Je suis Charlieか否か?

 

いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもしました。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺されました。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴されました。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのです。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出しました。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国からは例によって強い反発が起きました。


冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こりました。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議しました。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められています。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もあります。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされました。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱です。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもあります。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容です。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することです。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語です。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことです。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断断固として確認することです。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことです。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが重要です。

言うまでもなく言論の自由には制限があります、だがその制限は言論の自由の条件ではありません。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限です。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きます。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうです。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやりました。

制限の中身は国や社会によって違います。違って然るべきです。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許されます。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれません。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てきます。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのです。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからです。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということです。

そのように言論の自由には限界があります。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではありません。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものです。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語です。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制します。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もありません。しかし、その中身については、筆者を含む多くの人々が賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合います。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べます。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていきます。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのです。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方です。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになります。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言えます。つまり民主主義と同じです。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではありません。完璧な政治システムは存在しません。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とします。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制です。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのです。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことです。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことです。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となります。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実です。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとします。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明します。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間です。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってです。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのです。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することでしょう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点です。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければなりません。話し合えば暴力は必ず避けられます。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はありません。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保です。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいました。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるでしょう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことです。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取りました。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴しています。人々が好き勝手なことを言えるのも、筆者が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰です。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれらは何も口にできなかったことでしょう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保証された世界に住む者として、筆者はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持します。

 

 

 

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一石二鳥

 

日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラです。筆者はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにしました。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあります。ですから菜園用の土地には事欠きません。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまきました。が、種は一切芽を出しませんでした。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試してみましたが、やはり駄目でした。20年近くも前のことです。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付きました。

次の帰国の際にニラ苗を持ち込んでプランターに植えました。今度はかなり育ちました。かなりというのは日本ほど大きくは育たなかったからです。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのですが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細かったのです。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もありませんので、頻繁に利用しています。

そればかりではありません。ニラはニンニク代わりにも使えます。特にパスタ料理には重宝します。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作りますが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加えます。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出ます。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ」にもニラをみじん切りにして加えたりします。

すると味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなります。
 
見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常ですから、一石二鳥です。


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「パスタ」という“言の葉”

 

以前、日本のオヤジ世代にはスパゲティをパスタと言うと怒る者がいると聞いて、新聞雑誌などにそのことに対する筆者の意見を書いたことがあります。

あれから少し時間が経ち、もはやパスタという語は日本人の誰にも違和感なく受け入れられているのではないか、と思ってきました。

ところが、今日でもやはりその言葉に― 反発とまではいかなくとも ― しっくりこないものを覚える中高年の男たちが存在する、と知りました。

それらの人々はきっとパスタという言葉に、気取りや若者言葉のような軽さを感じてむかつくのだろうと思います。

筆者もれっきとしたオヤジで、しかも言葉が気になる類の人間ですから、日本に住んでいたなら「パスタ」という新語(?)には彼らのように反感を抱いていたかもしれません。

ところがイタリアに住んでいるおかげで、日本における「パスタ」という言葉の普及には腹を立てるどころか、少し大げさに言えば、むしろ快哉を叫んでさえいます。 

「パスタ」とは、たとえて言えば「ごはん」というような言葉です。麺類をまとめて言い表す単語。スパゲティを気取って言っている表現ではありません。

スパゲティは多彩なパスタ(麺)料理のうちの一つです。つまり、焼き飯、かま飯、炊き込みご飯、雑炊、赤飯、茶漬け、おにぎりなどなど・・、無数にある「ごはん」料理の一つと同じようなものなのです。

焼き飯や雑炊を「ごはん」とは言いませんが、イタリアには個別のパスタ料理を一様に「パスタ」と呼ぶ習慣もあります。スパゲティも日常生活の中では、単にパスタと呼ばれる割合の方が高いように思います。

従ってスパゲティを「パスタ」と呼ぶのは正しい。

筆者はここで言葉のうんちくを傾けて得意になろうとしているのではもちろんありません。

おいしくて楽しくて種類が豊富なイタリア料理の王様「パスタ」を、スパゲティだけに限定しないで、多彩に、かろやかに、おおいに味わってほしいという願いを込めて、日本中の傷つきやすいわがオヤジ仲間の皆さんにエールを送ろうと思うのです。

 

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珍味とゲテモノの間合い

【新聞同時投稿コラム】

 

~珍味とゲテモノの間合い~

 

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、ギリシャのクレタ島に遊んでヤギ料理を堪能した。

クレタ島のシンボルはヤギである。ヤギはヤギでもこの島だけに生息するクリクリ種という野生のヤギ。絶滅危惧種で厳重に保護され食べることはもちろん捕獲も禁止されている。島で食べられるのはクリクリ種とは別の家畜化された普通のヤギ。

西洋ではヤギは1万1千年ほど前にトルコ、イラク、キプロスなどで家畜化され、およそ9千年前に家畜法と共にクレタ島にも伝わった。そこから欧州全体に広まるのにはあまり時間はかからなかった。

一方クリクリ種のヤギは家畜化される前の野生ヤギの特徴を保持しているとされ、その姿がデザイン化されて島の役場や観光業界の文書、またヤギ料理を提供するレストランなどのエンブレムとしても用いられている。

