名誉教皇の「たわけ」の衝撃

2013年に退位して名誉教皇となったベネディクト16世(92)が、完全消滅とさえ見えた隠棲所からふいに表舞台に姿をあらわして、世迷い言にも見える主張をして多くの人々の顰蹙を買っています。

世迷い言とは、「カトリック教会は聖職者の独身制を守り通すべき」というものです。カトリック教会の司祭の独身制は、未成年者への性的虐待の元凶たる悪しき習慣として、いま世界中で厳しく批判されています。

そんな折に、ブラジルのアマゾンに代表される世界中の僻地での司祭不足がクローズアップされました。地球上の辺縁地ではカトリックの司祭の成り手がなく、ミサが開けないために信者への接触もままなりません。それは地域の信者のカトリック離れにつながります。

カトリック教はただでもプロテスタント他の宗派に信者を奪われ続けていて、バチカンは危機感を抱いています。フランシスコ教皇は、既婚者の男性も司祭になる道を開くことで、その問題に風穴を開けようとしました。

そこに突然反対を表明したのが、この世にほとんど存在しないようにさえ見えた名誉教皇、つまり旧ベネディクト16世なのです。彼は現役の教皇時代からバチカン守旧派のラスボス的存在でした。どうやら死んだ振り隠棲をしていたようです。

ベネディクト16世は2013年、719年ぶりに自由意志によって生前退位し名誉教皇になりました。高齢を理由に挙げましたが、歴代教皇はほぼ誰もが死ぬまで職務を全うしました。 その事実も影響するのか、ベネディクト16世の言動には違和感を覚える、という人が少なくありません。筆者もその1人です。

違和感の理由はいろいろあります。最大のものはベネディクト16世が、聖職者による性的虐待問題から逃げるために退位した、という疑惑また批判です。その問題は2002年に明らかになり、2010年には教皇の退位を要求する抗議デモが起きるなど、ベネディクト16世への風当たりが強まり続けました。

「教義の番犬」とも陰口されたベネディクト16世は、ガチガチの保守派で在位中にはほかにも少なくない問題を起こしました。例えば不用意なイスラム教のジハード批判や、ホロコースト否定者への安易な接近、あるいは「聖職者による性的虐待は“ アメリカの物質偏重文化 ”にも一因がある」というトンチンカン発言などです。

重篤なHIV問題を抱えるアフリカの地で、感染予防に用いられるコンドームの使用に反対する、とやはり無神経に発言したこともあります。産児制限、同性愛、人工妊娠中絶などにも断固反対の立場でした。またバチカンで横行するマネーロンダリングと周辺問題への対応でも彼は強く批判されました。

さらに言えば教皇ベネディクト16世は、聖職者による未成年者性虐待の元凶とされる、司祭の独身制の維持にも固執していました。そして今般、あたかもゾンビの出現にも似た唐突さで表舞台に現れて、十年一日のごとく「独身制を維持するべき」と発言したのです。

その主張への反発と共に、勝手に引退をしておきながらふいにまかり出たさらなる身勝手に、信者の間ではおどろきと反駁の嵐がひそかに起こっています。彼の言動はただでも抵抗の強いバチカン保守派を勢いづけて、フランシスコ教皇の改革を停滞させ、バチカン内に分裂をもたらす恐れもあります。むろん教会内の守旧派が名誉教皇を焚きつけて異例の声明を出させた、という見方もできます。むしろそちらの方が真相に近いでしょう。

世界13億の信者の心の拠り所であるバチカンの威儀は、2005年のヨハネ・パウロ2世の死後、まさしく今ここで言及しているベネディクト16世の在位中に後退しました。少なくとも停滞しました。 しかし2013年に第266代フランシスコ現教皇が就任すると同時に、再び前進を始めました。

清貧と謙虚と克己を武器に、保守派の強い抵抗の中バチカンの改革を推し進めようともがいている現教皇フランシスコは、聖人ヨハネ・パウロ2世に似た優れた聖職者です。少なくともベネディクト16世とは似ても似つかないように見えます。

ローマ教皇はカトリック教徒の精神的支柱です。その意味では、日本教という宗教の信者である日本国民の精神的支柱、と形容することもできる天皇によく似ています。両者にいわば性霊の廉潔が求められることも共通しています。

