ドラマチックにダサいドラマもある

先のエントリーでNHKのドラマが無条件にすばらしいと誤解されかねない書き方をしたように思います。

そこでつまらないドラマについてももう少し明確に書いておくことにしました。

前項でも少し触れたようにNHKのドラマにも無論たいくつなものはあります。

実際に言及したものの中では 『子連れ信兵衛 』『ノースライト』『岸辺露伴は動かないⅡ』などが期待はずれでした。

また『正義の天秤』では、人間性とプロ意識が葛藤する場面で、主人公が弁護士バッジを外したり付けたりするアクションで問題を解決するシーンに、‘噴飯もの’と形容したいほどの強い違和感を抱きました。

それは最も重要に見えたエピソードの中での出来事だったため、それ以外の面白いストーリーの価値まで全て吹き飛んだような気分になりました。

また『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』は、超高齢の夫婦が子供を授かった場合にあり得るであろう周囲の反応や、実際の肉体的また精神的苦悩が真剣に描かれていて、それが非常によかった。

しかし筆者はそのドラマの内容に関しては、ドラマそのものが成立し得ないであろう、と考えられるほどの致命的且つ根本的な疑問を持ち続けました。それについては長くなるので次の機会に回すことにします。

山本周五郎原作の 『子連れ信兵衛 』は、周五郎作品に時々見られる軽易な劇展開を真似たようなシーンが多々ありました。   

人物像も皮相で説得力がなかった。なによりもドラマの展延が偶然や都合のよいハプニングまた予定調和的なシーンに満ちていて、なかなか感情移入ができませんでした。

山本周五郎の作品は周知のように優れた内容のものが多い。だが、中にはおどろくほど安手の設定や人間描写に頼るドラマもまた少なくありません。それは多作が原因です。

多作は才能です。周五郎を含めた人気作家のほぼ誰もが多作であるのは、彼らの作品が読者に好まれて需要が高いからにほかなりません。

そして彼らはしっかりとその需要に応えます。才能がそれを可能にするのです。

だがおびただしい作品群の中には安直な作品もあります。それは善人や徳人や利他主義者などが登場する小説である場合が多い。

それらの話は、勧善懲悪を愛する読者の心を和ませて彼らの共感を得ます。徹底した善人という単純さが眉唾なのですが、一方では周五郎の深い悪人描写にも魅せられている読者は、気づかずに心を打たれます。

小説の場合には、絵的な要素を読者が想像力で自在に補う分、全き善人という少々軽薄な設定も受け入れやすい。だが、映像では人物が目の前で躍動する分、緻密に場面を展開させないと胡乱な印象が強くなります。

それをリアリティあふれる映像ドラマにするためには、演出家の力量もさることながら、小説を映像に切り換える道筋を示す脚本がものを言います。

さらに多くの場合は、リアリティを深く追求すればするほど制作費が嵩む、などのシビアな問題も生まれて決して容易ではありません。

それは2022年2月現在、ロンドン発の日本語放送で流れている「だれかに話したくなる  山本周五郎日替わりドラマ2 」でも起きていることです。

今このとき進行しているドラマでつまらないものをもう一本指摘しておきます。

「歩くひと」です。

NHKの説明では「ちょっと歩いてくるよ」と妻に言い残して散歩に出た主人公が、日本各地の美しい風景の中に迷い込み、触れ、楽しみ、そしてひたすら歩く話、だそうです。

そして“これまでにない、ファンタジックな異色の紀行ドラマ”がキャッチコピーです。

だが筆者に言わせればそんな大層な話ではありません。

紀行ドキュメンタリーではNHKはよくリポーターを立てます。リポーターは有名な芸能人だったりアナウンサーだったりしますが、要するに出演者の目線や体験を通して旅を味わう、とう趣旨です。

「歩くひと」では、井浦新演じる主人公が日本中を歩く。えんえんと歩く。歩く間に確かに美しい光景も出現します。

だが、「だからなに?」というのが正直な筆者の思いです。退屈極まりないのです。

筆者はこの番組のことを知らず、従ってそれを見る気もなくテレビをONにしました。すると見覚えのある顔の男が、酒でも飲んだのか路上で寝入る場面にでくわしました。

それが主人公の井浦新なのですが、筆者はそこでは彼の名前も知らないまま思わず引き込まれました。

それというのも井浦が出演するもうひとつのNHKドラマ、『路〜台湾エクスプレス〜』 の続編がちょうどこの時期オンエアになっていて、彼の顔に馴染みがあったのです。

『路〜台湾エクスプレス〜』でも、井浦が演じる安西という男が酒を飲んで荒れる印象深いシーンがあります。筆者は突然目に入った「歩くひと」の一場面と『路〜台湾エクスプレス〜』を完全に混同してしまいました。

『路〜台湾エクスプレス〜』が放送されているのだと思いました。展開を期待して見入りました。だが男は森や畑中や集落の中を延々と歩き続けるだけです。

番組が『路〜台湾エクスプレス〜』ではないと気づいたときには、筆者はもうすでに長い時間を見てしまっていました。退屈さに苛立ちつつも、我慢して見続けた自分がうらめしくなりました。

この記事を書こうと思いついて念のために調べました。日本語放送の番組表なども検分しました。そうやって筆者は初めて井浦新という俳優の名を知り、「歩くひと」という新番組の存在も知りました。

NHKは筆者の専門でもあるドキュメンターリー部門で、「世界ふれあい街歩き」という斬新な趣向の番組を発明し、今も制作し続けています。

カメラがぶれないステディカムや最新の小型カメラを駆使して撮影をしています。その番組が登場した時、筆者は「なんという手抜き番組だ!」と腹から驚きました。

世界中の観光地などを、観光客があまり歩かないような地域も含めてカメラマンひとりがえんえんと撮影し続けるのです。ディレクターである筆者にはあきれた安直番組と見えました。

ところが筆者は次第にその番組にはまっていきました。

今では訪ねたことのない街や国をそこで見るのが楽しみになっています。また愉快なのは、既に知っている国や街の景色にも改めて引き込まれて見入ることです。

前述のように観光客があまり行かず、紀行番組などもほとんど描写しないありふれた場所などを、丹念に見せていく手法が斬新だからです。

「歩くひと」にももしかするとそんな新しい要素があるのかもしれません。

だが筆者がそれを好きになることはなさそうです。歩く主人公は筆者が大嫌いな紀行物のリポーターにしか見えないからです。

また景観をなめ続けるカメラワークにもほとんど新しさを感じないからです。

ひたすら歩くだけの人物はさっさと取り除いて、景色をもっと良く見せてくれ、と思いつつテレビのスイッチを切りました。

おそらく、少なくない割合の視聴者が自分と同じことを感じている、と筆者はかなりの自信を持って言えます。

今後番組の評判が高まって、シリーズが制作され続ければ、視聴者としては大いなる日和見主義者である筆者は、あるいは改めてのぞいてみるかもしれません。

が、今のままではまったく見る気がしない。時間のムダ、と強く感じます。

 