原始的なその不思議な動物は、食べることはできないが島人に大いに愛されている。

クリクリヤギは過去に乱獲されて数が激減した。乱獲のエピソードで有名なのは、ナチスドイツに抵抗するギリシャ・パルチザンの男たちの物語。彼らは山に潜んでナチスと闘争を展開した際、ほとんど何も食べるものがなかったためにクリクリヤギを捕らえて食べては命をつないだ。

そのときの乱獲も大きくたたってクリクリヤギは絶滅の危機にひんしている。

片や食用になる家畜のヤギは島には非常に多い。羊も多い。当然ヤギ肉や羊肉料理もよく食べられる。レシピも多彩だ。味も抜群に良い。

クレタ島のヤギ料理は煮込みと炭火焼きが主体。ワインやハーブやオリーブ油などで作った独特のタレで味付けをする。タレはそれぞれの家庭やレストラン秘伝のものも多い。

あらゆるタレは肉の臭みを消すと同時に素材に芳醇な味わいを加えるのが主眼。個性的で斬新で美味な事例が少なくない。

その点、初めて食する人に肉の臭みが敬遠されることもある、例えば沖縄諸島のヤギ料理などとはかなり趣が違う。

もっとも沖縄諸島のヤギ料理の場合は、肉の臭みを敢えて風味と見なしてそれを売りにすることで、少数の熱狂的な愛好家に支持されているらしいから、それはそれで面白い。

 

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スペインの不安、欧州の鬼胎

スペインで新型コロナの感染拡大が続いています。8月21日金曜日から24日月曜日までの4日間だけで新規感染者が2万人以上増え、累計の感染者は405436人と欧州で最も多くなりました。

また過去2週間の人口10万人当たりの感染者数は166,18人。ちなみに同じ統計のイタリアの数字は10人。フランスは50人前後です。

感染者の増加とともに入院患者またICU(集中医療室)収容の患者も激増。医療体制の逼迫が懸念されています。死者の数も増えて累計で28872人です。

だが累計の死者数は死亡前の検査で陽性と確認された患者のみのデータ。他の国々の知見と同様に実際の死者はもっと多いと考えられています。

スペインではこれまでに530万件の新型コロナウイルス検査が実施されました。国民の11,5%にあたります。検査数は時間と共に増える傾向にあります。

政府高官や論者の中には、例によって、検査件数の多さが感染者数の増大につながっている、と陳腐な主張をする者がいます。

だが他の欧州の国々は、検査数はスペインよりも多く、感染者の比率は同国よりも低いケースがほとんどです。

たとえばドイツは国民の12,2%、イタリアは12,8%、イギリスに至っては国民の
22,1%に検査を行っています。が、感染比率も拡大の速度もスペインよりは鈍い。

スペイン国民はハグや握手や頬と頬を触れ合う挨拶のキスなどの体接触が多く、何世代もの家族が同じ屋根の下で住んでいることも珍しくない。そういう社会環境などが感染拡大に貢献している、という意見もあります。

しかしそうした生活習慣や住環境はイタリアも同じです。またスペインやイタリアと同じラテン系民族のフランス国民も、ボディコンタクトが多い部類の人々です。

イタリア人はハグやキスが好きだから感染爆発を招いた、というのは3月から4月にかけてイタリアが世界最悪の感染地獄に陥ったころに、日本を含む世界中の知ったかぶり評者がさんざん指摘した論点です。

むろんそういう事もあるでしょうが、同じ文化傾向を持つイタリアの感染拡大が抑えられているのですから、スペインの感染拡大をそのことだけで説明するのはいまの状況では無理があります。

厳しいロックダウンへの反動で人々が急速に、幅広く、無制限に自由を求めて活動を始めたことが原因、という指摘もあります。それにもまた一理があります。

だがその点でも、再び、イタリアほか英独仏などの欧州主要国や多くの小国が同じように評価されます。スペインだけの専売特許ではないのです。

スペインの中央集権体制がゆるやかで、地方が多くの権限をもつために、統一したコロナ対策を打ち出せないのが感染再拡大の理由、と主張する者もいます。

その説も納得しがたい。なぜならイタリアもまたドイツも、地方自治の強い国です。イタリアに至っては、独立志向の強い地方を一つにまとめるために、国家が中央集権体制を敢えて強めようと画策さえする、というのが実情です。それは往々にして失敗しますが。

また農業関係の季節労働者が、集団でそこかしこの農地を渡り歩いて仕事をすることも、感染拡大の原因の一つとされます。だがそれもイタリアやフランスなどと何も変わらない現実です。

ではなぜスペインの感染拡大が突出しているのか、と筆者なりに考えていくと見えてくるものがあります。特に国民性や文化習慣が似ているイタリアと比較すると分かりやすい。

それはひとえにロックダウン解除後の、社会経済活動の「通常化」へのペースの違いによるもの、と個人的に思います。

ロックダウンを断行した国々は、一国の例外もなく経済を破壊されました。そしてロックダウンを解除した国は誰もが、大急ぎで失なわれた経済活動を取り戻そうとしました。

中でもスペインは、特に大きなダメージを受けた観光業界を立て直そうと焦って性急な動きをしました。国境を開いて外国人を受け入れ、隔離策などもほとんど取りませんでした。

