白鵬は文明を忘れて早く日本人になったほうが良い

おどろき

NHKスペシャル「横綱 白鵬 “孤独”の14年」というドキュメンタリー番組を見ました。不可解な部分と妙に納得できる部分が交錯して、いかにも「異様な横綱」に相応しい内容だと感じました。

2007年に22歳の若さで横綱になった白鵬は、心技体の充溢したような強い美しい相撲で勝ち続けました。

途方もない力量を持つ白鵬の相撲が乱れ出したのは30歳を過ぎた頃からだ、とNHKスペシャルのナレーションは説明しました。

加齢による力の衰えと、“日本人に愛されていない”という悩みが彼の相撲の劣化を招いた、というのです。

加齢は分かりますが、白鵬には「日本人に愛されていないという悩みがあった」という分析は、新鮮過ぎて少しめまいがしたほどでした。

筆者は引退前5~6年間の白鵬の動きにずっと違和感を抱いてきました。それは30歳を過ぎてから白鵬の相撲が乱れ始めた、という番組の見方とほぼ一致しています。

だが筆者は白鵬の変化を、彼の思い上がりがもたらしたものと考えてきました。一方NHKスペシャルは、彼の力の衰えと日本人に愛されたいといういわば「コンプレックス」が乱れの原因と主張するのです。

大横綱の光と影

白鵬は2020年にコロナパンデミックが起きる前までは、荒っぽい取り口も多いものの常に力強い相撲を取っていると筆者は感じていました。

今の時代、アスリートの力の衰えを30歳で見出すのは中々むつかしい。20歳代後半から30歳前後がプロ選手の最盛期というイメージさえあります。

一方で取り組み前や取り組み後の彼の所作は見苦しかった。鼻や口を歪めてしきりに示威行為を繰り返し、仕切り時間一杯になるとタオルを放り投げたりします。

取り組みで相手を倒すとダメ押し気味に殴る仕草をする。ガッツポーズは当たり前で腕を振り肩をいからせてドヤ顔を作る。威嚇する。

仕上げには賞金をわしづかみにして拝跪し、それだけでは飽き足らずに振り回し振りかぶる。日本人には中々真似のできないそれらの動きは品下って見えました。

見苦しい所作は、時間が経つにつれて増えていきました。だが20歳代までの白鵬は、冒頭で触れたように心技体の充実した模範的な横綱に見えていました。

事実、横綱になって3年後の2010年には、彼の優勝を祝して館内に自然に白鵬コールが起こるほどに彼は尊敬され愛され賞賛されていました。後に目立つようになる醜い所作も当時はほとんど見られませんでした。

功績

彼は優勝を重ね、全勝優勝の回数を増やし、双葉山に次ぐ連勝記録を打ち立て、北の湖、千代の富士の優勝回数を上回る記録を作りました。そしてついには大鵬の優勝回数を超えてさらに大きく引き離しました。

次々に記録を破り大記録を打ちたてながら、彼は相撲協会を襲った不祥事にも見事に対応しました。賭博事件と八百長問題で存続さえ危ぶまれた相撲協会をほぼひとりで支えました。

名実ともに大横綱の歩みを続けるように見えた白鵬はしかし、日馬富士、鶴竜、稀勢の里の3横綱の台頭そして引退を見届けながら徐々に荒れた相撲を取るようになりました。同時に取り組み前後の所作も格段に見苦しくなって行きます。

筆者は彼の取り口ではなく、土俵上の彼の行儀の悪さを基に、白鵬は横綱としての品格に欠けると判断し、そう発言してきました。

白鵬が次第に品下っていったのは、彼の思い上がりがなせる技で、誰かが正せば直ると筆者は信じていました。しかし一向に矯正されませんでした。そして彼はついに、筆者に言わせれば「晩節を汚したまま」引退しました。

だがNHKスペシャルは、白鵬の所作ではなく「取り口」が乱れたのだと力説しました。それは横綱審議委員会と同じ見方です。

つまりどっしりと受けてたつ「横綱相撲」ではなく、張り手やかち上げを多用する立会いが醜い、とNHKスペシャルも横綱審議委員会も主張するのです。

それは筆者の意見とは異なります。筆者は以前にブログで次のように書きました

強い横綱は張り手やかち上げなどの喧嘩ワザはできれば使わないほうが品格がある、というのは相撲文化にかんがみて、大いに納得できることである。
だが僕は、白鵬の問題は相撲のルール上許されている張り手やかち上げの乱発ではなく、土俵上のたしなみのない所作の数々や、唯我独尊の心を隠し切れない稚拙な言行にこそあると思う。
白鵬が張り手やかち上げを繰り出して来るときには、彼の脇が空くということである。ならば相手はそこを利して差し手をねじ込むなどの戦略を考えるべきだ。
あるいは白鵬に対抗して、こちらも張り手やかち上げをぶちかますくらいの気概を持って立ち合いに臨むべきだ。
白鵬の相手がそれをしないのは、張り手やかち上げが相手を殴るのと同様の喧嘩ワザだから、「横綱に失礼」という強いためらいがあるからだ。
白鵬自身はそれらの技が相撲規則で認められているから使う、とそこかしこで言明している。横綱の品格にふさわしくないかもしれないが、彼の主張の方が正しいと僕は思う。
それらのワザが大相撲の格式に合わないのならば、さっさと禁じ手にしてしまえばいいのである。
要するに何が言いたいのかというと、横綱審議委員会は白鵬の相撲の戦法を問題にするなら、対戦相手の対抗法も問題にするべき、ということだ。
張り手やかち上げは威力のある手法だが、それを使うことによるリスクも伴う。白鵬はそのリスクを冒しながらワザを繰り出している。
対戦相手は白鵬のそのリスク、つまり脇が空きやすいという弱点を突かないから負けるのだ。横綱審議委員会はそこでは白鵬の品格よりも対戦相手の怠慢を問題にしたほうがいい。
もう一度言う。横綱としての白鵬の不体裁は相撲テクニックにあるのではなく、相撲規則に載っていない種々の言動の見苦しさの中にこそあるのだ。

晩節を汚した立ち合い

そんな具合に筆者は横審ともNスペともちょっと違う意見を持っています。だが、自分の見解が果たして妥当なものであるかどうかの確信はありません。それというのも白鵬は、彼の最後の土俵となったことしの名古屋場所で、またしても驚きの動きをしたからです。

全勝で迎えた7月場所の14日目、白鵬は時間いっぱいの仕切りで、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いの構えに入りました。館内がどよめき対戦相手の正代は面食らって立ちすくみました。

NHK解説者の北の富士さんが「正気の沙汰とは思えない」と評価した立ち合いです。正代は訳がわからないままに立ち、白鵬は例によって張り手を交えた戦法でショックから立ち直れない正代を下しました。

異様な相撲はそこでは終りませんでした。白鵬は翌日の千秋楽でも大関の照ノ富士を相手に、殴打あるいは鉄拳にさえ見える張り手を何発も繰り出して、相手の意表をつき小手投げで勝ちました。45回目のしかも全勝での優勝の瞬間でした。

