレンスキー大統領は、来るものは拒まずに共鳴者を獲得し続けるべきです。敵はロシアだけで十分です。友を、味方を得ることが彼の仕事です。彼がこれまで必死でやってきているように。

シュタインマイヤー大統領の訪問を拒否することで得る、ドイツの偽善を暴く、というウクライナにとってのある種の「利益」は空しい。

ゼレンスキー大統領はシュタインマイヤー大統領を許し受け入れて、彼の訪問に感謝し今後の支援を要請していたほうがウクライナの国益に叶い、世界世論の受けも良かったのではないか、と切に思います。

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“今この時の”自由世界の旗手はマクロン次期大統領だ

4月10日のフランス大統領選では、現職のマクロン候補と極右のル・ペン候補が24日に実施される決選投票に駒を進めました。

ふたりは2017年の大統領選でも争いました。そのときの決選投票では、マクロン候補が  66%の得票率で圧勝しています。

今回の決選投票では両者が競り合う展開になっています。マクロン候補は、ウクライナ危機でプーチン大統領との対話を続ける態度が評価され、前半は極めて有利に選挙戦を進めました。

ところがその同じ危機の影響で、エネルギーや食品価格を筆頭に物価が高騰し社会不安が急速に高まりました。

ル・ペン候補はそこを捉えて、物価対策を旗印にキャンペーンを張り、中・低所得者層を取り込んで急激に支持を伸ばした、という形です。

ル・ペン候補は決選投票でも、物価高や購買力などの国内問題を強調して選挙戦を戦うことが確実です。それはウクライナ危機をほぼ無視して、フランス・ファースト主義に徹するということです。

一方のマクロン候補は、これまでのように欧州の中のフランス、ひいては世界の中のフランスの責任ある役割、というテーマを前面に押し出して戦うはずです。

彼はこれまで力を注いできたウクライナ危機への強い関与を継続し、フランスの指導力を世界に示そう、と国民に呼びかけるでしょう。

ドイツのメルケル前首相が欧州政治の表舞台から消えた今は、マクロン候補こそ自由主義世界の木鐸ともいうべき存在です。

独裁者のプーチン大統領に対抗する欧州の強い指導者は、マクロン大統領のほかには英ジョンソン、伊ドラギの両首相、EUのフォンデアライエン委員長などがいます。

だがジョンソン首相はBrexitを主導した反EU主義者です。単身キーヴに乗り込んでゼレンスキー大統領を激励した行動力はすばらしいが、正体がトランプ主義者に近い存在ですから100%は信用できません

イタリアのドラギ首相は、元欧州中央銀行の辣腕総裁という肩書きと、その肩書きに支えられた手堅い政権運営が評価されて、国内はもちろん国際的にも一目置かれてはいます。

しかし彼には、政治家に必要な高いコミュニケーション能力が欠けています。それは仲介能力が低いというのとほぼ同義語です。対話による停戦が喫緊の課題であるウクライナ危機のさなかでは、先導者を務めるのは厳しそうです。

フォンデアライエン欧州委員会委員長も、海千山千の怪物プーチン大統領と丁々発止にやりあうには、少々役者不足と言わざるを得ません。

3人のほかにはドイツのショルツ首相もいますが、彼はエネルギー問題でロシアに首根っこを押さえられていて、今のところはほとんど身動きできずにいます。存在感が巨大だったメルケル前首相に名前負けしている弱さもあって、リーダーシップを発揮できていません。

西側連合全体のリーダーはむろんバイデン米大統領ですが、彼はプーチン大統領を口を極めて罵るばかりで、今のところは対話からは遠い位置にいます。

そうして見てくると、フランス国内では‘金持ちのための大統領’などという批判もあるマクロン候補ですが、怪物のプーチン大統領と対抗できるのは、今はやはり彼が最も相応しい。

マクロン候補を抑えてフランス大統領になるかもしれないル・ペン候補は、穏健化路線の仮面を剥ぎ取れば、プーチン信奉者でありトランプ追従者です。彼女はここイタリアの極右指導者サルヴィーニ、メローニ両氏とも親和的です。

それらの反国際協調路線主義者は、各国それぞれの事情で立場に微妙な違いはあるものの、強権政治を志向する傾向がある点で中国や北朝鮮にも近い。

もしもル・ペン政権が成立した場合、ウクライナ危機に対しての欧州の結束は乱れ、米バイデン政権との仲もギクシャクする可能性が高まります。

そうなれば、言うまでもなくそれは、プーチン・ロシアへの援護射撃となることが確実です。

ル・ペン候補は彼女が牛耳る極右政党の名前を、攻撃的なイメージが強い「国民戦線」からよりソフトなイメージの「国民連合」に変え、自身の過激な言動にも封印をして穏健化路線を進めました。