多くの国からの旅人を早くから受け入れたスペインには、ロックダウン解除直後の7月だけで、200万人あまりの観光客がどっと流入しました。

同時に国内の人の動きにもスペイン政府は割合大らかに対応しました。厳しいロックダウンに疲れ切っていた国民は喜び勇んで外出し動き回りました。

やがてバカンスのシーズンがやってきて、スペイン国民の移動がさらに激しくなり、外国人の流入も増え続けました。そして感染拡大が始まり加速しました。

スペイン政府の対応は、実はイタリア政府のそれと瓜二つです。ところがイタリアはスペインに比べて「通常化」への動きがゆるやかです。それが今現在の両国の感染状況に違いをもたらしています。

そして通常化、特に経済再開のペースに違いが生まれたのは、両国が体験したコロナ感染流行第1波の「恐怖」の大きさの違いによるもの、と考えます。

イタリアは3月から4月にかけて、コロナ恐慌に陥って呻吟しました。それはやがてスペインに伝播しフランスにも広がりました。さらにイギリス、アメリカetcとパニックが世界を席巻しました。

イタリアは医療崩壊に陥り、3万5千人余の患者のみならず、なんと176名もの医師が新型コロナで斃れるという惨状を呈しました。

イタリアには見習うべき規範がありませんでした。感染流行が先行していた中国の被害は、イタリアのそれと比較すると小さ過ぎて参考になりませんでした。イタリアは孤立無援のまま正真正銘のコロナ地獄を体験しました。

世界一厳しく、世界一長いロックダウンを導入して、イタリアは危機をいったん克服しました。しかし巨大な恐怖心は残りました。そのことがロックダウン後のイタリアの動きを慎重にしています。

イタリアに続いてスペインも感染爆発に見舞われ医療危機も体験しました。だが、スペインにはイタリアという手本がありました。失敗も成功も悲惨も、スペインはイタリアから習うことができました。その違いは大きい。

恐怖の度合いがはるかに小さかったスペインは、ロックダウン後は良く言えば大胆に、悪く言えば無謀に経済活動を再開しました。その結果感染拡大が急速に始まりました。

そうした状況は多くの欧州の国々にもあてはまります。フランスやベルギー、マルタやルクセンブルクなどがそうです。ドイツでさえ第2波の襲来かと恐れられる事態になっています。

しかしイタリアは今のところは平穏です。バカンスの人の流れが影響して感染拡大の兆候は見えますが、欧州の中では最も感染拡大が少ない国の一つになっています。

イタリアにも気のゆるみはあります。イタリアにも感染防止策に熱心ではない者がいます。マスクを付けず対人距離の確保も気にしない不届き者も少なくありません。

だがイタリア人の中には強い恐怖心があります。そのために少し感染拡大が進むと人々の間に強い緊張が走ります。自由奔放と言えば聞こえがいいが、いい加減ではた迷惑な言動も少なくないイタリア国民が、新型コロナに関してはひどく真面目で真摯で民度の高い行動を取るようになっているのです。

それが今のところのスペインとイタリアの違いであり、ひいてはイタリアと欧州の国々の違いです。イタリア国民はこと新型コロナに関しては、ドイツ人よりも規制的であり、フランス人よりも論理的であり、英国人よりも真面目であり、そしてもしかすると、日本人よりも従順でさえあるかもしれません。

飽くまでも「今のところは」ですが。。


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クレタ島ヤギ料理列伝

ギリシャのクレタ島のシンボルはヤギです。ヤギは1万1千年ほど前に中近東域で家畜化され、やがてギリシャに伝わりました。クレタ島には家畜化される前の原始的な生態を保持する、クリクリ種という固有の野生ヤギが生息しています。

島のシンボルにもなっているクリクリ種のヤギは絶滅危惧種。厳格に保護されていて、食用にすることはもちろん捕獲もできません。だが島にはクリクリ種とは関係のない家畜化された普通のヤギも多い。

家畜のヤギは、これまた島にたくさんいる羊と共に食肉処理されて大いに食卓にのぼります。レストランでもヤギや羊肉のレシピは豊富です。冒頭の写真に見るようなヤギのエンブレムが目印の専門店もよく見かけます。

新型コロナの影も形もなかった2019年9月、クレタ島に遊んでヤギ・羊肉料理(以下ヤギ料理に統一)を堪能しました。滞在中はほぼ毎日、昼か夜に必ずヤギ料理を食べました。

きわめて美味い店が多かったのですが、観光客を相手にする店ではその逆のレシピも結構ありました。そこで滞在中に出会ったヤギ料理について、味の良かった膳と逆のそれをランク順に書いておくことにしました。

良い味のレシピは最高ランクから下へ。悪いほうも同じ。最後が最悪の味、という趣向です。

最高の味はヤギ肉ライス。

一日遠出をした海際のレストランで出会いました。品の良さとは縁のないこのシンプルな見た目のヤギ肉煮込みには、ミノア文明を生み出したクレタ島の人々の、数え切れないほどの試行と錯誤と、また錯誤と試行を繰り返した歴史のエッセンスが詰まっている、というほどの絶妙な味わいの一品でした。創意工夫の究極の賜物。

タレの主役は品書きにあったレモンのようです。むろんそれに店特有のハーブやワインやリキュールやetc,etcの「秘密の品々」が加えられているのは間違いありません。「(企業)秘密の品々」が、各店の味の違いを生み出します。ここで使われるのは体重10~15キロのヤギの肉。子ヤギの部類に入りますが肉の臭みはもう一人前。その臭みを芳醇な味わいに変えるのがシェフの腕の見せどころです。ヨーロッパでは珍しい白米との相性も新鮮でした。が、ライスがほとんど余計な気遣いに思えるほどヤギ煮込みそのものの味が秀逸でした。

