笑劇「ベルルスコーニ大統領」というアンビリーバボー!

1月24日から始まるイタリア大統領選で、フォルツァイタリア、同盟、イタリアの同胞から成る中道右派連合は、 フォルツァイタリア党首のベルルスコーニ元首相を支持すると発表しました。

ベルルスコーニ元首相は85歳。2011年に首相の座を追われ、2013年に脱税事件で禁錮4年(恩赦法で減刑)の判決を受けて公職追放されました。

2019年には欧州議会議員に当選しましたが、bungabunga乱交パーティーを始め依然としてさまざまな訴訟案件を抱えています。印象としては、灰色どころか真黒な人品の政治家です。

一政党のボスだったり、イタリア一国の首相だったりの役割ぐらいなら、人柄が少々猥雑でも務まる場合が多い。

政界の魑魅魍魎に対抗し、世界中のタフな政治家や指導者と丁々発止に渡り合うためには、むしろ磊落で粗放な神経の持ち主が適任だったりもします。

首相時代のベルルスコーニ氏がまさにその最たる例です。

だが、イタリア大統領は少し違います。

自己主張の強い身勝手な政治家や政治勢力をまとめ、仲介し、共存させていく力量が求められます。対立ではなく協調と平和をもたらす人物でなくてはならないのです。

そのためには人格が高潔で政治的に公正、且つ生き方が身奇麗なベテラン政治家、という理想像が求められます。

少し立派過ぎる人物像に見えるかもしれませんが、歴代のイタリア大統領には、多かれ少なかれそうしたキャラクターの政治家が選出されています。

むろん彼らとて政治家です。嘘とハッタリと権謀術数には事欠きません。

だだベテランの域に入って大統領に選ばれるとき、それらの政治家は英語でいういわゆるステーツマン然とした雰囲気を湛えていて、大統領になった後も実際にそう行動しました。

それは肩書きが人を作る、という真実の反映かもしれません。だがそれ以前に、彼らにはそうした資質が既に備わっていた、と考えるのが公平な見方でしょう。

例えば現職のマタレッラ大統領は、強固な反マフィアの闘志、という彼の魂の上にリベラルな哲学を纏って、よく政党間の審判の役割を果たしました。

マフィアの拠点であるシチリア島に生まれたマタレッラ大統領は、シチリア州知事だった兄をマフィアの刺客に暗殺されました。彼はその現場に居合わせました。彼の反マフィア魂はそこで揺るぎないものになりました。

また彼の前任のナポりターノ大統領は、筋金入りの共産主義者、というぶれない鎧をまとった愛国者であり、国父とも慕われた誠実な国家元首でした。

彼は2013年、総選挙の後に混乱が続いて無政府状態にまで至った国政を見かねて、史上初の2期目の大統領を務める決意をしました。そのとき彼は間もなく88歳になろうとしていました。

議会各派からの強い要望を受けて立候補を表明する際、彼は「私には国に対する責任がある」と老齢を押して出馬する心境をつぶやきました。その言葉は多くの国民を感動させました

ベルルスコーニ元首相は、4期9年余に渡って首相を務めた大政治家です。だが彼には大統領に求められる「清廉」のイメージが皆無です。

清廉どころか、冒頭で触れたように少女買春疑惑に始まる性的スキャンダルや汚職、賄賂、またマフィアとの癒着疑惑などの黒い噂にまみれ、実際に多くの訴訟事案を抱えています。

その上2013年には脱税で実刑判決さえ受けています。彼は公職追放処分も受けましたが、しぶとく生き残りました。そして2019年、欧州議会議員に選出されて政界復帰を果たしました。

それに続いて彼は、今回の大統領選では、右派連合が推す大統領候補にさえなろうとしているのです。

しかしベルルスコーニ元首相の醜聞まみれの過去を見れば、彼はイタリア大統領には最もふさわしくない男、と筆者の目には映ります。

彼を支持するメローニ「イタリアの同胞」党首とサルビーニ「同盟」党首は、どちらも首相職への野心を秘めた政治家です。

彼らが首相になるためには、求心力が高いドラギ首相を退陣させなければなりません。そこで彼らはドラギ首相を大統領候補として推進するのではないか、と見られていました。

しかし2人はベルルスコーニ元首相を支持すると決めました。それは見方を変えれば、ドラギ首相が政権を維持することを容認する、という意味でもあります。

「イタリアの同胞」と「同盟」は、世論調査で1位と2位の支持率を誇っています。党首の彼らが首相職に意欲を燃やしても少しも不思議ではないのです。

だが彼らは今回はドラギ内閣の存続を認めて、議会任期が切れる2023年の6月以降に、政権奪取と首相就任を模索しようと決めたようです。

彼らの利害は、今このときのイタリアの国益にも合致します。

それというのも、コロナ禍で痛めつけられたイタリアの経済社会を救い、同時にお家芸の政治混乱を避けるためには、求心力が強いドラギ首相が政権を担い続けるのが相応しい、と誰の目にも映るからです。

しかし、ベルルスコーニ元首相が幅広い支持を集めるかどうかは不透明です。

状況によっては、ベルルスコーニ元首相を含む全ての候補者が消去法で姿を消して、結局ドラギ首相が大統領に祭り上げられる事態になるかもしれません。

そうなった場合には総選挙になる可能性も高い。

総選挙になれば、政権樹立を巡って熾烈な政治闘争が勃発し、イタリアはカオスと我欲と権謀術策が炸裂する、お決まりの政治不安に陥るでしょう。

そうなった暁には、選出されたばかりの「ドラギ大統領」が、非常時大権を駆使して政治危機の解消に奔走するという、バカバカしくも悲しいイタリア歌劇ならぬ、「イタリア過激政治コメディー」が見られるに違いありません。

