歴史を食う

ミラノ近郊の、筆者の住む北イタリアのブレッシャ県には、有名な秋の風物詩があります。狩猟の獲物を串焼きにする料理「スピエド」です。

狩猟は主に秋の行事です。獲物は鳥類や野ウサギやシカやイノシシなど多岐にわたります。

それらの肉を使うスピエドは野趣あふれる料理ですが、そこは食の国イタリア。

肉の切り身に塩やバター等をまぶして、ぐるぐると回転させながら何時間も炙(あぶ)ります。さらに炙ってはまた調味料を塗る作業を繰り返して、最後には香ばしい絶品の串焼き肉に仕上げます。

スピエドは元々、純粋に狩猟の獲物だけを料理していました。

特に山では、ふんだんに獲れる鳥類が、貧しい木こりや農夫の空腹を満たしました。鳥肉の串焼きには山の斜面の痩せた土でも育つジャガイモが加えられました

スピエドの原型は、野鳥の肉とジャガイモの串焼きなのです。

やがて鳥肉以外の狩猟肉も調理されてレシピが発展していきました。

しかし野生の動物が激減した現在は、狩りで獲得したジビエよりも豚肉やスペアリブ、また家畜のうさぎや鶏肉などを使うのが一般的です。

ジャガイモはそこでも変わらずに重宝されます。

焼きあがったスピエドには、ポレンタと呼ばれる、トウモロコシをつぶして煮込んだ餅のような付けあわせのパスタが添えられます。

スピエドは赤ワインとの相性も抜群です。

イタリアは狩猟が盛んな国です。猟が解禁になる秋には、キジなどの鳥類や野うさぎやイノシシなどが全国各地で食卓に上ります。

しかしもっとも秋らしい風情のあるスピエド料理はブレッシャ県にしかありません。

これは一体なぜか、と考えると見えてくるものがあります。

ブレッシャにはトロンピア渓谷があります。そこは鉄を多く産しました。

そのためローマ帝国時代から鉄を利用した武器の製造が盛んになり、やがて「帝国の武器庫」とまで呼ばれるようになりました。

その伝統は現在も続いていて、イタリアの銃火器の多くはブレッシャで生産されます。

世界的な銃器メーカーの「べレッタ」もこの地にあります。

べレッタ社の製造する猟銃は、これぞイタリア、と言いたくなるほどに美しいデザインのものが多い。「華麗なる武器」です。

技術も高く、何年か前にはニューヨークの警官の所持する拳銃が全てべレッタ製のものに替えられた、というニュースがメディアを騒がせたりもしました。

ブレッシャは銃火器製造の本場だけに猟銃の入手がたやすく、しかもアルプスに近い山々や森などの自然も多い。

当然のように古くから狩猟の習慣が根付きました。

狩猟はスピエド料理を生み、それは今でも人々に楽しまれている、というのが筆者の解釈です。

つまりスピエドを食べる行為には、少し大げさに言えば、ギリシャ文明と共にヨーロッパの基礎を作ったローマ帝国以来の歴史を食するという側面もある、と筆者はひそかに心を震わせたりもします。

2020年はコロナ禍でスピエドを食べる機会がほとんどありませんでした。

ことしもコロナ以前に比べるとチャンスはやはり多くはありませんでした。それでも友人一家に招待されて食べることができました。

友人は山育ちです。スピエドでもてなしてくれる筆者の友人は、ほとんどが山の暮らしを知っています。

山では古来、鳥類が多く食べられてきました。

先に触れたスピエドの原型がそこから生まれたのです。

山鳥は野うさぎや鹿に始まる獣類よりも圧倒的に数が多く捕獲も容易でした。

今では獣類も鳥類も大幅に数は減りました。それでもやはり両者のうちでは鳥類が多く狩られます。

山に親しい筆者の友人たちは、彼らが苦心して捕獲した貴重な野鳥をスピエドに加えます。

当節は各家のスピエドに使われる本物の野生動物の肉は、狩猟で獲られる鳥類のみ、といっても過言ではありません。

少しの鳥肉が、豊富な豚肉やスペアリブやウサギやジャガイモとともに香ばしく炙られる場合がほとんどなのです。

ことしはレストランなどでも、週末を中心にスピエドを提供する店がかなり目立ちました。

ただレストランの場合は、狩猟で得られる鳥肉がスピエドに加えられることはまずありません。

鳥類は多くが狩猟が禁止になっています。また捕獲が許されている山鳥でも数が少なく、レストランで提供するのは難しい事情があるのです。

レストランなどでは、野生の鳥肉の代わりに市販の鶏肉が調理され提供される、というのが実情です。

それも美味ですが、少量の山鳥の肉が加わる山のスピエドは、野趣に富み格別の味がします。

最近は料理にも興味を持っている筆者は、友人たちに頼んでスピエドの調理法を習得したいと考えています。

しかし複雑でひどく手間のかかる行程に恐れをなして、なかなか手を出せずにいます。

そうはいうものの筆者にとっては、「歴史を食う」というほどの趣を持つ魅力的な料理ですから、いつかじっくりとレシピを勉強して、必ず自分でも作ってみるつもりでいます。

 

 

