Je suis Charlieか否か?

 

いつか来た道

5年前、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載してイスラム過激派に襲撃され、12人の犠牲者を出したフランス・パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」が先日、同じ風刺画を再び第1面に掲載して物議をかもしました。

事件では移民2世のムスリムだった実行犯2人が射殺されました。また武器供与をするなど彼らを支援したとして、ほかに14人が起訴されました。シャルリー・エブドはその14人の公判が始まるのに合わせて、問題の風刺画を再掲載したのです。

同紙は「事件の裁判が始まるにあたって、風刺画を再掲する。それは必要不可欠なことだ。我々は屈しないしあきらめない」と声明を出しました。

フランスのマクロン大統領は「信教の自由に基づき、宗教を自由に表現することができる」と述べてシャルリー・エブドの動きを擁護。一方、イスラム教徒やイスラム教国からは例によって強い反発が起きました。


冒涜権

シャルリー・エブド襲撃事件では、言論の自由と宗教批判の是非について大きな議論が沸き起こりました。そこでは言論の自由を信奉する多くの人々が、怒り悲しみ「Je suis Charlie (私はシャルリー)」という標語と共にイスラム過激派に強く抗議しました。

フランスをはじめとする欧米社会では、信教の自由と共に「宗教を批判する自由」も認められています。従ってシャルリー・エブドのイスラム風刺は正しい、とする見方がある一方で、言論の自由には制限があり、侮辱になりかねない行過ぎた風刺は間違っている、という考え方もあります。

2015年1月の事件直後には、掲載された風刺画がイスラム教への侮辱にあたるかどうか、という馬鹿げた議論も大真面目でなされました。シャルリー・エブドのイスラム風刺は、もちろんイス ラム教への侮辱です。だが同時にそれは、違う角度から見たイスラム教や同教の信徒、またイスラム社会の縮図でもあります。

立ち位置によって一つのものが幾つ もの形に見える、という真実を認めるのは即ち多様性の受容です。そして多様性を受け入れるとは、自らとは違う意見や思想に耳を傾け、その存在を尊重することです。それは言論の自由を認めることとほぼ同義語です。

バカも許すのが言論の自由

言論の自由とは、差別や偏見や憎しみや恨みや嫌悪や侮蔑等々の汚濁言語を含む、あらゆる表現を公に発表する自由のことです。言葉を換えれば言論の自由のプリンシプルとは、言論ほかの表現手段に一切のタガをはめないこと。それが表現である限り何を言っても描いても主張しても良い、とまず断断固として確認することです。

さらに言えば言論の自由とは、それの持つ重大な意味も価値も知らないバカも許すこと。つまりテロリストにさえ彼らの表現の自由がある、と見なすことです。その原理原則を踏まえた上で、宗教や政治や文化や国や地域等々によって見解が違う個別の事案を、人々がどこまで理解しあい、手を結び、あるいは糾弾し規制するのかを、互いに決めていくことが重要です。

言うまでもなく言論の自由には制限があります、だがその制限は言論の自由の条件ではありません。飽くまでも「何でも言って構わない」自由を認めた上での制限です。それでなければ「制限」を口実に権力による言論の弾圧がいとも簡単に起きます。中国や北朝鮮やロシアを見ればいい。中東やアフリカの独裁国家もそうです。過去にはナチやファシストや日本軍国主義政権がそれをやりました。

制限の中身は国や社会によって違います。違って然るべきです。言論の自由が保障された社会では、例えばSNSの匿名のコメント欄におけるヘイトコメントや罵詈雑言でさえ許されます。それらはもちろんSNS管理者によって削除されるなどの処置が取られるかもしれません。が、原理原則ではそれらも発表が許されなければならない。そのように「何でも構わない」と表現を許すことによっ て、トンデモ思想や思い上がりやネトウヨの罵倒やグンコク・ナチズムなどもどんどん表に出てきます。

自由の崖っぷち

そうした汚れた言論が出たとき、これに反発する「自由な言論」、つまりそれらに対する罵詈雑言を含む反論や擁護や分析や議論がどの程度出るかによって、その社会の自由や平等や民主主義の成熟度が明らかになるのです。シャルリーエブドが掲載した風刺画を巡って議論百出したのは、それが表現の自由を擁護するフランスまた民主主義社会のできごとだったからです。そこで示されたのは、要するに「表現や言論の自由とは何を言って構わないということだが、そこには責任が付いて回って誰もそれからは逃れられない」ということです。

そのように言論の自由には限界があります。「言論の自由の限界」は、言論の自由そのもののように不可侵の、いわば不磨の大典とでもいうべき理念ではありません。言論の自由の限界はそれぞれの国の民度や社会の成熟度や文化文明の質などによって違いが出てくるものです。 ひと言でいえば、人々の良識によって言論への牽制や規制が成されるのが言論の自由の限界であり、それは「言論及び表現する者の責任」と同義語です。 「言論の自由の限界」は言論の自由に守られた「自由な言論」を介して、民衆が民衆の才覚で発明し、必要ならばそれを公権力が法制化して汚れた言論を規制します。