白鵬は正代との一戦を「散々考え抜いた末に、彼にはどうやっても勝てないと感じたので、立ち合いを“当たらない”で行こうと決めた」とインタビューで語りました。

立ち合いを当たらないとは、要するに変化する、逃げる、などと同じ卑怯な注文相撲のことです。

だが何が何でも勝ちに行く、という白鵬の姿勢は責められるべきものではありません。相撲でも勝つことは重要です。また、仕切り線から遠い俵際まで下がって立ち合いに臨むのも、反則ではありません。かち上げや張り手が禁じ手ではないように。

それどころか仕切り線から遠くはなれて俵際から立ち合うという形は、ある意味では誰も思いつかなかった斬新な戦法です。ましてや横綱がそれをやるなどとは誰も考えないでしょう。

文化と文明の相克

白鵬の張り手やかち上げを「まともな戦法」と主張する筆者は、正代戦での彼の立ち合いもまっとうな戦術の一つ、と認めて庇護しなければなりません。だが、全くそんな気分にはなれません。

その立ち合いと、立ち合いに続く戦いは、白鵬の土俵上の所作や土俵外での言動に勝るとも劣らない醜さだと筆者は感じました。

白鵬の戦法は理屈では理解できます。しかし筆者の感情が受け入れません。そしてこの感情の部分こそが、つまり、「文化」なのです。

勝つことが全て、という白鵬の立場は普遍的です。相撲は勝負であり格闘技ですから勝つことが正義です。それはモンゴル人も、ヨーロッパ人も、アフリカ人も、われわれ日本人も、要するに誰もが理解しています。

誰もが理解できるコンセプトとはつまり文明のことです。白鵬の立ち位置は文明に拠っているためにいかにも正当に見えます。だが筆者を含む多くの日本人はそこに違和感を持ちます。われわれにの中には文明と共に日本文化が息づいているからです。

その日本文化が、大相撲はただ勝てば良いというものではない、とわれわれに告げるのです。

文化は文明とは違って特殊なものです。日本人やモンゴル人やイタリア人やスーダン人など、あらゆる国や地域に息づいている独特の知性や感性が文化です。そして文化は多くの場合は閉鎖的で、それぞれの文化圏以外の人間には理解不可能なことも珍しくありません。

普遍性が命である文明とは対照的に、特殊性が文化の核心なのです。従って文化は、その文化の中で生まれ育っていない場合には、懸命に努力をし謙虚に学び続けない限り決して理解できず、理解できないから身につくこともありません。

相撲は格闘技で勝負ごとだから何をしても勝つことが重要、という明晰な文明は正論です。だがそれに加えて「慎みを持て」という漠たる要求をするのが文化なのです。日本文化全体の底流にあるそのコンセプトは、大相撲ではさらに強い。

文明のみを追い求める白鵬は、そのことに気づき克服しない限り決して横綱の品格は得られません。さらに言えば白鵬の場合、気づいてはいるものの克服する十分な努力をしていない、というふうにも見えます

驚きの“日本人に愛されたい症候群”

しかしながら白鵬の在り方のうちで最もよく分からないのは、彼が「日本人に愛されたいという強い願望を持っている」というNHKスペシャルの指摘です。

番組によると白鵬は、日本人に愛されたいと願っていて、それが叶わないために屈折しコンプレックスとなりプレッシャーになって相撲が乱れたのだといいます。

そうした白鵬の思い込みは、日本人横綱である稀勢の里との対戦の際に、観客が日本人である稀勢の里のみを応援して自分を軽んじている、という見方を彼にもたらしました。

彼はさまざまな場面でそんなひけ目や葛藤また孤独感を抱いて相撲ファンを恨み、それに沿った言動をして日本社会から隔絶していきました。

それらが事実なら、反動で白鵬は2017年、優勝インタビューにかこつけて万歳三唱を観客に要請し、2019年には3本締めを強制したりして顰蹙を買い、さらに溝を深めていった、という分析も可能です。

筆者は白鵬の土俵上の所作とともに万歳三唱や3本締めを冷ややかに見てきました。あまり利口なやり方ではない、と苦笑する思いでいました。従ってそのことに批判的らしい番組の方向性に納得しました。

しかしその原因が、いわば「日本人に愛されたい症候群」によるとは思いもよりませんでした。

日本人に愛されたい願望がある、とは日本人に嫌われているということです。少なくとも白鵬自身はそう感じているということです。

それはもしかすると、日本人の中にある執拗な人種差別あるいは排外感情を、白鵬が感じ続けているということなのかもしれません。

大相撲に絡んだ人種差別は、小錦騒動などでも明らかでした。しかしモンゴル人の鶴竜が横綱に昇進した時点で、人種差別は克服されたと筆者は書きました。

白鵬はバナナ日本人など恐れなくていい

そうはいうものの、圧倒的な強さを誇った白鵬が、人種差別的な苦悩を抱えている、という意識とともに最後の優勝シーンを思い返してみると、ちょっとつらい気持ちになりました。

名古屋場所の千秋楽に白鵬は家族を招待していました。彼が優勝を遂げた瞬間、奥さんと子供たちは嬉し泣きをしました。筆者はそれを、膝の怪我を克服して復活した白鵬を家族が喜び称える姿、と信じて疑いませんでした。だがそこに人種差別的な要素が加わるとひどく違うシーンに見えてきます。

白鵬の「日本人の奥さん」と「日本人の子供たち」は、理不尽な差別を受ける夫また父親が、重圧を跳ね返してまた優勝を遂げたことを祝い、賞賛し、誇る気持ちから喜びの涙にくれた、とも考えられるのです。

では向かうところ敵なしの強さと、存在感を示し続けた白鵬を否定しようとする勢力とは、いったい何でしょう。

それはおそらく、日本人であるということ以外には何も誇るものを持たない「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」、あるいは皮膚は黄色いのに中身が白人のつもりのバナナ市民、つまり「国粋トランプ主義者」あたりではないいでしょうか。

それらの下種な勢力は、モンゴル人だからという理由で白鵬を貶めようとすることも十分考えられます。

だが先に触れたように白鵬は、2007年に横綱に昇進して以降力強く美しい相撲で快進撃を続け、野球賭博や八百長問題で存続の危機にまでさらされた大相撲を救った立役者です。

その意味では日本人以上に日本の最重要な伝統文化の一つを守った男なのです。白鵬がもしもバナナ国民の中傷や攻撃を受けていたのなら、怖れることなく告発をするべきです。

日本の国際的な評判を貶めるだけの反日・亡国の輩、すなわち「ネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者」あるいは「国粋バナナ・トランプ主義者」等々を怖れる必要などまったくありません。

 

 