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

コロナ自粛中はドラマ三昧で逆風満帆

テレビ屋の筆者は番組を作るだけではなく、元々「番組を見る」のが大好きな人間です。

自分の専門であるドキュメンタリーや報道番組はいうまでもなく、ドラマやバラエティーも好みです。

ドキュメンタリーや報道番組は、イタリア語のみならず衛星放送で英語と日本語の作品もよく見ます。

しかし、ドラマは最近は日本語のそれしか見ていません。

理由は日本のそれが面白く、日伊英の3語での報道番組やドキュメンタリーに費やす時間を除けば、日本のドラマを見る時間ぐらいしか残っていない、ということもあります。

スポーツ番組、特にサッカー中継にも興味があるのでいよいよ時間がありません。バラエティー番組に至っては、ここ数年は全く目にしていません。

ドラマは以前からよく見ていますが、コロナ禍で外出がままならなくなった2020年の初め以降は、ますますよく見るようになりました。

ロンドンを拠点にする日本語の衛星ペイテレビがNHK系列なので、NHKのドラマが圧倒的に多いのですが、民放のそれも少しは流れます。

民放のドラマにもむろん面白いものがあります。が、筆者は昔からNHKの質の高いドラマが好きですから、ペイテレビの現況は好ましい。

コロナ禍中に多くの面白いドラマを見ました。またコロナが猛威を振るう直前まで流れたドラマにも非常に面白いものがありました。

思いつくままにここに記すと:

『ジコチョー』  『盤上の向日葵』 『サギデカ』 『ミストレス~女たちの秘密~』 

などがコロナ禍の直前の作品。

コロナパンデミック真っ盛りの2020年には:

『すぐ死ぬんだから』 『一億円のさようなら』 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 『路(ルウ)~台湾エクスプレス〜』 『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』 『岸辺露伴は動かない』『いいね!光源氏くん 』など。

また翌2021年になると:

『半径5メートル』 『ノースライト』 『ここは今から倫理です。』 『岸辺露伴は動かないⅡ』などが記憶に残りました。

これらのほとんどは面白いドラマでしたが、あえて3本を選べと言われたら、三田佳子が主演した『すぐ死ぬんだから』 『ミストレス~女たちの秘密~』 『岸辺露伴は動かない』を挙げます。

『すぐ死ぬんだから』は死後離婚という面白いテーマもさることながら、三田佳子の演技がとてもすばらしかった。

共演した小松政夫が亡くなってしまったことも合わせて印象に残ります。

『ミストレス~女たちの秘密~』は、英国BBCの古いドラマの日本語リメイク版。BBCはNHK同様ドラマ制作にも優れています。この日本版も非常によくできていました。

『岸辺露伴は動かない』の3シリーズも目覚しい番組でした。ただ次に出た3本はがくんと質が落ちました。最初の3本の出来が良すぎたために印象が薄れたのかもしれません。

ところで『岸辺露伴は動かない』のうちの‘’富豪村‘’のエピソードでは、マナーがテーマになっていて、ドラマの中で「マナー違反を指摘する事こそ、最大のマナー違反だ」と言うセリフがあります。

それを見て少し驚きました。それというのも実は筆者は、2008年に全く同じことを新聞のコラムに書きました

ある有名人が、そばをすする音がいや、という理由で婚約を解消した実話に関連して「スパゲティのすすり方」という題でマナーについて書いたのです。

そのコラムの内容は2020年9月、ここでも再び書きました。ドラマの中で指摘された内容も言葉も酷似しているので、念のために言及しておくことにしました。

つまり筆者のコラムは筆者のオリジナルであって、ドラマとは全く関係がない。偶然に同じ内容になったのでしょうが、最初にその説を唱えたのは筆者です。

‘’富豪村‘’は2010年の作で筆者のコラムは前述のように2008年。筆者はコピーすることはできません。

まさかとは思いますが、何かの拍子に筆者がドラマの台詞をパクったかのようなツッコミなどがあったら困るので、一応触れておくことにしました。

閑話休題

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』も良かった。

筆者は大河ドラマは出だしの数週間で見るのを止めることが多いのですが、『麒麟がくる』はコロナ巣ごもり需要とは関係なく最後まで面白く見ました。

一方、山本周五郎「人情裏長屋」 が原作の 『子連れ信兵衛 』は駄作でした。それでも時々見てしまったのは、原作を良く知っているからです。

都合のいい設定や偶然が多く、とてもNHKのドラマとは思えないほどの出来の悪さでした。原作に劣る作品としては『ノースライト』も同じ。

昨年放送のドラマでは『カンパニー〜逆転のスワン〜』も愉快でした。また『ここは今から倫理です。』 にはいろいろと考えさせられました。

ほかには 『正義の天秤』『山女日記3 』『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』などが印象に残りました。『正義の天秤』には致命的とさえ言える安直なシーンもありましたが、全体的に悪くない印象でした。

2022年1月現在、進行しているドラマでもっとも興味深いのは「恋せぬふたり」。他者に恋愛感情も性的欲求も抱かない「アロマンティック・アセクシュアル」の男女を描いています。

2人の在り方は不思議ですが違和感なく受け入れられます。受け入れられないのは、2人の周りの「普通の」人々の反応です。

性的マイノリティーの人々の新鮮な生き様と、それを理解できない人々の、ある意味で「ありふれた」ドタバタがとても面白いと感じます

 

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

イタリアの紅白歌合戦「サンレモ音楽祭」の陳腐な凄さ

筆者が勝手にイタリアの紅白歌合戦と呼んでいるサンレモ音楽祭が昨日(2月6日)閉幕しました。サンレモ音楽祭はほぼ毎年2月に開催されます。

紅白歌合戦とサンレモ音楽祭には多くの共通点があります。両者ともに公共放送が力を入れる歌番組で、ほぼ70年の歴史を誇る超長寿番組です。

どちらも1951年のスタート(NHKは1945年開始という説も成り立つ)。当初はNHK、RAI共にラジオでの放送でしたが、NHKは1953年から又RAIは1955年からテレビ番組となりました。