第2位は週末だけ子羊の丸焼きを提供する店のひと皿。

少し内陸部にあるので観光客が少ないところがミソ、と思いました。期待に違いませんでした。ヤギ・羊肉は、煮込みレシピのほうがバラエティー豊富で、味の深みもあります。一方、焼きレシピは単調な味が多い。この店の丸焼きは数少ない例外です。出色の味わいがありました。

絶妙な味は秘伝のタレを塗って出していると思いますが、使うのは塩だけという意外な可能性もあります。薪にしろ炭にしろ、焼いてこれだけの「違いのある味」を出すのは至難の業。イタリア・サルデーニャ島に塩だけを使って(薪の)熾火で骨付きの成獣羊肉を焼く店があります。筆者はそれを独断と偏見で世界一の「❛成獣❜羊肉膳」、と勝手に決めつけていますが、この一皿は、「焼き」羊肉としてはサルデーニャの店に肉薄するくらいの目覚ましい味がしました。

続いての一品は肉の炙り焼きを見世物にしているレストランのひと皿。

伝統のタレで煮込んだ一品。タレの素材は分かりませんが、店独自の要素を白ワインとからめて煮込んだものだと思います。デリケートな柔らかさに煮込まれた肉は、ヤギ・羊肉の味わいある「匂い」ではなく、「芳香」の域にまで達していました。添えられたポテトとの相性も秀逸。店は紹介で訪れた「クレタ島伝統食レストラン」の一つ。この一品の味は一級のさらに上のあたり。 ただし日をあらためて食べた同じレストランの見世物の炙り焼きは、この一品とは別物でした。それは残念ながら後編に組み入れることにしました。

最後はホテルの紹介で訪れた少し内陸部の店のひと皿。

客層は地元民と移住英国人が主体でした。肉は焼いたように見えますが、実は煮込み料理。これもまた店一流の深い味が出た一品。タレは地元ワインとオニオンが中心らしい。料理レポートを書いても舌の味は伝わりません。実際に食べてみるしかありません。このひと皿は見た目も上品でした。ヤギ・羊肉が嫌いな女性もトライしやすいでしょう。食べたら必ずヤギ・羊肉ファンになること請け合いの一品でした。

ヤギ・羊肉料理の美味い店のメニューには、この店がやっているように「オイル(だいたいオリーブ油)、オニオン、ワィン煮込み」などと説明されている場合が多い。だが素材を3種も明かしているのは珍しい方。レモン煮込みとかワイン煮込みなど、素材の数を少なく示して、店の秘伝のタレの中身をできるだけ明かさないようにしているのが普通です。


ここからは逆に、やや不作味のヤギ・羊肉膳から、まったく不作味の品々までを記しておこうと思います。

前編に記した肉の炙り焼きを見世物にしている店のひと皿。

店には2種類のヤギ肉レシピがあります。伝統手法で煮込んだとされる、前編で紹介したヤギ肉は極めて美味でしたが、こちらの一品は、料理中の肉の旨そうな見た目とは違って少しも味わいがありませんでした。焼かれた肉とトマトソースが主体のタレの相性が悪いと感じました。一方、店の外に設えられた肉炙り焼き機は風情があって面白いと思いました。料理は見た目もご馳走の一つ、と考えれば前編の味の良いレシピランクのビリに入れても良かったのですが、やはりためらいが残りました。

こちらは子羊のすね肉の煮込み。

大量のチーズ、トマト、ごった煮野菜、ジャガイモなどの下に隠されていた主役の子羊のすね肉が右の絵です。大量具材は肉の味を良くするつもりの創作でしょうが、肉そのものの味を高めるのではなく、「夾雑物」の食材で誤魔化そうとしていますから不味いばかりではなく品も落ちます。シンプルにすね肉だけを表に出し、付け合わせもポテト一品などに単純化すれば、一級の料理になる筈なのに。。

ひたすら大量・てんこ盛りの食皿を好む北欧人やバルカン半島人など、その地に非常に多かった観光客に媚びるとこんなつまらない料理が出来上がるということなのかもしれません。観光地の悲哀。

その一方で同じ「子羊のすね肉煮込み」は、実は筆者はイタリアで何度も「絶品級」の味に出会っています。たとえばこんなふうに骨付きのまま煮込んだ一品。

ヤギ料理の美味いものはほとんど常に店の秘伝のタレで煮込んだシンプルなレシピです。イタリアの店のひと皿もそうです。余計な食材をトッピングすると、ほぼ間違いなく肉の貧しさをごまかそうとする作業と同じになって、シェフの意図するところとは逆の印象の味になります。

続いての崖っぷちレシピは「羊肉のパン生地包み焼き」。

見た目は美しいLamb(子羊)肉煮込み。薄いパン生地で包んでいます。花に見立てたふわりとした外観は上品でオイシそうでしたが、味は最後に掲載するLamb肉パイとどっこいどっこいの最悪味。

すっぱい味がしたのは、定番の大量具材にヨーグルトが混じっていたからだと思います。それはLamb肉とは全く相性がよくないと感じました。北欧&バルカン半島系テイストの大味・残念レシピ。これを美味そう、と感じる人は、食べてもやっぱりオイシイとつぶやくのでしょうか。筆者はひと口食べてフォークを置きました。大げさではなく、オエッとなりそうな味でした。約2000円強を丸々捨てたことになりますが、惜しいとは思いません。不味い料理がなくては美味しい料理の良さは分からない。勉強と思えば2000円は安いものです。

