知識ではなく情感を豊かにする作業が読書である

読書とは役に立たない本を読むことです。経済本や金融本、各種のノウハウ、ハウツーもの、またうんちく、知見、学術、解説等々の本を読むのは読書ではない。それは単なる情報収集作業です。

実用が目的のそれらの本に詰まっている情報はむろん大切なものです。すぐに役に立つそれらの消息は人の知識を豊富にしてくれます。大いなる学びともなります。

しかしそれらの情報は、思索よりも情報自体の量とそれを収集する速さが重視される類の、心得や見識や聞き覚えであって、人間性を深める英知や教養ではありません。

要するに読書とは、すぐには役に立たないが人の情感を揺さぶり、心や精神を豊かにし深化させてくれる小説、詩歌、随筆、エッセイ、ドキュメント等々に触れること。特に人間を描く小説が重要です。

人は一つの人生しか生きられません。その一つの人生は、他者との関わり方によって豊かにもなれば貧しくもなります。そして他者と関わるとは、他者の人生を知るということです。

全ての他者にはそれぞれの人生があります。だがわれわれ一人ひとりは決して他者の人生を生きることはできません。人が他者の人生の全てを実地に知ることは不可能です。

その一方で小説には無数の他者の人生が描かれています。小説は他者の人生をわれわれに提示し疑似体験をさせてくれます。小説家が描く他者のその人生は、実は本物と同じです。

なぜなら永遠に他者の人生を生きることができないわれわれにとっては、他者の実際の人生は想像上でしか存在し得ません。つまり疑似人生。小説家が描く世界と同じなのです。

そこだけに留まりません。

優れた小説家が想像力と知識と人間観察力を縦横に駆使して創り上げた他者の疑似人生は、それを体験する者、つまり読者の心を揺り動かします。

読者が心を打たれるのはストーリーが真に迫っているからです。そこに至って他者の擬似人生は、もはや疑似ではなくなり真実へと昇華します。

読書をすればするほど疑似体験は増え、真実も積み重なります。

人はそうやってより多くの他者の人生を知り、学ぶことで、依って自らの人生も学びます。そこに魂の豊穣また情緒の深化が醸成されます。それが読書の冥利なのです。

 

 

 