国民的番組の両者は、近年はマンネリ化が進んで視聴率も下がり気味ですが、依然として通常番組を凌ぐ人気を維持。また付記すると、最近のRAIの番組の視聴率はNHKのそれよりもずっと高い傾向にあります。

両者ともにほとんど毎年番組の改革を試みて、たいてい不調に終わりますが、不調に終わるそのこと自体が話題になってまた寿命が延びる、というような稀有な現象も起こります。

その稀有な現象自体が実は両番組の存在の大きさを如実に示しています。

紅白歌合戦とサンレモ音楽祭は、また、似て非なるものの典型でもあります。実のところ両陣営は、相似よりも差異のほうがはるかに大きい。

紅白歌合戦は既存の歌を提供する番組。一方サンレモ音楽祭は新曲を提供します。あるいは前者は歌を消費しますが後者は歌を創造する。サンレモ音楽祭は音楽コンテストだからです。

紅白歌合戦がほぼ100%日本国内のイベントであるのに対して、サンレモ音楽祭は国際的な広がりも持ちます。つまり、そこでの優勝曲はグラミー賞受賞のほか、しばしば国際的なヒット曲にもなってきました。

古い名前ですが、例えばジリオラ・チンクエッティの音楽祭での優勝曲は国際的にもヒットしましたし、割と新しい歌手ではアンドレア・ボッチェッリなどの歌もあります。個人的には1991年の大賞歌手リカルド・コッチャンテなども面白いと思います。

画像2を拡大表示

またサンレモ音楽祭は、欧州全体を股にかけたヨーロッパ最大の音楽番組「ユーロ・ビジョン・ソング・コンテスト」のモデルになるなど、特に欧州での知名度が高い。同時に世界的にも名を知られています。

周知のように紅白歌合戦は大晦日の一回のみの放送ですが、サンレモ音楽祭は5日間にも渡って放送されます。しかも一回の放送が4時間も続きます。つまり紅白歌合戦が5日連続で電波に乗るようなものです。

好きな人にはたまらないでしょうが、筆者などはサンレモ音楽祭のこの放送時間の膨大にウンザリするほうです。しかも番組は毎晩夜中過ぎまで続きます。宵っ張りの多いイタリアではそれでも問題になりません。

筆者は紅白歌合戦とサンレモ音楽祭の根強い人気とスタッフの努力に敬意を表しています。が、紅白歌合戦は日本との時差をものともせずに衛星生中継で毎年見ているものの、サンレモ音楽祭はそれほどでもありません。

その大きな理由は、毎日ほぼ4時間に渡って5日間も放送される時間の長さに溜息が出るからです。しかも翌日にまで及ぶ放送時間帯に対する疲労感も決して小さくありません。

もう一つ筆者にとっては重大な理由があります。そこで披露される歌の単調さです。カンツォーネはいわば日本の演歌です。どれこれも似通っています。そこが時には恐ろしく退屈です。

sanremo-festivalイラストgood450を拡大表示

もちろんいい歌もあります。優勝曲はさすがにどれもこれも面白いと考えて良い。ところがそこに至るまでの選考過程が長すぎると感じるのです。

演歌は陳腐なメロディーに陳腐な歌詞が乗って、陳腐な歌い方の歌手が陳腐に歌うところに、救いようのない退屈が作り出される場合も多い。カンツォーネも同じです。

誤解のないように言っておきますが、筆者は演歌もカンツォーネも好きです。いや、良い演歌や良いカンツォーネが好きです。ロックもジャズもポップスも同様です。あらゆるジャンルの歌が好きなのです。

しかし、つまらないものはすべてのジャンルを超えて、あるいはすべてのジャンルにまたがってつまらない。優れた歌は毎日毎日その辺に転がっているものではありません。99%の陳腐があって1%の面白い曲があります。

サンレモ音楽祭も例外ではありません。毎日4時間X5日間、20時間にも渡って放送される番組のうちの大半が歌で埋まります。だがその90%以上は似たような歌がえんえんと続く印象で、筆者にはほとんど苦痛です。

それでもサンレモ音楽祭はりっぱに生き延びています。批判や罵倒を受けながらも多くの視聴者の支持を得ている。それは凄いことです。筆者は一視聴者としては熱心な支持者ではありませんが、同じテレビ屋としてサンレモ音楽祭の制作スタッフを尊敬します。

創作とは何はともあれ、「作るが勝ち」の世界です。番組のアイデアや企画は、制作に入る前の段階で消えて行き、実際には作られないケースが圧倒的に多いからです。一度形になった番組は、制作者にとってはそれだけで成功なのです。

そのうえでもしも番組が長く続くなら、スタッフにとってはさらなる勝利です。なぜなら番組が続くとは、視聴率的な成功にほかならないからです。サンレモ音楽祭も紅白歌合戦も、その意味では連戦連勝のとてつもない番組なのです。

 

 

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

コロナはもはやインフルってホント?

欧州ではコロナ規制を撤廃したり大幅に緩和する国が相次いでいます。

2月1日にはデンマークが欧州で初めてコロナ規制をほぼ全面撤廃しました。

続いてノルウェーも撤廃を決めました。1月26日から厳格な規制を緩めているオランダもさらに束縛を緩和する方針。

そのほかアイルランド、スウェーデン、英国なども同じ方向に舵を切っています。

少し意外なのは、1日あたりの感染者数が一時50万人を超え現在も数十万人程度の数字が続くフランスが、屋外でのマスク着用義務をなくすなどの制限緩和に動き出したこと。

ただしフランスは一方では、偽のワクチン接種証明を提示した場合、30日以内にワクチンを接種しなければ4万5千ユーロもの罰金と禁錮3年の刑を科すなど、規制を強化している部分もあります。

ここイタリアでも、スペランツァ保健相が、コロナとの闘いは希望の持てる新しいフェーズに入った、と言明しました。

イタリアでは.ワクチン接種年齢の国民の91%が接種。

88%が2回接種。

3回目の接種もおよそ3500万人が済ませています。

集中医療室のコロナ患者占拠率は14,8% 。一般病棟のそれも29,5%に下がりました。

だがイタリアは、おそらく他の欧州諸国、特に北欧の国々とは違って、規制緩和を急ぐことはないと思います。

イタリアは-繰り返し言い続けていることですが-コロナパンデミックの初めに世界に先駆けて医療崩壊を含む地獄を味わいました。

その記憶があるために、ほぼ常に規制緩和をどこよりもゆるやかに且つ小規模で行ってきました。その一方で、規制の強化や延長はどこよりも早くしかも大規模に実施する傾向があります。