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安楽死ではなく「安楽生」のみが正義である 

2021年11月、イタリア生命倫理委員会が、安楽死を切望する四肢の麻痺した40歳の男性の自殺(幇助)を認める決定を出しました。

イタリア初の事例です。

イタリアではことし8月、安楽死を法制化するように求める署名運動が75万人余りの賛同を集め、それは間もなく100万人を突破しました。

50万人以上の署名で国民投票が実施されるのがイタリアの決まり。

それを受けて、早ければ来年にも安楽死への賛否を問う国民投票が実施される見込みになっています。

イタリアの世論は歴史的に安楽死に対して強い抵抗感を示します。その最大の理由はカトリックの総本山バチカンの存在。

ローマ・カトリック教会は自殺を強く戒めます。

バチカンにとっては安楽死つまり自殺は、堕胎や避妊などと同様に強いタブーなのです。国民の約8割がカトリック教徒であるイタリアではその影響は大きい。

それにもかかわらず、安楽死を認めるイタリア国民の数は確実に増え続けています。

憲法裁判所は2019年、回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた人々が、自らの明確な自由意志によって安楽死を願う場合には許されることもある、という決定を出しました。

その歴史的な審判は、全身麻痺と絶え間のない苦痛にさいなまれた有名DJが、自殺幇助が叶わないイタリアを出てスイスに渡り、そこで安楽死を遂げたことを受けて示されました。

2017年の出来事です。

そこでも世論が大きく高まって、2年後には憲法裁判所のその決定につながったのです。

司法は続いてイタリア議会に安楽死法案の是非を審議するよう求めましたが、それは遅々として進んできませんでした。

だがイタリアは、署名活動の進展、前述の生命倫理委員会の初の自殺幇助の支持決定など、安楽死を合法化する方向を目指しています。

筆者はその動きを大いに支持します。「死の自己決定権」と安楽死の合法化は、文明社会の条件であり真っ当な在り方、と考えるからです

イタリアでは基本的に安楽死は認められていません。

憲法裁判所の裁定や生命倫理委員会の決定は、今のところは飽くまでも、いわば例外規定なのです。

それがゆるぎない法律となるには国民投票を経なければなりません。

現在は自殺幇助には5年から12年の禁固刑が科されます。

そのため毎年約200人前後ものイタリア国民が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をします。

イタリアの敬虔なカトリック教徒は、既述のように自殺を否定するバチカンの教えに従います。

医者を始めとする医療従事者はもっと従います。なぜなら彼らの至上の命題は救命であり、且つ彼らの多くもカトリック教徒なのですから。

だがそれは許しがたい保守性です。不治の病や耐え難い苦痛に苛まれている患者の煩悶懊悩を助長するだけの、思い上がった行為である可能性さえ高い。

筆者は以前、そのことについて次のように自らの考えを書きました。

同じことをここで彼らに伝えます。

安楽死や尊厳死というものはない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても常に苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。

あるべき生は幸福な生、つまり「安楽生」と、誇りある生つまり「尊厳生」である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳を全うできない生は、つまるところ「安楽生」と「尊厳生」の対極にある状態である。

人は 「安楽生」または「尊厳生」を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。

死がなければ生は完結しない。全ての生は死を包括する。「安楽生」も「尊厳生」も同様である。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければなりません。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきです。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合は、しかし、安楽死は認められるべき、と考えます。

 

 

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ハゲとオッパイ

最近、筆者は急速にハゲてきています。年齢も年齢ですから珍しいことではありませんし、血筋もハゲの系列ですので、さらに大きくハゲることへの覚悟もできています。

それでも、ハゲるのはなんだかイヤだなぁという気分がどうしてもついて回ります。それどころかハゲることが不安のようでもあります。われながらうっとうしいもの思いです。

なぜそうなのか、と考えつづけていたら見えてきたものがあります。

つまり、ハゲは実は女性の問題であり、そう考えてみると、なんとオッパイは実は男性の問題なのではないか、というオソロシイ結論に至りました。

そこで筆者は自分のコワイ発見を、日本のある新聞のコラムに寄稿することにしました。

筆者はこれまで新聞雑誌にも結構記事を書いてきましたが、長く連載を続けているのはそのコラムだけです。つまり筆者とその新聞は、まあまあ強い信頼関係にある、と筆者は考えています。

それにも関わらずその短い記事は、連載開始以来はじめてボツという憂き目を見ました。

記事は次のような内容でした:

ハゲとオッパイ
ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である。
 つまり、男は女のせいでハゲを気にし、女は男のせいでオッパイの大小を気にする。
 僕は男だから100%分かるのだけれども、もしもこの世の中に男しかいなかったなら、男の誰もハゲなんか気にしない。自分のハゲも他人のハゲも。
 たとえば僕は男オンリーの世界でなら、僕の周りの男どもが全員ハゲで、かつ自分が彼らの百倍ハゲていたとしても、まったく気にならないと断言できる。
 世の中の女性が男のハゲを笑い、男のハゲを気にするから、僕ら哀れな男どもはハゲに強烈な恐怖心を抱いている。
 それと同じことがもしかすると女性の側にも言えるのではないか。
 つまり、女性は世の中の男どもが巨乳とかボインとか爆乳とか面白おかしく話題にするから、自分のオッパイの大きさを気にするのではないだろうか。
 もしもこの世の中に女しかいなかったら、自分の胸や他人の胸のデコボコが高いか低いかなんて、全然気にならないのではないか。ハゲは女性の問題であり、オッパイは男性の問題である、とはそういう意味である。
 ところで、男のハゲを気にするのは日本人女性が圧倒的に多い。ここイタリアを含む西洋の女性たちは、男性のハゲをあまり気にしない。
 大人の感覚とも言えるが、欧米人男性が元々毛深くてハゲが多いせいもあるのだろうと思う。女性が男のハゲに寛大だから、西洋の男どもは日本人男性ほどにはハゲを悩みにしていない。
 そんな訳でヤマトナデシコの皆さん、あんまりハゲ、ハゲと僕ら哀れな男どもを笑うのをやめてくれませんか?