そうならないことを祈りつつ、筆者は一点考えていることがあります。

つまり、ベルルスコーニ元首相が奇跡的に大統領に選出されて、これまでの我欲を捨て目覚ましい大統領に変身してはくれまいか、という個人的なかすかな希望です。

筆者はここまで批判的に述べてきたように、政治的にも信条的にもベルルスコーニ元首相を支持しません。

だが彼は悪徳に支配されつつも憎めないキャラクターの男です。だからいまだに国民の一部に熱愛されています。

人間的に面白い存在なのです。

筆者も彼に対して湧く淡い親しみの感情を捨てきれません。

我ながら不思議なもの思いについては以前ここにも書きました。その機微は今も同じです。

人は悪行や失策や罪悪や犯罪を忘れてはなりません。

だがそれらを犯した者はいつかは許されるべきです。なぜなら人は間違いを犯す存在だからです。

その意味でベルルスコーニ元首相も許されて、過去の過ちや醜聞や思い上がりをかなぐり捨て、真に人々に尽くし、且つ履歴を償うチャンスが与えられてもいいのではないか、とも考えるのです。

言うまでもなく、もはや80歳代も半ばになった彼の中に、そんなふうに善良で真摯で且つ強い願いが芽生えているならば、の話ですが。

 

 

 

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イタリアの「や、コンニチワ、またですね」」の政治危機が見える

マタレッラ大統領の任期が2月で終えるのを受けて、イタリア大統領選の投票が1月24日から始まります。

国家元首であるイタリア大統領は、上下両院議員と終身議員および地域代表者の投票によって選出されます。

投票は一日に2回づつ実施されます。3回目までの投票では3分の2以上の賛成が必要で、4回目以降は単純過半数を得た者が当選となります。

言うまでもなく1回目の投票で大統領が決まることもあります。しかし初回投票で結果が出るのは極めて珍しく、複数回投票になるのが普通です。

最多は23回目の投票まで行ったこともあります。むろんそうなれば何日も時間がかかります。

冒頭で「投票が1月24日から始まる」と不思議な言い方をしたのは、投票が何度も行われていつ終わるか分からない可能性があるからです。

イタリア共和国大統領は、普段は象徴的な存在で実権はほとんどありません。ところが政治危機のような非常時には議会を解散し、組閣要請を出し、総選挙を実施し、軍隊を指揮するなどの「非常時大権」を有します。

大権ですからそれらの行使には議会や内閣の承認は必要ありません。いわば国家の全権が大統領に集中する事態になります。

たとえば2018年の総選挙後にも大統領は「非常時大権」を行使しました。

政権合意を目指して政党間の調整役を務めると同時に、首班を指名して組閣要請を出しました。その時に誕生したのが第1次コンテ内閣です。

コンテ首相は当時、連立政権を組む五つ星運動と同盟の合意で首相候補となり、マタレッラ大統領が承認しました。

コンテ首相は以後、2021年1月に辞任するまで、世界最悪のコロナ地獄に陥ったイタリアを率いて指導力を発揮しました。

だが連立を組む小政党の反逆に遭って退陣しました。

その後はふたたびマタレッラ大統領が「非常時大権」を駆使して活躍。ほぼ全ての政党が参加する大連立のドラギ内閣が発足しました。

イタリア共和国は政治危機の中で大統領が議会と対峙したり、上下両院が全く同じ権限を持つなど、混乱を引き起こす原因にもなる政治システムを採用しています。

一見不可解な仕組みになっているのは、ムッソリーニとファシスト党に多大な権力が集中した過去の苦い体験を踏まえて、権力が一箇所に集中するのを防ごうとしているからです。

憲法によっていわゆる「対抗権力のバランス」が重視されているのです。

政治不安が訪れる際には大統領は、対立する政党や勢力の審判的な役割とともに、既述のように閣僚や首相の任命権を基に強い権限を発揮して、政治不安の解消に乗り出します。

政党また集団勢力は、大統領の権限に従って動くことが多いため、政治危機が収まることがしばしば見られます。

1月24日の選挙は、イタリアの政局が安定している中で行われる。極めて珍しいケースです。

政局が安定しているのは、ドラギ首相の求心力が強いからです。

ところがそのドラギ首相を降板させて大統領に推そうとする者がいます。

彼が大統領になれば、首相の座が空きます。そこを狙う政治家や政治勢力が多々あるのです。

それが連立政権内にいる五つ星運動の一部であり、連立の外にいて世論調査上は国民の支持を最も多く集めている、極右政党のイタリアの同胞です。

統計ではイタリアの同胞に先を越されたものの、2番目の人気を維持している同盟のサルビーニ党首も首相職への執着が強い。

彼は常にその情動を隠さずに来ましたが、ここにきて世論調査で友党のイタリアの同胞に先行されたために、ドラギ首相を大統領に推す論を引っ込めて、あいまいな発言に終始するようになりました。

そうはいうものの、彼が首相職に強い野心を持っているのは周知の事実です。

五つ星運動のディマイオ氏、イタリアの同胞のメローニ氏、そしていま触れた同盟のサルビーニ氏。この3者がドラギ首相を大統領に祭り上げて自らが首相になるリビドーを隠しています。

だが3者は右と左のポピュリストです。五つ星運動が極左のポピュリスト。イタリアの同胞と同盟は大衆迎合的な極右勢力です。

尋常な右と左の政党であり主張であれば問題ありませんが、「極」という枕詞が付く政党の指導者である彼らが首相になれば、イタリアの迷走は目も当てられないものになるでしょう。