それはとても良いことだと思います。

法律や規則や国の縛りが大嫌いなイタリア国民は、少し手綱をゆるめるとすぐに好き勝手に動き出します。

コロナ渦では国民全てのために、そしてお互いのために、不自由でも規制は強めのほうがいい。

平時には断じて譲れない個人の自由の概念を持ち出して、ワクチン接種拒否は個人の自由、などと叫ぶのはやはり控えたほうが賢明でしょう。

それにしても、感染者数がなかなか減らない中で欧州各国が大幅な規制緩和に乗り出すのは、頼もしくもあり違和感もある不思議な気分です。

だが科学の浸透が深い欧州の、しかも北欧の国々が先陣を切って動き出したのですから、それなりの根拠があってのことに違いない。

パンデミックの初期、イギリスのジョンソン首相は国民をできるだけ多く感染させてすばやく集団免疫を獲得するべき、と考えそう動こうとしました。

周知のようにそれは国民の総スカンを食らってポシャり、しかも後遺症で欧州最大のコロナ犠牲者を出す結果になりました。

今回の規制緩和の流れもイギリスが先導した、と言っても構わないでしょう。

ミニトランプのジョンソン首相が、経済回復を急ぐあまり「またもや」勇み足をしたのではないことを祈ろうと思います。

前回はスウェーデンだけが追随して失敗しました。今回は多くの国が倣っているから大丈夫なのでしょうが。。

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

イタリア式民主主義も全く悪くない

1月24日に始まったイタリア大統領選は、8回目の全体投票で現職のマタレッラ大統領を再選して幕を閉じました。

2期連続で大統領を務めるのは、前職のナポリターノ大統領に続くもの。議会が適任者を絞り込めず、続投を辞退するマタレッラ大統領にいわば懇願して了解を得ました。

2013年の大統領選では、ナポリターノ前大統領が高齢を理由に2期目を固辞しまたが、議会有力者が泣きついて立候補を受諾させました。

ナポリターノ大統領は高齢のため2期目の任期途中で引退しました。マタレッラ大統領も再び同じ道を歩もうとしているのかもしれません。

選挙戦は事前の予想通り紆余曲折七転八倒行き当たりばったり政治狂宴になりました。

イタリアのある大手メディアはそれを「各政党は合意できない弱さと混乱と無能ぶりをさらけだした」という表現で嘆きました。

その論調は筆者にため息をつかせました。

なぜなら彼らは、イタリアのメディアでありながら、イギリスやドイツやフランスやアメリカ、またそれらの国々を猿真似る日本などのジャーナリズムの視点で物を見ています。

イタリアの各政党の「弱さと混乱と無能」は今に始まったことではありません。

イタリアの政治は常に四分五裂して存在しています。そのために一見弱く、混乱し、無能です。

四分五裂はイタリア共和国とイタリア社会と、従ってイタリア政治の本質です。

「四分五裂する政治」を別の言葉でいえば、多様性であり、カラフルであり、盛りだくさんであり、万感せまるワイドショーであり、選り取り見取りネホリンパホリン、ということです。

多様性は混乱にも見えます。だがイタリアには混乱はありません。イタリアの政治にも混迷はありません。

そこにはただイタリア的秩序があるだけです。「カオス風」という名のイタリア独特の秩序が。

多様性に富む社会には極端な思想も出現します。過激な行動も生まれます。

例えば今が旬のイタリアの反ワクチン過激派NoVax、極左の五つ星運動、極右の同盟またイタリアの同胞など、など。

イタリアにおける政治的過激勢力は、国内に多くの主義主張が存在し意地を張る分、自らの極論を中和して他勢力を取り込もうとする傾向が強くなります。

つまり、より過激になるよりも、より穏健へと向かう。

それがイタリア社会の、そしてイタリア政治の最大の特徴である多様性の効能です。

2大政党制の安定や強力な中央集権国家の権衡、またそこから生まれる国力こそ最善、と考える視点でイタリアの政治を見ると足をすくわれます。

イタリア共和国の良さとそして芯の強さは、カオスにさえ見える多様性の中にこそあるのです。

その屋台骨は、「各政党の合意できない弱さと混乱と無能」が露呈する国政を尻目に、足をしっかりと地に着けて息づいているイタリアの各地方です。

国のガイドラインがなくてもイタリアの各地方は困りません。都市国家や自由共同体として独立し、決然として生きてきた歴史のおかげで、地方は泰然としています。

イタリア国家が消滅するなら自らが国家になればいい、とかつての自由都市国家群、つまり旧公国や旧共和国や旧王国や旧海洋国などの自治体は、それぞれが腹の底で思っています。

思ってはいなくても、彼らの文化であり強いアイデンティティーである独立自尊の気風にでっぷりとひたっていて、タイヘンだタイヘンだと口先だけで危機感を煽りつつ、腹の中ではでペろりと舌を出しています。

「イタリア国家は常に危急存亡の渦中にある(L`Italia vive sempre in crisi)」と、イタリア人は事あるごとに呪文のように口にします。

それは処世術に関するイタリア人の、自虐を装った、でも実は自信たっぷりの宣言です。

統一からおよそ160年しか経たないイタリア共和国は、いつも危機的状況の中にあります。

イタリア共和国は多様な地域の集合体です。国家の中に多様な地域が存在するのではありません。

つまり地域の多様性がまず尊重されて国家は存在する、というのがイタリア国民の国民的コンセンサスです。

だから彼らは国家の危機に対して少しも慌てません。慣れています。アドリブで何とか危機を脱することができると考えているし、また実際に切り抜けます。歴史的にそうやって生きてきたのです。

イタリア大統領選出のために国会議員が好き勝手に言い合い争っているのも、イタリアの多様性のうちの想定内の出来事。

誰もあわてません。

そして終わったばかりのイタリア大統領選は、いつものように国家元首である大統領を選ぶ舞台であると同時に、イタリアのカオス風の多様性と、強さと、イタリア式民主主義のひのき舞台でもあった、と筆者は思います。