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秋言葉を持たないイタリアの秋も美しい

秋の日はつるべ落としと言いますが、ここ北イタリアでは秋そのものがつるべ落としに素早くやって来て、あっという間に過ぎ去ります。印象としては夏が突然冬になります。日本の平均よりも冬が長く厳しい北イタリアですが、短い秋はそれなりに美しく、風情豊かに時間が流れて行きます。

ところが、イタリア語には、枯れ葉、病葉 (わくらば)、紅葉、落葉、朽ち葉、落ち葉、木の葉しぐれ、黄葉、木の葉ごろも、もみじ・・など、など、というたおやかな秋の言葉はありません。枯れ葉は「フォーリア・モルタ」つまり英語の「デッド・リーフ」と同じく「死んだ葉」と表現します。

少し優美に言おうと思えば「乾いた葉(フォーリア・セッカ)」という言い方もイタリア語には無いではありません。また英語にも「Withered Leaves(ウイザード・リーブ)」、つまり「しおれ葉」という言葉もあります。だが、筆者が知る限りでは、どちらの言語でも理知の勝った「死に葉」という言い方が基本であり普通です。

言葉が貧しいと いうことは、それを愛でる心がないということです。彼らにとっては枯れ葉は命を終えたただの死葉にすぎません。そこに美やはかなさや陰影を感じて心を揺り動かされたりはしないのです。紅葉がきれいだと知ってはいても、そこに特別の思い入れをすることはなく、当然テレビなどのメディアが紅葉の進展を逐一報道するようなこともあり得ません。

前述したように夏がいきなり冬になるような季節変化が特長的な北部イタリアでは、秋が極端に短い。おそらくそのこととも関係があると思いますが、この国の人々は木の葉の色づき具合に日本人のように繊細に反応することはありません。ただイタリア人の名誉にために言っておきますと、それは西洋人社会全般にあてはまるメンタリティーであって、この国の人々が特別に鈍感なわけではありません。

それと似たことは食べ物でもあります。たとえば英語では、魚類と貝類をひとまとめにして「フィッシュ」、つまり「魚」と言う場合があります。といいますか、魚介類をまとめてフィッシュと呼ぶことは珍しくありません。Seafood(シーフード)という言葉もありますが、日常会話の中ではやはりフィッシュと短く言ってしまうことも多いように思います。

イタリア語もそれに近い。だが、もしも日本語で、たとえひとまとめにしたとしても、貝やタコを「魚」と呼んだら気がふれたと思われるでしょう。

もっと言うと、そこでの「フッィッシュ」は海産物の一切を含むフィッシュですから、昆布やわかめなどの海藻も含むことになります。もっとも欧米人が海藻を食べることは、かつてはほとんどありませんでしたが-。タコさえも海の悪魔と呼んで口にしなかった英語圏の人々は、魚介類に疎いところが結構あるのです。

イタリアやフランスなどのラテン人は、英語圏の人々よりも多く魚介に親しんでいます。しかし、日本人に比べたら彼らでさえ、魚介を食べる頻度はやはりぐんと落ちます。また、ラテン人でもナマコなどは食べ物とは考えませんし、海藻もそうです。もっとも最近は日本食ブームで、刺身と共に海藻にも人気が出てきてはいます。
 
多彩な言葉や表現の背景には、その事象に対する人々の思いの深さや愛着や文化があります。秋の紅葉を愛で、水産物を「海の幸」と呼んで強く親しんでいる日本人は、当然それに対する多様な表現を生み出しました。
 
もちろん西洋には西洋人の思い入れがあります。たとえば肉に関する彼らの親しみや理解は、われわれのそれをはるかに凌駕します。イタリアに限って言えば、パスタなどにも日本人には考えられない彼らの深い思いや豊かな情感があり、従ってそれに見合った多彩な言葉やレトリックがあるのは言うまでもありません。

さらに言えば、近代社会の大本を作っている科学全般や思想哲学などにまつわる心情は、われわれよりも西洋人の方がはるかに濃密であるのは論を俟たないところです。心情が濃密であるとは、言葉が豊かで深く広いということにほかなりません。その部分では日本語は未だ欧米語の後塵を拝しているとも言えるかもしれません。

 

 

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イタリア政府がかけた罠

ワクチンパスポートあるいはグリーンパス(ワクチン接種証明書ほか)に仕掛けたイタリア政府の小さな術策はどうやら成功したようです。

イタリアでは10月15日から全ての労働者にグリーンパスの携帯が義務付けられました。

統計ではイタリア国民のおよそ3分の2がその措置に賛成していますが、断固反対の人々もいて暴力沙汰を含む抗議デモが繰り返されました。

反ワクチン過激派の反対運動は今も続いています。だが、急ぎワクチンを接種したり、グリーンパスをダウンロードする国民が15日以降急増しました。

10月15日は金曜日でした。

イタリア政府がわざわざ週末を期して法を施行したのは、人々が月曜日からの仕事に備えて週末にワクチンを接種をし、グリーンパスを手に入れようと急ぐに違いない、と計算したからでしょう。

その思惑は当たって、金曜日だけでも86万7千あまりのグリーンパスがダウンロードされました。土、日にもその傾向は続き、18日の月曜日は1日あたりの過去最高となる104万9千384件のパスが発行された。

駆け込みでグリーンパスを取得した人々の全員がワクチン接種を受けたのではありません。グリーンパスはワクチン接種を受けた者と、感染し回復した者、直近の検査が陰性だった者に発行されるからです。

とはいうものの、ワクチンの接種に踏み切った人は多い。それでなければ数日毎に「自費で」PCR検査を受け続けなければなりませんから負担が重いのです。

ワクチン接種が自発的な選択で成されなければならないのは、民主主義世界では自明のことです。誰も個人の自由や権利を冒すことはできないし冒してもならない。

それは例えば、ことし1月に出された 欧州評議会決議2361の「ワクチン接種は義務ではない。ワクチン接種を受けたくない者に、政治的、社会的、その他の圧力をかけてはならない。またワクチン接種を受けたくない者を差別してはならない」という勧告にも明らかです。

それ以前にも、ワクチン接種に限らず、「医学研究への参加は、自発的な行為でなければならない」とするヘルシンキ宣言や、「人は誰でも自己の身体を尊重する権利がある。人の身体は不可侵である」と謳うフランス民法など、医療にまつわる個人の自由を守る法や宣言は多くあります。

新型コロナワクチンの接種に対しても、そうした事例また判例は適応されるべき、という考え方もあります。しかし新型コロナは社会全体が危険にさらされる緊急事態です。個人の自由を優先させれば社会全体の不都合や危機に直結する可能性が高い。

イタリア政府の措置はその考えに基づいた険しい動きです。それは昨年2月、イタリアで始まった未曾有のコロナ危機と、それに続いた前代未聞の全土ロックダウンを意識しての政策です。

イタリアは全土ロックダウンのあとも、医療従事者へのワクチン接種義務、娯楽施設でのグリーンパス提示義務、そして今回の全労働者へのグリーンパスの提示義務など、世界初や欧州初という枕詞がつく過酷な施策を次々に導入してきました。