今のイタリアに最も望まれるのは、ドラギ首相がしばらく政権を担うことです。それはマタレッラ大統領の再選によって支えられればもっと良い。

だがマタレッラ大統領は今のところは続投を否定しています。

大統領候補には、ドラギ首相のほかにベルルスコーニ元首相やアマート元首相、またマルタ・カルタビア法相の名などが取りざたされています。

カルタビア法相が選出されれば、イタリア初の女性大統領となります。

大統領には、最低でも清潔感のある個性が求められます。その意味では、いま名を挙げた候補者のうち、多くの醜聞にまみれたベルルスコーニ元首相は論外でしょう。

彼以外のベテランが国家元首の大統領職に就き、各方面からの支持を集めるドラギ首相が、コロナで痛めつけられているイタリア共和国の政治経済の舵をもうしばらく取ることが理想です。

だが言うまでもなく、魑魅魍魎が跋扈する政界では、この先何が起こるかむろん全く分かりません。

 

 

 

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マクロンよ、もっとさらに吼えよ!

フランスのマクロン大統領が、国内にいる500万人余りの反ワクチン派の市民に向かって、「くそくらえ」という強い言葉を使って怒りを投げつけました。

大統領にもあるまじき言葉遣い、として驚く人、呆れる人、怒る人、批判する人が続出しました。

同時に拍手喝采する人、も多くいました。申し訳ないが筆者もそのうちのひとりです。

笑ったのは、普段は政敵や反対者や弱者を口汚くののしるのが得意な極右の政治家が、「大統領はそんなことを言うべきではない」と善人面で発言したことです。

さらに「下卑た表現をする彼は職責に値しない」 とまるで自身が聖人でもあるかのように続けました。恥知らずなコメントです。

「くそくらえ」という言葉は自分が言う分には構わないが、マクロン大統領が言ってはならない、ということらしい。

フランス大統領ともあろう者が、公の場で「くそくらえ」などという表現をするのはむろん好ましくはありません。

言葉使いに細心の注意を払うのも、一国のリーダーたる者の心得です。

だが、彼は敢えて強い言葉を使って注意を喚起しようとした、とも取れます。

コロナパンデミックで危機に陥っている世の中が、ワクチンの接種を拒む愚者の群れに圧されて、さらに崖っぷちに追い込まれている。

マクロン大統領はそのことを踏まえて、反ワクチン派の国民に心を入れ替えて接種しろ、と忠告しただけかもしれません。

だが一方では、もっと違う意味も込めたのかもしれない。

反ワクチン族は欧米の極右勢力と親和的であることが明らかになっています。

つまりトランプ主義者やフランスの国民連合やドイツのための選択肢、ここイタリアの同盟とイタリアの同胞などが彼らの味方です。

それらの政治勢力は、将来政権を担うようなことがあれば、ファシズムやナチズムに走りかねない危険を秘めています。

トランプ政権を見れば明らかです。選挙に負けたトランプさんの支持者が、民主主義の牙城であるキャピトルヒルに乱入した事件などは、その危険の顕現です。

マクロン大統領は、退陣したメルケル首相やバイデン大統領またここイタリアのドラギ首相などとともに、それらの右派勢力に対抗するグローバルな力です。

「くそくらえ」などという言葉を安易に口に出す軽さは少しいただけないかもしれませんが、フランスがマリー・ルペン氏やエリック・ゼムール氏 に率いられる悪夢を阻止するためには、ぜひとも必要な人材です。

彼はまた、足元がおぼつかないバイデン大統領に代わって、トランプさんがアメリカを再び支配するかもしれない阿鼻叫喚の暁には、彼に対抗できるほどんど唯一の担保でもあります。

なにしろメルケルさんがいなくなったドイツの舵を取るショルツ首相が、どれほどの力のある政治家かどうかまだ全く分からないのですから。

「くそくらえ」という言葉が、マクロン大統領のエリート意識、あるいは体制側の思い上がりから出た不用意な失言ではなく、反ワクチン族への明確な対抗意識に基づく確信犯的な発言だと信じたい。

もし彼がそれを確信犯的に公言したのであれば、それは反ワクチン頑民への単なる警告ではなく、ことし4月の仏大統領選を見据えての、極右候補への宣戦布告、と取れなくもないのです。

ほんの少し深読みをすれば、の話ですが。

 

 

 