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

‘’建物語り“”という“ヒト物語り”~ムッソリーニ&ミラノ中央駅~

イタリアにある膨大な数の歴史的建築物の中で、最も新しいものの一つがミラノの中央駅舎です。

1931年にオープンしたミラノ中央駅は、イタリアの国鉄駅の中ではずば抜けて威厳のある外観を持つ建物。

世界で一番美しい駅舎と呼ぶ建築評論家もいます。

駅舎は1925年に工事が始まって6年後に完成しました。

イタリアの国家的大プロジェクトは、何百年も工事が続いたものも少なくありません。たとえば同じミラノの大聖堂ドゥオーモは、およそ500年もかかって完成しました。

竣工まで長い時間がかかった歴史的建造物はほかにもたくさんあります。その伝統は今も残っていてイタリアの建築工事の進捗は遅い。

大事業だったミラノ中央駅の駅舎がわずか6年で完成したのは、横暴で険しいファシズム政権が工事関係者の尻をたたき続けたからです。

駅舎を規定する正式な建築様式名はありません。

リバティやアールデコの混合様式とされますが、「リットリア様式」とも呼ばれます。リットリアとはムッソリーニが権力を握っていた時代の建築群の総称。つまりファシスト様式。

古代ローマ帝国に倣って質実剛健を目指したと言われています。

筆者が知る限り、ミラノを訪れる多くの日本人は駅の堂々としたたたずまいに感動します。筆者も嫌いではありません。

ところが、実は、この駅の建物を多くのイタリア人は毛嫌いします。

理由はただひと言、「威張っている」です。

要するに洗練されていない、ということです。

筆者はイタリア人のそのセンスや見識に感嘆します。

例えばベニスの中心、大運河沿いに立ち並ぶ建築群は、その一つひとつが洗練を極めた美しいものばかりです。

それに比較するとミラノ駅舎のシンプルな力強さは、硬い印象があり繊細とは言えないかもしれません。

ベニスでは当時の貴族や大商人が、東方貿易で得た莫大な富を惜しみなく注ぎ込んで、優美な建築物を作りました。

大運河沿いに家を持つのは名誉なことだと考えられましたから、彼らは競ってより美しいものを創ろうとしました。

そのために建築群はさらに洗練を極めることになりました。彼らには「そういう家」が必要だったのです。

一方独裁者のムッソリーニは、自らの威厳を示すために大上段に構えた威圧的な印象を持つ建物を創る必要がありました。

mussoliniイラストbest300を拡大表示

要するに彼もまた彼なりの必要に迫られたのです。

歴史的建造物は、それが巨大だったり威厳があったり古色蒼然としているからすごいのではありません。「誰かがその建物を必要とした」という点がもっとさらにすごいのです。

「建物とは人」のことにほかなりません。

ムッソリーニの時代には、彼と追随するファシストらが必要としたためにファシズムを象徴するリットリア様式の建築物が多く造られ、中でも目立つものがミラノ中央駅舎です。

目の肥えたイタリア人は、駅舎の威風にムッソリーニの野心やごう慢や民主主義への冒涜などを嗅ぎ取って、まゆをひそめます。

それは洗練を極めた建物群で街を埋め尽くして、ついには全体が芸術作品と言っても過言ではないベニスのような都市を造ってきた、イタリア人ならではの厳しい批評だと筆者には見えます。

建築が彼らに受け入れられるためには、ムッソリーニの負の記憶がなくなって、駅舎が建物自体の生命を宿し始める、恐らく何世紀もの時間が必要に違いありません。

長い時を経ても駅舎がなおそこに立っているなら、それはつまり人々が、「存続させるに値する建物」と見なしたからです。

誰かが必要としたために生まれた建物は、その後の人々の要求に支えられて生き続けます。

建物は時代の要望やニーズによってさらに長生きをし、短い命しか与えられていない我々人間から見れば、ほとんど永遠にも見える年月をさえ生き抜きます。

駅舎が将来そんな運命をたどったまさにその時にこそ、人々は建物を美しいと感じることでしょう。

美の正体は、先に触れたところの、長い時間を生き延びた建築物に宿る独自の生命です。

つまり建物を必要とした古人の意図と、時間と、建物そのものが分かちがたく融合した強い生気。

人々は溢れ出る生気の豊かさに心を撃たれて、恍惚としてそこに立ち尽くすことになるはずです。

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

“ドラギ大統領”待望論の罠

2022年のイタリア大統領選は、オミクロン株が猖獗を極めている中で行われます。そこで通常は1日に2回づつ投票を行う慣例を改めて、1日1回だけ投票を実施すると定められました。

有権者は上下両院議員と終身議員、また各州代表をあわせた1009人。

国会内では対人距離を保つために人数を制限して順番に投票し、議事堂の外には感染者の議員らのためにドライブスルー方式での投票所も設置されました。

全員が投票を済ませるには時間がかかるため、1日に1回の投票が限度、となったのです。

イタリア大統領選では正式な候補者は存在せず、形式上それぞれの有権者が思い思いの人物に1票を投じる、という方法が取られます。

そうはいうものの、しかし、彼らの全員が党や党派に属しているため、グループごとに決めた人物に票が行くことになります。

票の行方は常に流動的で、はじめのうちは全く先が読めないケースがほとんどです。初回投票を含む前半の採決では、欠席者や無効の白票の数も多い。

理由は状況を見て態度を決めようとする動きが活発化するためです。

投票が繰り返されるごとに、いわば人選が進行して有力な候補が明らかになっていきます。

投票が反復される舞台裏では、有権者どうしはもちろん党と会派、また派閥や連合などによる話し合いや切り崩しや脅しや賺しなどの権謀術数が繰り広げられます。

3回目までの投票では、当選者は全体の3分の2以上の票数を得ることが要求されます。だがそれ以後は過半数の得票で大統領が選出されます。

大統領選では、票決を繰り返しながら、もっともふさわしい人物が絞り込まれていくのです。

ふさわしい人物とは、党派を超えた政治的に公正と見なされる人物。人格的にも清廉なイメージの者が好まれるケースが多い。歴代のイタリア大統領はそうやって選ばれてきました。

最も職責にふさわしい人物が、選挙戦が進む過程で絞り込まれていくという形は、ローマ教皇選挙のコンクラーヴェに似ています。

またアメリカの大統領選で、民主党と共和党の候補が時間を掛けてふるいにかけられて、適任者が徐々に選び抜かれていくプロセスにも似ています。

今回の大統領選では、現職のドラギ首相が選出される可能性があります。国会議員ではない彼を大統領に祭り上げて、首相職を奪いたい勢力が存在するのです。

求心力のあるドラギ首相が大統領に横滑りした場合、新たなテクノクラート内閣が発足しない限り総選挙に雪崩れ込んで、極右が主導権を握る右派政権が成立する可能性があります。