それは「脱悪魔化」とも呼ばれてきた策です。

支持の拡大を図るそれらの動きはしかし、あくまでもル・ペン候補と極右政党の「死んだ振り」政策に過ぎません。彼女の正体は「脱悪魔化」というおどろおどろしい言葉が示すように悪魔的であり、彼女の政党も好戦的な極右勢力であり続けています。

それは半島北部の独立を目指したここイタリアの北部同盟が、より全国区の協調路線をイメージさせようとして、党名を「同盟」と改名したことと同じ姑息な手段です。反移民・反イタリア・反EUの同盟は、「北部同盟」時代と中身は何も変わらず極右の剣呑な政党であり続けています。

彼らはトランプ主義者であり白人至上主義者です。加えていえば日本のネトウヨ・ヘイト系排外外差別主義者らとも親和的な政治勢力です。

またル・ペン候補もサルヴィーニ同盟党首も、はたまたトランプ前大統領も、いずれも隠れなきプーチン信奉者です。その周囲には中国もぴたりと寄り添って、隙あらば取り入り取り入れようと画策しています。

マクロン大統領は、フランス政界の分断をうまく捉えて極左と極右を痛烈に批判し、彼が「責任ある中道勢力」と呼ぶ層をまとめて国を引っ張ってきました。しかしその手法は選挙では、2017年ほどの明確な成功には至らず、ル・ペン候補の激しい追い上げに遭っています。

選挙戦の出だしではマクロン候補が大差でリードしていると考えられていました。しかし、先に触れたように、ウクライナ危機がもたらす疲弊と急激なインフレが社会不安を招き、それへの対応を最優先すると訴えるル・ペン候補に庶民の支持が集まりました。

世論調査によるとフランスでは、極左と極右を合わせた過激派への国民の支持率が5割を超えています。それはここイタリアの状況にも似ています。もっといえば、アメリカのトランプ主義勢力、英国のBrexit支持派、などとも通底している現象です。

さらにいえばそれらの政治勢力は、たとえ表立ってその素振りを見せていなくても、潜在的にはロシアのプーチン大統領とも親和的な政治力学です。

だからこそ真っ向からその勢威と張り合うマクロン大統領の存在は、自由と民主主義にとっての、今このときの最重要な拠り所なのではないか、と考えます。

 

 

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プーチン信徒もはびこるイタリアの深層 ‘真理’

前回エントリーで、プーチン大統領を受身に擁護する、ジュゼッペ・コンテ前イタリア首相を批判しまし

彼の名誉のために付け足しますと、プーチン大統領を名指しで非難しないイタリアの有力政治家は、ほかにも少なからずいます。

その筆頭がマッテオー・サルヴィーニ同盟党首です。極右とも規定される同盟のトップは、かねてからプーチン大統領を崇拝し、彼を称揚する言動を堂々と展開してきました。

サルヴィーニ党首は先日、ウクライナからの難民に連帯を示したいと称してポーランドを訪れましたが、プーチン大統領支持の正体を見抜かれて現地の人々の総スカンを食らいました

サルヴィーニ党首は、プーチン大統領とともにトランプ前大統領も敬仰しています。

同党首はポーランドで叱責を受けた際、ロシアのウクライナ侵攻は良くないことだ、としぶしぶ認めましたが、その後はコンテ前首相と同じく、決して“プーチン”という名を口にせず、むろんロシアを非難することもしません。

一方、支持するとまでは表明しないものの、沈黙を守ることでプーチン大統領を擁護した、もう一人の大物政治家もいます。ベルルスコーニ元首相です。

プーチン大統領と親密な元首相は、ロシアがウクライナで殺戮を繰り返すのを目の当たりにしながら、当初は同大統領を全く批判しませんでした。

ベルルスコーニ元首相はおよそ一ヵ月後、これまたしぶしぶという風体でロシアの蛮行を初めて非難しました。

そして4月9日、自身が党首を務めるFI党の党大会で「プーチン大統領には失望した」と強い調子で友人の独裁者を糾弾しました。

遅きに失した感はありますが、だんまりを決め込んだり、消極的にあるいは受け身にプーチン大統領支持に回るよりは増しといえます。

醜聞にまみれたベルルスコーニ元首相には多くの批判があります。だがそのことはさて置いて、彼は政治的には、いわゆる「欧州の良心」から大きく逸脱することは一貫してなかった、と筆者は思います。