全労働者へのグリーンパスの提示義務には、ワクチン接種をさらに加速させようという大きな狙いがあります。イタリアは経済的にも社会的にも再びの全土ロックダウンには耐えられない、とドラギ政権は考えています。それは恐らく正しい。

筆者もその考えを支持します。だが行政はワクチンを拒否する人々を排除するのではなく、彼らを説得する道筋を辿って不安と不満を取り除く努力をするべきです。

イタリア共和国は将来の過酷な全土封鎖に耐える体力はもはやなく、国民の大半もそれを避けたい。同時に極右の政治勢力ではない反ワクチン派の人々にとっては、グリーンパスの強制はロックダウンにも匹敵する苦痛であることは、常に意識されるべきと考えます。

 

 



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イタリア式新聞意匠のエスプリ

先頃、ミラノに本拠を置くイタリア随一の新聞Corriera della seraから筆者を取材したいという連絡がありました。ここしばらく遠い昔にアメリカで賞をもらったドキュメンタリーが蒸し返されることが続いたので、またそのことかと思いました。少しうんざりした、というのが本音でした。

ところが古い作品の話ではなく、イタリア・ロンバルディア州のブレシャ県内に住むプロフェッショナルの外国人を紹介するコーナーがあり、そこで筆者を紹介したい、と記者は電話口で言いました。断る理由もないので取材を受けました。

そうは言うものの、あえて今取材依頼が来たのは、やはり昔の受賞作品が見返されたことがきっかけだということは、記者の関心の在所や質問内容で分かりました。しかしそれは不快なものではありませんでした。記者の人柄が筆者の気持ちをそう導きました。

発行された新聞を見て少しおどろきました。丸々1ページを使ってかつ何枚もの写真と共に、筆者のことが紹介されていました。過去に新聞に取材をされたことはありますが、1ページいっぱいに書かれた経験など皆無です。

アメリカで賞をもらったときでさえ、もっとも大きく書かれたのは日本の地方新聞。写真付きで紙面の4分の一ほどのスペースでした。全国紙にも多く紹介されましたが、本人への直接の取材はあまりなく、筆者の名前と受賞の事実を記しただけのベタ記事がほとんどでした。

それなものですから、1ページ全てを使った報道に目をみはりました。下の絵です。

イタリアの新聞には顔写真が実に多く載ります。それは自我意識の発達した西洋の新聞ということに加えて、人が、それも特に「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響しています。彼らは人の個性に強くひきつけられます。そして個性と、個性が紡ぎだす物語は顔に表出される、と彼らは考えています。

記事の文章は顔に表出された物語をなぞります。だが文章は、顔写真という“絵”あるいは“映像”よりももどかしい表現法です。絵や映像は知識がなくても解像し理解できますが、文章はどう足掻いても文字という最低限の知識がなければ全くなにも理解できません。

直截的な表現を好むイタリアの国民性は、彼らのスペクタクル好きとも関係しているように見えます。イタリアでは日常生活の中にあるテレビも映画も劇場もあらゆるショーも、人の動きもそして顔も、何もかもがにぎやかで劇的で楽しい表現にあふれています。時には生真面目な新聞でさえも。

筆者を紹介する記事は、若い頃の顔写真をなぞって物語を構成していて、記事文に記されている東京、ロンドン、ニューヨークなどの景色は一切載っていません。筆者が生まれ育った南の島の、息をのむように美しいさんご礁の海の景色でさえも。

記者にとっては、つまりイタリアの読者にとってはそこでは、海や街の景色や事物や自然よりも人物が、人物だけが面白いのです。そして人物の面白さは顔に表れて、顔に凝縮されています。かくて紙面は顔写真のオンパレードになります。

若い自分の写真は面映いものばかりですが、幸い今現在の、成れの果ての黄昏顔もきちんと押さえてくれているので、どうにか見るに耐えられると判定しました。

日本で結婚披露宴をしたとき、筆者は黒紋付ではなく白を着たいと言い張りました。べつに歌舞伎役者か何かを気取ったわけではなく、単純に黒よりも白のほうが明るくて楽しい、と思ったのです。今となってみると、あれでよかったと思います。

ちなみにその披露宴場には、あらゆる色の紋付き袴が賃貸用に備えられていました。天の邪鬼は自分以外にもいるらしい、と思ったのを昨日のことのように覚えています。

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メルケルはサッチャーより優しい鉄の女だ

ドイツの政治不安が続いています。

先月の連邦議会選挙で、僅差の勝利を収め第1党になった中道左派の社会民主党(SPD)が、連立政権の樹立を目指しています。しかし先行きは不透明です。

社会民主党は第3党の「緑の党」と、第4党の自由民主党(FDP)との3党連立を模索しています。だが緑の党と自由党の政策の違いは大きく、共存は容易ではありません。

第2党になったメルケル首相所属のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)も、緑の党と自由党との連立政権樹立を狙っています。

それは4年前の政治混乱時とよく似た構図です。当時は総選挙で第1党になったキリスト教民主・社会同盟が、連立政権樹立を目指しましたが紛糾

紆余曲折を経て、前回選挙では第2党だった社会民主党との大連立が成立しました。今回選挙では第1党と第2党が逆転したのです。

社会民主党は、メルケル首相が率いるキリスト教民主・社会同盟の影で、長い間存在感を発揮できない苛立ちを抱えてきました。そのこともあって、辛うじて第1党になった今回は、メルケル色を排除しての連立政権構想を立てています。

だが既述のように僅差で第1党になったことと、連立を組みたい緑の党と自由民主党の間の不協和音もあって政権樹立は容易ではありません。

連立交渉が長引き政治不安が深まれば、2017年同様に大統領を含む各界からの圧力が強まって、結局社会民主党はキリスト教民主・社会同盟との大連立を組まざるを得なくなる可能性も出てきます。

4年前の総選挙では連立交渉がおよそ半年にも及びました。政治不安を解消するために、シュタインマイヤー大統領が介入して各党に連立への合意を勧告しました。

その結果大統領自身が所属する社会民主党が妥協して、同盟との大連立を受け入れたといういきさつがあります。

大統領が介入した場合には、議会第1党から首相候補を選ぶのが慣例。その後議会で無記名の指名選挙が実施されます。そこで過半数の賛成があれば首相に就任します。

埒が明かずに指名選挙が繰り返され、合計3度の投票でも決着がつかなければ、大統領は少数与党政権の首班として首相を指名します。それでなければ議会を解散して新たな総選挙の実施を宣告します。

次の政権ができるまでは、メルケル首相が引き続きドイツを統率します。言葉を変えればドイツは、政治不安を抱えながらも、メルケル首相という優れた指導者に率いられて安泰、ということでもあります。

少し妄想ふうに聞こえるかも知れませんが、いっそのことメルケル首相が続投すれば、ドイツはますます安泰となり、EU(欧州連合)も強くまとまっていくだろうに、と思います。