むろん選出されたばかりの、且つリベラルの「ドラギ大統領」が、左派の民主党や左派ポピュリストの五つ星運動を取り込んで、極右系の政権の成立を阻止するシナリオも考えられます。

いずれにしても、大連立で安定している現在のドラギ内閣が終焉を迎えれば、イタリアの政局はたちまち混乱に陥る可能性が高い。

選挙初日の段階で大統領候補として名前が挙がっているのは、最も知名度が高いドラギ首相に続いてアマート元首相、ジェンティローニ元首相、マルタ・カルタビア法相、カシーニ元下院議長、などです。

マルタ・カルタビア法相が大統領になればイタリア初の女性大統領になります。

また現職のマタレッラ大統領の続投の目も消えていません。それどころか、選挙直前になって候補を辞退すると表明した、ベルルスコーニ元首相が復活する可能性もゼロではありません。

さらに投票行為が進行するうちに、全く下馬評に上らなかった人物が浮上する可能性もあります。出だしでは何も予期できず、同時に何でもありなのがイタリア大統領選なのです。

筆者が考える最も理想的な次期大統領は、現職のマタレッラ大統領の続投です。理由は次の通りです。

ドラギ政権は、イタリアの政治不安と経済混乱を避けるための、今このときの最善の仕組みです。だからせめて議会任期が終わる2023年まで存続したほうが良い。

そうなった場合には、ドラギ首相以外の人物が大統領にならなければなりません。すなわち現在名前が取りざたされている前述のジェンティローニ元首相、アマート元首相、カシーニ元下院議長、カルタビア法相などです。

だがそれらの人々は、今のところどちらも“帯に短し襷に長し”状態です。安心できるのはやはりマタレッラ大統領の続投です。

イタリア大統領は一期7年が基本です。しかし前任のナポリターノ大統領は例外的に2期目も務め、任期の途中で引退して現職のマタレッラ大統領が誕生しました。

マタレッラ大統領もナポレターノ前大統領と同様に、短い任期で2期目の大統領職を務めたほうが各方面がうまくいくと思います。

理想的なのは、マタレッラ大統領が議会任期が終わる2023年6月まで続投し、その後に選挙を経てドラギ首相が新大統領に就任することです。

将来、求心力の強い「ドラギ大統領」の下で総選挙が行われれば、たとえ反EU主義の右派政権が誕生しても、イタリアはたとえばBrexitの愚を犯した英国のようにはならないでしょう。

極右の同盟とイタリアの同胞も、また極左の五つ星運動も、正体はEU懐疑主義勢力です。

現政権内にいる同盟と五つ星運動は彼らの本性をひた隠しにしていますが、たとえば単独で政権を取るようなことがあれば、すぐにでもEU離脱を画策しかねません。

イタリアはEUにとどまっている限り、「多様性に富む、従ってまとまりはないが独創性にあふれた」イタリアらしいイタリアであり続けることができます。

EUで1番の経済力や政治力を持つ国の地位はドイツやフランスなどに任せておいて、イタリアはこれまで通り、経済三流、政治力四琉の“美しい国”であり続ければいいのです。

そのためにも強いEU信奉者であるドラギ首相とマタレッラ大統領がしばらく連携を続け、間違ってもEU離脱論者であるポピュリストが政権を奪取しないように画策したほうが良いと考えます。

筆者のその理想論に賛成するイタリア人はたくさんいます。

同時に反対する国民もまた多くいます。だからこその政治なのですが、衝撃が笑劇になり悲劇になって、ため息で終わる可能性が高いのがイタリア政治の特徴です。

 

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

ベルルスコーニ笑劇がおじゃんでも、イタリア式ドタバタ猛烈政治喜劇の開演が楽しみだ

ベルルスコーニ元首相が1月24日から始まるイタリア大統領選に立候補しない、と表明しました。

理由は「国のために」だそうです。

元首相は同時に「ドラギ首相は(大統領にならずに)現職にとどまるべき」とも主張しました。

国のために身を引く、という宣言は噴飯ものです。翻訳すると「1ミリも勝つ見込みがないので立候補を断念する」というところでしょう。

彼を支持している極右の2党、すなわちイタリアの同胞と同盟は一枚岩ではありません。

世論調査で支持率1位を保っていた同盟が、最近その地位をイタリアの同胞に奪われて、同盟のサルビーニ党首が焦り、血迷い、内心で怒りまくっているように見えます。

そのせいかどうか、彼はいつもよりもさらに妄言・放言・迷言を繰り返し、右派の結束が乱れがちです。

それに加えて、議会最大勢力の五つ星運動とそこに野合した民主党が、ベルルスコーニ大統領の誕生に断固反対と広言し、その方向で激しく動いています。

そればかりではありません。人間的に清潔で政治的に公正な人物像が求められる大統領職には、ベルルスコーニさんはふさわしくない、と寛大で情け深くておおらかな、さすがのイタリア国民でさえ感じています。

大衆迎合主義のカタマリで、政治屋としての嗅覚がハゲタカ並みに鋭いベルルスコーニさんは、さっさとそのことに気づいたのです。

だから「自らのために」立候補を断念したのでしょう。

「自らのために」であることは、ドラギ首相が現職にとどまるべき、という言い分にもはっきりと表れています。

ドラギ首相は大統領に「祭り上げられる」可能性も高い。それを阻止するにはベルルスコーニ元首相自身が大統領を目指すことが最も確実です。

それをしないのは、ドラギ首相継続が今このときのイタリア共和国のためには最重要、という現実よりも、自身の野望つまり政治的に生き延びて政界に影響力を持ち続けることが何よりも大事、と暗に表明しているのも同然です。

