不幸中のさらなる不幸という悲運

筆者は先日、東日本大震災10周年に際して何か書くつもりで今月のはじめあたりから構えていたが、いざ3月11日になるとその気になれなかった、と書きました

つまり出来事があまりにも巨大すぎて、その巨大さに負けて何も書けない、と言ったのです。だがそれは、事案の大きさを強調したい気持ちを言い訳にした逃げだと気づきました。

つまり筆者は考えることを放棄して、事が重大すぎて自分には表現できない、と辞柄し書くことから逃げました。そう気づいたのであらためて考え、書くことにしました。

筆者が大震災10年の節目に何かを書く気を失ったのは、主にNHKの良質の報道番組やドラマに接して文章に無力感を覚えたからです。

東日本大震災から10年の節目ということで、NHKは筆者が知る限り3月の初めころから多くの関連番組を放送してきました。

ニュースや特集番組またドキュメンタリー。さらにドラマもありました。綾瀬はるか主演の『あなたのそばで明日が笑う』また遠藤憲一主演の『星影のワルツ』は実際に見ました。

ほかにも「ハルカの光」「ペペロンチーノ」など、大震災を扱ったドラマがいくつかあったらしいのですが、前述の2作以外は見逃しました。

民放のドラマ「監察医朝顔」でも大震災で行方不明の母親をモチーフに家族の物語が展開します。昨年に続いてそれもずっと見ています。

被災者の苦難と葛藤と痛みは尽きることなく続いています。また家族を失った遺族の悲嘆も終わることはありません。だがそれらは時間とともに癒される可能性も秘めています。

なぜなら少なくともそれらの被災者は、不幸にも亡くなってしまった愛する人々との「別れ」の儀式を済ませています。再出発への区切りあるいはけじめをつけることができたのです。

一方、行方不明の家族を持つ人々にはその安らぎがありません。彼らは永遠に愛する家族を待っています。時には重過ぎるほどのこだわりが被災者の生を支配しています。

日本人が遺体にこだわるのは精神性が欠落しているから、というキリスト教徒、つまり欧米人の優越感に基づく言い草がかつてありました。今もあります。

キリスト教では人は死ぬと神に召されます。召されるのは魂です。召された魂は永遠の生命を持ちます。だから肉体は問題になりません。言い方を変えれば、精神は肉体よりも重要な事象です。

肉体(遺体)にこだわって精神を忘れる日本人は未開であり、蒙昧で野蛮な世界観に縛られている、とそこでは論が展開されます。

それは物理的、経済的、技術的、軍事的に優勢だった欧米人が、自らの力を文化にまで敷衍して彼らはそこでも日本人を凌駕する、と錯覚した詭弁です。

物理、経済、技術、軍事等々の「文明」には疑いなく優劣があります。しかし、精神や宗教や慣習や世界観等々の「文化」には優劣はありません。違いがあるだけです。

それにもかかわらず、かつてはキリスト教優位観に基づくでたらめな精神論がまかり通りました。面白いことに、日本人自身がそんな見方を受け入れてしまうことさえありました。

それは欧米への劣等感に縛られた日本人特有の奇怪な心理としか言いようがありません。欧米の圧倒的な文明力が日本人を惑わせたのです。

日本人が遺体に執着するのは、精神に加えて肉体が紛れもなく人の一部だからです。両者が揃ってはじめて人は人となる。死してもそれは変わらないと日本人は考えています。それが日本の文化です。

同時に日本人は、遺体を荼毘に付することで、肉体的存在が精神的存在に昇華することも知っています。筆者自身もその鮮烈な体験をしました。

母を亡くした際、母の亡きがらがそこにある間はずっと苦しかった。だが、一連の別れの儀式が終わって母の骨を拾うとき、ふっきれてほとんど清々しい気分さえ覚えました。

それは母が、肉体を持つ苦しい存在から精神存在へと変わった瞬間でした。筆者は岩のような確かさでそのことを実感することができました。

片や、彼らのみが精神を重視するとさえ豪語する欧米人は、「再生」という存意にもとらわれていて、遺体を焼き尽くすことはしません。

荼毘に付して遺体を消滅させてしまうと、再生のときに魂の入る肉体がないから困ります。だから遺体は埋葬して残します。

その点だけを見ると、再生思想にかこつけて遺体を埋めて温存しようとするキリスト教徒の行為こそ、肉体にこだわり過ぎる非精神的なもの、という考え方もできます。

だがそれは「山と言えば川と言う」類の、不毛な水掛け論に過ぎません。信じる宗教が何であろうが、死者の周りで精神的にならない人間などいません。

精神を神に託すのも、荼毘を介して精神存在を知るのも、人間が肉体的存在であると同時に「精神的存在」でもあるからです。

日本人(非リスト教徒)は、遭難や事故や災害で亡くなった人の遺体が見つからないといつまでも探し求め待ち続けます。肉体(遺体)にこだわります。

だが実は、津波で行方不明になった肉親を家族がいつまでも探し続けるのは、遺体にこだわっているのではなく、その人に「会って」生死を確かめたいからです。

会って不幸にも亡くなっていたなら、荼毘に付して精神的存在に押し上げてやりたいからです。それは死者の魂が神に召される事態と寸分も違わない精神的営為です。

同時にそこには―あらゆる葬礼がそうであるように―生者への慰撫の意味合いがあります。生者は遺体に別れを告げ荼毘に付することで悲運と折り合いをつけます。

けじめが得られ、ようやく大切な人の死を受け入れます。受け入れて前に進みます。前に進めば、時が悲しみを癒してくれる可能性が生まれます。

だが生死がわからず、したがって遺体との対面もできない行方不明者と、家族の不幸には終わりがありません。けじめがつけられないから終わりもないのです。そうやって彼らの不幸は永遠に続きます。

被災地と被災者の周囲には、行方の知れない大切な人を求め、思い、愛し続ける人々の、悲痛と慟哭が満ち満ちています。筆者はせめてそのことを明確に記憶し、できれば映像なり文章なりに刻印することで、彼らとの絆を確認し続けようと思います。

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