強いEUは、トランプ前大統領の負の遺産を清算しきれないアメリカや、一党&変形&異様な独裁国家つまり中ロ北朝鮮にもにらみをきかせ、それらのならず者国家の強い影響下にある世界中のフーリガン国家などにも威儀を正すよう圧力をかけることができます。

卓越したリーダーの資質を持つメルケル首相には、人生100歳時代を地で行ってもらって、ドイツ首相から大統領、はたまたEUのトップである欧州委員会委員長などの職を順繰りに就任して世界を導いてほしい。

人の寿命が延びるに従って世界中の政治家の政治生命も飛躍的に高まっています。バイデン大統領は間もなく79歳。ここイタリアのベルルスコーニ元首相は85歳。マレーシアのマハティール氏は2018年、92歳という高齢で首相に就任しました 。

また2019年、老衰により95歳で死去 したジンバブエのロバート・ムガベ大統領は、93歳まで同国のトップであり続けました。中曽根元総理なども政治生命の長大な政治家でした。メルケル首相は67歳。それらの政治家の前では子供のようなものです。

メルケル首相は、疲れた、休みたい、という趣旨の発言をしているということですが、彼女も結局政治家です。周りからの要請があれば、胸中に秘めた政治家魂に火がついて政界復帰、というシナリオも十分にあり得るのではないでしょうか。

危機の只中にあるにもかかわらず病気と称して2度も政権を投げ出し、あたかも政界から身を引くかのような言動でフェイントをかけておいて、首相擁立の黒幕的存在と見なされているどこかの国の元首相さえいます。

その元首相は、国内の右翼や歴史修正主義者やトランプ主義者らにウケるだけで、世界では何の影響力も持ちません。むしろ過去の歴史を反省しない危険な民族主義者と規定されていて、国際的には国益を損なう存在です。

メルケル首相は、その元首相とは大違いで、ドイツの過去の蛮行を正面から見据えて反省し、迷惑をかけた周辺国への謝罪の気持ちを言葉にし実行し続けました。その姿勢は国際社会からも高く評価されました。

引退を発表した彼女を惜しむ世界の声は、そうした誠実でぶれない人柄と強い指導力、また比類のない実績の数々を称えて日々高まっているようにさえ見えます。

メルケル後のドイツ政権はいつかは成立するでしょう。だが新政権のトップが無力だったり非力と見なされた場合には、メルケル復権を求める声が実際に高まる可能性は十分にあると思います。

個人的には筆者はそういう状況の到来をひそかに願ってさえいます。

 

 

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「永遠の都」の女性市長が堕ちてもなお永遠な理由(わけ)

10月3日-4日に行われたローマ市長選挙で現職のヴィルジニア・ラッジ市長が落選しました。

ラッジ氏は2016年、ローマ誕生以来2769年間続いてきた男性オンリーの支配体制に終止符を打ちました。

ローマは、オオカミに育てられた双子の兄弟ロームルスとレムスが、紀元前753年に建設して以降、常に皇帝や執政官や独裁官や教皇や元首などの男性指導者に統治されてきました。

生粋のローマっ子で当時37歳のラッジ氏は、彗星の如くあらわれて鋭い舌鋒で既存の政治家を糾弾。私がローマの全てを変える、と主張しました。

当時ローマでは、前市長が公費流用疑惑で辞任し、市当局がマフィアと癒着していた醜聞が明らかになるなど、市民の怒りと政治不信が最高潮に達していました。

ラッジ氏は、既成の政党や古い政治家を厳しく批判して支持を伸ばしていた反体制政党、「五つ星運動」の所属。時節も追い風になって彼女は大勝しました

ラッジ市長は、サラ金や麻薬密売を武器にローマにはびこる犯罪組織、カザモニカ(casamonica)を押さえ込んで市民の喝采を浴びました。

だが一方で、バスや電車に始まる公共交通機関のサービスの落ち込みや劣化する一方のインフラなど、ローマの構造的な腐食や疲弊には無力でした。

中でもゴミ問題に対する市の対応の遅れと拙さが厳しい批判を浴びました。ラッジ市長は「永遠の都」に日々積みあがっていく腐敗物を尋常に処理できなかったのです。

ローマには街に溢れるゴミを目当てに、イノシシの群れが徘徊する事態まで起きました。それでもラッジ市長は有効なゴミ処理策を打ち出せませんでした。驚くべき非力です。

彼女の奇態はそこでは終わりませんでした。ラッジ市長は市内の公園や歴史的建造物の庭園で芝刈り機を使う代わりに、ヤギや羊また牛などを放牧し草や木々の葉を食べさせて清掃しようとしました。

そうすることで財政難が続く永遠の都の台所を救い、環境保護にも資することができる。一石二鳥だ、と彼女は言い張ったのです。

そのアイデアは実は彼女独自のものではありません。例えばパリやドイツのケルンなどでも、小規模ですが公園などに羊を放牧して草を食ませ掃除をしています。欧州のみならず世界中に同じ例があります。

だが、ローマの場合には余りにも規模が大きい。ローマは欧州随一の緑地帯を持つ都市なのです。導入する動物の数や管理に加えて、垂れ流す糞便のもたらす衛生・健康被害を想像しただけでも実現は不可能と知れます。

市長の批判者は、そのアイデアはゴミをカモメに食べてもらう企画とそっくりの、ラッジ市長の荒唐無稽な施策だ、と激しく反発しました。

同時に彼らは「市長はやがて蚊を退治するためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない」などとも嘲笑、愚弄しました。

ラッジ市長は政治的には無能だったと筆者も思います。世界有数の観光都市ローマの道端にゴミが溢れる状況を改善できないなんて、まさしく言語道断です。

しかしラッジ市長は-例えば日本に比べれば遥かに進んでいるとはいうものの-欧米先進国の中では女性の社会進出が遅れているイタリアの首都の、史上初の女性トップでした。

ローマには何食わぬ顔で女性蔑視・男尊女卑を容認するカトリックの総本山バチカンがあります。

カトリックは許しと愛と寛容を推進する偉大な宗教ですが、ジェンダーに関しては救えないほどの古い思想また体質を持っています。

欧米先進国の中でイタリアの女性の社会進出が遅れているのはカトリックの影響も大きい。欧州の精神の核の一つを形成してきたローマは、ジェンダーという意味ではひどく後進的な都市なのです。

古代の精神を持つそのローマで、ヴィルジニア・ラッジ市長という女性のトップが生まれた歴史的意義は大きい。

われわれは例えば、パリやロンドンやニューヨークなどの、欧米の他の偉大な都市で女性市長が誕生しても、もはや誰も驚きません。それらの都市は既に十分に近代的で「男尊女‘’」の社会環境にあるからです。

ローマは違います。

さり気なく且つ執拗に男尊女卑の哲学を貫くバチカンを擁する現実もあって、イタリア国内を含む欧州の他の都市のように近代的メンタリティーを獲得し実践するのは困難でした。