ベルルスコーニさんはかつて、今は亡き母親に向かって「将来は必ずイタリア大統領になる」と約束したことがあるといいます。

利害と欲望にまみれた首相職よりも清浄な存在、と見なされることが多いイタリア大統領は、彼にとってもきっと憧れの的だったのでしょう。

筆者はベルルスコーニさんが人生の終末期に臨んで、「国と人民に本気で尽くしたい」と殊勝に考えるなら、許されてもいいのではないかと考えました。

許されて過去の過ちや醜聞や思い上がりをかなぐり捨て、真に人々に尽くして履歴の暗部を償うチャンスが与えられてもいいのではないか、とチラと思ったりもしたのです。

もはや80歳代も半ばになった彼の中には、そんな善良で真摯な、且つ強い願望が芽生えていても不思議ではないと思いました。

だがどうやらそれは、筆者の大甘な思い違いだったらしい。

閑話休題

1月23日現在大統領候補として名前が挙がっているのはベルルスコーニ氏のほかには:

ドラギ首相、アマート元首相、カシーニ元下院議長、ジェンティローニ元首相、マルタ・カルタビア法相など。

マルタ・カルタビア法相が大統領になればイタリア初の女性大統領になります。

ここまでの情勢では、ドラギ首相の横滑りの可能性が最も高い、と考えられています。

もしもドラギ首相が選出されて後任の首相が決まらない場合には、議会任期を待たずに前倒し総選挙の可能性があります。

その場合のイタリアの政情不安はまたもや大きなものになるでしょう。

混乱を避ける意味で、フォルツァ・イタリア所属の最年長閣僚、レナート・ブルネッタ行政相(71を)首班にして、連立を組む各政党の党首や幹部が来年6月の議会任期まで内閣入りして政権を維持する、という案もあります。

それらのアイデアは全て、イタリアのお家芸である政治混乱を避けるための、当の政治家らによる提案です。

 

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

日伊さかな料理談義

【note:https://note.com/22192より転載】

「世界には3大料理がある。フランス料理、中華料理、そしてイタリア料理である。その3大料理の中で一番おいしいのは日本料理だ」
これは筆者がイタリアの友人たちを相手に良く口にするジョークです。半分は本気でもあるそのジョークのあとには、筆者はかならず少し大げさな次の一言もつけ加えます。

「日本人は魚のことを良く知っているが肉のことはほとんど知らない。逆にイタリア人は肉を誰よりも良く知っているが、魚については日本料理における肉料理程度にしか知らない。つまりゼロだ」

3大料理のジョークには笑っていた友人たちも、イタリア人は魚を知らない、と筆者が断言したとたんに口角沫を飛ばして反論を始めます。でも筆者は引き下がりません。

スパゲティなどのパスタ料理にからめた魚介類のおいしさは間違いなくイタメシが世界一であり、その種類は肉料理の豊富さにも匹敵します。

アサリ&ボッタルガ650を拡大表示

しかしそれを別にすれば、イタリア料理における魚は肉に比べるとはるかに貧しい。料理法が単純なのでです。

この国の魚料理の基本は、大ざっぱに言って、フライかオーブン焼きかボイルと相場が決まっています。海際の地方に行くと目先を変えた魚料理に出会うこともあります。それでも基本的な作り方は前述の三つの域を出ませんから、やはりどうしても単調な味になります。

一度食べる分にはそれで構いません。素材は日本と同じように新鮮ですから味はとても豊かです。しかし二度三度とつづけて食べると飽きがきます。何しろもっとも活きのいい高級魚はボイルにする、というのがイタリア人の一般的な考え方です。

家庭料理、特に上流階級の伝統的な家庭レシピなどの場合はそうです。ボイルと言えば聞こえはいいが、要するに熱湯でゆでるだけの話です。刺身や煮物やたたきや天ぷらや汁物などにする発想がほとんどないのです。

最近は日本食の影響で、刺身やそれに近いマリネなどの鮮魚料理、またそれらにクリームやヨーグルトやマヨネーズなどを絡ませた珍奇な“造り”系料理も増えてはいます。だがそれらはいわば発展途上のレシピであって、名実ともにイタメシになっているとは言い難い。

典型acqapazzaを拡大表示

筆者は友人らと日伊双方の料理の素材や、調理法や、盛り付けや、味覚などにはじまる様々な要素をよく議論します。そのとき、魚に関してはたいてい筆者に言い負かされる友人らがくやしまぎれに悪態をつきます。

「そうは言っても日本料理における最高の魚料理はサシミというじゃないか。あれは生魚だ。生の魚肉を食べるのは魚を知らないからだ。」

それには筆者はこう反論します。

「日本料理に生魚は存在しない。イタリアのことは知らないが、日本では生魚を食べるのは猫と相場が決まっている。人間が食べるのはサシミだけだ。サシミは漢字で書くと刺身と表記する(筆者はここで実際に漢字を紙に書いて友人らに見せます)。刺身とは刺刀(さしがたな)で身を刺し通したものという意味だ。つまり“包丁(刺刀)で調理された魚”が刺身なのだ。ただの生魚とはわけが違う」

と煙(けむ)に巻いておいて、筆者はさらに言います。

「イタリア人が魚を知らないというのは調理法が単純で刺身やたたきを知らないというだけじゃないね。イタリア料理では魚の頭や皮を全て捨ててしまう。もったいないというよりも僕はあきれて悲しくなる。魚は頭と皮が一番おいしいんだ。特に煮付けなどにすれば最高だ。

たしかに魚の頭は食べづらいし、それを食べるときの人の姿もあまり美しいとは言えない。なにしろ脳ミソとか目玉をずるずるとすすって食べるからね。要するに君らが牛や豚の脳ミソを美味しいおいしい、といって食べまくるのと同じさ。

cibi-giapponesi実写キンキ&刺身など650を拡大表示

あ、それからイタリア人は ― というか、西洋人は皆そうだが ― 魚も貝もイカもエビもタコも何もかもひっくるめて、よく“魚”という言い方をするだろう? これも僕に言わせると魚介類との付き合いが浅いことからくる乱暴な言葉だ。魚と貝はまるで違うものだ。イカやエビやタコもそうだ。なんでもかんでもひっくるめて“魚”と言ってしまうようじゃ料理法にもおのずと限界が出てくるというものさ」 

筆者は最後にたたみかけます。

「イタリアには釣り人口が少ない。せいぜい百万人から多く見つもっても2百万人と言われる。日本には逆に少なく見つもっても2千万人の釣り愛好家がいるとされる。この事実も両国民の魚への理解度を知る一つの指標になる。

なぜかというと、釣り愛好家というのは魚料理のグルメである場合が多い。彼らは「スポーツや趣味として釣りを楽しんでいます」という顔をしているが、実は釣った魚を食べたい一心で海や川に繰り出すのだ。釣った魚を自分でさばき、自分の好きなように料理をして食う。この行為によって彼らは魚に対する理解度を深め、理解度が深まるにつれて舌が肥えていく。つまり究極の魚料理のグルメになって行くんだ。