記事が掲載拒否になった理由は、ハゲは不快用語で、オッパイという言葉も新聞では使いにくい、というものでした。

ところが実は、まさにハゲが不快用語だからこそ、ほぼハゲである筆者はそれを問題にしました。

つまりハゲと言う言葉に恐怖心を抱いている(不快感をもっている)筆者は、その言葉が無神経に流布している現実への密かな抗議と、また自己防衛の思惑からそのコラムを書きました。

他人にハゲと言われる前に自分で言ってしまえ、というあの心理ですね。

ところが新聞はそこのところを全く無視して、ハゲと言う言葉には読者が不快感を抱きかねないので掲載できない。またオッパイの大小も個性の問題なのであり、これも読者が反発しかねない、という奇妙な論理でボツにしました。

ハゲと言う言葉に不快感を持つ読者とは、つまり「ハゲている読者」のことであり、それらの読者は筆者の同志です。彼らこそまさに、筆者のこのコラムを読みたい人々のはずなのです。

それなのに新聞は、一歩間違えば偽善的とさえ言われかねない自らの考えに固執して、そのことに気づかないように見えます。

またオッパイの大小が女性の個性の一つだというのは、まさにその通りです。

ところが世の中の男どもは、その個性を個性として認めようとはせず、ま、いわば劣情に曇った目で女性の胸を見て、あれこれ品定めをし辱(はずか)しめます。

巨乳よ爆乳よ、とはやし立てるばかりではなく、その逆の大人しい胸を貧乳やペチャパイ、壁やこ(小)っぱいなどと揶揄したりします。

そのことを指摘して、そんなものは男のたわ言であり身勝手な魂胆なのだから、無視して堂々としていた方が良い、というのが最終的には筆者の言いたいところです。

その趣旨は筆者の短い文章の中に十分に示唆されていると考えます。もしもそうでないのなら、それは筆者の文章力の拙さが第一の原因です。

だが、同時にもしかすると、新聞人のあり余るほどの自信と無明がその目を曇らせている、ということもあり得るのではないでしょうか。

 

 

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「不惑」という困惑

筆者から見ると若いアラフォー世代の友人女性が、不惑という言葉を知って少し困惑したような、困惑しなかったような、不思議な気分になった様子の連絡をくれました。

そうした世代の男女の友人を見ていると、40歳という年齢に強い感慨を抱いたり不安を覚えるような言動をするのは、男性に比べて女性の方が多いように感じます。

40歳をあらわす不惑という言葉は、言うまでもなく論語の「40歳(しじゅう)にして惑わず」から来ていて、それは人生、つまり寿命が50年程度だった頃の道徳律、と解釈すれば分かりやすいのですが、正確に言うと少し違うようです。

論語の一節であるその言葉を残した孔子の時代、つまり約2500年前は人間の平均寿命は50年よりもきっと短いものだったと考えられます。人間の平均寿命が50歳ほどになったのは明治時代になってからという説さえあります。人間は長い間短命だったのです。

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しかし2500年前の孔子でさえ72歳まで生きています。また70歳をあらわす古希という言葉もあって、それは周知の如く「70歳は古来、希(まれ)なり」のことです。つまり昔は70歳まで生きる者は「ひどく珍しい」と言われるほどの長生きだったのです。孔子はその希な人間の一人でした。

過去の時代は全て「人生50年」ほどの世の中だった、という日本人の思い込みの多くは実は、織田信長が好んだ敦盛の中の「人間50年 下(化)天のうちを比ぶれば 夢まぼろしのごとくなり~♪」の影響が一番大きいように見えます。

そこで言う人間50年とは平均寿命が50年という意味ではありませんが、人の生命は宇宙の悠久に比べるとあっという間に過ぎず、たとえ50年を生きたとしても宇宙の一日にしか当たらない、まことにはかないものだ、ということですから、拡大解釈をして平均寿命50年の人生、というふうに考えても当たらずとも遠からずというところでしょう。

要するに、今現在の平均寿命である約80歳はさておいても、2500年前の孔子の時代から江戸の頃まで、大ざっぱに言って人間はやっぱり50歳程度が平均寿命だった、と考えてもいいと思うのです。

あるいは人々が願った長生きの目標が50歳程度だった、とか。はたまた、正式な統計があったわけではありませんが、50歳まで生きることができればラッキー、というふうに人々は感じていた、とか。

その伝で行くと、不惑の次の「知命」つまり「50歳にして天命を知る」とは、死期に至った人間が寿命や宿命を知るということになり、さらにその次の「還暦」の60歳は、おまけの命だからもう暦をゼロに戻してやり直すということです。

そんなふうに人間が短命だった頃の70歳なんてほぼ想定外の長生き、希な出来事。だから前述したように古希。

さらに、88歳をあらわす「米寿」という言葉は、88歳なんていう長生きはある筈もないから、八十八をダジャレで組み立てて米という文字を作って「米寿」、というふうにでも決めたんじゃないか、と茶化したくなります。

何が言いたいのかというと、年齢を気にして「年相応に」とか「年甲斐も無く」とか「~才にもなって・・」などなど、人間を年齢でくくって行動や思想や生き方を判断しようとするのは、実に偽善的でつまらないことだと思うのです。

40歳を意味する不惑という言葉にも、精神の呪縛をもたらす東洋的な閉塞感と狭量と抑圧の響きが充満していると思います。少なくとも筆者が好きで住んでいるここ西洋には、全くないとは言いませんが、人を年齢で縛る考え方は多くはありません。