それが古来はじめて転換したのです。

転換の主体だったラッジ市長は、彼女の使命を終えて政治の表舞台から去ることになりました。

だが彼女が任期中にたとえ多くの懸案を解決できなかったとしても嘆くことはありません。

なぜなら厳とした男尊女卑の因習を持つイタリアで、初の「女性ローマ市長」になったラッジ氏の真の役割は、例えばアメリカ初の黒人大統領バラック・オバマ氏のそれに似た、歴史の分水嶺を示す存在であり続けることだけ、とも考えられるからです。

 

 

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猥褻は作品ではなく、それを見る者の心の中にある

チチョリーナな農婦

イタリア南部の町サプリで、1800年代に書かれた詩に基づいて作られた銅像が女性蔑視だとして物議をかもしています。

詩のタイトルは「サプリの落ち葉拾い」。当時の支配者ブルボン家への抗議を示すために、仕事を放棄した農婦の自己決定権を描いています。銅像はその詩へのオマージュです。

ところが銅像の農婦はすけすけのドレスを着ていて、特に腰からヒップのラインが裸同然に見えます。それに対してフェミニストやジェンダー差別に敏感な人々が怒りの声を挙げました。

銅像は女性の自己決定を無視し、反ブルボン革命について全く何も反映していない。女性はまたもや魂を欠いた性の対象に過ぎない肉体だけを強調され、「サプリの落ち葉拾い」が語る社会的且つ政治的問題とは全く関係がないと糾弾しました。

それに対して銅像の作者で彫刻家のエマヌエレ・スティファーノ(Emanuele Stifano )さんは、何事にもただただ堕落のみを見たがる者に芸術を説明しても意味がない、と反論しました。

作品も評論も心の目の見方

筆者は彫刻家に味方します。銅像が優れた作品であるかどうかは別にして、それは創作アートです。何をどう描いても許されるのが芸術活動です。

芸術作品に昇華された農婦は、裸体でもシースルーの服を身にまとっていてもなんでも構わない。作者の心の目に見える姿が、そこでの農婦の真性の在り方なのです。

また同時にその作品を鑑賞する者には、作品をいかようにも評価する自由があります。

従ってフェミニストが、銅像は女性への侮辱だと捉えるのも正当なものであり、彼らの主張には耳を傾けなければなりません。

批判や怒りは鑑賞者の心に映る作品の姿です。作者が自らの心に見える対象を描くように、鑑賞者も自らの心の鏡に映してそれを審査します。

筆者はそのことを確認した上で、銅像の作者の言い分を支持し、一方で批判者の論にも一理があると納得するのです。

芸術と猥褻の狭間

だが、批判者の一部が「銅像を破壊してしまえ」と主張することには断固として異を唱えます。

極端な主張をするそれらの人々は、例えばボッティチェリのビーナスの誕生や、ミケランジェロのダヴィデ像なども破壊してしまえ、と言い立てるのでしょうか。

彼らが強弁しているのは、農婦の銅像は女性の尊厳を貶める下卑たコンセプトを具現化している。つまり猥褻だということです。

体の線がくっきりと見えたり、あるいはもっと露骨に裸であることが猥褻ならば、ビーナスの誕生も猥褻です。また猥褻には男女の区別はないのですから、男性で裸体のダヴデ像も猥褻になります。

あるいは彼らが、農婦像は裸体ではなく裸体を想像させる薄い衣を身にまとっているから猥褻だ、と言い張るなら筆者は、ナポリのサンセヴェーロ礼拝堂にある「美徳の恥じらい」像に言及して反論したいと思います。

美徳あるいは恥じらい

女性の美しい体をベールのような薄い衣装をまとわせることで強調しているその彫像は、磔刑死したイエスキリストの遺体を描いた「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像を守るかのように礼拝堂の中に置かれています。

「美徳の恥じらい」像は、イタリア宗教芸術の一大傑作である「ヴェールで覆われたイエスキリスト」像にも匹敵するほどの、目覚ましい作品です。

「サプリの落ち葉拾い」像の農婦がまとっている薄地の衣は、実はこの美徳の恥じらい像からヒントを得たものではないかと筆者は思います。

大理石を削って薄い衣を表現するのは驚愕のテクニックですが、銅を自在に操ってシースルーの着物を表現するのも優れた手法です。

筆者は農婦の像を実際には見ていません。しかしネットを始めとする各種の情報媒体にあふれているさまざまの角度からの絵のどれを見ても、そこに猥褻の徴(しるし)は見えません。

女性差別や偏見は必ず取り除かれ是正されるべきです。しかし、あらゆる現象をジェンダー問題に結びつけて糾弾するのはどうかと思います。

ましてや自らの見解に見合わないから、つまり気に入らないという理由だけで銅像を破壊しろと叫ぶのは、女性差別や偏見と同次元の奇怪なアクションではないでしょうか。

猥褻の定義  

猥褻の定義は存在しません。いや定義が多すぎるために猥褻が存在しなくなります。つまり猥褻は人それぞれの感じ方の表出なのです。

猥褻の定義の究極のものは次の通りです。

「男女が密室で性交している。そのときふと気づくと、壁の小さな隙間から誰かがこちらを覗き見している。男も女も驚愕し強烈な羞恥を覚える。ある作品なりオブジェなり状況などを目の当たりにして、性交中に覗き見されていると知ったときと同じ羞恥心を覚えたならば、それが即ち猥褻である」

筆者の古い記憶ではそれはサルトルによる猥褻の定義なのですが、いまネットで調べると出てきません。だが書棚に並んでいるサルトルの全ての著作を開いて、一つひとつ確認する気力もありません。

そこでこうして不確かなまま指摘だけしておくことにしました。

キリスト教的猥褻

学生時代、筆者はその定義こそ猥褻論議に終止符を打つ究極の見解だと信じて小躍りしました。

しかし、まもなく失望しました。それというのもその認識は西洋的な見方、要するにキリスト教の思想教義に基づいていて、一種のまやかしだと気づいたのです。

その理論における覗き見をする者とは、つまり神です。神の目の前で許されるのは生殖を目的とする性交のみです。

だからほとんどが悦びである性交をキリスト教徒は恥じなければなりません。キリスト教徒ではない日本人の筆者は、その論議からは疎外されます。

その認識にはもうひとつの誤謬があります。性交に熱中している男女は、決してのぞき穴の向こうにある視線には気づきません。性交の美しさと同時にその魔性は、そこに没頭し切って一切を忘れることです。

性交中に他人の目線に気づくような男はきっとインポテンツに違いない。女性は不感症です。セックスに没頭しきっていないから彼らはデバガメの密かな視線に気づいてしまうのです。

猥褻は人の心の問題に過ぎない

そのように筆者は究極の猥褻の定義も間違っていると知りました。

そうはいうものの筆者はしかし、いまこの時の筆者なりの猥褻の定義は持っています。

筆者にとっての猥褻とは、家族の全員及び友人知己の「女性たち」とともに見たり聞いたり体験した時に、「羞恥を覚えるであろう物事」のことです。

筆者はサプリの農婦の像やビーナスの誕生やダヴィデ像、そしてむろん美徳の恥じらい像を彼らとともに見ても恥らうことはありません。恥らうどころか皆で歓ぶでしょう。

その伝でいくと、例えば女性器を鮮明に描いたギュスターヴ・クールベの「世界の起源」を、もしも筆者に娘があったとして、その娘とともに全く怯むことなく心穏やかに眺めることができるか、と問われれば自信がありません。