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女子サッカーには未来がある

なでしこジャパンは女子サッカーW杯の準々決勝で負けてしまいました。

そこまでの戦いぶりは、2011年のW杯で優勝した時よりも勢いのある進撃だったので、筆者は密かに優勝を確信していました。

だが、やはり世界の壁は薄くはありませんでした。

筆者が女子サッカーの魅力に気づいたのは― 恐らくたくさんのサッカーファンがそうであるように― 2011年のW杯を通してでした。

決勝戦で日本のエースの澤穂希選手が見せた絶妙のヒールキックに筆者は呆気に取られました。

世界トップの男子プロ選手にも匹敵する彼女のテクニックは、筆者の目のウロコを30枚ほどはがしてくれました。

だがそれ以後は女子サッカーに筆者の関心が向かうことはありませんでした。2015年、2019年のW杯もほとんど記憶がありません。

2015年には日本は準優勝したにも関わらずです。そのあたりに女子サッカーの人気の限界が垣間見えると言えそうです。

ことしの大会も、快進撃するなでしこジャパンを英BBCが絶賛している報道を偶然目にして、はじめて大会を知り俄然興味を持ったという具合でした。

関心を抱いてからは、ハイライトシーンを主体に試合の模様を追いかけてきました。

そこには目の覚めるようなプレイの数々が提示されています。世界の女子サッカーのレベルは高いと思います。

女子サッカーを評価しない人々は、試合展開が遅い、激しさがない、テクニックが男子に比べて低いなどど口にします。

だが、ハイライトシーンを見る限りでは試合展開はスピーディーで、当たりも激しく、プレーの技術も十分に高いと感じます。

映像がハイライトシーンの連続、という事実を差し引いても見ごたえがあるのです。

女子サッカーは男子のそれとは違うルールにしたほうがいい、という声もあります。

動きが遅く体力差もあるので、ピッチを小さくしそれに伴ってゴールも小さくする、というものです。

だが世界のトッププレーヤーが躍動するW杯を見ていけば、その必要はないという結論になります。

例えばゴルフの男子プロと女子プロのルールは全く同じですが、男子と女子では面白さが違う。人気も拮抗しています。もしかすると女子プロの人気のほうが高いくらいです。

女子サッカーも時間が経つに連れて、男子とは違う独自の面白さをもっとさらに発揮して行くと思います。

一例を挙げれば、批判者の言うスピード不足は、むしろほんの一瞬の時間のズレ故にプレイの詳細が鮮明に見える、という利点があります。

当たりの激しさがないという批判に至ってはほとんど言いがかりです。選手たちは十分に激しく当たります。だが男子のように暴力的にはなりません。

女子選手たちは暴力に頼らない分を、巧みなテクニックでカバーしていると見えます。むしろ好ましい現象です。

テクニックが男子に比べて低いというのは、男子とのスピードの違いや、粗暴な体当たりの欠如などが生み出す錯覚に過ぎません。

今この時の世界のトップ選手が活躍する女子W杯の内容は十分に豊かです。しかも進化、向上していくであろう糊しろが非常に大きいと感じます。

今後プレー環境が改善されて競技人口のすそ野が広がれば、女子サッカーのレベルがさらに飛躍的に高まり、人気度も男子に拮抗するようになるかもしれません。

例えば女子ゴルフのように。

あるいは女子バレーボール並に。

その他多くのスポーツ同様に。

 

 

 

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令和5年8月15日にも聞く「東京だョおっ母さん」~兵士偶像化の危うさ

                             ©ザ・プランクス

島倉千代子が歌う、母を連れて戦死した兄を靖国神社に偲ぶ名歌、「東京だョおっ母さん」を聞くたびに筆者は泣きます。言葉の遊びではなく、お千代さんの泣き節の切ない優しさに包まれながら、東京での学生時代の出来事を思い出し、筆者は文字通り涙ぐむのです。

筆者は20歳を過ぎたばかりの学生時代に、今は亡き母と2人で靖国神社に参拝しました。筆者の靖国とは第一に母の記憶だ。そして母の靖国神社とは、ごく普通に「国に殉じた人々の霊魂が眠る神聖な場所」です。母の心の中には、戦犯も分祀も合祀も長州独裁も明治政府の欺瞞も、つまり靖国神社の成り立ちとその後の歴史や汚れた政治に関わる一切の知識も、従って感情もありませんでした。母は純粋に靖国神社を尊崇していました。

「東京だョおっ母さん」では戦死した兄が

♫優しかった兄さんが 桜の下でさぞかし待つだろうおっ母さん あれが あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ 兄さんも♫

と切なく讃えられます。

歌を聞くたびに筆者は泣かされます。靖国に祭られている優しい兄さんに、同じ神社に付き添って行った、温和で情け深い母の記憶が重なるからです。

だが涙をぬぐったあとでは、筆者の理性がいつもハタと目覚めます。戦死した優しい兄さんは間違いなく優しい。だが同時に彼は凶暴な兵士でもあったのです。

優しかった兄さんは、戦場では殺人鬼であり征服地の人々を苦しめる大凶でした。彼らは戦場で壊れて悪魔になりました。歌からはその暗い真実がきれいさっぱり抜け落ちています。

日本人は自分の家族や友人である兵士は、自分の家族や友人であるが故に、慈悲や優しさや豊かな人間性を持つ兵士だと思い込みがちです。

だが筆者は歌を聞いて涙すると同時に、「壊れた日本人」の残虐性をも思わずにはいられません。

不幸中の幸いとも呼べる真実は、彼らが実は「壊れた」のではないということです。彼らは国によって「壊された」のでした。

優しい心を壊された彼らは、戦場で悪鬼になりました。敵を殺すだけではなく戦場や征服地の住民を殺し蹂躙し貶めました。

兵士の本質を語るとムキになって反論する人々がいます。

兵士を美化したり感傷的に捉えたりするのは、日本人に特有の、危険な精神作用です。多くの場合それは、日本が先の大戦を「自らで」徹底的に総括しなかったことの悪影響です。

兵士を賛美し正当化する人々はネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者である可能性が高い。そうでないない場合は、先の大戦で兵士として死んだ父や祖父がいる者や、特攻隊員など国のために壮烈な死を遂げた若者を敬愛する者などが主体です。

つまり言葉を替えれば、兵士の悲壮な側面に気を取られることが多い人々です。その気分は往々にして被害者意識を呼び込みます。

兵士も兵士を思う自分も弱者であり犠牲者である。だから批判されるいわれはない。そこで彼らはこう主張します:

兵士は命令で泣く泣く出征していった。彼らは普通の優しい父や兄だった。ウクライナで無辜な市民を殺すロシア兵も国に強制されてそうしている可哀そうな若者だ、云々。

そこには兵士に殺される被害者への思いが完全に欠落しています。旧日本軍の兵士を称揚する者が危なっかしいのはそれが理由です。

兵士の実態を見ずに彼の善良だけに固執する、感傷に満ちた歌が島倉千代子が歌う名曲「東京だョおっ母さん」なのです。

凶暴であることは兵士の義務です。戦場では相手を殺す残虐な人間でなければ殺されます。殺されたら負けです。従って勝つために全ての兵士は凶暴にならなければなりません。だが旧日本軍の兵士は、義務ではなく体質的本能的に凶暴残虐な者が多かったフシがあります。彼らは戦場で狂おしく走って鬼になりました。「人間として壊れた」彼らは、そのことを総括せずに戦後を生き続け多くが死んでいきました。