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イタリア、50歳以上のワクチン義務化は必然の道程

イタリア政府は1月5日、新型コロナウイルスの感染急拡大を受け、50歳以上を対象に新型コロナウイルスのワクチン接種を義務付けると発表しました。

2月15日から適用します。

イタリアでも感染力の強いオミクロン型が」猛威を振るっていて新規感染者数は過去最多を連日更新しています。

1月6日の新規感染者数も21万9千441人とやはり過去最多を更新しました。

イタリアではワクチン接種人口の80%以上がすでに必要回数を接種しています。だが、接種を拒否する者も相当数存在し、接種率は頭打ち状態です。

イタリア政府は既に、医療従事者や教師また警察官や兵士などに接種を義務づけています。

また2月からは接種を証明する「グリーンパス」の有効期限も9カ月から6カ月に短縮します。次々と厳しい対策を打ち出しているのです。

イタリアはパンデミックが世界を席巻した当初、手本にするものが皆無の絶望的な状況の中で、医療崩壊にまで陥る地獄を味わいました。

恐怖が国中を支配しました。

イタリアは当時、世界初の、前代未聞の全土ロックダウンを導入してなんとか危機を乗り切りました。

地獄の教訓が身にしみているイタリアは、その後も世界初や欧州初という枕詞が付く施策を次々に打ち出してパンミックと対峙しています。

イタリア政府が過酷な対策を取り続けるのは、いま触れたように恐怖の記憶が肺腑に染み入っているからです。

だがそれだけではありません。

厳しい対策を取らなければ、規則や法やお上の縛りが大嫌いな自由奔放な国民は、コロナの予防策などそっちのけで勝手気ままに振舞う可能性が高い。

もしもパンデミックの初期に手痛い打撃を経験していなかったなら、イタリアは今頃は、欧州どころか世界でも感染予防策がうまく作動しない最悪の社会だったかもしれません。

イタリアが2020年の3月~5月に、世界最悪のコロナ地獄に陥ったのは、誤解を恐れずに言えば「不幸中の幸い」ともいうべき僥倖だったのです。

イタリア共和国の最大の美点は多様性です。多様性は平時には独創性とほぼ同義語であり、カラフルな行動様式や思考様式や文化の源となります。

だがパンデミックのような非常時には、人々が自己主張を繰り返してまとまりがなくなり、分断とカオスと利己主義が渦巻いて危機が深まることがあります。

今がまさにそんな危険な時間です。

その象徴が反ワクチン過激派のNoVaxと、彼らに追随する接種拒否の愚民の存在です。

イタリアには、ワクチンの影も形もなかった2020年、絶望の中で死んでいった多くのコロナ犠牲者と、彼らに寄り添い命を落としたおびただしい数の医療従事者がいます。

またワクチンが存在する現在は、健康上の理由からワクチンを打ちたくても叶わない不運な人々がいます。

「個人の自由」を言い訳にワクチンの接種を拒む住民は、それらの不幸な人々を侮辱し唾を吐きかけているのも同然です。

その上彼らは、コロナに感染して病院に運び込まれ、集中医療室はいうまでもなく一般病棟の多くまで占拠しています。挙句には自らを治療する医師や看護師に罵詈雑言を浴びせる始末です。

彼らは他国の同種の人々よりも、「イタリアらしく」自己主張が強い分、危機を深刻化させています。

イタリア政府はついにそれらの危険分子の退治に乗り出しました。

それがワクチン接種の義務化です。

50歳以上の市民に接種を義務化したのは快挙ですが、それだけではおそらく十分ではありません。年齢に関係なくワクチン接種を義務化するのがイタリア政府の最終的な狙いでしょう。

だがその政策は、千姿万態、支離滅裂な主張が交錯するイタリア政界によって阻止され、混乱し、紛糾して中々実現しないと思います。

イタリア以外の多くの国、特に欧州内の国々がワクチン接種を義務化しない限り、イタリアの完全義務化は成就しないに違いありません。

幸いギリシャは60歳以上の市民にワクチン接種を義務化しました。また、オーストリアやドイツは、2月以降に一般国民に義務化していく予定です。

感染拡大が続けばその他の国々もワクチン接種の義務化に踏み切るでしょう。

イタリアは今後も他国の動きを監視しつつ他国よりも強い規制策を導入し、且つ究極には-繰り返しになりますが-ワクチン接種の完全義務化を模索するのではないか。

イタリア共和国の最大の強みである多様性は、社会全体の健勝とゆとりと平穏によってのみ担保されます。

コロナパンデミックの危機の中では、反ワクチン人種のジコチューな自由は許されるべきではありません。

50歳以上の市民へのワクチン接種の義務化は、イタリアの多様性への抑圧ではなく、多様性を死守するための、必要不可欠な施策の第一歩です。

 

 

 

 

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紅白を見、ザンポーネを食べ、反ワクチン頑民を忌む年末年始

イタリアでは反ワクチン過激派、NoVax(ノーワックス)のキツネ憑きの皆さんが騒ぎ続けています。

またこの期に及んでも、ワクチン懐疑論から抜け出せない愚者の群れも数が減る様子がありません。

自らの行為が社会全体を危機に陥れていることに気づかないか、気づかない振りをしているそれら「こけの一念人士」への嫌悪感を募らせて、腹を立てても空しいばかりです。

それなので、もはや反社会的勢力とさえ形容される頑民の退治は国家権力に任せておいて、筆者は年末から年始にかけて何も考えずにのんびりと時間を過ごしました。

クリスマスは少し繰り上げて、息子2人とその家族またパートナーらを迎えて祝いました。今回は筆者は刺身を用意しただけで、メインの料理のあれこれはワイフが担当しました。

その後の年末と年始には、筆者の要望にこたえてザンポーネがふんだんに食卓に並びました。ザンポーネは、中味を刳りぬいた豚足に、味付けをした豚肉のミンチを詰めたソーセージ。

なぜか日本では不味いという評判があるようです。だが、不味いものを食の国イタリアのグルメな国民が有難がって食べるはずがありません。

少し立ち止まって頭をひねってみれば、文字通り立ち所に分かるはずのコンセプトではないでしょうか。

不味いと言い出した日本人の感覚がおかしいのです。あるいは豚足の見た目に意識を引きずられたのでしょうか。

ザンポーネはきわめて美味なイタメシのひとつです。

ただザンポーネは脂っこくカロリーも高い食べ物。主に寒い北イタリアで、冬に食べられるのもそれが理由です。

健康志向が強い時代にはウケない場合もあるかもしれません。

しかしそんなことを気にして敬遠するのは馬鹿げています。ザンポーネは毎日食べるものではありません。たまに食べてその濃厚な味と内容と食感とを楽しまないのは損です。

閑話休題

のんびり食を楽しむついでに、大晦日にはNHK紅白歌合戦も見ました。

いつものように録画をしながら、従って見逃すことがないため安心して、そこかしこでテレビの前を離れて雑事をこなしながら、です。

最終的には、全体の3分の2ほどを録画で見る結果になりました。その際には歌以外の場面をひんぱんに早送りしながら楽しみました。

日本の今の音楽シーンをほとんど知らない筆者は、大晦日の紅白歌合戦を介して今年のヒット曲や流行歌を知る、ということが多い。

といいますか、最近はそれが楽しみで長丁場の紅白を見る、と言っても過言ではありません。

ことしも「ほう」とうなる歌手と歌に出会いました。列挙すると:

ミレイ:Fly High   あいみょん:愛を知るまでは  Yoasobi:群青 の3アーチストが素晴らしかった。 

また藤井風も良かったが、2曲歌ったうちの2曲目が少し雰囲気を壊したと感じました。だが彼も優れたミュージシャンであることには変わりありません。

新しい才能との出会いはいつもながら楽しい。だが、数少ないそれらのアーチストを知るために、4時間以上もテレビの前に「座らされる」のは苦痛です。

紅白はやはり、がらりと趣向を変えて尺を短くし、過去にとらわれない全く新しい歌番組として出直すほうがいい、と思います。

筆者は以前からそう強く感じ主張していますが、ことしもやはりその思いを強くしました。

多様性が力を持つ時代に、国民誰もが一緒に楽しめる歌番組などあるはずがありません。

NHKは幻想を捨てて、たとえば若者向けの新しい歌と、中高年者向けの演歌&歌謡曲とを分けるなど、構成を立て直すべきです。

歌が好きな若者は、新しい歌に続いて、演歌&歌謡曲も必ず自主的に見、聞くでしょう。

一方では歌が好きな中高年も、演歌&歌謡曲に加えて、新しい歌も自主的に見、聞くに違いない。

だがいうまでもなく、演歌&歌謡曲が苦手な若者も新しい歌が嫌いな中高年もいます。

それらの視聴者は、それぞれが好きではないジャンルの楽曲が流れる間は顔を背けるでしょう。

それでいいのです。

なぜなら顔を背ける人々は、中途半端な中身の番組をむりやり長時間見せられて、テレビの前から逃げてしまう人々よりも、おそらく数が少ないと考えられるからです。

再びなぜなら、テレビの前に座って紅白にチャンネルを合わせた人々は、多くが紅白好きだからです。

つまり、逃げる人々は、紅白が始まる以前にすでに逃げているのであって、そこには座っていない、と思うのです。

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仏教系無神論者のクリスマス

2021年、コロナ禍中の2度目のクリスマスも静かに過ぎました。

クリスマスにはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもします。それはしかし筆者にとっては、困ったときの神頼み的な一過性の思惟ではありません。  

筆者は信心深い人間では全くありませんが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考えます。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいでしょう。

また筆者はキリスト教徒でもありませんが、この国にいる限りはイタリア人でキリスト教徒でもある妻や妻の家族が行うキリスト教のあらゆる儀式や祭礼に参加しようと考え、またそのように実践してきました。

一方イタリア人の妻は日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる筆者の家族の側のあらゆる行事に素直に参加します。それはわれわれ異教徒夫婦がごく自然に築いてきた、日伊両国での生活パターンです。

クリスマスの朝はできる限り家族に伴って教会のミサに出かけるのもその習いの一環です。しかし昨年はコロナのためにクリスマスのミサは禁止されました。

ことしは感染防止策を徹底したうえでのミサは許されました。だがわれわれ夫婦は大事をとって、人ごみになるミサを避け自宅に留まりました。

教会のミサでは思い出があります。

クリスマスではない何かの折のミサの途中で、中学に上がるか上がらないかの年頃だった息子が、「お父さんは日本人だけど、ここ(教会)にいても大丈夫?」と筆者にささやきました。

大丈夫?とは、クリスチャンではない(日本人)のに、お父さんはここにいては疲れるのではないか。あるいはもっと重く考えれば、クリスチャンではないお父さんはここにいて孤独感を覚えているのではないか、という息子から筆者への気遣いでした。

筆者は成長した息子におどろきました。気遣いをよくする子供ですから気遣いそのものにはおどろきませんでした。だが、そこにあるかもしれない「教会+信者」と、信者ではない者との間の「齟齬の可能性」に気づいた息子におどろいたのです。  

筆者は彼に伝えました。

「全然大丈夫だよ。イエス・キリストは日本人、つまりキリスト教徒ではない僕をいつも受け入れ、抱擁してくださっている。だからお父さんはここにいてもOKなんだ」。

それは筆者の嘘偽りのない思いでした。

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イエス・キリストは断じて筆者を拒みません。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからです。もしもそこでキリスト教徒ではない筆者を拒絶するものがあるとするなら、それは教会であり教会の聖職者であり集まっている信者です。

だが幸い彼らも筆者を拒むことはしません。拒むどころか、むしろ歓迎してくれます。筆者が敵ではないことを知っているからです。筆者は筆者で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っています。

筆者はキリスト教徒ではありませんが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きています。従ってこの国に住んでいる限りは、先に触れたように、一年を通して身近にあるキリスト教の儀式や祭礼にはできるだけ参加してきました。

筆者はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚しています。言葉を変えれば筆者は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのです。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンです。

同時に筆者は、釈迦と自然とイエス・キリストの「信者」でもあります。その状態を指して筆者は、自らのことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼びます。

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なぜキリスト教系や神道系ではなく「仏教系」無神論者なのかといいますと、筆者の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからです。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来ます。だが筆者は先祖崇拝者ではありません。先祖は無論「尊重」します。それはキリスト教会や聖職者や信者を「尊重」するように先祖も尊重する、という意味です。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味です。筆者にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではありません。

筆者が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体です。

教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設です。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践します。また寺は仏陀を解釈し規定し実践します。神社は神々を同様に扱います。

それらの実践施設は人々が作ったものです。ですから人々を尊重する筆者は、それらの施設や仕組みも尊重します。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではありません。筆者が信奉するのは、飽くまでも人々が解釈する対象それ自体なのです。