プーチン大統領を援護する勢力は、イタリアにおいても左右の極論者が多い。左の代表が前述したようにコンテ前首相であり、右の極論者がサルヴィーニ同盟党首です。

彼らはトランプ主義者である点でも共通しています。

筆者が知る限りコンテ前首相は公にトランプ前大統領を称揚したことはありません。だが彼の上に君臨する五つ星運動創始者のグリッロ氏は、紛れもなくトランプ礼賛者でありプーチン追従者です。

コンテ前首相は、残念ながら彼のボスに倣って、ここのところは“プーチン”という言葉を一切口に出さない主義を貫いています。

そのようにイタリアでは、他の先進民主主義国では中々見ることができない衝撃的な政治実況に出くわすことも珍しくありません。

つい先日まで首相の座にあった者や10年近くも首班を務めた政治家、あるいは世論調査で支持率1、2位を争う政党の党首などが、今このときのロシアの蛮行を見て見ぬ振りをしたり、あまつさえ支持したりするのは、ほとんどあり得ないことではないでしょうか。

イタリアではそれが堂々となされることも少なくありません。

イタリア政治の特徴は多様性です。それは傍目には混乱に映ることも多い。

事実、混乱も起きますが、イタリア共和国は混乱では崩壊しません。国家の中にかつての自由都市国家群が息づいているからです。

仮にイタリア共和国が崩壊しても、歴史的存在の自由都市国家群はしぶとく生き残って、さらなる歴史を継承していくことが確実です。

イタリア共和国とは、つまり、決して崩壊しない一つ一つの自由都市国家の集大成です。従ってイタリア共和国自体もまた崩壊することはない、とも言えます。

むろんイタリアが民主主義国家であり続ける限り、イタリア共和国の「民主的な解体」はいつでも起こり得ます。

そのイタリア共和国は、たとえばBrexitに走った英国や、国民連合が台頭するフランス、またドイツのための選択肢を抱えるドイツなどとそっくり同じです。

つまりそれらの西側諸国がプーチン・ロシアの愚行を受け入れることがないように、イタリア共和国がプーチン大統領の悪行に寄り添うことはあり得ません。

そうではあるもののイタリアの国民的合意には、イタリア的多様性がもたらす不協和音に似た耳障りな響きも、またくっきりと織り込まれているのが常なのです。

 

 

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馬脚をあらわしたか、ジュゼッペ・コンテ前首相

イタリアは2024年までに防衛費をGDP(国内総生産)の2%に引き上げるとしたNATOとの合意を反故にしました。

連立政権を構成する五つ星運動の党首、コンテ前首相が激しく反対したからです。

コンテ前首相は、2019年に当時首相だった自分自身がNATOと約束した防衛費の増額を否定したのです。

それによって彼は、右顧左眄と民心扇動が特徴的なポピュリスト政党のトップであることを如実に示しました。

彼の主張は五つ星運動の目玉であるバラマキ策、「最低所得保障(reddito di cittadinanza」とも深く結びついています。

コンテ氏が首相だった2019年、五つ星運動のゴリ押しが功を奏して、イタリア政府は低所得者層に一定の金額を支給し始めました。

コンテ政権は同年、NATOとの防衛費増額にも合意したのです。

ところが最近になってコンテ前首相は、イタリアを含む欧州が、プーチン・ロシアに侵略されるかもしれない危険に備えるための防衛費増は認めない、と声高に主張し始めました。

弱者を援助するという名目で票集め用に金をバラまくのは構わないが、安全保障は天からの恵みで自然に備わるものだから気にしなくてもよい、とでも考えているのでしょうか。

イタリア共和国がロシアによって破壊された場合、貧者も富裕者も関係がありません。誰もが等しく地獄に落ちます。そんな瀬戸際に陥らないための防衛費増です。

NATOとEUを含む欧州各国が、歴史を大転回させるほどのロシアの凶行に太平の夢を破られて緊張し、欧州全体を守るために団結して即座の防衛費増を決めました。イタリア一国の問題ではないのです。

言うまでもなく弱者は救済されるべきです。だがそれは国が存続してはじめて可能になります。国が破壊されたら弱者への援助どころか、金持ちも貧乏人も何もかも消滅します。

今はその大本の真理のみを凝視して、原則に立ち返る努力をするべき時ではないでしょうか。

それをしないで詭弁を弄するのは、ロシアのプーチン大統領が「主権国家を侵略してはならない」という 原理原則を踏みにじっておきながら、細部を持ち出して言い訳や詭弁や強弁を声高に主張するのとそっくり同じ行為です。