日本人の中にある極めて優しい穏やかな性格と、それとは正反対の獣性むき出しの荒々しい体質。どちらも日本人の本性です。凶暴、残虐、勇猛等々はツワモノの、つまりサムライの性質。だがサムライは同時に「慎み」も持ち合わせていました。それを履き違えて、「慎み」をきれいさっぱり忘れたのが、無知で残忍な旧日本帝国の百姓兵士でした。

百姓兵の勇猛は、ヤクザの蛮勇や国粋主義者の排他差別思想や極右の野蛮な咆哮などと同根の、いつまでも残る戦争の負の遺産であり、アジア、特に中国韓国北朝鮮の人々が繰り返し糾弾する日本の過去そのものです。アジアだけではありません。日本と戦った欧米の人々の記憶の中にもなまなましく残る歴史事実。それを忘れて日本人が歴史修正主義に向かう時、人々は古くて常に新しいその記憶を刺激されて憤るのです。

百姓兵に欠如していた日本人のもう一つの真実、つまり温厚さは、侍の「慎み」に通ずるものであり、優しい兄さんを育む土壌です。それは世界の普遍的なコンセプトでもあります。戦場での残虐非道な兵士が、家庭では優しい兄であり父であることは、どこの国のどんな民族にも当てはまるありふれた図式です。しかし日本人の場合はその落差が激し過ぎる。「うち」と「そと」の顔があまりにも違い過ぎるのです。

その落差は日本人が日本国内だけに留まっている間は問題ではありませんでした。凶暴さも温厚さも同じ日本人に向かって表出されるものだったからです。ところが戦争を通してそこに外国人が入ったときに問題が起こりました。土着思想しか持ち合わせない多くの旧帝国軍人は、他民族を「同じ人間と見なす人間性」に欠け、他民族を殺戮することだけに全身全霊を傾ける非人間的な暴徒集団の構成員でした。

そしてもっと重大な問題は、戦後日本がそのことを総括し子供達に過ちを充分に教えてこなかった点です。かつては兄や父であった彼らの祖父や大叔父たちが、壊れた人間でもあったことを若者達が知らずにいることが重大なのです。なぜなら知らない者たちはまた同じ過ちを犯す可能性が高まるからです。

日本の豊かさに包まれて、今は「草食系男子」などと呼ばれる優しい若者達の中にも、日本人である限り日本人の獣性が密かに宿っています。時間の流れが変わり、日本が難しい局面に陥った時に、隠されていた獣性が噴出するかもしれません。いや、噴出しようとする日が必ずやって来ます。

その時に理性を持って行動するためには、自らの中にある荒々しいものを知っておかなければなりません。知っていればそれを抑制することが可能になります。われわれの父や祖父たちが、戦争で犯した過ちや犯罪を次世代の子供達にしっかりと教えることの意味は、まさにそこにあります。