しかしそれは、娘にとっては何の問題もないことかもしれません。問題を抱えているのは、飽くまでもここにいる筆者なのです。

そのように猥褻とは、どこまでも個々人の問題に過ぎません。

 

 


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メルケル首相の再就職先

9月26日、ドイツのみならずEU(欧州連合)の命運さえも左右するドイツの連邦議会選挙が行われます。

なぜEUにも「影響を与える」と表現せずにEUの「命運さえも左右する」と強い言葉を用いるかと言えば、選挙後にメルケル首相が退陣するからです。

16年間ドイツを率いてきたメルケル首相は、ドイツだけでなくEUの最大のリーダーでもありました。

それどころか、変形独裁国家の首魁であるプーチン大統領にも毅然として対峙し、トランプ食わせ者大統領が出現すると、正義と自由と民主主義の旗手として断固たる態度で彼の嘘に挑みました。

トランプ大統領の太鼓持ちだった安倍首相や定見のない英メイ首相、若いだけが取り柄の仏マクロン勇み足大統領、またただそこにいるというだけで、空気と同じ無意味な存在だった伊ジェンティローニ首相などとは大違いだったのです。

ドイツもヨーロッパもそして世界も、アンゲラ・メルケルという偉大な指導者を失う。ドイツの総選挙が行われる2021年9月26日は、そんな劇的なコンセプトが遂行される時間なのです。

ポスト・メルケルのドイツの政治地図はカオスと歪みと落書きの坩堝のようです。

メルケル首相が所属するキリスト教民主同盟のラシェット党首、選挙戦終盤になって支持率を伸ばしている 社会民主党のショルツ党首が後継争いをしていますが、メルケル首相の前では悲しいほどに器が小さく見えます。

目先が変わるという意味で注目を集めた緑の党のベアボック共同党首は、なんと日本にも通底する陳腐な学歴詐称問題と文章盗用疑惑などで激しいバッシングを受けて沈没しました。

どんぐりの背比べにしか見えない首班候補らが、しのぎを削っているだけの寂しい現実。それがドイツ総選挙の実態なのです。

世界にはピカロな指導者が跋扈しています。

例えば一党独裁国家、中国の習近平ラスボス主席や変形独裁国家の首魁プーチン大統領。彼らの腰巾着である世界の強権首脳たち。

はたまた反動トランプ主義者の英ジョンソン、伯ボルソナーロ、欧州最後の独裁者ベラルーシのルカシェンコ、欧州の最後から2番目の独裁者ハンガリーのオルバン首相など、など。

それらのくえない権力者に対抗できるのは、今のところ、メルケル首相だけです。

バイデン大統領でもなければマクロン大統領でもない。ジョンソン首相に至っては、トランプ前大統領の金魚のフンという実体を、ピエロの仮面で隠しているだけの危険人物だから問題外です。

そしてトランプ“事件の根源”前大統領や、今触れたジョンソン“ゴマの蠅”Brexit首謀者らを称賛するのが、ここイタリアのサルヴィーニ“極右”「同盟」党首でありメローニ“仁義なき戦い”「イタリアの同胞」党首です。

そこにはフランスの極右ルペン指導者がいてオランダの自由党がありオーストリア、ギリシャ、ドイツ、ノルウエーetcの極右「暴力信奉勢力」がずらりと並びます。

それらの反動勢力は、極東で言えば中国であり北朝鮮です。そして中国と北朝鮮にも匹敵するのが、日本国内で隠然と蠢く歴史修正主義者であり靖国信者であり東洋蔑視主義者らです。

彼らはいわゆるバナナ人種。表は黄色いのに中身が白くなって、アジアを見下し白人至上主義者のトランプやバノンを仲間と勝手に思い込む。

トランプやバノンが蔑んでいる非白人でありながら、自らが白人の域にいるつもりで白人至上主義者らに媚びを売るのです。

なんと悲しくなんと寂しく、そして何よりもなんと醜い現実でしょう。

米ケツ舐め実践者&ネトウヨヘイト系排外差別主義者らは、さっさと目覚めなければなりません。

目覚めて、われわれの父や祖父らが犯した罪を認めて腹から謝罪し、現実を見据え、歴史を真正面から見て恐れず、そのことによって日本民族の優秀性を穏便に証明するべきです。

日本を含む世界の反動勢力に静かに、だが断固として対峙できる政治家が―繰り返しになりますが―今のところアンゲラ・メルケルさんただ一人なのです。

そんな彼女が政界を引退するのは、世界の巨大な損失です。

そこで彼女をなんとしても再就職させたいと考えるのです。

転職先は、EU(欧州連合)のトップの座である欧州委員会委員長がもっとも相応しいのではないでしょうか。

EUの現在の委員長はウルズラ・フォンデアライエン氏です。

フォンデアライエン委員長は、知性的で清潔感に溢れ人柄も誠実なようですが、残念ながら政治的な重みに欠けるきらいがあります。

また世界に跋扈する悪の大物政治家らの向こうを張って、自由と民主主義と人権擁護主義を死守できるのかも、心もとない。

引退するメルケル首相が委員長の座に座れば理想的です。

フォンデアライエン氏はメルケル委員長の補佐役になるか、あるいはドイツ首相へと横滑りしてもらえば良いと思います。

メルケル首相には、なんとしてももうしばらくは世界のリーダーの位置にいてもらいたい、と願うのは筆者ひとりだけでしょうか。

 

 





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イタリアをたたいてみれば文明開化の音がする

イタリアで安楽死を法制化するように求める署名運動が、75万人余りの賛同を集めました。

これによって、安楽死への賛否を問う国民投票が、早ければ来年にも実施される可能性が高くなりました。

イタリアでは50万人以上の署名で国民投票が実施される決まりです。

安楽死は、命の炎が消え行くままに任せる尊厳死とは違って、本人または他者が意図的に命の炎を消す行為です。

その意味では尊厳死よりもより罪深いコンセプトであり、より広範な論議がなされるべき命題と言えるかもしれません。

別の言い方をすれば、安楽死は尊厳死を内在させているが、尊厳死は安楽死を包含しない。

筆者は安楽死及び尊厳死に賛成する者です。

いわゆる「死の自己決定権」を支持し、安楽死・尊厳死は公的に認められるべきと考えます。

回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願い、それをはっきりと表明し、そのあとに安楽死を実行する状況が訪れた時には、粛然と実行されるべきではないでしょうか。

生をまっとうすることが困難な状況に陥った個人が、安楽死、つまり自殺を要求することを否定するのは、僭越であるばかりではなく、当人の苦しみを助長させる残酷な行為である可能性が高い。