天使と悪魔に囲まれて悩む女性

そういうところも筆者が西洋文化を好きなった一因です。感じるままが年齢だ、という生き方に憧れを抱いている筆者にとっては、年齢をあまり気にしない欧米社会の風通しの良さは心地がよいのです。

40歳でも惑いまくり悩みまくるのが普通の人間であって、それは人生50年の時代でも同じだったはずです。ましてや人生80年の現代、40歳の若さで悟りきって惑わない、つまり「不惑」者がいるとするなら、その人こそまさに「古来希な」大天才か、あるいは重いビョウキか何かなのではないでしょうか。

筆者はもうとっくに還暦も過ぎてしまったオヤジーですが、不惑なんて少しも気にしないまま(惑いまくってそれを気にする暇などないまま)ジーオヤになって、しかもそれが当たり前だと腹から思っている男です。

それどころか、運よく古希を迎えても、さらに喜寿(77歳)を過ぎその先まで生きる喜びがあったとしても、きっと相変わらず惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中に居つづけることでしょう。

いや、きっとそうしていたい。なぜならそれが生きているということであり、悩まなくなった人間はもはや死人と同じだと思うから。

惑い、悩み、葛藤し、妄想して、煩悩の中にいることこそ生きるということであり、生きている限りそれもまたきっと人生を楽しむ、ということなのでしょう。

楽しむ、というのが言い過ぎなら、そうした人生の負の側面でさえ「生きていればこそ」と考えて立ち向かうこと。あるいは積極的に受け入れて肯定すること。つまりそれから目をそらさないこと。

そんな考え方は、言うまでもなく別に筆者の発見ではありません。禅の教えの根本です。いや、分かった風を装ってはなりません。筆者のここまでの浅い知識の範囲で理解している禅の根本です。

そうしてみると、不惑を意識して悩み、不安にかられ、もがいている女性たちは、男などよりも人生を楽しむ術を知っている優れもの、ということにもなるのですが・・

 

 

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息苦しい報道キャスターはどこで見ても息苦しい 

NHKの主だった番組は衛星を介してよく見ています。見過ぎるほど見ていると言ってもいいかもしれません。

筆者はBBCほかの衛星英語チャンネルとイタリアの地上波も見ていますが、両者はニュースとドキュメンタリー、またスポーツ番組以外はほとんど見ません。

一方、日本語の衛星放送は、ニュース、ドラマ、バラエティ、ドキュメンタリー、スポーツなど、あらゆるジャンルの番組をひんぱんに見ています。

番組の録画を容量の大きなUSBメモリーでできるようになったために、より多くの番組を気軽に録画してつい見てしまいます。

筆者がテレビをよく見るのは、自身が番組作りをするテレビ屋で且つテレビ番組が大好きだからです。それに加えて日本語や日本文化への渇望感が行為を後押しします。

かつてはインターネットはおろか、テレビの日本語放送などありませんでした。

その頃は帰国するたびに、大量の本や雑誌を買い込んでイタリアに戻るのが筆者の習いでした。週刊誌などはイタリアにいる時は広告までむさぼるように読んだものです。

本は昔も今も変わらずに読みます。読書は筆者の最大の娯楽です。しかし、日本語のテレビ放送の視聴に費やす時間が増えた分、読書量は減りました。

昨今はそこにインターネットで遊ぶ時間も加わって、読書量がさらに削られることは否めません。

しかし、インターネットではかつて本で得ていた情報も得られますので、その領域の場合は時間的には差し引きゼロというところかもしれません。

役に立たない小説などの読書量が減ったのが少し苦しい。

情報や数字や理屈や経済などを語る本は人間を豊かにしません。知識が増え理屈っぽくなり論難に長けた専門バカ風の人間が出来上がるだけです。

役に立たない小説本ほかの書籍の中にこそ、心を豊かにし情緒を鍛え他者を慮る繊細を伸ばす力が詰まっています。

前置きが長くなりました。

NHKをはじめとするテレビの報道番組のキャスターについて語りたい。

筆者は仕事でもまた視聴者としても、NHKに大きくお世話になっています。NHKのファンです。

ファンであるばかりではなく、世界のテレビ局とも付き合ってきたプロのテレビ屋としても、NHKを高く評価しています。

NHKは報道、ドキュメンタリー、それにドラマ部門で英国のBBCに匹敵します。それらの3部門でBBCに劣るのは、報道における「時の政権」への批判精神だけです。

いや、批判精神はあるのでしょうが、日本の政治また社会風土ゆえに表立ってそれを標榜できず、結局権力に屈するような報道姿勢が垣間見えます。

それでもNHKは日本のメディアの宝です。BBCがイギリスの至宝であるように。

さて報道のうちの、NHKの顔とも言える夜9時のニュースキャスターが最近気になります。今このときで言えば和久田麻由子アナウンサーの身ごなし。

和久田麻由子アナは、美しい顔を皮膚のすぐ下あたりからこわばらせてしゃべる癖があります。

その時は彼女は、ひとりで懸命に深刻になっていて、あたかも世の中を嘆いてみせることがキャスターの役目と弁えてでもいるようです。

聞くところによると彼女は学生時代に演劇を勉強した経験があるそうです。

表情の豊かさはそのあたりから来ているのでしょう。しかし、報道は演技ではありません。彼女はもっと淡々と語り、読み、表現するべき、と思います。

彼女が例えば難民の子どもの苦しい生活や、世界の悲劇や、貧困者の苦難や殺人事件などを報道するとき、まるで世界の悲しみをひとりで背負っているのでもあるかのように眉をひそめ、苦悶の表情をするのは少しうっとうしい。