真の悪は、言うまでもなく兵士ではありません。戦争を始める国家権力です。

先の大戦で多くの若い兵士を壊して、戦場で悪魔に仕立て上げた国家権力の内訳は、先ず昭和天皇であり、軍部でありそれを支える全ての国家機関でした。

兵士の悪の根源は天皇とその周辺に巣食う権力機構だったのです。

彼らは、天皇を神と崇める古代精神の虜だった未熟な国民を、情報統制と恐怖政治で化かして縛り上げ、ついには破壊しました。

それらの事実は敗戦によって白日の下にさらされ、勝者の連合国側は彼らを処罰しました。だが天皇は処罰されず多くの戦犯も難を逃れました。

そして最も重大な瑕疵は、日本国家とその主権者である国民が、大戦までの歴史と大戦そのものを、とことんまで総括する作業を怠ったことです。

それが理由の一つになって、たとえば銃撃されて亡くなった安倍元首相のような歴史修正主義者が跋扈する社会が誕生しました。

歴史修正主義者は兵士を礼賛します。兵士をひたすら被害者と見る感傷的な国民も彼らを称えます。そこには兵士によって殺戮され蹂躙された被害者がいません。

彼らは軍国主義日本が近隣諸国や世界に対して振るった暴力を認めず、従ってそのことを謝罪もしません。あるいは口先だけの謝罪をして心中でペロリと舌を出しています。

そのことを知っている世界の人々は「謝れ」と日本に迫ります。良識ある日本人も、謝らない国や同胞に「謝れ」と怒ります。

すると謝らない人々、つまり歴史修正主義者や民族主義者、またネトウヨ・ヘイト系排外差別主義者らが即座に反論します。

曰く、もう何度も謝った。曰く、謝ればまた金を要求される。曰く、反日の自虐史観だ。曰く、当時は誰もが侵略し殺戮した、日本だけが悪いのではない云々。

「謝れ!」「謝らない!」という声だけが強調される喧々諤々の不毛な罵り合いは、実は事態の本質を見えなくして結局「謝らない人々」を利しています。

なぜなら謝罪しないことが問題なのではありません。日本がかつて犯した過ちを過ちとして認識できないそれらの人々の悲惨なまでの不識と傲岸が、真の問題なのです。

ところが罵り合いは、あたかも「謝らないこと」そのものが問題の本質であり錯誤の全てでもあるかのような錯覚をもたらしてしまいます。

謝らない或いは謝るべきではない、と確信犯的に決めている人間性の皮相な輩が、かつて国を誤りました。そして彼らは今また国を誤るかもしれない道を辿ろうとしています。

その懸念を体現するもののひとつが、国民の批判も反論も憂慮も無視し法の支配さえ否定して、安倍元首相を国葬にした岸田政権のあり方です。

歴史修正主義者だった安倍元首相を国葬にするとは、その汚点をなかったことにしその他多くの彼の罪や疑惑にも蓋をしようとする悪行です。

戦争でさえ美化し、あったことをなかったことにしようとする歴史修正主義者が、否定されても罵倒されても雲霞の如く次々に湧き出すのは、繰り返し何度でも言いますが、日本が戦争を徹底総括していないからです。

総括をして国家権力の間違いや悪を徹底して抉り出せば、日本の過去の過ちへの「真の反省」が生まれ民主主義が確固たるものになります。

そうなれば民主主義を愚弄するかのような安倍元首相の国葬などあり得ず、犠牲者だが同時に加害者でもある兵士を、一方的に称えるような国民の感傷的な物思いや謬見もなくなるでしょう。

今のままでは、日本がいつか来た道をたどらないとは決して言えません。

拙速に安倍元首相の国葬を行った政府の存在や、兵士を感傷的に捉えたがる国民の多い社会は、78回目の終戦記念日を迎えても依然として平穏な戦後とはほど遠い、と筆者の目には映ります。

 

 

 

 

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NHKファンがアンチになりそうだ

NHK傘下の有料日本語放送局JSTV(ロンドン拠点)が突然、ことし10月末日をもってサービスを終了すると発表しました。

1990年に放送を開始したJSTVの必要性は、ネットをはじめとする各種媒体が隆盛する2023年の今は増々高まっています。決してその逆ではありません。

時代の流れに逆行して日本語放送を停止するNHKの真意はどこにあるのでしょう。NHKは世界から目を逸らしてドメスティックな思考に溺れているとしか思えません。

JSTVは欧州からアフリカを経て中近東までを包含し、ロシアを含む中央アジア全域に住まいまた滞在する日本人と、日本語を学ぶ外国人及び日本に興味を持つあらゆる人々の拠り所にもなっている媒体です

NHKはJSTVを存続させて、ネットという便利だが危険性も高い媒体に対抗し、補正し、あるいは共生しつつ公に奉仕するべきではないか。後退ではなく前進するのが筋道だと考えます。

33年も続いたビジネスモデルを今になっていきなり捨てるとは、当初の成功がネットに押されて立ち行かなくなった、ということでしょう。

NHKはネットに対抗する変革とビジネス努力をしっかりと行ってきたのでしょうか。

ビジネスだからいくら努力をしてもうまくいかなかったということもあるでしょう。それでも、あるいはだからこそ「公共放送」を自認するNHKは、傘下にあるJSTVを存続させる努力をするべきです。

なぜなら ― 繰り返しになりますが ― 33年前に必要とされた欧州・アフリカ・中東・ロシア&中央アジアをカバーする日本語放送は、2023年の今はもっとさらに必要とされているからです。

ニーズは断じて減ってはいません。

時勢に逆行する施策にこだわるNHKは内向きになっていいます。昨今は日本中が内向きになりがちです。従って世相から隔絶して存在することはできないメディアの、その一部であるNHKがトレンドに巻き込まれるのは分からないでもありません。

だが同時に、NHKは日本のメディアを引っ張る最重要な機関でもあります。内向きになり、心を閉ざし、排外差別的になりがちな風潮を矯正する力でもあるべきです。

世界は日本ブームです。その大半は日本の漫画&アニメの力で引き起こされました。

多くの世界中の若者が、日本の漫画&アニメを介して日本文化に興味を持ち、日本語を習い、日本を実際に訪ねたりしてさらに日本のファンになってくれています。

それらの若者がそれぞれの国で頼りにし、親しみ、勉強にも利用する媒体のひとつが日本語放送のJSTVです。

日本の文化を愛し、日本語を話す外国人は、日本にとって極めて重要な人的リソースになります。

彼らは平時には日本の文化を世界に拡散する役割を担い、日本が窮地に陥る際には日本の味方となって動いてくれる可能性が高いのです。

ある言語を習得した者は、その言語の母国を憎めなくなります。ほとんどの場合はその言語の母国を愛し親しみます。日本語を習う外国人が、習得が進む毎にさらに日本好きになって行くのはそれが理由です。