そういう意味では筆者は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があります。

だが前述したようにイエス・キリストも、また釈迦も自然も筆者を拒絶しません。筆者だけではありません。彼らは何ものをも拒絶しません。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然です。だから筆者はそれらに帰依するのです。

言葉を変えれば筆者は、全ての宗教を尊重する「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり、「釈迦を信奉する仏教徒」です。同時に「自然あるいは八百万神を崇拝する者」、つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもあります。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者でしょう。

筆者はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり、「無神論」という宗教の信者だと考えています。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば、「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかなりません。

 

 

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反ワクチン市民への弾圧の可能性

12月24日朝、次のようにブログに書きました。

12月23日、イタリア政府による年末年始のコロナ規制強化策が発表された。

それらは:

1.屋内でのみ義務化されているマスク着用を屋外にも適用。

2.ワクチン接種証明のグリーンパスの有効期間を9ヶ月から6ヶ月に短縮。

3.映画館、劇場、スポーツ観戦、また公共交通機関を利用する際には現在使われているサージカルマスク(医療用マスク)ではなく、FFP2(防塵マスク)を使用すること。

4.現在はグリーンパスが無くても飲食できるバーやカフェ、レストランカウンターなどでもグリーンパスの提示を義務付ける。

5.屋外でのイベントやパーティーを12月31日まで禁止。

など。

12月23日、イタリアの1日あたりの感染者数が過去最悪の44595人にのぼった。

これまでの記録は2020年11月13日の40902人。

また23日の死者数は168。最近では高い数字だが、これまでの最悪記録である、やはり2020年11月13日の550人よりは大幅に少ない。

12月23日の集中治療室収容の患者は1023人、通常病棟のコロナ患者は8772人。

片や昨年11月13日の記録は集中治療室収容の患者が3230人、通常病棟のコロナ患者は30914人にものぼった。

昨年の11月にはまだワクチンはなかった。その事実は数字の高さと相まってイタリア中を不安の底に陥れた。

ワクチン接種を拒む愚民は存在するものの、今年はワクチンが普及したため人々は少し穏やかな年末年始を迎えようとしている。

しかし、クリスマスの祝祭と年末年始の賑わいを考えた場合、イタリア政府の規制策は生ぬるいと思う。

ここ数日で感染が急激に拡大し、ついには過去最悪の数字を超えた事態を軽視していないか。

感染力の強いオミクロン株が、英国を真似て跋扈しそうな雰囲気があり、とても不気味だ。

ところが1日あたりの感染者数はすぐに塗り替えられて、クリスマスイブの新規感染者数は50599人にのぼりました。

筆者はイタリア政府の規制策の強化が十分ではないという思いをますます募らせています。

英仏独などでも新規感染者の数が爆発的に増えています。

イタリアは今のところはそれらの国より平穏ですが、発表された感染抑止策はどう考えても十分ではないように見えてしまうのです。

昨年、3月~5月に医療崩壊にまで陥った際の恐怖を、肺腑にしみて知っているはずのイタリア政府もまた国民も、緊張が長く続き過ぎて心にゆるみができているようです。

年末年始の賑わいが大きくなるほどに感染拡大は続くでしょう。おそらく感染爆発と形容しなければならないほどに。

パンデミックが終息しないのは、ワクチン接種を拒否する頑民の存在が大きい。

終息しなければウイルスは今後も変異を繰り返します。

そこを見据えて各国政府は動き出そうとしています。

つまりワクチン接種の義務化です。

それだけで済めば良いのですが、事態が改善しない暁には国家権力は、反ワクチン市民への弾圧まで考える可能性があります。

権力とはそういう不快なものです。

権力に慈悲を求めるのは、飢えた猛獣をハグしようとするくらいに愚かしい行為です。

 

 

 

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ハゲの横好き

偉大だったドイツのメルケル首相が退陣して、ショルツ新首相が誕生しました。

筆者はショルツ首相を公私ともに応援しています。

「公」は民主主義の旗手、ドイツを率いる彼の手腕。

「私」は容姿が似ている彼への親しみ。

右向き素朴650


筆者はショルツ首相の後を追って、ハゲ街道を驀進中なのです。

なのに、あ~それなのに、いいハゲこいて、もとへ、いいトシこいて、筆者はPerfumeが好きです。

いまPerfumeを香水と思った人はオヤジでありオバchanです。

ならばPerfumeとは何か。Perfumeを知らない若者のために説明しますと、Perfumeは若い女性3人組のアイドルグループです。テクノポップユニット とも言うらしい。

そんなものを好きな筆者のようなオヤジはエロいと見なされることもあります。正確に言うと若い女性歌手やグループを追っかけるオヤジはエロいらしい。エロ目的のくせにエロい情熱を隠して出没する、ということなんでしょうね。

筆者はぶっちゃけそこまでエロくはなさそうです。なぜならPerfumeの追っかけをするほどの元気はありませんし、それほどの情熱もありません。また筆者の子供ほどの年齢のアイドル娘3人をアイドルともみなせません。

筆者のアイドルは(年齢と時代の関係で敢えて言えば)キャンディーズです。へてからに、キャンディーズを知っている人はぶっちゃけオヤジとオバchanです。で、人気絶頂の頃のキャンディ-ズの3人娘は、まぶしくて近寄りがたくて憧れでした。

筆者はそこでもキャンディーズの追っかけをするほどの熱烈なファンではなく、遠くから眺めているという程度の煮え切らない若者でした。が、同世代の女性アイドルを熱く見つめている青年が内に秘めているのは、歌への情熱に織り込んだまさにエロだった、という気はしないでもありません。

perfumeダサコスチューム

ところが、Perfumeの3人の踊り子たちは、とても田舎っぽくて前述したように筆者にはアイドルには見えません。Perfumeは、キャンディーズオジさ んの筆者にとっては憧れではなく、例えば故郷の友人のタカオとかヨシオとかの娘みたいな、 あるいは田舎の姪っ子たちみたいな、要するにフツーの娘過ぎてエロにはならないのです。