相方の話に相槌をうちつつ、テレビ目線でこちら(テレビカメラ)に向かって流し目を送るのも、全く最善とは言いがたい。

彼女の意図は分かります。視聴者をリスペクトして視聴者の感興を求めて彼女はカメラに視線を投げています。だがそれは行過ぎた所作です。やはり演技が過ぎるように思うのです。

キャスターが余計な表現をする習慣は、前任の桑子真帆アナウンサーあたりから顕著になりました。

一つ一つのニュースを読み上げた直後に、桑子アナは唇をくいと大げさに引き締めていました。読後に唇がかすかに開くことを戒めているのでしょうが、なんとも不自然な表情でした。

そのスタイルは相方の有馬嘉男キャスターが始めて、桑子アナも真似した印象が強い。むろん有馬キャスターのその仕草も決して見栄えの良いものではありませんでした。

和久田麻由子アナはその習いを受け継いで、さらに悪化させたと筆者の目には映ります。

報道番組のキャスターの態度が見ていてつらいこと以外にも、和久田アナの行状が好ましくないもっと重大な理由があります。

悪いニュースにことさら反応して胸の内を表現するなら、彼女は自分が気にいらないニュースにはいつも眉をひそめたり悲しんだり怒ったりしなければなりません。

さらに例えば、彼女が支持しない政党の候補者が選挙で当選した場合も不快な気分を露わにしなければならない。報道キャスターとしてそれが許されないのは明らかです。

彼女は以前、イタリアのベニスで女性受刑者を追いかけるバラエティドキュメントのリポーターをしたことがあります。

筆者は出ているリポーターが誰なのか全く知らずにその番組を見ていました。その若い女性リポーターからは、性質の素直と思いの深さがあふれ出ていて、美しいほどでした。大分あとになって筆者はそれが和久田麻由子アナだと知りました。

彼女はその分野にふさわしいキャラだと思います。

バラエティ系のドキュメンタリーやソフトニュースなどよりも、定時のニュース番組が格上という暗黙の理解がNHKにはあります。

だから和久田アナも定時番組のキャスターになったことで、必要以上に固まって深刻さをアピールする傾向があるようです。才能豊かな人だけにそれはとても残念です。

和久田アナは報道ではなく、例えば小野文恵アナウンサーのようにバラエティ系番組の中でこそ最も輝くと思います。その方向に行かないのなら、彼女はもっと感情を抑えて報道しニュースを読む努力をすべきです。

和久田アナに似たケースが、イタリアの公共放送RAIでも起きています。

RAIの看板番組である夜8時の女性キャスターの一人も特異な報道をします。

見ていてひどく居心地が悪い。

キャスターの名前はラウラ・キメンティ(Laura Chimenti)。ニュースを読むのに大きく声を張り上げ挑むような調子で進みます。

報道局内でセクハラやパワハラに遭っていて、それを告発したい思いが奇妙な調子になっているのではないか、とさえ筆者などは意地悪く考えたくなります。

その枠にはほかにも3人のメインのキャスターがいます。男性2人と女性1人。

そのうちの女性キャスターはエンマ・ダクイノ(Emma D`aquino) 。彼女は、例えばフランス2の有名キャスター、アンヌ・ソフィー・ラピ(Anne-Sophie Lapix)を彷彿とさせます。

落ち着いた、自然体の 、従って知性味にもあふれた優れたキャスターです。

和久田麻由子アナも、ここイタリアのラウラ・キメンティアナも、エンマ・ダクイノキャスターやアンヌ・ソフィー・ラピキャスターの爪の垢を煎じて飲めとまでは言いませんが、少し見習って出直したほう良い。

この際なのでひとつ余計なことも付け加えておきます。

和久田アナがときどき披露する、思わずのけぞってしまうほどにひどいファッションセンスは、歌手の夏川りみとどっこいどっこいの、どうでもよいことだと笑い、流して見ていられます。