テレビに頼らなくてもむろん今の時代は情報収集には困りません。ネットにも情報があふれているからです。

だがそこには残念ながら、欺瞞や曲解や嘘や偏見、また思い込みや極論に基づくフェイク情報なども多いのが現実です。

そういう状況だからこそNHKは、踏ん張ってJSTVの放送を続けるべきです。フェイクニュースやデマも多いインターネットに対抗できるのは、一次情報を豊富に有するNHKのような媒体です。

膨大な一次情報を持つNHKの信条は、不偏不党と公平中立、また客観性の重視などに集約されます。

個人的には筆者は不偏不党の報道の存在には懐疑的ですが、NHKがそこを「目指す」ことには大いに賛同します。

NHKの傘下にあるJSTVの哲学も、本体のNHKと同じです。特に報道番組の場合はNHKのそれが日本との同時放送で流れますから変りようもありません。

その意味でも、NHKがJSTVの存続に力を注ぐのは、むしろ義務と言っても過言ではないと思います。

NHKが自ら報告する年次予算の決済はほぼ常に黒字です。それを例年内部留保に回していますが、そのほんの一部を使ってJSTVを立て直すことも可能と見えるのにその努力をしません。

そうしない理由は明白です。日本の政治と多くの企業がそうであるように、NHKも内向き志向の保守・民族主義勢力に支配されているからです。

NHKにはむろん進歩的な国際派の職員もいます。だが彼らは多くの場合「平家・海軍・国際派」の箴言を地で行く存在です。強い権力は持ちません。

もしも彼ら、特に国際派の人々が権力の中枢にいるなら、NHKがJSTVを見捨てないことの重要性を理解してその方向に動く筈ですが、折悪しく状況は絶望的です。

 

 

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大手メディアの存在価値

インターネットが好きな人々の中にはテレビを全く見ない、あるいはそれを信用しないという者が多くいます。

人それぞれの考え方がありますからそれはそれで構わないと思います。だが同時にそうした人々は、インターネットにも同様の警戒心を抱きつつ進むほうが良いでしょう。

テレビをはじめとする大手メディアは資金や人的資源を豊富に持っています。彼らはそれを縦横無尽に使って情報を収集します。大手メディアの報道や番組は一次情報の宝庫です。

いうまでもなく一時情報は、それがありのままに正直に提示されたものなら、客観的な事実であり真実である場合がほとんどです。

テレビが嫌いなネット住人もそれを利用しない手はありません。受信料を要求されるNHKを除けば、テレビに流れるそれらの一次情報は全てタダなのです。

同じ無料の情報でも、大手メディアのそれとネット上のそれは違います。

SNSで情報を発信している個人には、自分以外には人材も金もないため、足と時間と労力を使って得る独自情報や見聞は少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯です。

そこで彼らは大手メディアが発信する一次情報を基に記事を書いたり報道したりすることになります。そしてそこには必ず彼らの解釈や意見や感じ方が盛り込まれます。

その結果ネット空間には偏向や偏見や思い込みに基づく表現もあふれることになります。

筆者はテレビ番組を作ったり紙媒体に記事を書く以外にSNSでも発信しています。その場合には今述べた現実をしっかり意識しながら動いています。

つまり、自分の足で集めた情報以外は、あらゆるメディアやツテや友人知己からの一次情報を自分なりに解釈し考察して、その結果を発信するということです。

そこでは事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露」することが優先されます。換言すれば、他から得た情報や事実や見聞に対して自らの意見を述べるつもりで記事を書くのです。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することです。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、他者の持つ違う見解の存在を認めること、と同義です。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになります。

SNSでの「発信」を目指す者は、あくまでも情報や事実や「報道」等に基づく、書き手の意見や哲学や思考を述べる努力をするべきです。個人が情報を発信する意味はそこにあると思います。