ドラギ政権は、コンテ前首相の強硬な反対に遭って、NATOとの合意を変更せざるを得なくなりました。五つ星運動が連立政権内の最大勢力だからです。

過激派は得てして― それが右か左かには全く関係なく― 常識を一気に飛び越えて極論に走ります。

この場合は極左の五つ星運動が、大本の議論を無視して、たとえロシアからミサイルが飛来しても先ず貧者を助けろ、とわめいているに等しい。

五つ星運動はベーシックインカム(最低所得保障)導入に関しても、同じ偏執論理で突っ走りました。

だが貧者を援助するための財源は働く人々の税金から出されます。ならば先ず働く人々を助けるべきです。

同時に働かない、あるいは働けない人々を、働くように仕向けることが重用です。つまりバラマキの前に、仕事を生み出す知恵を働かせるべきなのです。

その上で貧者に手を差し伸べる政策を強化すれば、誰もが納得します。

だが彼らは端からその努力を怠って、財源には全く目を向けることなく金をバラマクことばかりを目指しています。そうすれば投票してもらえるからです。

コンテ前首相はイタリアがコロナ地獄の底で苦悶していた2020年、強い意志と勇気とポジティブ思考で国民を鼓舞し、厳しい全土封鎖を断行してイタリアを危機から救いました。

筆者は彼の力量を大いに評価して、そこかしこで褒めそやし喧伝しました。

また彼が首相退任後に五つ星運動のトップに迎え入れられた時は、筆者が強い違和感を抱き続けてきた五つ星運動を、彼が根底から変えてくれるのではないかとさえ期待しました。

コンテ氏は首相時代に五つ星運動の支持を受けてはいましたが、そこの所属ではなかったのです。

だが彼は今や、大衆迎合主義政党「五つ星運動」の、過激な本性を身にまとっただけの極論者になりつつあります。いや、元々そうだった正体が、コロナ禍の混乱が去りつつある現在、徐々に表に出てきた、というのが真実に近いのでしょう。

コンテ前首相は、ウクライナで残虐行為を続けているプーチン大統領を支持する、という信じがたい迷妄の底にも沈んでいます。

正確に言えば、コンテ前首相は、彼のボスである党の創始者、ベッペ・グリッロ氏の「金魚の糞」化して、戦争勃発以来ひと言も「プーチン」という言葉を口に出さす、ロシアを表立って批判することもありません。

彼のボスがそうしているからです。あるいはふたりは示し合わせてそうしているのかもしれません。

コンテ前首相は、確信犯的にプーチン大統領の名前を口にせず、同時に彼の蛮行から目をそらすことで、プーチン大統領を援護しているのです。

彼が党首を務める五つ星運動は、親中国、親ロシアのポピュリスト政党です。また同党は反体制、反EUも標榜しています。

彼らは古い政党や腐った政治家をインターネットを介して糾弾する、という目覚しい手法で急速に支持を伸ばしました。

イタリア政界にはびこる腐敗政治家を指弾しようとする姿勢はすばらしい。また弱者に寄り添おうとする取り組みも共感できます。

だが彼らには創造的な政策案がありません。働く人々が稼いだ国庫の富を、無条件に貧者に分け与えろ!と叫ぶばかりです。

その公平な分配法、財源、不正防止策などにはお構いなしです。そして致命的なのは、繰り返しになりますが、貧者のためまた国民のために仕事を創出する、という視点がないことです。

そうした無責任な体質が、党首であるコンテ前首相のプーチン大統領への「受身の支持」を招き、NATO軽視、安全保障無視のスタンスを呼び込んでいます。

彼らが極左のポピュリスト、と規定され批判されるゆえんの一つです。

極左、とは過激派という意味です。その部分では彼らは、右の過激派である極右の同盟やイタリアの同胞などと寸分違わない。極論には右も左もないのです。

コンテ前首相はつまるところ、左の過激派と呼ばれても仕方のない言動に終始しています。

プーチン・ロシアの脅威を排除するための軍事費の増額を批判して、その金を貧者に回せ、と叫ぶのは平和時なら正しい。

しかし平和が危機にさらされている状況では、まず平和維持を追求するのが筋です。

また、蛮行に突っ走るプーチン大統領を、コンテ前首相がこの期に及んでも批判しない了見は、全く理解できません。それどころかほとんど狂気の沙汰とさえ感じます。

2020年のイタリア全土ロックダウン時の彼の八面六臂の活躍は、もはや帳消しになったと言っても過言ではないでしょう。

残念至極なことです。

 

 

 

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