ところが話はそれだけでは済まない。一人ひとりがグルメである釣り師のまわりには、少なくとも 10人の「連れグルメ」の輪ができると考えられる。釣り人の家族はもちろん、友人知人や時には隣近所の人たちが、釣ってきた魚のおすそ分けにあずかって、釣り師と同じグルメになるという寸法さ。

これを単純に計算すると、それだけで日本には2億人の魚料理のグルメがいることになる。これは日本の人口より多い数字だよ。ところがイタリアはたったの1千万から2千万人。人口の1/6から1/3だ。これだけを見ても、魚や魚料理に対する日本人とイタリア人の理解度には、おのずと大差が出てくるというものだ」

友人たちは筆者のはったり交じりの論法にあきれて、皆一様に黙っています。釣りどころか、魚を食べるのも週に一度あるかないかという生活がほとんどである彼らにとっては、「魚料理は日本食が世界一」と思い込んでいる元“釣りキチ”の筆者の主張は、かなり不可解なものに映るようです。

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信

ジョコビッチをサノヴァビッチと呼びたくなるメランコリー

ワクチン未接種者のノバク・ジョコビッチ選手が全豪オープンテニス大会から締め出されました。

ジョコビッチ選手は反ワクチン論者。

そしてジョコビッチ選手がワクチン接種を拒否するのは個人の自由です。

民主主義社会では個人の自由は頑々として守られなければなりません。

同時に民主主義社会では、個人の自由を享受する市民は、その見返りに社会に対する義務を負います。

そして社会全体が一律にコロナパンデミックの危険にさらされている現下の状況では、自らと他者で構成される社会を集団免疫によって守るために、ワクチンを接種することが全ての市民の義務と考えられます。

従ってワクチンを拒絶するジョコビッチ選手は、その時点で反社会的存在です。たとえ自身はワクチン接種に反対でも、社会全体のためにワクチンを接種する、という市民の義務を怠っているからです。

新型コロナワクチンが出回った当初は、ワクチン接種を拒否することは個人の自由として認められていました。

個人の自由が、社会全体の自由の足かせとなることが十分には理解されていなかったからです。

だが個人の自由を盾にワクチン接種を拒む市民の存在は、パンデミックの終息を遅らせ、最悪の場合は終息を不可能にするかもしれない、という懸念さえ生まれました。

その時点でワクチン接種は、個人の自由から市民の義務になった、と言うことができます。

個人の自由は社会全体の自由があってはじめて担保されます。また個人の自由を保障する多くの民主主義国家の憲法も、社会全体の安寧によってのみ全幅の効力を発揮します。

ワクチン接種を拒否できる個人の自由は、パンデミックによる社会全体の危機が執拗に続く現在は容認できません。

個人の自由を保障する社会の平安と自由が危機に瀕しているときに、個人の自由のみを頑迷に主張するのは理にかないません。

コロナパンデミックが人々を抑圧し社会全体のストレスが日々高まっていく中で、誰もが自由を求めて葛藤しています。

ワクチンを接種した者も、それを拒絶する者も。

ワクチンを接種した人々が希求する自由は、ワクチンを拒絶する者も分けへだてなく抱擁します。パンデミックを打ち破って社会全体で共に自由を勝ち取ろうという哲学だからです。

一方で反ワクチン派の人々が焦がれる自由は、ワクチン接種そのものを拒否する自由、という彼ら自身の我欲のみに立脚した逃げ水です。

そして彼らが言い張る自由は、社会全体が継続して不自由を蒙る、という大きな害悪をもたらす可能性を秘めています。

だからこそワクチン拒否派の市民は糾弾されなければならないのです。

ここまでが全ての市民に当てはまる一般的な状況です。

ノバク・ジョコビッチ選手は世界ナンバーワンのテニスプレーヤーです。彼は好むと好まざるに関わらず世界的に大きな影響力を持ちます。

また世界に名を知られている彼は、テニスの試合ほかの社会活動を行うことによって、グローバル共同体から経済的、文化的、人間的に巨大な恩恵を受けています。

そして彼に恩恵をもたらす社会活動には既述のように責任が伴います。

その責任とはこの場合、ワクチンを接種する義務のことにほかなりません。

だが彼はそれを拒否しています。拒否するのみではなく、多くの嘘をついています。

彼はオーストラリアに入国するためにコロナ感染履歴を詐称しました。

またコロナに感染していながらそれを隠して旅行をし、隔離生活をしなければならない時期に外出をして、子供たちを含む他者と濃厚な接触を続けました。

そのことを問われるとジョコビッチ選手は、自らの感染の事実を知らなかった、と開いた口がふさがらない類の詭弁を弄しました。

彼はそこでは嘘に加えて隔離拒否という2つの大きな罪を犯しています。

そればかりではありません。

彼はオーストラリア入国が決まるまでは、ワクチンを接種したかどうかを意図的にぼかして、どちらとも取れる発言に終始していました。

ところがトーナメントに出場できると決まったとたんに、手のひらを返して「ワクチンは接種していない」と明言しました。

つまり彼は意図的に接種の有無を曖昧にしていましたが、状況が都合よく展開するや否や、未接種の事実を明らかにしたのです。そのことも糾弾に値する卑劣な行為です。

なぜなら彼はそうすることで、反社会的な勢力である世界中のワクチン拒絶派の人々に得意気にエールを送ったからです。

ジョコビッチ選手は結局、オーストラリア当局の毅然とした対応に遭って、全豪オープンへの出場を拒まれました。

それに続いて5月の全仏オープンと8月の全米オープンへの出場も拒否される可能性が高くなりました。

彼はテニス選手としてのキャリアを大きく傷つけられました。だが彼の最大の傷みは、自らの人間性を世界の多くの人々に否定された事実でしょう。

彼に残されている再生への唯一の道筋は、一連の不祥事への真摯な謝罪とワクチン接種ではないでしょうか。

しかも後者を実行する際には彼は、世界中にいる反ワクチン派の人々に改心を呼びかけることが望ましい、と考えます。

もっともジョコビッチ選手の反ワクチン論は宗教の域にまで達している様子ですから、他者への呼びかけどころか、彼自身が転向する可能性も残念ながら低いかもしれませんが。

 

 

 

 

facebook:masanorinakasone

official siteなかそね則のイタリア通信