客観的な情報やニュースは大手メディア上にあふれています。あふれているばかりではなく、それらは正確で内容も優れている場合が多い。個人の発信者の比ではないのです。

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JSTV突然サービス終了のひじ鉄砲

ことし5月、ロンドン拠点の有料日本語放送局JSTVが、10月末日をもってサービスを終了すると発表しました。

JSTVはNHK傘下のNHKコスモメディアヨーロッパが所有する放送局です。

筆者はJSTVの黎明期からおよそ30年にわたって視聴してきたので、いきなりの宣告に正直驚きました。

突然放送が打ち切りになることもそうですが、「JSTV」のサービス終了を決めたことをここにお知らせします、という高飛車なアナウンスの仕方にもびっくりしました。

倒産する企業なんてそんなものかもしれませんが、大NHKがバックについている割にはなんともお粗末な内容だと思いました。

もっともある意味では、大NHKがバックについているからこそそんなアナウンスの仕方になったのかもしれません。

さて自身もテレビ屋である筆者は、テレビ番組を作るのと同程度にテレビを見ることも好きなので、JSTVがなくなる11月以降はどうしようかと少し困惑気味です。

その個人的な事情はさておき、NHKがJSTVを見捨てることの大局的な見地からの喪失感が大いに気になります。

JSTVはヨーロッパ、北アフリカ、中東、ロシアを含む中 央アジア地域の60を超える国に住む日本人に日本語の番組を提供する目的で設立されました。

突然の放送打ち切りの理由として同局は、「加入世帯数の減少と放送を取り巻く環境の変化」によりサービスの継続が困難になったから、としています。それが事実なら非常に残念です。

なぜなら筆者にはその主張は、「インターネットに負けたので放送を止めます」としか聞こえないからです。NHKは本気でインターネットの前から尻尾を巻いて逃げ出すつもりなのでしょうか?

テレビ放送がWEBサービスに押されて呻吟している今こそ、逆にNHKはJSTVを支えて存続させるべきではないでしょうか。

JSTVは今さき触れたように、欧州を中心とする60余国に住む邦人に母国語の放送を提供しています。重要な使命です。

だがそれだけではありません。JSTVは日本語を学んだり学びたい人々、あるいは日本に関心のある域内の外国人の拠り所となり喜びももたらしています。そのことを見逃すべきではありません。

JSTVは日本人視聴者が外国人の友人知己を招いて共に視聴することも多い。

例えば筆者なども、日本に関する情報番組などを親しい人々に見せて楽しんだり学ばせたりすることがあります。大相撲中継に至っては、友人らを招いて共に観るのは日常茶飯事です。

そうした実際の見聞ばかりではなく、衛星を介して日本語放送が地域に入っている、という事実の心理的影響も大きい。

日本語の衛星放送が見られるということは、日本の国力を地域の人々に示すものであり、それだけでも宣伝・広報の効力が生まれて国益に資します。

公共放送であるNHKは、そうした目に見えない、だがきわめて重要な要素も考慮してJSTV存続に向けて努力するべきと考えます。

JSTVのウエブサイトでは、「JSTV」終了後にNHKがインターネットも活用した視聴方法について準備・検討を進めている」としています。

それは是非とも実行してほしいと思いますが、もっと良いのは、インターネットに対抗し同時に共存するためにも、今の放送を継続することです。

 

 

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オランダ・ルッテ首相の真意はどこ?

これはあくまでも心証です。少しの楽観論も入っています。

先日、オランダのマルク・ルッテ首相が政界から引退すると表明したことに少し感服する思いでいます。

中道右派の自由民主国民党(VVD)を率いるルッテ首相はまだ56歳。

脂ぎった性格の者が多くいつまでも権力に固執する傾向が強い政治家らしからぬ潔さ、と感じるのです。

ルッテ氏は2010年10月に首相に就任しました。以来およそ13年に渡った在任期間はオランダ史上で最も長い。

オランダはほぼ全ての欧州の国々と同様に難民・移民問題で大きく揺れています。

同国は人口約1700万人の小国ですが、歴史的に移民を受け入れて成長した多民族国家であり千姿万態が美質の国です。

国土が狭く貧しいため、歴史的に世界中の国々との貿易によって生存を確保しなければなりませんでした。

宗教の多様性に加えて、貿易立国という実利目的からも、オランダは常に寛容と自由と開明の精神を追求する必要がありました。

オランダは国の経済状況に応じて世界中から移民を受け入れ発展を続けました。

だが近年はアフリカや中東から押し寄せる難民・移民の多さに恐れをなして、受け入れを制限する方向に動くことも少なくありません。

保守自由主義者のルッテ首相は、流入する難民の数を抑える政策を発表。だが連立政権を組む中道左派の「民主66」と「キリスト教連合」の造反で政権が崩壊しました。

ルッテ首相はこれを受けて、総選挙後に新内閣が発足した暁には政界を去る、と明言したのです。

筆者は日本とイタリアという、よく似た古い体質の政治土壌を持つ国を知る者として、彼の動きに感銘を受けました。

イタリアにも日本にも老害政治家や蒙昧な反知性主義者が多い。加えて日本では世襲政治家も跋扈しています。

日伊両国の感覚では、政治家としてはまだ若いルッテ首相が、あっさりと政界に別れを告げた潔さに、筆者は知性の輝きのようなものを見るのです。日伊の政治家とはずいぶん違うと感じます。