安楽死を容認するときの危険は、「自らの明確な意志」を示すことができない者、たとえば認知症患者や意識不明者あるいは知的障害者などを、本人の同意がないままに安楽死させることです。

そうした場合には、介護拒否や介護疲れ、経済問題、人間関係のもつれ等々の理由で行われる「殺人」になる可能性があります。親や肉親の財産あるいは金ほしさに安楽死を画策するようなことも必ず起こるでしょう。

あってはならない事態を限りなくゼロにする方策を模索しながら-繰り返しになりますが-回復不可能な病や耐え難い苦痛にさらされた不運な人々が、「自らの明確な意志」に基づいて安楽死を願うならば、これを受け入れるべきです。

イタリアでは安楽死は認められていません。そのため毎年約200人前後もの人々が、自殺幇助を許容している隣国のスイスに安楽死を求めて旅をします。そのうちのおよそ6割は実際にスイスで安楽死すると言われます。

安楽死に対するイタリア社会の抵抗は強い。そこにはカトリックの総本山バチカンを抱える特殊事情があります。自殺は堕胎や避妊などと同様に、バチカンにとってはタブーです。その影響力は無視できません。

だが堕胎や避妊と同様に、禁忌の壁が高かった安楽死についても、崩壊の兆しが少しづつ見えていました。そしてついに、その是非を問う国民投票が実施されるかもしれないところまでこぎつけました。

(尊厳死を含む)安楽死は、命を救うことが至上命題である医療現場に、矛盾と良心の呵責と不安をもたらします。イタリアではそこにさらにバチカンの圧力が加わるのです。

医者をはじめとする医療従事者は、救命という彼らの職業倫理に加えて、自殺を否定し飽くまでも生を賛美するカトリック教の教義にも影響され、安楽死に強い抵抗感を持つようになります。

自殺幇助が犯罪と見なされ5年から12年の禁固刑が科されるイタリアですが、実は2019年、憲法裁判所は世論の圧力に屈して例外規定を設けました。

延命措置を施されつつも治る見込みのない患者が、肉体的また精神的に耐え難い苦痛を覚え続け、且つ患者が完全に自由で明晰な判断が可能な場合は例外とする、としたのです。

安楽死を推進する人々に対しては、キリスト教系の小政党などから「死の文化」を奨励するものだという批判が上がりました。

またカトリックの総本山であるバチカンは、自殺幇助は「その本質が悪魔的」として、従来の批判を声高に繰り返しました。

それらは極めて健全な主張です。生を徹頭徹尾肯定することは、宗教者のいわば使命であり義務です。彼らが意図的に命を縮める安楽死を認めるのは大いなる矛盾です。

安楽死を怖れ否定するのは、しかし、宗教者や医療従事者のみならず、ほぼ全ての人々に当てはまる尋常な在り方でしょう。

生は必ず尊重され、飽くまでも生き延びることが人の存在意義でなければなりません。

従って、例え何があっても、人は生きられるところまで生き、医学は人の「生きたい」という意思に寄り添って、延命措置を含むあらゆる手段を尽くして人命を救うべきです。

その原理原則を医療の中心に断断固として据え置いた上で、患者による安楽死への揺るぎない渇求が繰り返し確認された場合にのみ、安楽死は認められるべきと考えます。

カトリックの教義に従順なイタリアの「健全で保守的な世論」が、安楽死という重いテーマを正面から見据えて、北欧などを中心とする開明的な国々に追随する方向へと進んでいることを筆者は歓迎します。

 

 


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南イタリアの異常気象の舞台裏

米気象学会は8月25日、昨年2020年のヨーロッパの気温が観測史上最高を記録したと発表しました。

それは世界でも史上3番目に入る暑さでした。

スイス、ベルギー、フランス、スペイン、スウェーデン、ノルウェーなど、欧州の17カ国で史上最高気温となりました。

一方、米海洋大気局(NOAA)によれば、ことし7月の世界の平均気温は16.73度となり観測史上で最も高くなりました。

7月は1年で地球が最も暑くなる時期。

2021年7月は例年にも増して暑くなり、142年間の観測史上で最も暑い月となりました。

そうした流れの中で2021年8月11日、イタリアのシチリア島では欧州の過去最高気温となる48,8℃が記録されました

それまで欧州で最も暑かった記録は、1977年にギリシャのアテネで観測された48℃です。

炎熱はアフリカのサハラ砂漠が起源の乾いた風と共にやってきました。

熱波と乾燥に伴って、シチリア島のみならずイタリア本土やギリシャ、またキプロスやトルコなど、地中海沿岸の国々に山火事が頻発して緊急事態になりました。

8月25日までに焼失したイタリア全土の山林はおよそ15万8千ヘクタール。

その数字はイタリアの3大都市圏ローマとミラノとナポリを合わせた面積に匹敵します。

15万8千ヘクタールは、2017年全体の焼失記録およそ14万1千ヘクタールを既に超えています。

なおイタリアでは 2018年に14,000ヘクタール、2019年には37,000ヘクタール、2020年には53,000ヘクタールの山林が灰になっています。

山火事は夏のイタリアの風物詩のような様相を呈していますが、他の国々とは違う陰鬱な顔も持っています。

ほとんどの山林火災が、放火あるいは人災として発生しているのです。

具体的には全体の54,7%が放火。13、7%が不慮あるいは人の不注意から来る事故。

一方で落雷などが原因の自然発生的な山火事は、全体の2%以下にとどまっています。

放火は多くの場合犯罪組織と結びついていると考えられています。

マフィア、ンドランゲッタ、カモラなどが、土地争いに絡んで脅迫や強奪を目的に火を点けたり、緑地を商業地に変えようとしたり、ソーラーパネル用の土地を獲得しようと暗躍したりします。

一方、犯罪者の意図的な悪行とは別に、乾き切った山野また畑地などでは火災が容易に発生します。

例えば農夫が焼き畑農法の手法で不注意あるいは不法に下草に火を放った後に制御不能に陥ります。

人々がバーベキューや炊事や湯沸かしの火を消し忘れる。

ドライバーが車の窓から火のついたままの煙草を投げ捨てて、乾き切った道路脇の枯草に引火する。

不埒な通行人が同じように煙草のポイ捨てをすることもあります。

7月から8月の間の南部イタリアはほとんど雨が降りません。山野は既述のようにアフリカ由来の高気圧や熱波に襲われて、気温が高くなり空気が極度に乾いています。

砂漠並みに乾燥した山野の枯葉や枯草は、ガソリンのように着火しやすく一気に炎上して燃え盛るのです。

犯罪や事故による山林火災は昔から常に発生してきました。近年は地球の温暖化に連れて気温が上がり、山火事がより発生しやすくなっている、とされます。

だが、南イタリアの山林火災に関する限り、気候変動を隠れ蓑にした犯罪者らの悪行のほうが、地球の温暖化そのものよりもより深刻、とさえ言えそうです。

 

 

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