だが、彼女の余計な仕草や思い入れはそうはいきません。時間とともに少なくなっている印象もありますが、ぜひとも改めてほしい。

一人の NHKファンとして切に願います。

もうひとつNHKへの苦言がありますが、長くなるので次に回すことにしました。

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目からサラダでうろこが落ちた話

2021年11月末、寒くなった菜園でなにごともなかったかのように繁茂している、チンゲンサイ、ピーマン、ナス、ルッコラ、春菊、ミックスサラダ菜を収穫しました。

そのうちナスと春菊はほぼ全て穫りこみましたが、ほかの野菜はまだ菜園に残っています。

急速に寒気が深まればたちまち朽ちるでしょうが、いまこのときは十分に青く健やかです。

温暖化の力は全くもって驚異的です。

収穫したチンゲンサイとナス以外の野菜をツナと混ぜて、オリーブ油と醤油で和えて昼食にしました。

サラダをオリーブ油と醤油だけで食するのは、2、3世紀も前のロンドン時代にイタリア人の妻が発明した食べ方です。

当時は生野菜をそんな和え方で食べたことがなかったのでびっくりしました。

若くて腹を空かしていた筆者は、同じように若かった妻の感覚にあきれながらも、食べてみました。

おいしさにふたたびびっくりしました。

それ以来、わが家ではサラダは常にオリーブ油と醤油で和えて食します。

友人知己を招いての食事会でも同じ。

ただし食事会で出すサラダは付け合せですからツナは加えません。新鮮な野菜をオリーブ油と醤油だけで食べます。

評判はいつも上々です。

すでに知っている者は、それが楽しみ、と口にしたりもします。

妻はやはりまだ若かりしころ、茶碗蒸しをラーメン用の丼鉢で作って筆者を仰天させたこともあります。

どうしたのだ、と訊くと、おいしいからたくさん作ったの、と涼しい顔で言います。

ナルホド、と目からうろこが30枚ほど落ちました。

小さな鉢に少なく作るからおいしい、というのは真実ですが心理的です。

おいしいから大きな鉢にたくさん作る、というのは真理であり物理的です。

若くて腹を空かしていた筆者は、妻の物理的な真理に大いに感心しました。

背中に負っている文化が違うもの同志が一つ屋根の下で暮らす。

すると摩擦も起きますが、文化の化学反応も起きて面白かったりもします。

地球温暖化も障害ばかりではなく何か取り柄があってほしいものです。

だがいまのところ分かるのは、菜園で野菜の寿命が伸びるケースもあるというささやかなメリットのみです。

一方では地球そのものが危機に瀕しているのだといいます。

12月に夏野菜が収穫できることを喜んでばかりもいられません。

だからといって菜園に罪があるわけではなく、個人的にはむしろ、温暖化による異常気象を感触できる「装置」としても小さな野菜畑を重宝しています。

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先日の欧州選手権でのイタリアの化けは偽者だったかも、かい?

イタリアは2022年W杯出場権を逃したかもしれません。

W杯欧州予選グループCでスイスに首位を奪われて、激烈な「仁義なき戦い」が繰り広げられるに違いないプレーオフに回ったからです。

しかもそこでは強豪国のポルトガルと激突する可能性が高い。

プレーオフ決勝戦で敗れれば、イタリアは2018年に続いて2大会連続でワールドカップから締め出されることになります。

イタリアは2006年にW杯を制して以降、深刻な不振に陥り、2018年にはW杯ロシア大会への出場権さえ逃しました。

だが同じ年にロベルト・マンチーニ監督が満を持して就任。再生へ向けての治療が開始されました。

治療は成功してイタリアは回復。2021年7月には53年ぶりに欧州選手権を制しました。

イタリアの長い低迷の最大の原因は、違いを演出できるファンタジスタ(ファンタジーに富む創造的なフォーワード)がいないからだ、と筆者はずっと考えそう主張してきました。

だがマンチーニ監督は、ファンジスタが存在しないイタリア代表チームを率いて、見事に欧州選手権で優勝しました。

彼はそれによって、傑出した選手がいないイタリアチームも強いことを証明し、彼自身に付いて回っていた「国際試合に弱い監督」という汚名も晴らしました。

筆者も彼の手腕に魅了されました。

マンチーニ監督がいる限り、再生したイタリア代表チームの好調はしばらく持続する。欧州選手権に続くビッグイベント、2022W杯でも活躍し優勝さえ視野に入ったと考えました。

ところが早くも障害にぶつかりました。楽々と予選を突破をすると見られた戦いで引き分けを繰り返し、ついにはプレーオフに追い込まれたのです。

しかも運の悪いことにそこには、前回の欧州選手権を制したポルトガルも同グループにいます。順当に行けばイタリアとポルトガルは、一つの出場枠を巡って争います。

イタリアは欧州選手権で優勝した後、軽い燃え尽き症候群に陥っています。そのことが影響してCグループでスイスの後塵を拝したと見ることもできます。

プレーオフで強豪のポルトガルが立ちはだかるのは想定外ですが、障害を克服した暁にはイタリアは「逆境に強い伝統」を発揮してW杯で大暴れするかもしれません。

いや、きっと大暴れする、と言えば明らかなポジショントークですが、客観的に見てもその可能性は高そうです。

だが強いポルトガルには世界最強のプレーヤーのひとりであるロナウドがいます。ロナウドはひとりで試合をひっくり返す能力さえある怖い存在です。

イタリアと対峙するときのロナウドは、さらに怖さを増すことが予想されます。

それというのも彼は、3年間所属したイタリアのユヴェントスからお払い箱同然の扱いでトレードに出されました。アッレグリ新監督の意向でした。

過去の実績を頼りに自信過剰になったアッレグリ監督は、ロナウドはその他大勢のユヴェントス選手となんら変わるところはない。全て私の指示に従ってもらう、という趣旨の発言をしました。

「ユヴェントスを勝利に導くのは、一選手に過ぎないロナウドではなく優れた監督であるこの私だ」という思い上がりがぷんぷん匂う空気を察したロナウドは、静かにユヴェントスを去りました。

そうやって英国プレミアリーグに復帰したロナウドは、早速9月の月間MVPに選ばれるなど衰えない力を見せつけています。

一方、ロナウドのいないユヴェントスを率いるアッレグリ監督は絶不調。間もなく解任されそうな体たらくです。

ロナウドはアッレグリ監督への恨みつらみはほとんど口にしていません。だが、いつもよりも激しい闘志を燃やしてイタリア戦に臨みそうです。だから怖い。

それでもイタリアが、ロナウドのポルトガルを退けてW杯本戦に乗り込んんだ場合には、イタリアのほうこそ怖い存在になるでしょう。

そしてその後、W杯本戦をイタリアが「強いのか弱いのかよく分からない」じれったい調子で勝ち進むなら、イタリアの5度目のW杯制覇も夢ではなくなります。

イタリアはヨタヨタとよろめきながら勝ち進むときに真の強さを発揮します。

それが魅力の、実に不思議なチームなのです。

 

 

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イタリアは独裁者カダフィの亡霊を無視できない

2011年、アラブの春の騒乱の中で殺害されたリビアの独裁者ムアマー・カダフィ大佐の息子セイフイスラム氏が、12月の大統領選挙への立候補を表明しました。

セイフイスラム氏はカダフィ大佐の次男。かつては独裁者の父親の最も有力な後継者と見なされていました。

そして彼は父親から権力を移譲された暁には、欧米民主主義世界と親和的な立場を取るだろうとも期待されていました。

それというのも彼がロンドンの著名大学ISE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカル・サイエンス )で学び、英語にも堪能だからです。