ルッテ首相が示したエリートまた教養主義的な面影は、得てして左派政治家に見られるものですが、この場合は保守主義者のルッテ氏であるのがさらに面白い。

大国ではないが政治的腕力の強いオランダを長く率いる間には、ルッテ首相は財政面でイタリアに厳しい姿勢で臨むなど、強持ての一面も見せました。だが、印象は常に潔癖な知性派であり続けました。

そんなたたずまいも彼の政界引退宣言と矛盾しないのです。

そうはいうものの、しかし、ルッテ氏も権謀術数に長けた政治家です。前言を翻して今後も政界に留まらないとも限りません。そこは少し気をつけて見ていようと思います。

 

 

 

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高市早苗氏に媚びる読売新聞が日本メディア全体の地金である

6月半ば、イタリアへ向けて飛ぼうとする日の早朝、滞在先のホテルが部屋に届けてくれる新聞4紙に目を通しました。

4紙のうちの読売新聞が、高市早苗経済安全保障相をポスト岸田の候補のひとり、とするヨイショ記事を載せていました。

筆者が日本に滞在中には他の3紙には、そういう類の記事は書かれなかったと思います。

メディアを支配できる、また支配しなければならないとする不遜な思想を持つ政治家を、メディアの一角である読売新聞が忖度し持ち上げるのは、同紙がメディアの名に値しないことを示しています。

そうはいうものの、しかし、他のメディアも彼女の闇をとことん追及しないところを見れば、みな同じ穴のムジナですが。

筆者が日本の新聞を読むのは、帰国している時ぐらいです。イタリアでは主に衛星テレビとネットで日本の情報を追います。

そこを介してみる限り、7月10日現在、日本のメディアが高市大臣の暗い危険な思い込みを探査している様子は最早ありません。

日本のメディアは高市経済安保相の尊大で危険な思想をなぜ徹底的に論難しないのでしょうか。

熱しやすく冷めやすく且つ羊っぽい国民が、もうすっかり忘れたか諦めたかしたからでしょうか。

ならばメディアは、国民の記憶を呼び覚まし不正義への抗議を炊きつけるべく果敢に報道を続けるべきです。

それともメディアは国民に倣って、高市大臣の危険思想は自然消滅したとでも見做しているのでしょうか。

すると高市問題は、あるいはこのままうやむやになって、彼女は日本初の女性首相になるのでしょうか。

だが

メディアの監視と批判に耐えられない政治家は首相になるべきではありません。

メディアを抑圧し制御できると考える政治家は、政治家でさえありません。

それは単なる独裁者です。

独裁者かもしれない政治家の本性を徹底検証しようとしないメディアは、どうやら彼女の逃げ切りを許してしまったらしい野党と同罪の、悲惨コッケイなからくりです。

 

 

 

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イタリア初の女性首相の精悍

イタリアではベルルスコーニ元首相が6月12日に死去した直後から、彼も参与していたメローニ政権の先行きを危ぶむ声が多く聞かれました。

86歳だったベルルスコーニ元首相はキングメーカーを自認し、周りからは政権の肝煎りとしての役割も期待されていました。

メローニ政権は首相自身が党首を務める「イタリアの同胞」と故ベルルスコーニ氏が党首だった「フォルツァ・イタリア」、またサルビーニ副首相兼インフラ相が党首の「同盟」の3党連立政権です。

連立を組む3党はいずれも保守政党。イタリアでは中道右派と規定されます。だがその中で中道の呼び方にふさわしいのは、元首相の「フォルツァ・イタリア」のみです。

メローニ首相率いる議会第1党の「イタリアの同胞」は、ファシスト党の流れを汲む極右政党。政権第2党の「同盟も極右と呼ばれることが多い超保守勢力です。

「フォルツァ・イタリア」も極右2党に迫るほどの保守派ですが、ベルルスコーニ元首相を筆頭に親EU(欧州連合)で結束しているところが2党とは違います。

メローニ首相はベルルスコーニ政権で閣僚を務めたこともある親ベルルスコーニ派。「同盟」のサルビーニ党首も、過去に4期、計9年余も首相を務めたベルルスコーニ氏に一目置いている、という関係でした。

ベルルスコーニ元首相が政権の調整役、という役割を負っても不思議ではなかったのです。

政権の副首相兼インフラ大臣でもあるサルビーニ「同盟」党首は、野心家で何かと独善的に動く傾向があり、過去の政権内でも多くの問題を起こしています。

そのためベルルスコーニ元首相の死去を受けて、サルビーニ副首相兼インフラ相が俄かに勢いづいて動乱の狼煙をあげるのではないか、と危惧されました。

それは杞憂ではありませんでした。サルビーニ氏は先日、来たる欧州議会選挙ではフランス極右の国民連合と、ドイツ極右の「ドイツのための選択肢」とも共闘するべき、と主張し始めたのです。