最後に最悪味の羊肉パイ。

こちらも見た目はとても美味しそうですが、中身はあらゆる具材がぐちゃぐちゃに入り混じった地獄レシピ。すっかり忘れていましたが、食べたその場で書いておく筆者の一口メモの備忘録には、この料理は前の一品「羊肉パン生地包み焼き」とともに❛~ンコ飯❜と記されていました。

ヤギ・羊肉の炙り&焼きレシピは何度も書いているように難しい。味が単調になり勝ちです。だが出色のものは非常に美味いのも事実。一方、各店またシェフの秘伝のタレで煮込むヤギ・羊肉膳はバラエティーに富んでいて味も良く深みがあります。ワインで言えば「焼きヤギ・羊肉」は白ワイン。「ヤギ・羊肉煮込み」は赤ワイン。前者は選択肢が狭く後者は限りなく広い。味も同じ。。と思います。

 

 

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ガルダ湖の空が晴れるまで

イタリア最大の湖、ガルダ湖を1000メートル下に見おろす山中にいます。元修道院だった古ぼけた山荘があって、8月の猛暑時などに滞在したり、夏の終わりから秋口に友人らを招いて伝統料理のスピエド(ジビエ串焼き)を振舞ったりします。

コロナ禍の今年はむろんスピエド会食はしないつもりですが、しばらく滞在するつもりで登ってきました。暑さよりも湖畔の人出を避けたい気分で。だがスマホはかろうじて使えるものの、PCのインターネット環境がほぼゼロなので不便なことこの上もありません。。

ガルダ湖は南アルプスに連なるプレ(前)アルプスの山々に囲まれています。今いる山はその一つ。山頂の標高は1500メートル。800メートルから1000メートルの間には、雰囲気の悪くないレストランが3軒あります。

湖畔の町を出てここまで車で登る間には三つの集落を眺め、一つの集落を横断します。それらの集落は行政区分上は全て出発した町の一部です。滞在しているのは人口10数人の集落に近い一軒家。そこは山中の集落のなかではもっとも高い位置にあります。

湖畔の町はDHローレンスが滞在しゲーテもイタリア旅行の際に通ったという名前の知れた場所。新型コロナウイルスの感染爆発時には、ほとんど感染者が出なかったことで称えられました。山中の集落のみならず、湖畔のメインの集落でも死者は出ず感染者もほぼゼロでした。

町はイタリア最悪の感染地であるロンバルディア州に属していますから、感染者が少ないのはなおさら喜ばれました。8月の今はドイツ人バカンス客でにぎわっています。もともとドイツ人観光客に人気のある町なのです。

Covid19を抑え込んだおかげもあって、町にはバカンスや観光目的のドイツ人が押し寄せています。いつもの年よりも多く感じられるのは、Covid19禍でドイツ人観光客の行き場が限られているせいもあるのでしょう。

だが山中にはドイツ人はほとんどいません。彼らは便利で且つ湖畔の景色が美しい下界の町に長逗留しているケースがほとんどです。山中の集落を含む町の全体は感染予防策に余念がありません。しかし観光客は多くが無頓着で利己的です。

自らが楽しめればウイルスの感染のリスクなどはほとんど意に介さない。しばらくすればどうせ町を去る身だ、自分には関係がない、という意識を秘めています。マスクなども付けずに動き回る不届き者も多い。秋から冬にかけて、ドイツ人が持ち込んだウイルスが暴れないか、と筆者は密かに気を揉んでいます。

かすかな電波を頼りにスマホでググると、日本では人口割合で最悪感染地になっている沖縄県での感染拡大が、特に目立っています。そこでの問題もおそらく観光客なのでしょう。観光客が自主的に感染拡大予防策を取る、などと考えるのは甘い。

彼らは既述のように自らが楽しめれば良い、と考えていることが少なくありません。特に若者の場合は、感染しても重症化する危険が少ないので感染予防などは二の次です。自らの感染を気にしないとは、他者を感染させることにも無頓着ということです。

コロナの感染を本気で食い止めたいのなら、人の動きを制限するしかありません。それも強制的に。自粛に頼るだけではなんとも心もとない。むろんそれは社会経済活動の制限と同義語ですから、舵取りが難しい。

コロナの感染防止と経済活動のバランスに世界中が四苦八苦しています。そしていま現在は、感染防止よりも経済を優先させた国々が、より大きな危機に瀕しています。アメリカ、ブラジルがそうです。インドも同じ。日本も残念ながらそこに近づいているように見えます。

ここ欧州でもロックダウンの後に、ただちにまた全面的に経済活動を開始した国ほど、またそれに近い動きをした国ほど、第2波の襲来らしい状況に陥っています。欧州の主要国で言えば、スペイン、フランス、ドイツなどにその兆候があります。

ところが主要国の一つで最悪の感染地だったここイタリアは、新規感染者は決してゼロにはならないものの、感染拡大に歯止めがかかって落ち着いています。世界一厳しく世界一長かったロックダウンを解除したあとも、社会経済活動の再開を慎重に進めているからです。

一例をあげれば、前述の国々では若者らはクラブまたはディスコで踊りまくることが可能ですが、イタリアではそれはできません。そうした店の営業内容が密を避ける形に規制されているからです。イタリアは突然にコロナ地獄に突き落とされ孤立無援のまま苦しんだ、悪夢のような時間を忘れていないのです。