欧米のメディアは時として、独裁者の子弟やその対立者が欧米で学んだ場合、彼らが民主主義に洗脳されて帰国後に同地に善政や徳をもたらすと単純に考えることがあります。

例えば先年死去したジンバブエのムガベ大統領やシリアのアサド大統領夫妻などがその典型です。

だがムガベ大統領は英国から帰国後にジンバブエに圧政を敷きました。同じく英国で眼科を学んだアサド大統領は、シリアを牛耳って民衆を苦しめ殺害し続けています。

またアサド大統領の妻アスマ氏は、一時期は欧米メディアに「砂漠のバラ」「中東のダイアナ妃」などと持ち上げられましたが、後には夫に負けるとも劣らない民衆の敵であることが暴露されました。

欧米のメディアは、ロンドン大学の一角を成すISEに留学したセイフイスラム・カダフィ氏にも過剰な期待を寄せました。だが前述のように彼も民衆を弾圧する暴君であると明らかになりました。

セイフイスラム氏は、2011年のリビア内戦で父親が殺害されたことを受けて逃亡を余儀なくされました。

また同年には父親に寄り添って民衆を弾圧したことに対して、ICC(国際刑事裁判所)が「リビア国民への人道に対する罪」で彼に逮捕状を出しました。

逃亡したセイフイスラム氏は、砂漠で反政府軍につかまり裁判で死刑を宣告されました。しかし2017年には釈放されました。理由は判然としません。

セイフイスラム氏以外のカダフィ大佐の家族も殺害されたり国外に逃亡したりしましたが、その際彼の妻と息子らは国庫から莫大な富を盗み出したと見られています。

その富は、カダフィ大佐が40年以上に渡ってリビアの石油を売っては着服し続けた莫大な資金と重なって、さらに膨らんで天文学的な数字になるとされます。

だがカダフィ政権が崩壊して後のこれまでの10年間で、秘匿された金がリビア国民に返還されたことは一切ありません。

セイフイスラム氏は、政治的な動きが特徴的な存在で、家族とは別行動を取っています。だが、何らかの方法でリビアから盗み出された金を流用しているとも信じられています。

彼は自国民を虐殺しリビア国民の財産も盗んだ無頼漢ですが、10年の逃亡生活を経てあたかも何事もなかったかのように表舞台に登場しました。

リビアは2011年以来、ほぼ常に内戦状態にあります。独裁者のカダフィはいなくなったものの混乱が続いて、独裁にも劣らない非道な政治がまかり通っているのです。

セイフイスラム・カダフィ氏はその混乱に乗じて大統領選挙に立候補しました。もしも彼が当選するようなことがあれば、リビアの民衆は2重3重にカダフィ一族の横暴にさらされることになるでしょう。

リビアの政治状況はここイタリアに影響をもたらします。リビアがかつてイタリアの植民地だったからです。イタリアには同国への負い目があります。

イタリアはドイツと同じように過去を清算し、謝罪し、リビアとも良好な関係を築いています。日本のように歴史修正主義者らが過去を否定しようと騒ぐこともありません。

だがリビアは近年、地中海を介してヨーロッパに渡ろうとするアフリカや中東などの難民・移民の中継地となっています。リビアと親しいイタリアが目と鼻の先にあるからです。

イタリアはリビアと連携して不法な難民・移民の流入を阻止しようと努めていますが、リビアの政治状況が不安定なために中々思い通りには進みません。

世界はトランプ米大統領の登場やBrexit、また欧州大陸に台頭する極右など、風雲急を告げる状況が続いています。

そこにコロナパンデミックが起きて、国際社会はますます分断され混迷の度を深めて憎悪と不信と不安がうずまいています。

消息不明の闇の中からふいに姿をあらわして、リビアの大統領選挙に立候補したセイフイスラム氏は、混乱する世界のもうひとつの象徴に見えて不気味でさえあります。

同時にイタリアにとっては彼は、隣国でかつての植民地であるリビアが、一体どこに向かうのかを示唆しあまつさえイタリアの国益にも大きく影響しかねない、極めて現実的な存在なのです。

 

 

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ワクチン過激派に変貌したオーストリアの真向勝負

11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしたオーストリアは、22日からは対象を拡大して全国民の移動を禁止する完全ロックダウンに入る、と発表しました。