するとすぐに「フォルツァ・イタリア」の実質党首で外相のタイヤーニ氏が、極右の2党とは手を結ぶべきではない、と反論。連立政権内での軋みが表面化しました。

「フォルツァ・イタリア」はベルルスコーニ党首の死後、ナンバー2のタイヤーニ外相(兼副首相)が党を率いていますが、彼にはベルルスコーニ元首相ほどのカリスマや求心力はありません。

それでも政権内ではタイヤーニ外相の存在は軽くありません。彼とサルビーニ氏の対立は、一歩間違えば政権崩壊への道筋にもなりかねない重いものです。

メローニ首相は、前述の欧州最強の極右勢力との共闘については今のところ沈黙しています。

彼女は選挙前、サルビーニ氏以上の激しさで極右的な主張を展開しました。だが総選挙を制して首班になってからは、激烈な言動を控えて聡叡になりました。

ある意味で一国のトップにふさわしい言動を続けて、風格さえ漂わせるようになったのです。

メローニ首相にはもはやベルルコーニ元首相のような仲介役は政権内に要らないのかもしれません。独自にサルビーニ氏をあしらう法を編み出したのではないか、と見えるほど落ち着いています。

彼女がこの先、サルビーニ“仁義なき戦い”大臣をうまく制御できるようになれば、連立政権は長続きするでしょう。

だがその逆であるならば、イタリア初の女性首相の栄光は終わって、早晩イタリア共和国の「いつもの」政治不安の季節が訪れるに違いありません。

 

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プーチンの終わりが始まった

ならず者のプリゴジンが、ならず者のプーチンを倒して世界を救うかも、と淡い期待を抱かせたもののあえなく沈没しました。

ロシアの民間傭兵組織・ワグネルの反乱は24時間足らずで鎮圧されました。毒を持って毒を制すなんてそう簡単にはいかないものです。

プりゴジンは「7月1日にワグネルがロシア政府によって強制的に解体され消滅するのを防ぐために反乱を起こした。プーチン政権を転覆させるのが目的ではなかった」と言い訳しました。

だが当たり前に考えれば、ワグネルのプリゴジンはもう死体になったも同然だと見るべきでしょう。

プーチンに武力で対抗しようとして事実上敗れ、プーチンの犬のルカシェンコの庇護の下に入ったのです。プーチンは思い通りに、いくらでも彼をなぶることができるのではないか。

殺すにも幾通りかのやり方がありそうです。

先ず密かに殺す。スパイのプーチン得意のお遊びです。殺しておいて知らんぷりをし、殺害現場を見られても証拠を突きつけられても、鉄面皮に関係ないとシラを切り通します。

おおっぴらに処刑する。今回の場合などは裏切り者を消しただけ、と大威張りで主張することも可能です。意外と気楽にやり切るかもしれません。

殺害する場合はどんな手段にしろ、邪魔者を排除するという直接の利益のほかに、プーチンに敵対する者たちへの見せしめ効果もあります。

飼い殺しにするやり方もあるでしょう。飼っておいていざという時には再び戦闘の最前線に送る、汚い仕事を強制的にやらせる、などの道があります。

殺すとプリゴジンが殉教者に祭り上げられてプーチンに具合が悪い事態になるかもしれません。だが長期的にはほとんど何も問題はないでしょう。

逆に殺さなければプーチンの権威がますます削がれて危険を招く可能性が高まります。プーチンはやはりプリゴジンを殺すと見るべきでしょう。

だがその前に、プリゴジンと親しくワグネルの反乱計画を事前に知っていた、とされるロシア軍のスロビキン副司令官が逮捕されたと各メディアが伝えています。

どうやらプーチンは「ロシアに背中から斬りつけた“裏切り者”」として、先ずスロビキン副司令官を粛清すると決めたようです。

最大の裏切り者であるプリゴジンではなく、スロビキン副司令官を先に断罪するのは、プーチンがプリゴジンに弱みを握られていることの証でしょう。

弱みとは、彼を排除することで、ワグネルの隊員や同調者らの反感を買うことや、先に触れたようにプリゴジンが神格化される可能性などを含みます。

それでも彼は、スロビキンを排除したあとにはプリゴジンにも手を伸ばして殺害しようとするのではないでしょうか。

このまま何もしないでプリゴジンがベラルーシで生存し続けることを許せば、プーチンの権威はさらに地に落ちます。

そうなれば、遅かれ早かれプーチン自身も失墜し排除されるのは確実です。

つまり、何がどう転ぼうと、プーチンの終わりは既に始まっています。

 

 

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