その例にならえば、自らの意思で退位したベネディクト名誉教皇は、同じく平成の天皇の地位から自発的に退位した明仁上皇のケースとそっくりです。退位の動機が高齢と健康不安からくる職務遂行への憂慮、というのも同じです。

だが、双方の信者の捉え方は全く違います。明仁上皇の人となりや真摯や誠実を疑う日本国民は少ないでしょう。一方ベネディクト名誉教皇の場合は、明仁上皇のケースとは正反対の意見を抱いている信者が多くいます。「不誠実で身勝手な存在」と声を潜めて言う信者を筆者も多数知っています。

それでも彼らは、名誉教皇が隠棲所に引っ込んで、この世にほとんど存在しないような状況が続いていた頃には、彼への反感を覚えることなどありませんでした。存在しないのですから反感の覚えようがありません。そして2013年以降はそれが常態でした。彼の存在の兆候はそれほどに希薄だったのです。

そんな人物がにわかに姿をあらわして、自らの持論をゴリ押しする態度に出たものですから人々が驚かないわけがありません。ましてやその主張が時流に真っ向から対峙する「聖職者の独身制を維持しろ」というものですから、反発する信者や関係者が多いのもうなずけます。

司祭の独身制は 単なる慣習です。カトリックの教義ではありません。12世紀以前には聖職者も普通に結婚していました。イエスキリストの一番弟子で初代教皇とされる聖ペテロが結婚していたことは明らかですし、イエスキリスト自身が既婚者だった可能性さえあります。少なくとも彼が独身であることが重要、という宗教的規範はありません。

カトリック教会が司祭の独身制を導入した直接の動機は、聖職者が家庭を持ち子供が生まれた暁に生じる遺産相続問題だったとされます。教会は子供を持つ聖職者に財産を分与しなければならなくなる事態を恐れたのです。そのことに加えて、精神を称えて肉体を貶める二元論の考え方も重要な役割を果たしました。

元々キリスト教は子を産む生殖つまり婚姻と性交を称揚します。そんな宗教が司祭の結婚を否定する奇天烈な因習にとらわれるようになったのは、肉体と精神のあり方を対比して説く二言論の影響があったからです。そこでは肉体に対する精神の優位が主張され、肉体の営為であるセックスが否定されます。だから聖職者の独身が奨励されるのです。

その論法には婚姻をあたかも肉体の行為のためだけのメカニズム、と捉える粗陋があります。婚姻は夫婦の性の営みと共に夫婦の精神的なつながりや行動ももたらす仕組みです。それなのに夫婦の性愛のみを問題にするのは、教会こそが男女のセックスのみを重視する色情狂である、と自ら告白しているようなものです。

聖職者が独身であることが、性的虐待行為の「引き金」の全て、という証拠は実はありません。また既婚者であることが虐待行為の完全抑止になる訳でもありません。しかし、ある程度の効力はあると考えられます。それだけでも独身制を破棄する意味があります。

だがそうしたことよりも何よりも、聖職者の結婚を不浄とみなす馬鹿げた考えを捨てる意味で、カトリック教会は独身制の継続を諦めるべきだと思います。それは不誠実で、偽善的で、卑猥でさえある教会の偏執に過ぎない、という真実に教会自身がそろそろ気づくべきです。

名誉教皇の突然の寝ボケた声明は、世界中で湧き起こっている聖職者の性的虐待問題にひそかに油を注いでいます。燃え上がるのは反感の炎と共に保守派の気炎です。対立する二つの火焔はさらに燃え上がって、ローマ教会を焼き尽くし大きく分裂させる可能性もゼロではありません。

突然のようですが、しかし、最後に付け加えておきたいと思います:

名誉教皇ことベネディクト16世は、教皇在位の頃から時流や世間に合わないずれた言動をすることがよくありました。そんな彼の真の問題は実は、コミュニケーション能力の欠落にある、と筆者は考えます。教義と理論のみを愛する無味乾燥な神学者、と見えなくもなかった教皇ベネディクト16世は、温かく豊かな情感と信義と慈悲を教会に求める大部分の信者には不人気でした。彼はコミュニケーションが絶望的に下手だったのです。名誉教皇は今回の騒動で再び同じ轍を踏んでしまった、と筆者の目には映ります。


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