たとえばシャルリーエブドは、ムハンマドの風刺画を掲載して表現の自由を行使したのであって、それ自体は何の問題もありません。しかし、その中身については、筆者を含む多くの人々が賛同しているのと同様に反対する者も多くいて、両陣営はそれぞれに主張し意見を述べ合います。罵詈雑言を含むあらゆる表現が噴出するのを見て、さらに多くの人々がこれに賛同し、あるいは反対し、感動し、憤り、悩んだりしながら表現の自由を最大限に利用して意見を述べます。そうした舌戦に対してもまたさらに反論し、あるいは支持する者が出て、議論の輪が広がっていきます。

議論が深まることによって、言論の自由が興隆し、その議論の高まりの中で言論の自由の「限界」もまた洗練されて行くのです。いわく他者を貶めない、罵倒しない、侮辱しない、差別しない、POLITICAL CORRECTNESS(政治的正邪)を意識して発言する・・など。など。そうしたプロセスの中で表現の自由に対する限界が自然に生まれる、というのが文明社会における言論の望ましいあり方です。人々の英知が生んだ言論の自由の「限界」を、法規制として正式整備するかどうかは、再び議論を尽くしてそれぞれの国が決めていくことになります。

言論の自由と民主主義

言論の自由とは、要するに言論の自由の「最善の形を探し求めるプロセスそのもの」のこととも言えます。つまり民主主義と同じです。民主主義は他のあらゆる政治システムと同様に完璧ではありません。完璧な政治システムは存在しません。むろん十全な民主主義体制も存在しない。だが民主主義は、自らの欠陥や誤謬を認め、且つそれを改善しようとする民衆の動きを是とします。その意味で民主主義は他のあらゆる政治システムよりもベターな体制です。そしてベストが存在しない世界では、ベターがベストなのです。

民主主義はより良い民主主義を目指してわれわれが戦っていく過程そのもののことです。同じように言論の自由の“自由”とは、「表現の限界&制限」の合意点を求めて、全ての人々が国家や文化や民族等の枠組みの中で議論して行く過程そのもののことです。各地域の知恵が寄り集まって国際的な合意にまで至れば、理想的な形となります。忘れてはならないのは、それら一つひとつの議論の過程は暴力であっさりと潰すことができる、という現実です。過去のあらゆる暴政国家と変わらない北朝鮮や中国が、彼らの国民の言論を弾圧しているように。戦前の日本で軍部が人々から言論の自由を奪っていたように。

同様にテロリストは、彼らテロリストの思想信条でさえ「言論の自由」として認めている人々、つまり言論の自由を信奉し実践している人々を殺戮することによって、その理念に挑み破壊しようとします。彼らはそうすることで、「言論の自由」など全くあずかり知らない蛮人であることを自ら証明します。人類の歴史は権力者に言論や表現の自由を奪われ続けた時間です。権力者はどうやってそれを成し遂げたか。暴力によってです。だから暴力の別名であるテロは糾弾されなければならないのです。

全てを笑い飛ばす見識

その一点では恐らく全ての人々が賛同することでしょう。だが問題は前述したように、一人ひとりの立ち位置によって現象の捉え方や理解が違う点です。違いを克服するためには永遠に対話を続ける努力をしなければなりません。話し合えば暴力は必ず避けられます。避けられると信じて対話を続ける以外に人々がお互いに理解しあう道はありません。対話を続けることが民主主義の根幹であり言論の自由の担保です。

シャルリー・エブドによるムハンマドへの風刺を受け入れられない人々の中には、もしもイエス・キリストを風刺する絵が掲載されたならば、キリスト教徒も必ず怒るに違いない。だから我々の怒りや抗議は正当だ、と主張する者もいました。キリストの風刺画に怒るキリスト教徒もむろんいるでしょう。だが西洋の知性とは、風刺を受け入れ、笑い飛ばし、文句がある場合は立ち上がって反論する懐の深さのことです。

キリスト教を擁する西洋世界は、現在のイスラム過激派やテロリストや日本の軍国主義、あるいは中国その他による言論弾圧の現実と同じ歴史を経験した後に、特にフランス革命を通して今の言論の自由を勝ち取りました。遠い東洋のわれわれ日本人もその恩恵に浴しています。人々が好き勝手なことを言えるのも、筆者が下手なブログで言いたい放題を言えるのも、彼らの弾圧との戦いとその勝利のお陰です。今の日本がもしも軍国主義体制下のままだったならば、中国や北朝鮮と同じでわれわれらは何も口にできなかったことでしょう。

そのことを踏まえて、また言論の自由が保証された世界に住む者として、筆者はシャルリー・エブドの勇気とプリンシプルを支持します。

 

 

 

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