とはいうものの、こうしてあれこれ言い訳めいたことを書き連ねているのが怪しい。やっぱりエロだ。というスルドイ指摘もありそうですので、本題に戻ります。

筆者のPerfume好きをもっと具体的に言えば、実は筆者はPerfumeの歌「ワンルーム・ディスコ」が好きなのです。それは♪ジャンジャンジャン♪という電子音(デジタルサウンドと言うらしい)に乗って次のように軽快に歌われます。

ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ
ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ                           なんだってすくなめ 半分の生活 だけど荷物はおもい 気分はかるい
窓をあけても 見慣れない風景 ちょっとおちつかないけれど そのうち楽しくなるでしょ                           新しい場所でうまくやっていけるかな 部屋を片付けて 買い物にでかけよ
遠い空の向こうキミは何を思うの? たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない
(中略)
新しい場所でうまくやっていけるかな 音楽をかけて計画をねりねり 
今日はなんだかね おもしろいこともないし リズムにゆられたいんだ ワンルーム・ディスコ                          ディスコディスコ ワンルーム・ディスコ
ディスコディスコ~

デジタルサウンドという新鮮な音の洪水に乗って流れるメロディーもいいが、筆者にとっては歌詞がもっと良い。つまり:
「なんだってすくなめ 半分の生活」 
「荷物はおもい 気分はかるい」
「そのうち楽しくなるでしょ」
「たぶん できるはずって 思わなきゃしょうがない」

それらの前向きな態度や思考は、筆者が理解している限りでの全き禅の世界です。作詞・作曲をした中田ヤスタカさんが禅を意識していないのが、余計に禅的で良いと思います。

禅とは徹頭徹尾プラス思考の世界です。しかもそのポジティブで前向きな生き方を意識しないまま、自然体で体現するのがもっとも理想に近い禅世界です。

円相切り取りやや横へ拡大

受身ではなく能動的であること。消極的ではなく積極的であること。言葉を替えれば行動すること。「書を捨てよ。町へ出よう」と動くこと。またはサルトルの「アンガージュマン」で行こうぜ、ということです。

もっと別の言い方で説明すれば、それは筆者の座右の銘である「日々是好日(にちにちこれこうにち(じつ)」と同じ世界です。まさに理想的な禅の世界なのです。

日々是好日とは、どんな天気であっても毎日が面白い趣のある時間だ、という意味です。つまり雨の日は雨の日の、風の日は風の日の面白さがある。あるがままの姿の中に趣があり、美しさがあり、楽しさがある。だからそれを喜びなさい、という意味です。

筆者はバカかった頃、もとへ、若かった頃、この言葉を「毎日が晴れたいい天気だ」と勝手に理解して、東洋的偽善の象徴そのものだと嫌悪しました。これは愚かな衆生に向かって、「たとえ雨が降っても風が吹いても晴れた良い天気と思い(こみ)なさい。そうすれば仏の慈悲によって救われる」という教えだと思ったのです。

まやかしと偽善の東洋的思想、日本的ものの見方がその言葉に集約されていると当時の筆者は思いました。

その大誤解は筆者が日本を飛び出して西洋世界に身を投入する原動力 の一つにもなりました。筆者は禅がまったく理解できませんでした。しかも理解できないまま筆者が思い込んでいる禅哲学が、反吐が出るほど嫌いでした。無知とはゲに怖ろしい。

西洋にも禅的世界観があります。歌の世界であれば:

♪ケセラセラ なるようになるさ~♪

がそうであり、ビートルズの

♪レットイットビー  レットイットビー  レットイットビー♪

もそうです。

ただ西洋のそれは、人生をある程度歩んだ「大人の知恵」という趣が込められた歌だと筆者は感じます。つまりそれは、敢えて言えば哲学です。Perfumeの3人娘が歌うのはそんな重い哲学ではありません。

軽い日常の、どうやら失恋したらしい女の子の、前向きな姿を今風のデジタルな音曲に乗せて、踊りを交えて歌う。その軽さがいい。深く考えることなく、「軽々と」禅の深みに踏み込んでいるところがいい。

あるいは考えることなく「軽々と」禅の高みに飛翔している姿がいい。。

というのはしかし、東洋の、特に禅の全きポジティブ思考に魅せられている「東洋人の」筆者の、東洋世界への依怙贔屓 (えこひいき)に過ぎないのかもしれません。

 

 

 

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歴史を食う

ミラノ近郊の、筆者の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩があります。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」です。

狩猟は主に秋の行事です。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたります。

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理ですが、そこは食の国イタリア。

肉の切り身に塩やバター等をまぶして、ぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)ります。さらに炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げます。

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していました。

特に山では、ふんだんに獲れる鳥類が、貧しい木こりや農夫の空腹を満たしました。鳥肉の串焼きには山の斜面の痩せた土でも育つジャガイモが加えられました

スピエドの原型は、野鳥の肉とジャガイモの串焼きなのです。

やがて鳥肉以外の狩猟肉も調理されてレシピが発展していきました。

しかし野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したジビエよりも豚肉やスペアリブ、また家畜のうさぎや鶏肉などを使うのが一般的です。

ジャガイモはそこでも変わらずに重宝されます。

焼きあがったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが添えられます。

スピエドは赤ワインとの相性も抜群です。

イタリアは狩猟が盛んな国です。猟が解禁になる秋には、キジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが全国各地で食卓に上ります。

しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかありません。

これは一体なぜか、と考えると見えてくるものがあります。

ブレッシャにはトロンピア渓谷があります。そこは鉄を多く産しました。

そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになりました。

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産されます。

世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にあります。

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」です。

技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃が全てべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもしました。

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、しかもアルプスに近い山々や森などの自然も多い。

当然のように古くから狩猟の習慣が根付きました。

狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている、というのが筆者の解釈です。

つまりスピエドを食べる行為には、少し大げさに言えば、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食するという側面もある、と筆者はひそかに心を震わせたりもします。

2020年はコロナ禍でスピエドを食べる機会がほとんどありませんでした。

ことしもコロナ以前に比べるとチャンスはやはり多くはありませんでした。それでも友人一家に招待されて食べることができました。

友人は山育ちです。スピエドでもてなしてくれる筆者の友人は、ほとんどが山の暮らしを知っています。

山では古来、鳥類が多く食べられてきました。

先に触れたスピエドの原型がそこから生まれたのです。

山鳥は野うさぎや鹿に始まる獣類よりも圧倒的に数が多く捕獲も容易でした。

今では獣類も鳥類も大幅に数は減りました。それでもやはり両者のうちでは鳥類が多く狩られます。

山に親しい筆者の友人たちは、彼らが苦心して捕獲した貴重な野鳥をスピエドに加えます。

当節は各家のスピエドに使われる本物の野生動物の肉は、狩猟で獲られる鳥類のみ、といっても過言ではありません。

少しの鳥肉が、豊富な豚肉やスペアリブやウサギやジャガイモとともに香ばしく炙られる場合がほとんどなのです。

ことしはレストランなどでも、週末を中心にスピエドを提供する店がかなり目立ちました。

ただレストランの場合は、狩猟で得られる鳥肉がスピエドに加えられることはまずありません。

鳥類は多くが狩猟が禁止になっています。また捕獲が許されている山鳥でも数が少なく、レストランで提供するのは難しい事情があるのです。

レストランなどでは、野生の鳥肉の代わりに市販の鶏肉が調理され提供される、というのが実情です。

それも美味ですが、少量の山鳥の肉が加わる山のスピエドは、野趣に富み格別の味がします。

最近は料理にも興味を持っている筆者は、友人たちに頼んでスピエドの調理法を習得したいと考えています。

しかし複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出せずにいます。

そうはいうものの筆者にとっては、「歴史を食う」というほどの趣を持つ魅力的な料理ですから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりでいます。

 

 

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安楽死ではなく「安楽生」のみが正義である 

2021年11月、イタリア生命倫理委員会が、安楽死を切望する四肢の麻痺した40歳の男性の自殺(幇助)を認める決定を出しました。

イタリア初の事例です。

イタリアではことし8月、安楽死を法制化するように求める署名運動が75万人余りの賛同を集め、それは間もなく100万人を突破しました。

50万人以上の署名で国民投票が実施されるのがイタリアの決まり。

それを受けて、早ければ来年にも安楽死への賛否を問う国民投票が実施される見込みになっています。

イタリアの世論は歴史的に安楽死に対して強い抵抗感を示します。その最大の理由はカトリックの総本山バチカンの存在。

ローマ・カトリック教会は自殺を強く戒めます。

バチカンにとっては安楽死つまり自殺は、堕胎や避妊などと同様に強いタブーなのです。国民の約8割がカトリック教徒であるイタリアではその影響は大きい。

それにもかかわらず、安楽死を認めるイタリア国民の数は確実に増え続けています。

憲法裁判所は2019年、回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた人々が、自らの明確な自由意志によって安楽死を願う場合には許されることもある、という決定を出しました。

その歴史的な審判は、全身麻痺と絶え間のない苦痛にさいなまれた有名DJが、自殺幇助が叶わないイタリアを出てスイスに渡り、そこで安楽死を遂げたことを受けて示されました。

2017年の出来事です。

そこでも世論が大きく高まって、2年後には憲法裁判所のその決定につながったのです。

司法は続いてイタリア議会に安楽死法案の是非を審議するよう求めましたが、それは遅々として進んできませんでした。

だがイタリアは、署名活動の進展、前述の生命倫理委員会の初の自殺幇助の支持決定など、安楽死を合法化する方向を目指しています。

筆者はその動きを大いに支持します。「死の自己決定権」と安楽死の合法化は、文明社会の条件であり真っ当な在り方、と考えるからです

イタリアでは基本的に安楽死は認められていません。

憲法裁判所の裁定や生命倫理委員会の決定は、今のところは飽くまでも、いわば例外規定なのです。

それがゆるぎない法律となるには国民投票を経なければなりません。

現在は自殺幇助には5年から12年の禁固刑が科されます。

そのため毎年約200人前後ものイタリア国民が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をします。

イタリアの敬虔なカトリック教徒は、既述のように自殺を否定するバチカンの教えに従います。

医者を始めとする医療従事者はもっと従います。なぜなら彼らの至上の命題は救命であり、且つ彼らの多くもカトリック教徒なのですから。

だがそれは許しがたい保守性です。不治の病や耐え難い苦痛に苛まれている患者の煩悶懊悩を助長するだけの、思い上がった行為である可能性さえ高い。

筆者は以前、そのことについて次のように自らの考えを書きました。

同じことをここで彼らに伝えます。

安楽死や尊厳死というものはない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は幸福な生、つまり「安楽生」と、誇りある生つまり「尊厳生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳を全うできない生は、つまるところ「安楽生」と「尊厳生」の対極にある状態である。

人は 「安楽生」または「尊厳生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。

死がなければ生は完結しない。全ての生は死を包括する。「安楽生」も「尊厳生」も同様である。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければなりません。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきです。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合は、しかし、安楽死は認められるべき、と考えます。

 

 

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