また規則や禁忌に反発することが多い国民は、コロナ地獄の中でロックダウンの苛烈な規制だけが彼らを救うことを学び、それを実践しました。今も実践しています。国の管制や法律などに始まる、あらゆる「縛り」が大嫌いな自由奔放な国民性を思えば、これは驚くべきことです。

だが激烈なロックダウンは経済を破壊しました。特に観光業界の打撃は深刻です。そこでイタリアは大急ぎでEU域内からの観光客を受け入れることにしました。湖畔の町にドイツ人観光客が溢れているのはそれが理由の一つです。

同時にイタリア人自身もガルダ湖半を含む国内の観光リゾート地に多く足を運んでいます。夏がやってきてバカンス好きな人々の心が騒ぐのです。だがコロナへの恐怖や経済的問題などもあって、国外には出ずに近場で過ごす人が多くなっています。

「観光客」になったイタリア人も、歓楽を優先させるあまり全ての観光客と同様に感染防止策を忘れがちになります。その意味では、ドイツ人観光客やバカンス客だけが特殊な存在、ということではもちろんありません。

バカンスの向こうには感染拡大という重いブルーが待っている、というのが筆者のぬぐい切れない悲観論です。大湖ガルダの雄大な景色を見おろしながら、筆者は自らの憂鬱なもの思いが杞憂であることを願わずにはいられません。

 

 

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祭りのあとのブルーが見える

欧州は新型コロナウイルス感染拡大の第2波が襲来、ともいわれる状況下にあります。スペイン、フランス、ドイツなどの大国や東欧圏の国々です。

イタリアは長く過酷なロックダウンの効果で今のところは静かです。ところがそのイタリアで行われた新型コロナウイルスの大規模な抗体検査で、およそ3割の感染者が無症状だったことが明らかになりました。無自覚のうちに感染を広げる懸念が高まっています。

抗体検査は約6万5千人を対象に行われました。その結果、150万人近くが抗体を持っていると推定されます。イタリア国民の2,5%程度にあたる数値です。

イタリアで感染が確認されているのは累計でおよそ25万人。従って実際にはその6倍もの感染者がいることになります。しかも3割の50万人は無症状で、知らずに感染を広げているかもしれない。

それが事実であるならば、第2波の襲来では?と恐れられる欧州や、第1波がまだ続いている南北アメリカ、また感染拡大が止まらない世界中で、見た目よりもはるかに厳しいコロナ災禍 が進行していることになります。

検査態勢の不備や医療事情の貧困等々に加えて、無症状の感染者が多い現実などもあり世界の感染者は実際よりもはるかに多いのではないか、と常に考えられてきました。死者の数も「実際には公表数の3倍」といわれるイランなどを筆頭に、発表されている数字よりは大きいと見られています。

従ってイタリアの状況を知っても実は筆者はあまり驚きませんでした。イタリアでも感染者や死者の数は正式な数字より多いはずだとしきりに言われてきました。南北アメリカはもちろんインドなどもそうですし、イタリア以外のヨーロッパ諸国も似たり寄ったりです。

隠蔽や嘘やごまかしが多くて真実が見えずらいとされる中国に至ってはもっとさらにそうです。世界のコロナ惨害は今でも見た目より酷いに違いない。第2波や第3波が襲ってくれば凶変はさらに深刻になるでしょう。

隠れ感染者の存在に加えて、バカンスの人の動きと無鉄砲な若者らの行動パターンもイタリアでは憂慮されています。それを体現するようにクロアチアとギリシャで休暇を過ごした若者らが、帰国後に検査で陽性とされるケースが増えました。

イタリア自体は、3月から4月の世界最悪のコロナ兇変を体験して非常に用心深くなり、感染防止対策にも余念がありません。また社会経済活動の再開もスペインやフランスに比較するとゆっくり目です。それらが今現在のイタリアの感染状況を落ち着かせています。

だが、そうはいうものの、イタリア人がバカンスに出かける先の国々の規制や感染防止策はまちまちです。イタリアよりは規制がゆるい国が多い。8月の終わりになればそれらの国々で休暇を過ごした人々が一斉に帰国します。

クロアチアとギリシャから帰った若者らに感染が広がっている事実は、9月以降の感染爆発の予兆である可能性も大いにあります。当たり前の話ですが、コロナ大厄は全く終わってなどいないのです。

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死者が増えるほど日本はきっと強くなる

日本の新型コロナ感染者数がじわじわと増えているのはちょっと不気味です。実はヨーロッパの状況もけっこう怪しい。今のところここイタリアは静かですが、スペイン、フランス、ドイツが変な雰囲気になってきました。東欧などの目立たない国々も。

さらにイギリスもそうです。同国ではロックダウン不要論に基づいて、ジョンソン政権が第一波の初期対応を誤ったことが依然として尾を引いています。その点イタリアは逆に、誰よりも早くまた誰よりも厳しいロックダウンを敢行した分、「今のところは」息がつけている、というふうです。

ただしイタリアの新規感染者もコンスタントに出ていて、筆者は第2波(この言い方には強い違和感を覚えますが分かりやすいようにそう書きます)の到来は必ずあると考えています。