オーストリア政府は、およそ200万人のワクチン拒否者の国民をロックダウンするだけでは感染爆発を抑えられない、と判断したのです。

また来年2月からは12歳以上の住民全員へのワクチン接種を義務づける方針も発表しました。

実行されれば、欧州では初めての措置となります。

欧州を襲っている第4波は、東欧各国と隣接するオーストリア、またドイツ等を大きく巻き込んで急拡大しています。

中でも人口が900万人に満たない小国オーストリアは、1日当たりの感染者数が1万人を超えて、医療危機を含む深刻な事態に陥っています。

そこで反ワクチン人口のロックダウンを断行し、それだけでは飽き足らずに完全ロックダウンに踏み切り、果てはワクチン接種の義務化さえ強行する計画です。

イタリアのお株を奪う「初物づくし」の厳格なコロナ感染防止施策のオンパレードです。

2020年、コロナの感染爆発と医療崩壊に見舞われたイタリアは、世界初の全土ロックダウンを敢行しました。前代未聞のアクションでした。

イタリアはその後も世界初や欧州初という枕詞がつくコロナ対策を次々に打ち出しました。ワクチンの接種率も欧州のトップクラスです。

おかげでイタリアの感染拡大は比較的に小規模で推移してきました。

しかし隣国のオーストリアは、これまでのワクチン接種率が65%に留まり、急激な感染拡大に襲われています。

オーストリアはそれを踏まえて過激な措置を連発しているのです。

ところがオーストリアの苦境は、その北隣の大国ドイツにも伝播しつつあります。

そればかりではありません。

過酷な全土ロックダウン以降も厳格なコロナ対策を取り続けて、困苦をなんとかしのいできた南隣の大国、ここイタリアにも波及しようとしています。

イタリアを含む欧州各国は、今このときに厳格なコロナ対策を導入して感染を減らし、少しでも平穏なクリスマスを迎えたいと画策しています。

平穏なクリスマスは、旺盛なクリスマス商戦と経済興隆を呼び込みます。

その意味でも万難を排して感染拡大を阻止したいのです。

しかしその思惑は、ワクチンを無体に拒み続ける人々の存在によって阻害される可能性が高い。

そこで各国政府は、国民の分断をさらに深めかねないことを承知で、反ワクチン人口の封鎖やワクチン接種を義務化して危機を乗り切ろうとしています。

それが功を奏するかどうかは、ワクチン接種をためらう人々のうちの一定数が翻意して、接種会場に向かうか否かにかかっています。

ワクチンの接種を義務化しても、彼らの家に押しかけたり引きずり回したりして注射を打つわけにはいきません。

中国や北朝鮮などに始まる、世界のならず者国家なら朝飯前でしょうが。

結局、彼らを説得する以外には道はないように見えます。

それでも敢えて反ワクチン派の住民をターゲットに厳しい措置を取らなければならないところに、コロナ対策の険しさがあります。

オーストリアは欧州各国に先駆けて敢えて過酷な選択をしました。筆者はその決断を支持し施策の成功を腹から祈ります。

 

 

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反ワクチン論者は自らを「自らの自由意志」で自由にロックダウンすれば良い

オーストリアはコロナ感染急拡大を受けて、2021年11月15日からワクチン未接種者をロックダウンしています。

事実上国民の4分の一強が対象となります。オーストリアではワクチン接種対象の国民のほぼ3分の一が接種を拒否しています。

言葉を変えれば、反ワクチン派の住民を外出禁止措置にした時点で、同国のワクチン接種率は65%程度。EU加盟国内では最低水準の接種率です。

ロックダウンによって彼らは仕事や食料品の買出し以外には外出できません。警察は抜き打ち検査で違反者を洗い出します。

違反すると最高1450ユーロ(19万円弱)の罰金を科される可能性があります。

オーストリアの隣国、ここイタリアのコロナ感染者もじわじわと増えて、11月17日の感染者数は1万人を超えました。ことし5月以来となる高水準です。

ドイツの1日あたり5万人超よりは状況はましですが、感染は拡大の一途をたどっています。

感染した者の多くがワクチン未接種者です。

また集中治療室に運ばれた患者のおよそ8割もワクチンを接種していない者です。

ワクチン拒否者は自主ロックダウンに入るべきでしょうが、そんな良識を彼らに求めても恐らく無理でしょう。

ですのでイタリアもオーストリアに倣って、彼らへの封鎖を強制するべき時期に来ているのかもしれません。

欧州では感染対策の厳しい措置は、これまでほとんどの場合はイタリアが先鞭をつけてきました。

2020年2月、イタリアは孤立無援のままコロナ地獄に陥りました。そこには見習うべき規範が何もありませんでした。

イタリアは暗中模索で世界初の全土ロックダウンを敢行しました。

イタリアはその後も医療従事者へのワクチン接種義務、娯楽施設でのグリーンパス提示義務、全労働者へのグリーンパスの提示義務など、世界初や欧州初という枕詞がつく過酷な施策を次々に導入しました。

それは割合にうまく運んで、ロックダウンを含むいくつかの施策は、欧州ほか世界の国々にも模倣されました。

現在の感染拡大は欧州では第4波に当たります。その兆しが見えるとすぐに、イタリアではワクチン接種の義務化や、ワクチン未接種者へのロックダウンを敢行するべきという声も起こりました。

だが、それらは実現されずに来ました。ここまでに繰り出された厳格な施策が功を奏して、感染拡大が比較的ゆるやかだったからです。

その一方で、ドイツやオーストリアまた東欧諸国では感染が急拡大しました。原因はワクチン接種率の低さだと見られています。

そして先日、冒頭で触れたように、オーストリアがついにワクチン拒否者にロックダウンを強制することになりました。

ドイツも東欧各国もオーストリアに続く可能性があります。

イタリアもクリスマスを前に反ワクチン人口に外出規制をかけるかもしれません。

ワクチン接種が自発的な選択で成されなければならないのは、民主主義世界では自明のことです。

誰も個人の自由や権利を冒すことはできないし冒してもなりません。

それでもワクチン拒否を押し通す人々のせいで感染拡大が続くならば、政府は国民の健康を守るためにそれらの人々に外出禁止などの強い枷を掛けるでしょう。

緊急事態ですからその措置は許されるべき、と筆者も考えます。

個人の自由を盾にワクチンの接種を拒絶している人々は、イタリア政府に強制される前に、自らの「自由意志」でロックダウンを導入してはどうでしょうか。

そうしなければ感染拡大が繰り返され、社会全体の行動の自由が引き続き制限される可能性が高くなります。

「自らの自由は守るが他者全体の自由はどうにでもなれ」という態度では、他者の世論全体にはなかなか理解されません。

反ワクチン派の人々はそろそろそのことに気づくべきです。

 

 

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