たいしたことはない

この世の中でもっとも大きな「たいしたこと」は自分の死です。

死ねば「たいしたこと」の全てはもちろん、ありとあらゆることが消滅するのですから、誰にとっても自らの死は、人生最大の「たいしたこと」です。

ところが死というものは誰にでも訪れる当たり前のことです。

日常茶飯の出来事なのです。

毎夜の睡眠も、自らの意志では制御できない無意識状態という意味では、死と同じものです。

そう考えると、死はいよいよ日常茶飯の出来事となり、「たいしたことではない」の度合いが高まります。

要するに自らの死も、実はたいしたことはないのです。

死という生涯最大の「たいしたこと」も、「たいしたことがない」のですから、もうこの世の中には全くもってたいしたことなど一つもありません。

そう考えるとあらゆる不幸や悲しみや病や、たぶん老いでさえ少しは癒やされるようです。

なに事も「たいしたことはない」の精神で生きていけたら、人生はさぞ楽しいものでしょう。

だが、そうはいっても、あらゆることを大げさに「たいしたこと」にしてしまうのが、凡人の哀しさです。

そこで、たいしたことはなにもないと達観はできないが、そうありたいという努力はできるのではないか、と考えてみました。

言うまでもなく、どう努力をしても達成できない可能性もあります。だが、努力をしなければ、成しえる可能性は必ずゼロです。

ならばやはり努力をしてみるに越したことはない。

なにごとにつけ、理想を達成するのは至難です。

だが努力をして理想の境地に至らなくても、「努力をする過程そのもの」がすなわち理想の在りかた、ということもあります。

理想を目指して少しづつ努力をすることが、畢竟「理想の真髄」かもしれないのです。

なのでここはとりあえず、「なにごともたいしたことはなにもない」というモットーをかかげて、ポジティブに考え、前向きに歩く努力だけでも始めてみよう、と自分に言い聞かせます。

言い聞かせた後から、その決意自体が既に、物事を大げさに「たいしたこと」にしてしまっている情動だと気づきます。

揺れない、ぶれない、平心の境地とはいったいどこにあるのでしょうか。

 

 

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なかそね則のイタリア通信

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