イタリアは3月から4月にかけて、どこからの援助もなく、それでも誰を怨むこともなく、且つ必死に悪魔のウイルスと格闘しました。当時イタリア国民は苦しみ、疲れ果て、倒れ、それでも立ち上がってまたウイルスと闘う、ということを繰り返していました。

ウイルス地獄が最も酷かったころには、医師不足を補うために300人の退職医師のボランティアをつのったところ、25倍以上にもなる8000人がすぐさま手を挙げました

周知のように新型コロナは高齢者を主に攻撃して殺害します。加えて当時のイタリアの医療の現場は、当局の見込み違いなどもあって患者が病院中にあふれかえり、医師とスタッフを守る医療器具はもちろんマスクや手袋さえ不足する、という異常事態に陥っていました。

8000人もの老医師はそうしたことを十分に承知のうえで、安穏な年金生活を捨てて死の恐怖が渦巻くコロナ戦争の最前線へ行く、と果敢に立ち上がったのです。あの時のことを思うと筆者は今でも鳥肌が立つほどの感動を覚えます。

退役医師のエピソードはほんの一例に過ぎません。厳しく苦しいロックダウン生活の中で、多くのイタリア国民が救命隊員や救難・救護ボランティアを引き受け、困窮家庭への物資配達や救援また介護などでも活躍しました。

逆境の中で毅然としていたイタリア人のあの強さと、犠牲を厭わない気高い精神はいったいどこから来るのだろうか、と筆者は真摯に、そしてしきりに思いを巡らずにはいられません。あれこれ考えた末に行き着くのはやはり、イタリア国民の9割以上が信者ともいわれるカトリックの教義です。

カトリック教は博愛と寛容と忍耐と勇気を説き、慈善活動を奨励し、他人を思い利他主義に徹しなさいと諭します。人は往々にしてそれらの精神とは真逆の行動に走ります。だからこそ教義はそれを戒めます。戒めて逆の動きを鼓舞します。鼓舞し続けるうちにそちらのほうが人の真実になっていきます。

いい加減で、時には嘘つきにさえ見えて、いかにも怠け者然としたゆるやかな生活が大好きな多くのイタリア国民は、まさにその通りでありながら、同時に寛容で忍耐強く底知れない胆力を内に秘めています。彼らはいわば優しくて豪胆なプー太郎なのです。

イタリア国民のストイックなまでに静かで、意志的なウイルスとの戦いぶりは、筆者を感動させました。彼らの芯の強さと、恐れを知らないのではないかとさえ見える根性のすわった態度に接して、筆者はこの国に居を定めて以来はじめて、許されるならイタリア人になってもいい、と腹から思うようになりました。

周知のように日本人が他国籍を取得したいなら、日本国籍を捨てなければなりません。筆者は今のところは日本国籍を放棄する気は毛頭ありませんので、実現することはないと思います。が、イタリア人になってもいいと信ずるほどに、イタリア国民を心底から尊敬するようになったのです。

8月に入ったイタリアのコロナ環境は、3月、4月の惨状が嘘のような静けさに包まれています。だが世界では8月4日現在、感染者の多い順にアメリカ 、ブラジル、インド、ロシア、南アフリカ 、メキシコ 、ペルー、チリ 、コロンビア、イランなどの非欧州国がコロナの猛攻撃にさらされています。

それらの国々の中で以前のイタリアの恐怖と絶望感を今このとき味わっているのは、世界最大の感染国アメリカではなく、恐らく医療体制の脆弱なインド、パキスタン、イランほかのアジア・中東諸国、またブラジルとペルーに代表される南米各国などでしょう。筆者には彼らの苦境が容易に想像できます。

一方、状況が芳しくない日本のコロナの状況については、実は筆者はそれほど心配していません。いえ、もちろん心配はしていますが、イタリアのかつての地獄絵図を知っている身としては、日本で今後何が起きてもどうということもない、と達観もしているのです。

この先に日本で感染爆発が起きても死者が激増しても、3月から4月頃のイタリアの惨状には決して陥らない、と信じています。イタリアのように医療崩壊さえ起こさなければ、苦しい中にも救いはあるのです。いえ、それどころか、医療崩壊を避けることができれば、何も恐れることはありません。

医療崩壊に陥ったころのイタリアは、いま振り返っても本当に怖い状況でした。前例もないまま、突然にコロナ地獄に投げ込まれ、文字通りの孤立無援の中、ただ一国で呻吟するしかありませんでした。民主主国家イタリアの全土封鎖は、独裁国家の中国の武漢封鎖とは違う困難をもたらしました。

その後、アメリカやブラジルも地獄にはまって行きますが、彼らには少なくとも「イタリアという前例」 がありました。またイタリアを見て対策を考えることができたスペイン、フランス、イギリス、その他多くの国々の動きも参考にすることができました。

イタリアは真実孤独でした。筆者の周りにおいてさえ人がバタバタ死んでいきました。何が起きても日本はとてもあんなふうにはならないでしょう。誤解を恐れずにあえて言えば、むしろもう少し重傷者や死者が出るくらいのほうが、経済つまり金のことしか考えていないように見える、日本の政治家や御用学者や経済人らに灸を据える効果があるのではないか、とさえ思っています。

日本がかつてのイタリアの絶望的な状況に陥るのなら、それはイタリアの失敗やその後のスペイン、フランス、イギリス、また南北アメリカなどの苦境から何も学ばなかったことを意味します。その場合には、安倍晋三首相と彼の政権は万死に値する、と言っても構わないでしょう。言うまでもなく、そういう事態に陥らずに感染拡大が収まれば、それに越したことはありませんが。。

 

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若者を殺さないコロナのたくらみ

欧州に遅れてコロナ危機が始まった南北アメリカや中東の感染拡大が続く中、いったん落ち着いていたヨーロッパにも再び状況悪化の兆しが見えてきました。

1波で過酷な試練を体験した西ヨーロッパでは、主にスペイン、フランス、ドイツなどにクラスターの発生や感染増加が顕著になっています。

1波で最も悲惨なコロナ危機を体験したイタリアは、世界一峻烈とされたロックダウンを導入した効果もあって、今のところは欧州の中でも感染拡大が少ない。

だが、そうはいうものの、イタリアでも新規の感染者はコンスタントに出ていて、いつ状態が悪化してもおかしくない環境です。

欧州の感染者の増加は、夏のバカンスを楽しむ人々の動きと関連しています。厳しい移動制限に象徴されるロックダウンが終わったことを受けて、多くの人々が観光地やリゾートに移動を始めました。

コロナ危機の中でも、いやむしろコロナ危機だからこそ、バカンスで開放感を味わいたいと考える人々がいて、彼らが移動を開始したとたんに感染拡大が始まりました。

コロナウイルスは自らでは動かず、飛ばず、移動しません。常に人とともに動き人によって運ばれ、拡散し、宿りを増やしていきます。だからこそ人は人との接触に細心の注意を払わなければなりません。

その注意が時として若者には足りません。彼らは感染防止策に無頓着である場合が少なくありません。感染拡大は全ての年齢層の人々によってなされるものの、圧倒的に若者によるケースが多い。

若者は、コロナに感染しても重症化する可能性が低い。死亡する可能性は、高齢者と違ってもっと低い。そこから感染防止策を軽視する心理が芽生え、それは彼らの行動に出ます。

彼らはこう考えています。「俺たちは大丈夫。コロナは老人の問題だ」と。そして夜の繁華街やリゾートの街やビーチで、コロナなどどこ吹く風で思いのままに集い歓楽します。

そこで新型コロナに感染して無症状のまま再び思いのままに動き移動し活動して、他者にウイルスを受け渡していきます。彼らが高齢者へ移すことを腹から気に病むことはほんどありません。

むろん祖父母など肉親に高齢の者がいれば少しは気にすることもあるでしょうが、それとて長く緊張を維持したり気を配ったりする理由にはなりません。彼らはいつも自身のみずみずしい生を目いっぱい謳歌することに懸命です。それが若さというものです。

若者の大多数が自主的に感染対策にまい進すると考えるのは愚かです。彼らはコロナが若者も「殺す」形に変異でもしない限り、感染対策を完璧に遂行することはありません。感染拡大防止の最大の障害は若者なのです。

若者ではない人々はそのことに薄々気づき始めています。若者も気づいていますが、彼らの命にかかわることではないので高をくくっています。若者と高齢者間の分断が始まろうとしています。もしかするともう始まったのかもしれません。

日本ではここ最近、コロナに感染しても症状が軽いかあるいは全く出ない、比較的若い年代の人々の集団感染が発生しているようです。実は欧州でも感染者の年齢層が低くなっています。

特にスペインとフランスまたドイツで、休暇を楽しむ若者が都会やリゾート地で深夜に集まって騒いでは、感染する事態が頻発しています。その後彼らはそれぞれの家庭に戻って高齢者を感染させます。

そうした事態を受けて、スペインのカタルーニャ州はついに725日、ナイトクラブや深夜営業のバーを再び2週間ほど閉鎖すると発表しました。その動きは欧州各国に伝播しそうな雲行きです。

ウイルスが変異し、若者を重症化させ、最悪の場合は死亡させるようにならなくても、彼らの行動パターンが変化する可能性はあります。

爆発的な感染拡大が起きて、再びロックダウン(あるいは日本なら緊急事態宣言)が導入されることです。そこでは経済が滞り雇用危機が発生して、彼らも恐慌のただ中に投げ出されます。

そうなれば無鉄砲な者たちも少しは反省することでしょう。だがそれでは遅すぎる可能性があります。破壊された経済が元に戻るのは至難です。彼らはその前に感染防止に真剣に取り組んだほうがいい。

若者をそういう方向に導くのは、若者ではない大人たちの役割です。とりわけ政治の責任です。欧州はその方向に動きつつあるようです。しかし日本の政治は、行動を起こすどころか、問題の核心にさえ気づいていないように見えます。

ところで活動的で行動範囲も広い若者がコロナに感染しても症状が出ないのは、全くの偶然なのでしょうか?無症状なので彼らは感染しても活発な動きを止めず、さらに感染が拡大します。

もしもそれが仕組まれた作戦だとするなら、なんと怖いことでしょう。そしてなんという深い知恵なのでしょう。深い知恵はもしかすると高齢者のみを殺す、とも決めているのかもしれません。なぜ?地球上に高齢者が増えすぎたから?

新型コロナの凄みは、知恵があるようにも見えることです。もしかするとワクチンも治療薬もなにもかも無効にする知恵まで秘めているのでは?とさえ思わせます。むろん人間はそれ以上の知恵を持つ、と信じてはいます。が、時として新型コロナは、その信頼を揺るがすほどの殺気さえ見せるところが忌まわしい限りです。

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